一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

YS-11引退

2006-09-30 | よしなしごと
YS11きょう引退、唯一の国産旅客機
(2006年9月30日14:54 Nikkei Net)

小学生の頃生まれて初めて乗った飛行機がYS-11でした。
その後ジェット機が主力になり(またあまり飛行機に乗る機会がなかったこともあり)、ずっとごぶさたでしたが、10年ほど前に伊丹-米子路線でYS-11に乗る機会がありました。
プロペラエンジンなのでエンジンの回転数の変化が良くわかり、また、高度も低いところを飛んでいるので、「今、なにをやっていてどういう状況にあるか」がとてもわかりやすい飛行機だと感じました。
(ちょうど雷雲の中を飛んでたのでちょっと怖かったですけどw)


航空法改正で民間機に義務付けられる空中衝突防止装置の設置に多額の費用がかかるため、というのが引退の理由のようです。
でも10月以降輸出されるフィリピンは安全規制が緩いということなんでしょうか(^^;


「国産旅客機」にあえてこだわる必要はないとは思いますが、日本の地方空港間を結ぶ近距離路線ではジェット機だと離陸してから水平飛行に移る間もなく着陸態勢に入ってしまうようなところがあります。素人考えですけど、そういうところはプロペラ機の方が燃費とか効率よかったりしないんでしょうかね。
近距離だと「飛行時間」の大半が乗り降り滑走路の順番待ちなので、速度はあまり影響がないと思うのですが・・・

それに航続距離が短ければ、ハイジャックして国外逃亡しようなんて輩もいないでしょうしねw


初就航以来41年ということなのですが、まあ、立派な定年ですね。

おつかれさまでした。
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道州制と政令指定都市

2006-09-29 | まつりごと
安倍首相の政策方針として、「道州制を視野に入れた議論を進める」とのことです。(参照

※私自身「道州制」は今まで興味がなかったのでほとんど知識もなく、ほとんど脊髄反射的なエントリのため、とんでもない間違いがあるかもしれませんがご容赦を。


以前某省の役人から聞いた話ですが、東京都知事が影響力を持っているのは23区という政令指定都市の長でもあるので権限や予算規模が非常に大きいからだとか。
政令指定都市は自由度の大きい予算を別に組めるので、政令指定都市を抱える道府県は、都市部の美味しいところを政令指定都市に持っていかれてしまって、自分の財政は弾力性が乏しく(=歳出に占める義務的支出の割合が高い)政策の自由度は乏しいそうです(だから○○府知事は○山ノ○クでも・・・(以下自粛))。
※政令指定都市のメリットはこちらなどを参照


ちなみに都道府県と政令指定都市の予算規模(歳入・歳出額)を比較すると次のようになります。
※これもざっとググっただけなので、間違いがあればご指摘いただけると助かります

北海道 2兆7000億円 札幌市  8000億円
宮城県  5500億円   仙台市  4000億円 
愛知県 1兆3000億円 名古屋市 1兆円
大阪府 3兆円      大阪市  1兆7000億円
兵庫県 2兆円      神戸市 8000億円
福岡県 1兆5000億円 
   福岡市 7000億円 北九州市 5000億円


この状況で道州制を導入しても、政令指定都市をそのままにしていたら結局「道」や「州」の財政運営の自由度や行政の効率性は生まれないわけで、となると、道州制を引くということは、国に対しては地方分権を意味する一方で、政令指定都市に対しては中央集権を意味することになるのではないでしょうか。

政令指定都市の長(および公務員)がおいそれと権利を手放すとも思いませんし(仙台や広島のように合併して「悲願」を達成したところなどは尚更ですよね)、そうなると地域レベルにおける都市部と周辺部の予算配分をめぐる争いが勃発しそうな感じがします。


こんな議論はとうの昔にされているのかもしれませんが、今回唐突に「道州制」が出てきたもので、そのへんはどういう風に整理されているのかと思った次第です。
(札幌、福岡など各地方での「ひとり勝ち」している政令指定都市への批判が起こることで「一極集中」への非難が軽減する東京都知事が一番喜んでいるかもしれませんね)
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国力の差とモチベーション

2006-09-28 | 乱読日記

先日取り上げた『大日本帝国の民主主義』のつづきで、坂野先生の『明治デモクラシー』を読んでいます。

その中で福島県の豪農結社三師社が河野広中を高知の立志社(民権運動の先駆け的士族結社)に派遣した旅程の記述があります。

白川から鬼怒川河畔の阿久津(宇都宮の近く)までは徒歩14時間歩きつめ、一泊して鬼怒川下りを10時間、人力車5時間、それから夜を徹して江戸川下りの舟に乗り、日本橋に着いたのが翌日の正午という強行軍でした。

そこから大阪までは対象的に、田町の宿から品川に出て、汽車で横浜へ、横浜から汽船で神戸へ(船中二泊、29時間ですが、現在でもフェリーでは20時間かかる)、そこから鉄道で大阪へという快適な旅でした。

当時地租改正で税金が定額化したうえに西南戦争の紙幣乱造によるインフレのために農民は非常に豊かで河野の旅費も潤沢であったのですが、当時の交通インフラの事情としては、まだまだ陸路の便は依然として弱かったというのが印象的です。

ところで最近は『世界で一番おもしろい地図帳』という本を寝る前にパラパラ見ているのですが、その中で「世界を結ぶ海底ケーブルってどこをどう通ってる?」という記事がありました。

明治新政府を代表し、岩倉具視を大使とする使節団が、アメリカとヨーロッパの視察に出かけたときのこと。メンバーの一人だった大久保利通が、ニューヨークからヨーロッパ経由で東京に電報を打ったら、すでに海底ケーブルが通じていた長崎までは数時間でついた。だが、長崎から東京までは、飛脚で3日かかったというエピソードが残っている。

