一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

よいお年を

2007-12-30 | よしなしごと

年末モードでテレビを見ていると、改めて今年はいろいろ不祥事系の事件があったことが思い出されます。

気になるのは、「誰が悪い」という(もはや生贄探しに近い)犯人探しが主で、「何を変えればいいのか」(社長や責任者の首以外に)という議論がなされていないことです。
性善説を前提にしているといえば聞こえがいいのでしょうが、どちらかというと無謬性を求めて結果責任を厳しく問う姿勢が感じられます。
「ちゃんとやれよ」としか言わない管理職とか「いい子にしてなさい」としか言わない親が必ずしも良くない親であるのと同じ問題を感じます。

これはマスコミだけに限らず、上場審査を緩くした挙句に不祥事が起きると今度は箸の上げ下ろしまで口を出し始める証券取引所(上場企業といってもかたや従業員数十名売上数億から従業員数万名売上数十兆円という企業まであるのですから、それを一律の基準でコントロールしろというのも無理があるように思います)とか、細部の基準が明確でない金融商品取引法を施行する金融庁(事後監督型行政への転換を理由にとはいっても実際に監督処分をくらった日には企業としては致命的なので必要以上に安全運転をすることになってしまい、投資信託を銀行窓口で買おうとすると小一時間形式的な説明を聞かされるらしいです)とか行政・立法側の問題もあります。


人間は往々にして間違ったり、いけないことの誘惑にさらされる、ということを前提にしたルールや世の中の仕組み、評価の枠組みが必要なように思います。


また、地球温暖化問題でもCOP13で妙に悪役になってしまったりと、国際的な枠組み作りというのは相変わらず不得意です(明治時代に東アジアでいちはやく国際社会入りを目指し不平等条約の改正を目指した先見性はどこに行ったのでしょうか)。
※地球温暖化問題とか炭酸ガス排出権問題についてはいまひとつ考えがまとまらないのですが、「国家」とか「経済成長」について考え直すいい機会だとは思いますので来年は少しまじめに考えてみようと思います(たとえば少子高齢化というのは炭酸ガス排出削減にとっては有効な解決策のひとつのはずで、グローバルな見地からは国内問題として憂慮すべきではないのではないか、また発展途上国を優遇する限度はどこに引けばいいのだろう、などという問いが浮かんできます。)。


さらに、年末に民主党がテロ特措法の妙な対案を出しました。
国際的なテロリズムの防止及び根絶のためのアフガニスタン復興支援等に関する特別措置法案要綱 によると、活動内容は「治安分野改革支援活動」と「人道復興支援活動」に分かれ、
治安分野改革支援活動は

① 不法な武装集団の武装解除の履行の監視及び当該武装解除の履行により武装を解除された者の社会復帰等の支援
② ①に掲げるもののほか、警察組織の再建その他のアフガニスタンの国内における安全及び安定を回復するための治安分野における改革に対する支援

人道復興支援活動は

① 被災民の生活若しくはアフガニスタンの復興を支援する上で必要な道路、水道、農地、かんがい排水施設等の農業用施設その他の施設若しくは設備の復旧(農地にある地雷の除去を含む。)若しくは整備又はアフガニスタン特別事態によって汚染その他の被害を受けた自然環境の復旧
② 医療(防疫上の措置を含む。)
③ 被災民に対する食糧、衣料、医薬品その他の生活関連物資の輸送又は配布
④ 行政事務に関する助言又は指導

であり、人道復興支援活動については、抗争停止合意が成立している地域であってそこで実施される活動の期間を通じて当該抗争停止合意が維持されると認められる地域又は当該人道復興支援活動に対する妨害その他の行為により住民の生命若しくは身体に被害が生じることがないと認められる地域において実施され、自衛隊の部隊等が実施するアフガニスタン復興支援活動は、人道復興支援活動に限るものとするものです。

年末の大掃除の手伝いに行きますが、水仕事は手が荒れるのでやりません、という感じです。
最近中学高校ではやっているらしいボランティア活動としてこんな計画を出したら、さすがに教師も「相手先はそれでも来てほしい(たとえば力仕事を手伝って欲しい)と言っているのか話し合った?」と聞かれると思います。
この法案も、アフガニスタン政府や国連にこういうニーズがあるのか確認した上での法案なのでしょうか。そうでなければ単なる押しかけボランティアとして足手まといになってしまう感じがします。 本気で政権をとる気でいるのなら、政策立案能力をもっと磨いて欲しいと思います。

民主党も、これ見よがしな法案を作ったり、与党の提出法案に"all or nothing"で反対するのでなく、法案の趣旨自体が真っ当なものであるならばそれが有効に機能するか検証し、必要に応じた修正案を出すというような地道な活動を積み重ねる方が国民の信頼が得られると思います。
役所の失態を批判する一方で、役所の作った法案を検証・改善できないのであれば、政権をとっても今と大して変わらないように思います。


年の最後に文句ばっかり言ってしまいましたが、来年はすべてにおいて非難・責任追及だけでなく実効性のあるルール作り、枠組み作りをする前向きな年になることを期待しています(特にJ-SOXなど・・・)


それでは皆さん、良いお年を!

