といっても私には量刑の適否について云々する専門知識はないのですが。
報道やブログを見ると、堀江被告の実刑判決は予想通りという見方がある一方で、検察に協力的だった宮内被告が懲役1年8ヶ月の実刑判決というのは予想外という見方と妥当という見方があるようです。
しかし僕自身はこの事案に限らずに「検察に協力したことが情状酌量に反映する」という部分については、本当にそれでいいのか?という疑問があります。
日本ではアメリカのように有罪を認める代わりに1ランク下の罪が適用されるというような司法取引はないとされています。
今回の宮内被告への判決について「モトケン」矢部弁護士のブログは
会社の金の私的流用について、宮内被告人と検察との間に仮になんらかの取引があったとしても、法廷で、つまり裁判官の目の前で犯罪事実を認めてしまえば無罪の理由にはなりませんし、私的流用の事実が真実存在するとすれば、その事実は宮内被告人にとって不利益な事実でしかありません。
と、情状以前に司法取引の制度がない中で事実を認めてしまった宮内被告側の不用意さが実刑の元になっていると分析しています(という理解でいいんでしょうか)。
また、そこで引用されている落合弁護士のブログでは
検察庁と宮内被告人の間に、弁護人が強く主張するような「黙契」まではなかったとしても、宮内被告人側に、検察庁に協力することによって寛大な刑にしてもらえる、間違っても実刑にはならない、という強い期待が存在した可能性は高いでしょう。
その期待が、裁判所によって見事に裏切られてしまったということになると、検察庁としては、今後の、特に堀江被告人の公判維持上、いつ爆発するか、どれくらいの威力があるかわからない時限爆弾を抱えてしまった、という面はあると思います。
とつぎの展開への影響を分析していますが、ここでも、司法取引の仕組みがない中では被告人と検察は「ガチンコ」にならざるを得ない、という認識が基本にあるように思います。
しかし一方で、罪を認め改悛の情を表すことは一般的には情状として酌量され、逆に最後まで無罪を主張すると、情状の判断上は不利になる(有利には取り扱われない)ようです。
そしてこれが、今回捜査に協力した宮内被告に実刑判決が下ったのは予想外、という見方の背景にあるようです。
これがからむと素人にとっては話がややこしくなります。
刑事事件には推定無罪の大原則があります。
これと上の「情状酌量システム」(特に「改悛の情」に対するもの)は矛盾しないのでしょうか?
つまり、刑事被告人としての当然の権利である無罪を主張することが、情状酌量を受けない有罪判決か無罪判決かという"all or nothing"の賭け=被告人にとってリスク(正確に言えばボラティリティ)の高い行為になってしまっているのではないか。無罪を主張することは被告人側の「賭け金」だけを一方的に吊り上げることになってしまっているのではないか。その結果一般的には「おとなしく有罪を認めて情状酌量にすがる」という方向にインセンティブを与えているのではないか、ということです。
(痴漢の冤罪事件で警官の前で自分がやっていないのに罪を認めてしまう方向に追い込まれる構造にも似たようなものがあるかもしれません)
この点についてtoshiさんはある意味情状酌量の効用を積極的に認められているようで
粉飾決算に関連する刑事事件は、たいへん立件が難しいとされています。こういった刑事事件におきまして、検察としては、できるだけ「本丸」に登るための協力者を欲するところでしょうが、今回の判決を前提といたしますと、「どんなに捜査に協力的な態度をとっても、やってしまったことの重大性だけが判決の基礎となるのであれば、一か八か、無罪主張にかけてみよう」といった、共犯者の動機付けになってしまいそうであります。(もちろん、保釈申請の現実をみた場合、できるだけ早期に事実を認めてしまおう・・・といった気持ちになってしまうのも現実であります。ただ、今回、堀江氏は無罪を争いつつも保釈されていますし、無罪を争う動機を保釈制度の現実が排斥してしまう、ということにはならないと思われます)今後の証券被害事件の捜査にとって、このたびの実刑判決は、果たして望ましいものなのかどうか、私自身はかなり懐疑的な気持ちを抱いているところです。
と、量刑の中で捜査に協力したことを斟酌したほうが今後の同種の問題の解決には資するのではないかという意見を述べられています。
今回の判決の経済事件全般に与える影響についてはよくわからないのですが、自分が被告人になったときに、具体的な根拠はないけど運用上は情状酌量の可能性が高いから罪を認めた方がいいよ、といわれても、「はい、わかりました」とは言いたくないな、というのが素朴な感想です。
確かに経済事犯の捜査は難しい部分もあると思いますが、そうであればこそ司法取引のようなものを制度として導入してもいいのではないでしょうか(独禁法でもリーニエンシー制度が導入されているくらいですから。)。
それから、刑事裁判では判決言い渡しの後に裁判官からひとこと、というのが慣例になっているようですが、これは必ず必要なんでしょうか。
堀江被告への判決のときの手紙の話などは、こぼれ話としてはいいかもしれませんが、正面から罪を争っている堀江被告に言ってもどれくらい効果があるのか疑問です。
ひょっとすると、裁判所の中で慣例になってしまっていて、「やらなければいけない」というものになっているとしたらそれはそれで問題なんじゃないかと思いますが。