モールスが電信を発明したのが1837年、それからドーバー海峡に海底ケーブルが敷設されたのが1951年、大西洋を渡る海底ケーブルが1866年、そして岩倉視察団(1871年)の時にはロンドン-ベルリン-カイロ-ボンベイ、そしてインドからはシンガポール、ジャカルタ、バンコク、香港などが電信網で結ばれていました。
そして香港から長崎の出島まではデンマークの会社が海底ケーブルを通していたそうです。
(ちなみに太平洋の海底ケーブルは戦後)

当時の技術の発展スピードから考えても、大英帝国の国力の大きさを彷彿とさせますね。


これでは欧米列強との戦争(攘夷)などもってのほか。国力増強・海外雄飛には隙間を縫って中国に進出するしかないという発想になるのも当時としては仕方ないと思います(中国には悪いですが・・・)。


その後の日本の努力をみると、彼我の国力の差を目の当たりにしたとき、そのギャップを埋めようというときのモチベーションが高まった、という部分もあると思います。


近年、技術の進歩のスピード(金融技術の発展による富の蓄積のスピードも含めて)も格段に上がってますので、「経済大国」などといっているうちに気がついたら中国などに「日本には悪いけど・・・」などと思われてしまわないようにしないといけないですね。



※『明治デモクラシー』の内容についてはまた後日






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やはり・・・

2006-09-27 | ネタ

電車のつり広告で発見

週間女性10月10日号




誰かがネタにすると思ったんだ・・・



僕のエントリも決して出来はよくないのですが、先取りしたという自慢だけw


****************************

<追記>

コンビニで週間女性を立ち読みしました。

内容的には

・ 斎藤君は日米野球でプロ入りに傾きかけたが、両親の強い反対で進学希望にした。

・ 「進学するなら慶應大学がいい」と友人に漏らしたらしい

ということをいろいろ尾ひれや解説をつけて2ページにした、という週刊誌によくある記事でした。


※ 週間女性の表紙は、私の上品なブログに似つかわしくないのでリンクに変更しました。

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奥が深い「耳かき」

2006-09-26 | 買い物
ここ数日「耳掻き」が見つからずに困っています。

人間は耳垢のタイプで2つに分類されるそうで、欧米人に多いのがシットリ型(湿り気が多く綿棒が適合)、日本人に多いのがカサカサ型(乾燥しているので耳掻きが適合)だそうです。


私は典型的なカサカサ型の耳掻き大好き派です。


耳掃除をしながら大きな耳垢の感触を探り当て、崩さないように慎重に周囲から順に剥がし、それをうまく耳掻きに乗せて運び出し、見事原形をとどめた立派な耳垢にご対面したときの達成感・爽快感は格別です(これは釣りの喜びに似ているかもしれません)。

さらに重要なのは、耳掻きは耳掃除という実用に加え、行為自体の快感があることです。
耳の奥をカリカリと優しく引っ掻く快感は他では得がたいものです。


なので、耳かきができないということは、ものすごい欲求不満のタネになります(欲求不満度合いで言えばトラブルでネットに接続できないのと同程度かもしれませんw)。


しかし、コンビニで売っている耳掻きは竹の加工が雑そうで(使い慣れたものは、うまく「あたり」がついているのでそれとの落差も心配)、しかも「梵天耳掻き」(反対側にフワフワの毛玉がついてるやつ)はフワフワの部分が経年劣化すると汚れてくるのでいやなんですよね。

ということで、できればきちんとしたものを購入したいとググッてみたところ、出るわ出るわ・・・
いろんな製品とともに、耳掻きにこだわる人の多いこと多いこと。
なかでも耳掻き博物館は、博識度合い・趣味度・こだわり度すべてにおいて出色です(「正しい耳かきのフォーム」なるコーナーもあるくらい)。

ここで絶賛されていたのが「馬木の耳掻き」。竹製なのですが、職人の手作りで他の追随を許さない使い心地の良さのようです。
巣鴨のとげ抜き地蔵の縁日などでお店を出していて、個人の使い勝手い合わせ調整してくれるとか。
1本3000円近くするけどその価値は十分にある、ということでした。

残念ながら先代は2002年にお亡くなりになりましたが、今はお弟子さんが「原田の耳掻き」としてあとを継いでいるそうです。

耳掻き博物館の評価(こちらこちら参照)では、やはり「馬木」のほうが・・・というものですが、幸い私は「馬木」を知らないので「原田」でも十分満足できそうです。


実物はこちら参照。



うーん、欲しくなってしまった・・・



もともととげぬき地蔵は子どもの頃近くに住んでいて縁日の日(4のつく日)にはよく遊びに行ってたので懐かしさもあります(雷神堂の煎餅もご無沙汰だしな)。

ただ、4の日で週末となると次は10/14(あ、用事があるので11/4が最短かorz)です。




今週末に縁日抜きで耳掻きだけ買いに行くか、10/4に仕事を抜け出して買いに行くか(おいおいw)、思案のしどころです。

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『大日本帝国の民主主義』

2006-09-25 | 乱読日記

田原総一郎氏と近代史専攻の坂野潤治東大名誉教授の対談です。

従来の「大日本帝国憲法=軍国主義」という通念を覆し、明治時代・大日本帝国憲法下でも民主主義について語った面白い本です。

曰く、

・象徴天皇制は鎌倉時代の頃からのもの(「なあなあの世界」だからこそ教育勅語を持ってきて、万世一系を憲法に書き込んだ)。
・戦争はメディアが煽ったのではなく、新聞は国民の感情に従っただけ。
・明治以来の「海外雄飛」の方針はすべて欧米との了解の下で(日本より弱い)アジアに出て行こうという合理的なもので、欧米とも戦うという発想はもとからなかった。
・なので欧米と戦うとなったときに腹を決めなければいけない、というので武士道のような合理的でないものを前面に押し出す「守り」のナショナリズムがはじめて出てきた。