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今年の飲食総集編

2007-12-29 | 飲んだり食べたり
今年はこの「飲んだり食べたり」というカテゴリのエントリをあまりアップしませんでした。

どうもレストランで写真を撮るというのが礼儀を欠いているように思えることと、ブログを書いていることを公言していないので同行者の手前撮りにくい、というあたりが主な理由です。
しかも、それほど料理に対する表現力がないので、結局「美味しい」「それほどでもない」「割高」などの陳腐な表現に帰着してしまいそうたというのも理由のひとつです。


とはいえ年末と言うことで、備忘もかねて今年記憶に残ったお店などをざっと棚卸ししてみます。



まず、年末に話題になったミシュランで星を取ったお店で(ミシュランが出る前に)行ったところ(五十音順)。


櫻川(☆)
マンダリン・オリエンタルの入っているビルの二階、千疋屋の脇にある日本料理。吉兆の新宿伊勢丹店の料理長だった方が独立して開業し、ここに移ってきたとか。
会席から期待される「上品・少量」をいい意味で裏切ってくれます。
サービスもよく、個室に窓がないことを十分補ってくれます。


シグネチャー(☆)
こちらはマンダリンオリエンタルの上のフレンチ。
ランチだったのですが、2時間たっぷりかけておなかいっぱいになりました。
素材の味を生かした料理と器や盛り付けにも凝ったところがいかにもヌーベル・クイジーヌ風です。
ランチでもけっこういいお値段なのですが、ほぼ満席だったのには驚きです。
ビジネスマン以外に、奥様方やOL2人組、それから日本橋三越で(多分外商の担当を引き連れて)買い物したであろう裕福そうなお年寄りが多いのがい印象的でした。
難点はおなかいっぱいになってしまい、あまりシリアスな商談にはなじまないことでしょうか。


竹葉亭(☆)
ここも昼の利用。
確かに美味しいのですし、おなじ鰻にしてもそこはかとない上品さが漂うのはなぜなのでしょう。(個人的にはもう少し量が多くてがっつりいきたい気もするのですが←全然グルメではないw)
鯛茶もおいしいです。


とよだ(☆)
これも昼の利用。
日本橋の裏通りにひっそりと建っている店です。
昼間見ると建物自体はかなり古い(クラシックというのでなく)のですが、中のしつらえは上品にできています。
2000円くらいの定食を食べたのですが、小鉢の一つ一つまで手を抜かずに作ってあり、「夜に来たら高いんだろうなぁ」と暗黙のプレッシャーを感じさせるできばえでした。


ひのき坂(☆)
リッツカールトン東京の上にある日本料理店。
ここだけは予約がミシュラン前で行ったのはミシュラン後。
オープンしたてはオペレーションが落ち着かないとか、寿司コーナーや鉄板焼きコーナーと外国人におもねったコンセプトがいかん、などと事前の評判はあまりよくなかったのですが、日本料理の会席のコースはかなり充実していました。
個室も昔の茶室を移築した部屋以外なら室料も高くないし、サービスもフレンドリーでしかもタイミングよく次の料理やお酒も出てきて、満足度は高かったです。
両親の記念日に行ったのですが、「わかりやすい」設定には十二分に使える店だと思います。
ちなみに最初にシャンパンを頼んだのですが、ワインリストはメインダイニングのもので、(確かにいいものなのですが)相当いいお値段でした。
ここでは日本酒をいただくのがいいかと。


ベージュ(☆)
銀座のシャネルのビルの上のフレンチ。
非常に凝った内装と上品な店員と気取った客層の中で僕のテーブルだけオヤジ度炸裂だったのではた迷惑だったのでは、という負い目を持った訪問でした。
オヤジのひがみも入っていますが、たしかに美味しいし凝っていますがちょっと気取りすぎかな、とも思います。
まあ、私は客としてターゲットに入っていない、ということでしょう。