この本を読んで改めて思ったのが、私自身の近代史についての知識のなさです。
知識のなさ、というよりは司馬遼太郎などの小説や評論などをベースにした知識しかないな、というものです。
その結果、どうしても日中戦争・第二次世界大戦という「悪」に至った昭和史と、明治維新から日露戦争くらいまでの近代国家に脱皮した過程の「善」の時代(そうそう、日露戦争ってけっこうpositiveな評価が多いですよね)という二つのイベントが不連続な知識として頭の中に入ってしまっているみたいです。

なので私は批判的に検証する能力がない「目からウロコ」系の本ですが、書いてあることはけっこう説得力があって面白いと思います。

対談形式ですぐ読める本でもあり、詳細は本書をお読みいただくとして、直接テーマには関係ないですが印象に残ったところをご紹介します。

(田原)
実は僕はずっと前に、東条英機の娘さんに取材させてもらったことがありました。(中略)柳行李にいっぱい、東条が首相になってから戦争を始める前に、手紙、はがき、全部「ばかやろう」と「腰抜け」と。東条は戦争回避に全力を挙げた時期がありましたから。
(坂野)
さっさと戦争をやれと。
(田原)
何でやらないんだと、「死ね」、みんなこうなんですよ。なんで国民はそうなんでしょう。
(坂野)
日本国民だけのそろばん勘定だと思うんですよ。最悪の事態は起こらないと。
  (中略)
(坂野)
アメリカたるものが、まさか日本と本気で戦争なんてしないだろうと、日本人は思った。せめぎ合っても、どっかで終わるだろうと。
(田原)
なるほど
(坂野)
だって、昭和19年の末から20年の初めに集団疎開に行ってた小学六年生は、受験だからといって疎開先から全員が帰ってきて、受験勉強やるんですよ、中学校受験の。もうあと何ヶ月で広島・長崎でしょう。それなのに、みんな集団疎開から帰ってきて、受験勉強してた。いまみたいに義務教育ではないんですから。東京大空襲、深川で一万人死のうと、それが自分の明日だっていう感じには誰も。
(田原)
ならない。
(坂野)
ちょっとノーテンキな国民でしょう。
(田原)
戦争突入しろ、といいながら、そんなことありえないと、みんなで思ってしまう。それで、いよいよ戦争だと。戦争中もいつかは終わると。そうしているうちに、どんどんエスカレートしていったと。


郵政民営化とか「小泉改革」とかにも通じるような・・・






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内田樹『私家版・ユダヤ文化論』

2006-09-24 | 乱読日記

内田センセイの講演のエントリを書いていて、この本については前のエントリでちょっとふれただけだったことに気がつきました。

とはいいながら、この本は「ユダヤ人とは何か」というのが快刀乱麻を断つように判る(と言い張って書いている)わけでは(当然のことながら)ありません。


本書の前半はユダヤ人論の歴史についてふれています。なにせ内田センセイは、翻訳家としてご活躍の頃『シオン賢者の議定書(プロトコル)-ユダヤ人世界征服陰謀の神話』(1986年、ダイナミックセラーズ)という本の訳者でもあります(内田センセイの名誉のために言うと原著は思想史家ノーマン・コーンの歴史研究の名著なのだそうですが、出版元が営業政策上「反ユダヤ主義本」と勘違いされるようなタイトルにした由)のでそこも十分わかりやすく整理されています。

しかし本書の見どころは、終章(といいながら全体の1/3くらいの量がある)においてサルトルの「ユダヤ人は反ユダヤ主義者が作り出した社会構築的存在である」という考えと、それに反論するレヴィナス師(先の対談でも内田センセイは「私はレヴィナスさんは「師匠」と思ってるから、呼び捨てになんかできないんですよね」とおっしゃってました。)の考えをふたつの軸にした内田センセイの思索の冒険にあります。

内田センセイは非ユダヤ人から見た分析としてのサルトルの考えを評価しながらも、レヴィナスの言をひきながら、では、上の社会構築的存在がなぜユダヤ人において(のみ)なされたのかを、さらにユダヤ人の内面に分け入ろうとします。

「重要なのは、罪深い行為がまず行われたという観念に先行する有責性の観念です。」

「神は善行をしたものには報償を与え、過ちを犯したものを罰し、あるいは赦し、その善性ゆえに人間たちを永遠の幼児として扱うものであると思いなしているすべての人々にとって、無神論は当然の選択である」
罪なき人が苦しみのうちで孤独であり、自分がこの世界に残されたただ一人の人間であると感じるとしたら、「それはおのれの双肩に神のすべての責任を感じるためである」。だから受難はユダヤ人にとって信仰の頂点をなす根源的状況なのであり、受難という事実を通じてユダヤ人はその成熟を果たすことになる。

そして、

勧善懲悪の全能神はまさにその全能性ゆえに人間の邪悪さを免責する。一方、不在の神、遠き神は、人間の理解も共感も絶した遠い境位にふみとどまるがゆえに、人間の成熟を促さずにはいない。ここには深い隔絶がある。

と、ユダヤ人のアイデンティティの成り立ちには、他の(キリスト教文明)との間に大きな違いがあるのではないか、と結びます。


頭ではわかったような気はするのですが、この言葉を実感を伴って受け止めるには、まだまだ修業が足りないわい、というのが正直な感想です。







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IP電話はけっこう普及しているようです

2006-09-23 | よしなしごと

IP電話、もろさ浮き彫り 総務省、安定通信へ作業班
(2006年 9月23日 (土) 16:49 朝日新聞)

光ファイバー回線を使ったNTT東日本のIP(インターネット・プロトコル)電話「ひかり電話」が東日本全域でつながりにくくなった障害は、19日から3日間続き、21日夕にようやく復旧した。IP電話は、従来の固定電話に取って代わって通信網の主役になると期待される技術なのに、もろさが浮き彫りになった。今回以外にも障害は頻発しており、このままではブロードバンド(高速大容量)通信の普及の妨げになりかねないと、総務省や関係業界は対策を急ぐ構えだ。  