(おまけ)
「あすなろ企画」として計画中なのが濱田家(☆☆☆)
一見で入れないでしょうが、たまたま知り合いに先代のオーナーで明治座の社長だった三田政吉さんが仲人だった人がいて、いずれ機を見てお願いしてみようかと思ってます。請うご期待(あ、その前に軍資金か・・・)。



さてつぎは今年行った中でブログでとりあげておらず、かつ印象に残っているお店(新規開拓・久しぶり再訪店を中心に)


Union Square Tokyo
本家NYの店は2,3ヶ月前でないと予約が取れないらしのですが東京ミッドタウンの店は2週間前で大丈夫でした。
イタリアンベースの現代風料理(こういうのをニューヨーク風というのかも)
サービスの方がフレンドリーなのが最近の流行の店に共通する部分で、僕の席に着いた方も(たまに滑るけど)気持ちよくかつ一生懸命で好感が持てました。
ワインリストを見るとバカ高いのもあるけど、安めのもの(一番安くても9000円くらいなのですが)を選んでもそんなにはずれはないです。
見栄を張らなければリーズナブルに楽しめます。(あ、見栄を張るための店だったか・・・)


ピッツェリア・トラットリア・ナプレ
同じく東京ミッドタウンですがこちらはカジュアルに楽しめます。
お客も肩の力を抜いて楽しんでいるいい雰囲気の店です。
人気なだけに予約がとりにくいのが難点です。


ハーレム
外苑前のトルコ料理。
トルコ料理といっても「トルコ宮廷料理」と名乗っているだけあり、シシケバブやドネルケバブといった屋台料理とは一線を画していて、肉料理だけでなくオリーブや野菜料理、チーズなども充実しています。
ワインによく合います(そもそもワインの発祥の地はこっちのほうですしね。)。
うかがったときには店長がテナント契約が切れるのに移転先が見つからない、と心配されてましたが、無事同じ外苑前で見つかったようです(あれ、ということは行ったのは去年かな?)。


八平
四谷荒木町の京料理店。
カウンターに座ると厨房のキビキビ感が伝わってくる気持ちのいい店です。
料理の質は高いですが敷居は高くありません。
行ったときが鱧の終わりかけの頃だったのが心残りです。


金八
築地の居酒屋
席数が少なく、カウンター4,5席と狭い小上がりにテーブル3,4席。
しかも座敷は掘りごたつになっていないので女性向きではなく、客層もオヤジ度炸裂です。
魚はうまいし日本酒も種類豊富なので、女性が進出して混雑が激化しないバリアフルな店作りは歓迎です。


はし田
勝どきの奥のほうにぽつんとある寿司店。
3000円のランチ(予約で5000円というのもある)という贅沢をしたのですが、ネタが大きく、軍艦巻きなど軍艦だったら転覆しそうなくらい(たとえて言えば駆逐艦の上に戦艦大和の装備を載せたような感じ)ネタがてんこ盛りになっています。
しかも奇をてらっているわけでなく、ネタがすべて上質。
値段だけのことはありますし、満足感と満腹感が夕方まで長続きします。
ただ、(確認したわけではありませんが)夜に行くには財布の覚悟が必要だと思います。


鯉寿司
こちらはちょっとイロモノ、中目黒「創作寿司」を名乗っているお店です。
かなり実験的なものも出してくれます。つまみのほかに「創作にぎり」を注文しましたが、8貫中おっと思わせるもの3貫、さすがにそれは実験的すぎるのではというもの3貫という感じでした。
ご主人の熱いトークも面白く、店名は実は「濃い寿司」なのではないかと。
値段もかなりお手ごろですし「地元のちょっと変わった寿司屋」にちょっと寄ってみよう、という感じでいくお店ですが、好き嫌いは分かれるかもしれません。


大喜
江東区枝川の焼肉店
豊洲側からタクシーで行くと「朝鮮学校を左折、その先のキムチ屋を右にまがってください」という道案内をしてたどり着く焼肉店の並ぶ一角にある店。
味・量・コストパフォーマンスいずれにも優れます。
おいしいだけあって「激安」ではないですが、支払いのときに味と飲み食いした量の満足感の割りには思いのほか安く感じます。
肉もそうですが、キムチなどの料理系もしっかりとしてます。
自家製との噂もあるマッコリもお勧めです。


五鉄
こちらも焼肉(八丁堀)。
尿酸値と中性脂肪と財布(といってもフレンチに比べれば安い)を気にしなければ、そして社長にをお願いする(要予約)と至福の時を過ごすことができます。
肉も「この肉はばらして3週間目でちょうどいい」「タンは最初に食べちゃダメ」など薀蓄も十分楽しめますし、焼酎のキュウリ入りロック(ここまではよくある)に山葵を溶くという技なども伝授してくれます。
(ちなみに、試してませんが、白ワインに山葵を軽く溶いて飲むとガンガン飲めてそのうちコロッといくそうです)