総務省は22日、IP網の安定性向上を図るための作業班を立ち上げた。初会合に出席した雄川一彦・NTT担当部長は「IP網はまだ発展途上。ネットワークが満たすべき技術基準を検討していきたい」と述べた。作業班は障害の頻発を受けて設けられ、来年3月に具体策をまとめるが、NTT東の大規模障害には間に合わなかった。  

ウチはネットはNTTの光を引いているんですが固定電話はマイラインとかなんとか切り替えるのが面倒くさかったり、そもそも通話料がたいしたことなかったり、まだ技術的に安定してないんじゃないかという心配もあったり(根が保守的なものでw)メタル回線のままですが、
ひかり電話通信障害の原因、一部が判明、NTT東「ソフトの不具合」と発表
(2006年 9月23日 (土) 00:00 MYCOMジャーナル)
を見ると

IP電話は、2006年6月末で1,209万7,000件の利用があり、対前年同期比34.2%増と引き続き、増勢が止まらない(総務省の調査による)。NTTは2010年までに3,000万回線を「光化」することを目指しており、「ひかり電話」はサービスの目玉のひとつでもある。今後もいっそう利用が増えることが予想されるIP電話だが、今年の3月末にも、NTT西日本の管内において「ひかり電話」「ひかり電話ビジネスタイプ」の一部で、一般の固定電話、携帯電話などへの通話ができなくなるなど、順調な成長の一方で障害が目立っている。

回線の不通が社会的な話題になるまでに普及してきたということですね。
こういう未成熟な技術については、トラブルは気にせずにおおらかな気持ちで見守ってあげる必要があると思うのですが、利用者が一部の「新し物好き」にとどまらずに一気に普及すると文句も言われやすくなります。

Wikipediaを見ると、IP電話も電気通信事業法の規制を受けるんですね(当たり前か)。だとすると、通話の不通などの事故は免責になるので、消費者契約法を盾に通話料を返せなどということにはならなそう(停電などと同じですね。そのかわり説明義務があるようです。) ですが、これから新事業の柱にしていくために積極的に営業していくとしたら「発展途上の技術」などと言わずに「素人フレンドリー」にならないといけないですね。

そのうちIP電話もプログラムが事業者間の技術力格差につながるとすると、結局専用サーバーはカスタマイズが必要になって、結局電話交換機と同じくらいのコストがかかるなんてことにはならなけりゃいいですが。


これを機会にNTTも改善策をとるでしょうから、切り替えを検討してみましょうかね。
(IP電話がメインになると停電の場合にバッテリーがないと通話ができないとかいいますけど、どのみち今の留守電FAX電話も考えてみたらそうなんですよね。)

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『ヤバい経済学』

2006-09-22 | 乱読日記

話題の『ヤバい経済学』を読みました。

タイトルで釣られる価値は十分あるくらい面白い本ですし、しかも真っ当な内容であります。

すごくまとめて言えば、本書のポイントは以下の2つです。

・ 相関関係と因果関係は別物であり、相関関係から素朴な因果関係を導き出すのは誤りを犯すことになる(というか実際の因果関係はけっこう予想もしないところにあるんだよ)。

・ 経済学で扱う「合理的経済人」は経済的インセンティブだけを扱っている(扱いやすいから)が、インセンティブには経済的インセンティブのほかに社会的インセンティブと道徳的インセンティブがある。その2つを見過ごすと、人間行動の分析を誤ることになる。

本書は経済学者のスティーブン・D・レヴィットとジャーナリストのスティーブン・J・ダフナーの共著ですが、レヴィットは、自分が興味を持っているのは「インチキと犯罪と不正」といっているように、上の2つについて身近でかつ意表をついた題材で面白く語っています。

背景には緻密な統計分析などがあるのでしょうが(そうでなければ床屋談義になってしまいます)、小難しい数式や専門用語は出てきませんし、考え方のトレーニングとしても役に立つと思います。
 






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内田センセイと柴田センセイの対談

2006-09-21 | 乱読日記
<追記あり>

昨日は内田樹センセイと柴田元幸センセイの対談を聞いてきました。

主催はDHCだったんですが文化・出版局の方が「当社は最近は化粧品や栄養補助食品で有名になっちゃいましたが、元はこっちが主だったんですよね」というの予想通りのネタ(もともとは翻訳サービスの会社で、社名の由来も「大学翻訳センター」の頭文字からDHCとした)を前振りにしてスタート。


今回両名の実物にお目にかかる、というのも大きな目的だったのですが、柴田先生は小柄で飄々とした雰囲気(七分丈の幅広のデニムのパンツが、これに幅広の帽子をかぶっていたらスナフキンだなぁと)。大きい目を開いて首をちょいと傾げながら話されます。
内田先生は、予想通り(予想よりちょっと)バイタル強めな風貌。自ら座持ちがいいとおっしゃる通り、話し出すと止まらない感じ。目が充血していたのはご多忙のせいでしょうか。

対談自体はぶっつけ本番の面白さが出て、内田先生が暴走するのを柴田先生が冷静にフォローしながら自分のネタに引き戻すという掛け合いを堪能しました(椅子が固くてお尻が疲れたけど)

ちょいとさわりを。

1 reader friendly

内田センセイも元は翻訳をやっていた(学生時代から技術図書の翻訳などを大量に粉あいていたらしい)ということで、まずはこの話。
お二人とも翻訳の要諦は"reader friendly"にあり、という。
柴田センセイが「読者を威嚇しない翻訳」「『これを読んでわからない私が悪い』と思わせない翻訳」を心掛けている由