ざっと思いつくまま書きましたが、今年も飲んでばかりの一年だったような・・・

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御用納め

2007-12-28 | よしなしごと

今年も無事、年が越せそうです。



皆様も一年間おつかれさまでした。
(年末お仕事の方はがんばってください。)


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『その名にちなんで』(と、ちょっとだけ『東京タワー』)

2007-12-27 | 乱読日記

新聞を見ていたら、ジュンパ・ラヒリ『その名にちなんで』が文庫になっていました。
さらに映画も日本公開されたんですね。

実はこの本、昨年の年末年始に読んでいました。その遅ればせながらのレビューです。


話は昨年末に遡ります。
大ヒットしたときに買って読んでいなかった東京タワーを昨年の大晦日に読みました。
40歳を過ぎてから涙もろくなったようで案の定滂沱しました。

そのあと家族・親つながりで、本棚の奥から取り出してきたのがこの本です。

ジュンパ・ラヒリはオー・ヘンリー賞・ヘミングウェイ賞・ニューヨーカー新人賞・ピューリッツァー賞などを総なめにした「病気の通訳」を収録したデビュー短編集『停電の夜に』についで(日本では?)初の長編です。

大きなドラマはなく、普通の登場人物(アメリカ在住のインド人のことが多い)の思いを静かにすくい取るように表現している作品が多いので、落ち着いたときに、ゆっくりと、でも一気に読んだほうがいいなと思って読む機会を見つけられなかったのもです。
※ご参考までにこの作者の作品のトーンを表して秀逸なのが『停電の夜に』のAmazonのレビューにありました。 この本にも通低するトーンをうまく表現しています。 

外国で暮らすインド人のことをNon Resident Indian (NRI)と言います。この作品集はそのNRI達が登場するお話です(作者がNRIですからね)。家族の、そして民族の存在根拠が遠く離れたインドにある人々の静かで深い悲哀が、全編の底辺に、いや伏流水のように流れています。

さて『その名にちなんで』父親が列車事故に逢い九死に一生を得たときに読んでいた本の著者にちなんで「ゴーリキー」と名づけられた主人公。
父親は研究者として米国の大学に留学中に生まれた主人公が、キャンパスシティのアメリカ人とインド系のコミュニティの中で育ちながら自分のアイデンティティを自覚していくという物語です。

中心は父親から主人公と引き継がれる、インドの家族との関係、インド人としてのアイデンティティの葛藤にあるのですが、作者が一番思い入れているのは、主人公の母親のように思います。
インドで見合いした相手のアメリカに留学によりアメリカで生活することになる中で、伝統的なインドの考え方や風習を守り慎ましやかに人生を送っている母親なのですが、それだけに伝統的インドの価値感との葛藤を内面に宿していることが控えめに描かれています。
実は影の主人公はこの母親で、主人公と父親を狂言回しに使ったともいえるくらい、静かな存在感の中に訴えかけるものがあります。

『東京タワー』ではオカンは苦労しながらもアクティブな存在として描かれていますが、ここでの母親は非常に静的・受動的な存在として描かれています(それに対比して娘=主人公の妹は現代アメリカ的な行動をとっています)。
インディラ・ガンジーなどインドでは女性の政治家もいますが(そういえば今年大統領になったのも女性ですね)、はインディラ・ガンジーはネルーの娘ですし、やはりそういう名家に生まれたのではない普通のインド女性の姿としては、いまだに本書の母親は典型なのかもしれません。
(アメリカ人にとって有名な日本女性と言えばオノ・ヨーコがあげられると思いますが、彼女も安田善次郎の孫といういわば「特殊解」の部分もあるのであの時代の日本女性の代表、というわけではないのと同じではないかと思います。)
















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『ぼくには数字が風景に見える』

2007-12-26 | 乱読日記

模擬裁判シリーズをやっていたときに読んだ本の感想を。

最初は『ぼくには数字が風景に見える』

ぼくが生まれたのは1979年の1月31日、水曜日。水曜日だとわかるのは、ぼくの頭の中ではその日が青い色をしているからだ。水曜日は、数字の9や諍いの声と同じようにいつも青い色をしている。

この本はこのような文章で始まります。

著者のダニエル・タメットは、サヴァン症候群(手順や日課に極端なこだわりを持つとともに、数字を見ると色や形や感情が浮かんでくる特殊な感覚をもち、記憶・計算・芸術などの分野で超人的な才能を発揮する。)とアスペルガー症候群(いわゆる自閉症のひとつのカテゴリーで、対人相互関係、抽象的思考を苦手とする一方で論理的思考、視覚的思考を得意とする)をあわせもつ人です。