内田センセイは技術図書(プラント輸出の一式書類とか)の翻訳のときには、著者の「念」がこめられているところをしっかり訳して、あとは日本語で読んで意味が通じることが大事(そもそも原文自体にすべてが書いてあるわけではないし、読む人も技術的知識があるのだから判らないところは自分で補うだろう)という極意(?)を披露されてました。


2 息遣いと肺活量

柴田センセイは「読んでいるときの快感を伝える」ために翻訳作業にスピードを重視しているそうです。原文の息遣いを伝えるには翻訳作業のテンポも大事。
村上春樹氏の翻訳の手伝いをしていて感心するのは、村上氏が"ready to be corrected"なところ。難解な部分の誤訳を指摘すると、嫌な顔もせずにその場で村上調の見事な文章に書き直してしまうとか。
「私、昔中日の松本って投手が好きだったんですけど、松本-木俣のバッテリーのときは試合が1時間半くらいで終わっちゃうんですよね。なにしろ振りかぶってからキャッチャーのサインを確認していきなり投げちゃう」
という例えが個人的には一番ウケました(松本投手というのは今の山本昌の大先輩の「大柄、技巧派、独特なフォーム」の左腕です。でも会場のほとんどの人(若者と女性で9割くらい)は知らなかったようですが)

内田センセイは、レヴィナスの一文が非常に長く(1ページ以上にわたることもある)文の途中で考えが変転し最後には違った結論になることもしばしばである文章を前にして、「著者の思考過程に付き合う肺活量を求められる文章だ」と感じたそうです。


3 「従たるもの」の快感

内田センセイはレヴィナスの著書を翻訳するときにレヴィナス師が「向こうから呼びかけてくる」のに呼応して「先生の声を聞いてくれ」という思いで翻訳をする。「連綿と続く知的伝統の末端に連なるという喜び」を感じるとおっしゃってます(その後「師弟関係」論から「スターウォーズ」と「姿三四郎」、スピルバーグが師と仰ぐ黒澤明との関係にまで話が展開するのですが省略)

柴田センセイも、「作者が答えを持っている」「テクストを通じて作者を理解する」という考えには組しないが、「作者を通じてテクストを理解する」という方法は有効だとおっしゃいます。「知り合いの書く文章の方が深く理解できますよね。」
翻訳には作者と読者の間に割ってはいって三角関係を作るのでなく、テクストに作者の息遣いを伝えるという「「従」になることの代えがたい快感」があるとおっしゃいます。
(「最近小説を書かれている動機は?」という質問に「編集者はエッセイを書けというんだけど、最近仕事ばっかりで私生活がつまらないので仕方ないので妄想を書いただけです」)



詳しい内容はblogで紹介されるか、雑誌記事になるかするでしょうから(DHCのカタログに叶姉妹の隣に載せたりはしないと思います。あ、もう叶姉妹じゃないか?)そちらをごらんくださいませ。


<追記>
実はbunさんもこのセミナーに参加されていたとのこと。
お見かけしていれば麻布十番界隈でご一献とおさそいしたかったのですが残念でした。

bunさんも後日講演内容をアップされるとのことですので、私のエントリの浅薄さがついに露見するかと冷や汗ものでもあります(^^;
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物差しの違い (「金融」と「商売」 その2)

2006-09-20 | あきなひ
昨日のエントリの続きで金融と商売の違いの話
(「商売」はいいのですが「金融」の方の言葉が個人的にもしっくり来ないのですが、いい言葉を思いつかないし、そもそもが学問的な話ではない単なる床屋談義なのでそのまま続けます。)

金融はリスクとリターンが一定程度計量化でき、損切りなどリスクを低減する戦術も立てやすいのに対し、商売は投資が失敗すると無に帰す可能性がある一方でマーケット予測はあてにならない(新製品について「今日の株価」が出ているわけではないですしね)というハイリスク・ハイリターンなものです。
(「セーラームーンがイギリスでヒットするなんて誰も思ってませんでしたから」とは昔聞いたバンダイの人言葉)

つまり商売は、利幅が相当厚くないと割に合わない、逆に言えばうまくやるととても儲かる=やり方の巧拙で結果に大きな差が出る、というものなわけです。

よく市場は「生き物」といわれますが、市場(金融)の世界では生き物の呼吸を見極めて素早く動くことが大事(「生き馬の目を抜く」)だとすれば、商売は「生もの」で、いかにうまく料理するかが大事、ということでしょう。

マーケットがきちんと機能して、正常な競争がなされている限り、金融機関はうまくいっている事業会社ほどは儲からないのが普通で、ここ数年「銀行ばかりが儲かって(けしからん)」という話は単に競争(それは銀行間だけでなく直接金融と間接金融の競争も含め)が十分機能していないのが一因でしょうし、不景気下でも銀行より利益を上げていた企業は沢山あります。

なので欧米系の投資銀行などは、より高収益をあげようと不良債権ビジネスなんかに突っ込むわけです。
不良債権を買うのは(何回もやっていると相場が形成されるので)金融の世界に近いかもしれませんが、不良債権を換金するのは、やり方の巧拙によって結果に差が出る商売の世界ですから。


このように金融の世界と商売の世界の流儀はちょっと違うので、それを混同するとえてしてうまくいかないことが多いです。


その一つが村上ファンド。

当初は内部留保が大きい会社の時価純資産額と株価を比較して割安な会社に投資し、大株主として会社経営の非効率性を指摘し増配や資産売却を促す、というスタイルだったわけです。
これは「現金がジャブジャブなんだから配当しろ」と株主としての権利を主張すればいいので比較的簡単に株価が上がります。