サヴァン症候群が有名になったきっかけはサヴァン症候群を主人公にした映画『レインマン』でしたが、著者も円周率の22,500桁暗唱というギネス記録を打ちたて、また語学の10ヶ国語をマスターしているいわば「天才」です。
本書の宣伝文句もそれに重点を置いているのですが、むしろ本書は、「他人と違う」ということを自覚しながら自分の他人と違う(特異/得意な)部分を生かしながら社会と適応していく若者の物語を中心に書かれています。

著者は自分のできること、できないこと、他人と異なる部分を自覚しつつ、無理のない範囲で社会に適応しようつするとともに、自分の才能が注目を浴びることを通じて社会に多様性を受け入れることの重要さを説いています。(『レインマン』のモデルの父親が全米を無償で講演して回っていることとも通じます)

本書を読んで感じたのは、特に学校教育や集団生活・社会生活におけるルールとか枠組みというものは、集団の秩序を維持するためにあるのではなく、最大公約数的な人間が自らを安心させ、努力を省くための装置なんだな、ということ。
本来は集団の秩序を維持するには最低限のルール(たとえば人を殺してはいけない、とか交通ルールを守らなければいけない)があればよかったものが、世の中が複雑になるにつれその存在意義は自明ではないがいちいち問い直すことが面倒、というようなルールが増えてきてしまっていて、それに我々凡庸な人間が安住するなかで、人間の多様性という将来への可能性の芽を自ら摘んでしまっているのではないだろうか、ということを考えさせられます。

著者は自分の努力もあり「天才」という居場所を見つけることができましたが、そこに至らない人々は未だに社会のルールから排除されがちです。

そうはいいながらも著者を受け入れていたイギリスの公立学校の懐の深さにも感心します(時代的にはブレア元首相が教育改革を唱える以前の頃だと思うのですが)。
日本ではなかなかこうはいかないのではないでしょうか。

特に日本では非寛容が蔓延しているように感じます。
ちょうどウチダ先生のblogに「接続的コミュニケーションの陥穽」というエントリがありましたが、この問題意識にも通じる部分があります。

というのは、文脈読解力は、今や「重要」という段階を通り越して、ほとんど「非寛容」の域に近づきつつあるように私には思われるからである。つまり「誤読が許されない」ということである。
現代日本のコミュニケーションの問題はどうもこのあたりにあるような気がする。
「場の周波数」にいちはやく同調すること「だけ」にコミュニケーションについてのほとんどのエネルギーが投じられているせいで、いったんチューニングが合ってしまうと、あとは「チューニングがまだ合っていないやつ」を探し出して「みんなでいじめる」ことくらいしか「すること」がない。


「自分と関係ない天才のこと」 と受け止めてしまうにはもったいない本です。

 






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まとめ (模擬裁判体験記 20(完))

2007-12-25 | 裁判員制度
最後に裁判所地下の食堂で、模擬裁判の関係者(裁判所、検察官、弁護士)合同での懇談会がありました。

皆さんが簡単な自己紹介と感想を述べられ、あとは懇談。

弁護人側はそれぞれ別の事務所に所属する弁護士がチームを組んでいたとのことでした。主任弁護士は元検察官の方だそうです。
感想で「皆さん忙しい中で準備する時間がなく」という発言が聞かれました。
特に最終弁論は直前に議論して内容を変更したのだとか。
そのへんが資料の練れ具合で検察側のほうが優れていたように見えた原因だったのかもしれません。

事前に読んだ記事(参照)などでは検察官が「調書主義」を維持するのではないか、という懸念がみられましたが、今回は模擬裁判ということもあってか、そんなことはありませんでした。
かえって検察官のほうが原則に忠実で、プレゼンテーションの技術についても工夫をしていたようにも思えます。


考えてみると、刑事弁護というのは経済事件とか暴力団組長のような被告人が金持ちの場合以外はあまりお金にはならないので、専門の弁護士というのは少ないのかもしれません。
(先の弁護士の「皆さん忙しい中で準備する時間がなく」という発言を聞いて、裁判員制度についても弁護士会としていろいろ発言はするものの結局本業の民事事件に時間を取られるので、実態は検察官OBなどの刑事を比較的得意としている一部の人に頼っているという感じで、選挙に強い小沢一郎頼りの民主党と似たようなものかな、という印象を持ってしまいました。)
そうだとすると、専門特化している検察官のほうが人的資源や経験上有利になるのは否めないのかもしれません。


********************

ということで、長々と続いた模擬裁判のシリーズもどうにか年内で終えることができました。
最後に裁判員制度についての意見と感想を少し。

1.量刑まで裁判員が行うのは難しいのではないか

量刑の評議のところでもふれましたが(参照)相場がわからない中で議論をするのはかなり難しいです。逆に相場を提示されてしまっては裁判員制度の意味がないのかもしれませんが、刑事裁判システムにおける量刑全体とのバランスというのも重要なように思います。

また、もっと素朴に言って、目の前の人間に刑を宣告することへの抵抗というのはかなりあると思います。
特に死刑判決というのは相当プレッシャーになると思います(法務大臣が執行を嫌がるくらいですから。)。
また逆に、マスコミ報道が先行した事件など場合によっては厳罰化にふれることもあるかもしれません。

量刑には経験が大きな要素なのではないかと思いました。


2.プレゼンテーションについて

裁判員は何の訓練もなくいきなり実戦に放り込まれるので、何をどういう順番で聞いて理解すればいいのか自体がよくわかりません。

なので、裁判官からは手続きの事前の説明を詳しくしてもらった方がいいと思います。全体の流れ、それぞれの手続きの意味合い、それぞれの手続きにおける論点と判断すべき内容について、最初だけでなくそれぞれの手続きの直前にも説明してもらった方がわかりやすいと思います。

検察官と弁護人も、何を主張したいか、どこを聞いて欲しいかをメリハリをつけて(必要に応じて何度も繰り返す等して)説明したほうがいいと思います。
スライドを見て話を聞きながらメモをとるという作業を集中力を維持しながら続けるのはかなり難しいです。
できればメモをとらず、手元の書類も見ずに、しかし重要なことは記憶に残る、というような説明ができると理想かと思います。
その意味ではスライドなどを使わずに、丁寧な書面を配ってそれを見てもらいながら説明してもらった方がわかりやすいと思います。
(少なくともプレゼンを充実させるためにOffice2007にバージョンアップする必要は全くないと思います。)

多分期日前準備手続きで争点を整理してしまっているがために、逆に裁判官・検察官・弁護人と裁判員の間での事案への理解度のギャップがより大きくなりがちなのかもしれません。
プレゼンテーションはできばえの美しさでなくユーザー・フレンドリーなことが重要だと思います。


3.自分が被告人になってしまったら

今回思ったのは、映画と違って犯行自体を証拠や証言から完全に再現するのは不可能だ、ということです。
なので万が一自分は何もやっていないのに誤認逮捕された場合は、間違っても罪を認めるべきではありません。
実際にやっていないのであれば決定的な証拠は出るはずもなく、本人が自分に不利な供述をしなければ、起訴までされることはないんじゃないかと思います(いわゆる「国策捜査」のターゲットになったのならそうもいかないかもしれませんが、そういう人ならそれなりの防御装置を持っているでしょうし。)。

また、実際に犯罪を犯してしまった場合には、弁護士に罪を軽くするためのできるだけの努力をお願いすることになります。
しかし「何があっても有能な弁護士が無罪にしてくれる」というような映画の世界は現実的ではないです。
そもそも奇跡をもたらすような有能な弁護士がいたとしてもそういう人を探し出すのは難しいでしょう。また、刑事事件については検察官はフルタイムで従事し日々研鑽をつんでいますが、おそらく弁護士で刑事事件にフルタイムで従事している人はそう多くなく、もともと同じ司法試験を通っていて能力についてもさほど違わないのだとしたら、「相手の意表をついて一発逆転」とか「黒を白と言いくるめる」などというのは普通に考えれば期待すべきではありません。
先日のDNA鑑定の信憑性を覆したイギリスの判決も、被告人がIRAの活動家なので多分きっちりとした弁護団が真剣に取り組んだからだと思います。
たとえば国選弁護士がそこまでやってくれるかと言えば、正直言って期待できないでしょう(それも無理もないと思いますが。)。

もっとも一度弁護を依頼した以上は、弁護活動が有効に機能するように協力したほうがいいのは当然だと思います(どうすればよりいい結果が出やすいのか-または大した違いがないのか-は経験がないのでわかりませんが。)。

さらに裁判員制度ではやはり印象が影響することは否定できないと思いますので、できるだけ真摯に反省し謙虚な姿勢で臨んだほうがいいと思います。
そのほうが弁護士も情状酌量を主張しやすいでしょうから。
実際、思ってもいないのに縁起をしたら見抜かれてしまうのかもしれませんから、本当に真摯に反省することが必要だと思います。