村上ファンドは初期の成功でお金が集まる一方で、この戦略は(金融の世界なので)他の投資家に簡単に真似されますので、だんだんおいしい投資先がなくなってきます。

そこで阪神電鉄に目をつけました。
沿線不動産+阪神タイガースの価値から言えば割安だ、という判断ですが、東京スタイルに内部留保を吐き出せというのとはわけが違い、梅田駅前の土地や阪神タイガースは会社を清算するのでもない限りすぐに売り払うわけにはいきません。
じゃあ村上氏とその仲間がしばらく鉄道会社をうまく経営しながら含み益を穏便に顕在化させようとすると、これは商売の世界になってしまいます。
もともと経営陣がやる気がないとか明らかな非効率があるという理由で経営がうまくいっていないならさておき、そこそこうまくいっている会社をより儲けさせることは常識的に考えてもかなり難しいです。

逆にいえば、株価が保有不動産を時価評価した場合に割安なのではなく、そういう評価軸が間違っていたわけです。
日本の企業経営は不合理だ、とか株主のガバナンスが不在という発言が「金融の世界のロジックで商売の世界が割り切れないから不合理だ」という意味であれば、もともとそういうものだった、としか答えようがなかったのではないでしょうか。


また王子製紙の北越製紙へのTOBについても金融と商売の混同が見られるように思います。
印刷業界の人の話では、もともと北越製紙は箱に使われるコート紙の技術力には定評があり、それを王子製紙は欲しがったようです。
また、北越製紙はかつては長岡市と公害問題(製紙会社は大量の工場廃水を流すので海岸にあるのが普通なのに、下流とはいえ信濃川に放流している)などで地元ともめていて結局市としても北越製紙を追い出さずに共存共栄を選んだという歴史があるそうです(個人株主も北越製紙従業員や長岡市民が多いとか)。

そういうなかで王子製紙が北越製紙を買収して効果を上げるには、2つの選択肢があります。

一つは優秀な経営者はいくらでも自社内にいるし、地元との関係が当初悪化しても金をつぎ込んで修復して採算に載せることができると言う場合。
このケースはとにかくTOBを成功させることを優先すればいいわけです。

もう一つは今の北越製紙の経営陣や地元との関係を含めた一体として北越製紙を評価している(=自分よりうまくやっている)場合。
この場合は相手の機嫌を損ねずに提携・合併交渉を進める必要があります。

王子製紙の社長がTOBの敗北宣言の中で、欧米流のM&Aの手法と日本流の手法のどちらにも徹し切れなかった、というような発言をしていたと思いますが、手法の誤りの前に、北越製紙を買収したあとどのように収益をあげていくかという「商売」としての目算が不十分だったところが戦術の中途半端さにつながったような感じがします。

上の前者のケースなら、要は機械設備と製造技術と工員がいればいいわけですから、TOB価格を上積みしても勝負をかけるべきですし、後者だとしたら、そもそもTOBという手法自体が不適当です。

商売の次元での目算が十分でないのに、金融の世界のM&A手法(=要するに株の買い集め方)を学んで、なんとなくうまくいくと勘違いしてしまった、と言ったら言い過ぎでしょうか。


とりとめのない話になってしまってますが、要するに企業経営の世界にも、ファイナンスのような金融の世界(=お金という交換可能なもの同士の空中戦)の部分と、どうやって稼ぐかという商売(=生もの)の部分があって、それぞれにあてはめる物差しや道具立てを間違うとうまくいかない(とんでもない失敗をすることになる)ということが言いたかったわけです。


もともとは貸金業の上限金利の話をするはずだったのが、横道にそれたままになってますね。
どうなることやら・・・
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貸金業の上限金利改正 (「金融」と「商売」 その1)

2006-09-19 | あきなひ

ウシジマくんに触れたところで先日決まった貸金業法の改正案の概要をメモ代わりに。


特例金利25.5%で決着 期間2年に短縮 自民
(2006年 9月15日 (金) 22:56 朝日新聞)

改正法は公布から1年以内に施行し、施行から3年以内に出資法の上限金利を年29.2%から20%に引き下げる。公布から引き下げまでの通算期間は「おおむね3年」とし、金融庁案の4年から短縮する。貸金業の上限金利は利息制限法の上限(年15~20%)と一本化され、利息制限法の上限を超える灰色(グレーゾーン)金利は原則なくなる。  

上限引き下げ後の特例金利を認める期間も短縮し、利息制限法を超える高金利が残る経過期間は当初の9年から「おおむね5年」に圧縮した。  

特例融資は、個人向けが元本30万円・期間1年、法人向けが500万円・3カ月を上限とした。個人向けは、金融庁案の50万円・1年から減額した。特例はリボルビング取引には適用できないが、金融庁の有識者懇談会で「手軽に借金しすぎる」と批判があった現金自動出入機(ATM)での利用は認める。  

特例融資には「見直し規定」を盛り込む。金利引き下げ前に必要性を検討し、場合によっては特例をやめることもある。  

また、過剰貸し付けを防ぐため、1社あたりの借入額が50万円以上、借入総額100万円以上の場合は所得証明書などでの審査が必要となり、借入総額の上限も年収の3分の1に制限する。  

このほか、業者の信用情報機関への加入と残高情報の交換を義務づけ▽高金利・ヤミ金融に対する罰則強化▽業務改善命令の導入▽保証料の金利への算入――などは、ほぼ金融庁の原案通りまとまった。内閣官房に多重債務問題に取り組む対策本部を設けることも、新たに盛り込んだ。

金融庁の原案を自民党が修正した、という報道ですが、聞くところによると、そもそも貸金業者がアメリカで社債(だかABS(資産担保証券)だか)を発行していて(そういえばレイGEキャピタルがレイクを買収したりしてましたね)、それがデフォルトになったり格付けが急落すると困るというアメリカからの圧力が自民党にあって、それを反映して当初の金融庁案ができたようです。
そこで更に修正する、というのは大人の事情なのでしょう。


実際どれくらいの量の社債が発行されていたのかはわかりませんが、単にアメリカの圧力だけではなく社債マーケットの混乱回避を優先しようという考えがあったのかもしれません。
3年の経過措置があれば、既発の社債は償還されるでしょうし、マーケット的には混乱はないでしょう。