なので、当たり前ですが

  犯罪は起こさないのが一番

です。


刑事事件で裁判所に行くのであれば、裁判員として行くほうが百万倍ましです。



***********************


最初はブログネタに格好、などと思っていたのですが、体験記として書き始めると長くなってしまい、忘年会シーズンに突入したこともあり途中で放り投げたくなる誘惑に何度も駆られましたが、無事年内に終わりまでたどりつくことができました。

ご愛読いいただいた皆様、ありがとうございました。

あまり興味を持てなかった皆様、また、いつもどおりのヘタレなエントリに戻りますので、引き続きご愛顧お願い申し上げます。


(おわり)
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Merry Christmas !

2007-12-24 | おイヌさま

 

 

 

 

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評議 その4 (模擬裁判体験記19)

2007-12-23 | 裁判員制度

休憩後は量刑です。
検察官の求刑は「懲役6年から9年の間」という幅を持ったものでした。

最初に裁判長から法定刑の説明があります。

殺人罪の法定刑は「死刑又は無期若しくは五年以上(上限は30年)の懲役」です。
未遂罪は減軽といって刑を1/2にすることができ、また情状酌量による減軽も同様です。
これで何がちがってくるかというと、3年以下の懲役であれば執行猶予をつけることが可能になります。
また、今回銃刀不法所持による銃刀法違反(最大1年半の懲役)もあります。
しかしこれが加わる効果は法定刑の上限が上がることで、今回の求刑はそもそも殺人罪の法的刑の範囲内なので(刃物を持っていたということが考慮の要素にはなるものの)懲役の年数計算において形式的には考えなくていいことになります。

つまり、殺人未遂の場合、理論的な下限は[懲役5年×1/2×1/2=1年3ヶ月+執行猶予]になります。

<参考:刑法>

第百九十九条 (殺人)
 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。

第二百三条  (未遂罪)
 第百九十九条及び前条の罪の未遂は、罰する。

第四十三条 (未遂減免) 
 犯罪の実行に着手してこれを遂げなかった者は、その刑を減軽することができる。ただし、自己の意思により犯罪を中止したときは、その刑を減軽し、又は免除する。 

第四十四条  (未遂罪)
未遂を罰する場合は、各本条で定める。 

第六十六条 (酌量減軽)
 犯罪の情状に酌量すベきものがあるときは、その刑を減軽することができる。 

第六十八条  (法律上の減軽の方法)
 法律上刑を減軽すべき一個又は二個以上の事由があるときは、次の例による。

一  死刑を減軽するときは、無期の懲役若しくは禁錮又は十年以上の懲役若しくは禁錮とする。
二  無期の懲役又は禁錮を減軽するときは、七年以上の有期の懲役又は禁錮とする。
三  有期の懲役又は禁錮を減軽するときは、その長期及び短期の二分の一を減ずる。
四  罰金を減軽するときは、その多額及び寡額の二分の一を減ずる。
五  拘留を減軽するときは、その長期の二分の一を減ずる。
六  科料を減軽するときは、その多額の二分の一を減ずる。 

 第七十一条 (酌量減軽の方法)
 酌量減軽をするときも、第六十八条及び前条の例による。 

第二十五条  (執行猶予)
 次に掲げる者が三年以下の懲役若しくは禁錮又は五十万円以下の罰金の言渡しを受けたときは、情状により、裁判が確定した日から一年以上五年以下の期間、その執行を猶予することができる。

一  前に禁錮以上の刑に処せられたことがない者
二  前に禁錮以上の刑に処せられたことがあっても、その執行を終わった日又はその執行の免除を得た日から五年以内に禁錮以上の刑に処せられたことがない者

2  前に禁錮以上の刑に処せられたことがあってもその執行を猶予された者が一年以下の懲役又は禁錮の言渡しを受け、情状に特に酌量すべきものがあるときも、前項と同様とする。ただし、次条第一項の規定により保護観察に付せられ、その期間内に更に罪を犯した者については、この限りでない。


といわれたものの、そもそも量刑の「相場」などまったくわからないですし、逆に今までの相場をあてはめるのでは裁判員制度の意味がないのかもしれません。

ここは裁判長も粘り強く(半分は興味しんしんで?)議論を見守ります。


そもそも検察官の求刑自体が相場に沿ったものなのかもわかりません。
商談なら「若干のフトコロを見て求刑の2割引くらいで」などという考えもできるのでしょうが、そういうわけにもいきません。