アメリカの圧力で気の毒な個人の債務者を犠牲にする、という議論も出るかもしれませんが、たとえば社債が年金などの日本の庶民の老後の資金の運用先になっていたらどうでしょうか。
これも一つの価値判断ではあると思います。


こう考えてみると、お金同士の取引の世界と、物を売ったり貸したりサービスを提供してお金を得る世界ではちょっとロジックが違うのではないか、ということに気がつきます。
以下前者を「金融」後者を「商売」と大雑把にまとめて話を進めます。


金融の世界、株式や債券や為替や金利などの取引は市場原理で決まり、市場に歪みがあればしばらくはそれを利用して儲けることもできますが、いずれは平準化されてしまいます。
つまり金融の世界は「命がけの跳躍」をしてしまった同士の色のないお金とお金の交換なので、取引の安定性と合理性が第一に求められるわけです。
(誤発注問題も、証券取引所への損害賠償請求はするものの、発注自体を無効にしろとは言いませんよね)

これに対して商売の世界は、金融の世界ほど合理的ではありません。
物を売るということは、貨幣という流動性の高いものを手放して商品と言う流動性の低いものと交換させなければならないわけですし、サービスの提供に至っては、それ自体が再度換金するのは不可能になってしまうわけです。
そこには、価格であったり品質であったりブランド力であったり取引の手軽さであったり流行であったりと何らかの「その気にさせる」仕掛けが必要です。

たとえばA社の現在の株価が1000円だとしたら誰でも1000円近辺でA社の株を買うことはできるわけですが、A社がある商品を1000円で売っているからといって、たとえその商品が問屋で仕入れられる商品だとしても、誰もが1000円で売ることができるわけではありません。現実には商店として認知される必要があるし、自分から押し売りに行くのでは怪しまれたり、友人に売るのでは値切られたり、場合によっては販売に免許が必要かもしれません。


そこで思ったのが、この2つの世界における行動様式やルールもかなり違うのではないか、「消費者金融業」というと金融の世界のことのように思い、銀行やノンバンクなどとの類推で考えてしまいがちだけど、実は分けて考えた方がいいのではないか、ということです。

つまり、

消費者への融資であれば

都市銀行・地銀→信用金庫・信用組合
  →消費者金融→闇金融(ウシジマ君)

事業融資であれば

都市銀行・地銀→信用金庫・信用組合→ノンバンク
 →商工ローン(ナニワ金融道)→闇金融(萬田銀次郎)

という貸し出し金利の低い方から高い方への序列を連続的にイメージして同じロジックでかたるのは間違っているのではないか、1行目と2行目の間には「金融」と「商売」の間のような断絶があるのではないかということです。


ではここでいう「金融」と「商売」の違い、商売としての消費者金融を議論するためにどういう論点が必要なのかについては長くなってしまいましたので次回以降に。

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『闇金ウシジマくん』

2006-09-18 | 乱読日記
先日の検索キーワード話の続きになりますがYahooで「ウシジマ君」を検索すると、このエントリがトップに出るようです(2006年9月17日現在)

理由としてはSEO的にはこのエントリが47thさんなどのトラフィックの多いサイトに引用されたなどというのが考えられそうですが、一番の原因は正式のタイトルが『闇金ウシジマくん』と「くん」がひらがなので「君」のサイトが少ないことにあるのではないかと思います。
間違えて書いた本人が言うのもなんですが、間違えて検索する人がけっこういるということですね。


まあ、それやこれやで単行本を既刊5冊購入して一気読みしました。


昨日のエントリに関連して言えば、まさに「悪所」といえる本です。

『ナニワ金融道』が債権回収における法的テクニックをメインにしたもの『ミナミの帝王』が事業金融を中心の闇金で、どちらかといえばより大きな悪から金を回収するブラックジャック的なものであるのに比べると、『闇金ウシジマくん』は個人相手の小口の闇金融(1人5万円を10日5割(トゴ)で貸すというような)を描いたものです。

なので、延滞の回収に法律も何もあったものではありません(というかほぼすべて違法)。
ただ、ウシジマ君はバックにヤクザを持っていない完全独立の業者なので、相手の金を仮に来る背景や回収可能性を冷静(冷酷)に見ながら融資金額や金利、回収手段を選んでいきます。





そのためストーリーは自然と債務者が金を借りに来る背景や返済に行き詰まったときの行動を中心に展開されます。

「業界内幕系」のマンガは、連載当初は取材の蓄積があるので1エピソード1話完結という内容の濃いものだったのが、だんだんネタが足りなくなってきて1話が長くなり、挙句の果てにキャラが固まってきた登場人物の掛け合いや敵キャラとの「因縁の対決」が中心になってきてしまうものが少なくありませんが、今のところこの本は1エピソードは長くなっているものの、その分債務者の背景を深掘りしてよりリアルになっています。

なので最近は闇金がテーマというよりは闇金に手を出す人々がテーマになりつつあります。
パチンコ中毒の主婦、風俗にはまった男、同僚とのつきあいに背伸びをするOL、イベントサークルで一発当てようとする男、闇金から借りて踏み倒そうとする奴などなど、それぞれがリアルに描かれています。


絵としては人物の表情などがちょっとエグイので趣味ではないのですが、逆にそれがテーマにあっていると思います。


子どもには読ませたくない一冊であると同時に自分が子どもだったらドキドキしながら読んだんだろうな、という一冊です。




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「悪所」としての漫画 (上村一夫『関東平野』)

2006-09-17 | 乱読日記

昨日ジムでバイクをこぎながらTVモニターを見ていたら、NHKで手塚治虫氏の昔のインタビューをやってました(こういうモニターの受信料も台数分払っているのかな、という話は今回は触れませんw)。

手塚氏も熱く語っていて、面白いインタビューでした。
うろ覚えながらいくつか興味を引いたフレーズ

「批評や読者に訴えたいことのない漫画はただの絵だ」
「僕は負けん気が強くて、劇画ブームで手塚の絵は古い、と言われればこのやろう、と劇画調のものを書いたり、手塚は子供向けの漫画しか書けない、といわれると、大人向けのものを書いたりしてきた」
「昔は漫画、というだけで批判の対象になっていた。しかし今は漫画で育った世代が親になったせいで、皆漫画を擁護している。漫画家もちょっと売れたら似たようなスタイルの漫画を書いていれば生活できる、といういい時代になった」
「でも批評のないところに進歩はない。なので皆さんもどしどし漫画を批判して欲しい。漫画家が思わず「グッ」とつまって真剣に受け止めるような批判をね。」

言われて見れば、僕の子どもの頃は漫画や劇画はまだ正面から認知されていませんでした。
サラリーマンが電車の中で漫画をおおっぴらに読む、というのもなかったような。

そのかわり、本屋では今のようにいちいち本にシュリンク(ビニールのカバー)がついていなくて、立ち読みは(店員の裁量の範囲内で)自由にできました。

僕が幸運だったのは、小学校3年のときに商店街にできた書店が立ち読みに鷹揚だったことです。
開店直後に2時間くらいいろんな本を読んでいたら、店長(ヒッピー風の長髪・ヒゲのお兄さんでした)が「椅子、貸してやろうか?」と言ってくれたくらいです(さすがに辞退しましたが)。
それからも立ち読みは黙認だったのであれは嫌味ではなかったと今でも信じてますが・・・

おかげで、その書店の漫画本はほとんど読破してしまいました。
(一応文庫本とかは罪滅ぼしにそこで買ってたんですけどね)

漫画と言っても子供向けの物は週刊誌の連載でカバーできるので、自然劇画など青年向けに興味が向かうことになります。(半分(以上)は「エロ」の世界への興味なんですけどね。)

そして、当時の青年向け漫画は、よからぬ事を描いた作品と(あとは「ガロ」のように)妙に難解な作品が溢れていました。
僕の少年時代はすでに実際には存在しなくなった「悪所」(江戸時代の遊郭とか芝居小屋などの「子ども立ち入り禁止」の場所)が漫画の中にはあったわけです。

「悪所」にコッソリ出入りするかわりに漫画をのぞき見ることで、少年はいろいろ大人の世界も勉強することになるわけです。

そのなかで、記憶に鮮明に残っていたのが上村一夫の『関東平野』でした。

「昭和の絵師」とも異名をとりながら20年前に45歳で早世した上村一夫氏(映画にもなった『同棲時代』の作者としてがいちばん有名でしょうか)の自伝的作品です。

戦後の疎開先である千葉の田舎での少年時代。そして男でありながら女の子として通している「銀子」との友情。緊縛画家の叔父に引き取られた思春期と上京して広告会社に勤めながら絵の道を模索していた青春時代(このときの同僚に作詞家の阿久悠がいます。)。それらのすべての背景に、人間の色と欲(これが妖艶な画風で描かれてます)と関東平野の景色(まっ平らな田んぼになびく稲穂のような風景をすっと抜けるように素直に描いてます)が綾をなして、人間のバイタリティと業の深さを浮き彫りにしています。

先日復刻版が出たと言うことで早速購入しました。



冒頭の手塚先生の指摘も、漫画が単なる大量消費財になってしまうことへの懸念があったのだと思います。
漫画はどこまでも「悪い」という負い目を持っていなければいけない、特に現在のように無菌化された社会では「悪所」の役割を担う必要がある、という問いかけは、重い意味があると思います。

 



PS 多分鳥山彰の『ドラゴンボール』あたりから集英社の読者アンケート(=マーケティング)至上主義が幅をきかせてきて、その後ゲームとのコラボや最近はTVドラマのコンテンツの供給元として、ますます金になる作品が幅を利かせている感じがします(象徴的に言えば漫画は島耕作の出世とともに毒気を抜かれてきたように思います)が、その辺の話は後日。

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「美しい国 日本」

2006-09-16 | まつりごと
渋谷の駅を降りたら、ハチ公前のところに日の丸のノボリが乱立していました。




何かの宗教団体のデモかな、と思ってよく見ると

「美しい国 日本  安倍晋三」

と書いてあります。

どうやら安倍晋三が街頭演説をしていたようで、選挙カーをみるとお辞儀をして屋根(演壇)から降りるところでした。


自民党総裁選は大勢が決していて「消化試合」などと言われる中で、新首相のお披露目をかねて、というところなんでしょう(大体渋谷のハチ公前交差点に自民党員なんてほとんどいないでしょうしねぇ)


それにしても「美しい国 日本」というのは選挙スローガンとしていかがなものでしょうか。

「日本を美しい国にする」とか「美しい日本を守る」というなら、皆そう思っているわけで、具体的にどうするかという政策がわかるようなキャッチフレーズでないと意味ないですよね。
勝ちが見えているので妙な政策論争で足元をすくわれたくない、というのでしょうか。

いずれにしろ、安倍晋三さんに言われなくても、というのが感想です。

私は自民党員ではないので総裁選には投票できませんが、来年の参議院選挙までに日本をどう美しくしていただけるのかお手並み拝見です。


PS 安倍晋三氏といえば、もう20年くらい前ですが、夕方タクシーに乗ると、運転手が
「今、安倍晋太郎の息子を乗せたんだけどね」と話し出し
「女と乗ってたんだけど・・・(以下省略、といっても不埒なコトに及んだというわけではなく、甘い会話をしていたという程度です)」
ということがあって、どうしてもそっちの印象が強いんですよね。

まあ、政治家としてきちんと仕事をしていただければそれで十分なのですが。
コメント (4)
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