といういことで、検察官の主張の根拠と弁護側の主張の根拠を比べることに。

<検察側>
・ 被害者は動脈を損傷し4.5Lもの輸血を必要とし、まさに生死の境をさまよった。
・ 被害者としても職を失い、体調も優れない。厳しく罰して欲しいといっている。

<弁護側>
・ 被害者は経過も良好で既に退院している。
・ いままでまじめに働いていた被告人がここで実刑になると社会復帰の道は現実的に閉ざされる。社会の中で更生をさせるべき。


当初の議論では、被告人に同情的な意見が多く出ました。
ひとつは目の前の人間を刑務所送りにする、ということへの抵抗がある(少なくとも私はそうでした)のと、特に被告人役の人が非常にいいキャラクターで、証言席でしょんぼりと立って訥々と話す姿は裁判員の同情をひきました。
一方で被害者役の人はけっこう若く、被害者の感情というのがあまりリアリティをもって伝わって来なかった部分もあります。

このへん正直言って見た目の印象というのは大きいと思います。
今になって思えば、配役が逆だったら当初から被告人に厳しかったかもしれません。
また、被害者の証言で、「刺された傷跡がまだ痛むんです」などとシャツをまくって傷跡を見せられたら印象も大きく違ったように思います(でもそういう「演出」っぽいことはルール違反なのでしょうか?)。

そうはいっても、あまり被告人への同情に傾きすぎるとちょっと行きすぎでは、と思うもので、やはり人を刺しているわけで、「いい人だから」「かわいそうだから」という理由で執行猶予、というのもどうなんでしょう、という意見が出だしました。
このへんは大勢で議論することのメリットでしょう。

つぎに、被害者にも落ち度がなかったのか-被害者も包丁を持ち出しているし、どっちもどっちだったのでは?という指摘。
しかし、志村は包丁は抜いたもののタオルを巻いたままだったし、被告人も志村が包丁を抜いた記憶がない。少なくとも防御行動とか包丁を持った同士の喧嘩ということではない(このへんは殺意の議論の蒸し返し風な感じになってしまいました)ので、被告人の行為だけを評価すべきでは、という反論がでました。

更に被告人は刑務所に入ったら更生するのか。いや、それは刑務所や個人の問題で、社会全体としてはやはり実刑は意味がある。と刑事政策的な議論にまで話が広がってきます。

予定の判決宣告の時間が近づいても一向にまとまる気配が見えません。

そこで裁判長が

実は個人的には評議が結論にまで達しない可能性があると思っていました。今回は模擬裁判なので、評議をギリギリ時間まで進めたうえで、判決宣告なし、と言う形で終わってもいいかなと思っています。

と救いの手を。
評議の内容はビデオで法廷の傍聴席に中継されているので、結論でなく裁判員がどういう考えをするかのほうが重要と考えてのことのようです。


だんだん議論は執行猶予をつけるか、つけないか-懲役3年か4年か-というあたりに修練してきました。

一応時間切れの直前に裁判員で採決をしたところ、4対2で3年・執行猶予付き派が多数を占めました(僕は4年・実刑派でした)。


*********************

このあと関係者が待ち構えている法廷に。

議論のあらましと結論に至らなかったことを裁判長から説明したあと、意見交換。
司会者の人が質問をし、裁判員が順に答える、という風に進みます。

今度はこちらかまな板の上の鯉になります。

私は、スクリーンの映写と手元資料と発言のバランスが悪く、集中しずらかったこと、全体の流れがよくわからなかったので、最初から全力で集中すると肝心のところで集中がとぎれそうになってしまったことなどを話しました。

意見交換会はかれこれ1時間くらい続き、けっこう疲れました。

********************

意見交換会が終わって評議室に。

裁判長から、「皆様おつかれさまでした」とねぎらいの言葉をかけられました。
そして、参考までに、と最近の同様の事件の量刑の結果をまとめたものが配られました。
刃物で人を刺して重傷を負わせた事件で、大体懲役4~6年(ということは実刑)というのが相場だそうです。

では、これが配られたら評議が効率的に進むのかというと、そうも限らないと思います。

僕がこの表を見て思ったのは、それが同種の事件の相場かもしれないが、なぜその相場が形成されたのかがわからない、ということでした。
つまり、同種の事件でこれくらい、というのでなく、より思い罪やより軽い罪とのバランスで相場が形成されているのではないか、ということです。
たとえば人を刃物で刺して重傷を負わせて懲役3年の執行猶予となってしまうと、殺人未遂より法定刑の軽い犯罪(傷害とか窃盗とか覚せい剤取締法違反)の刑が軽すぎることになるのではないか、またはそれを量刑で逆転させるための事情というのを考える必要があるのではないか、ということです。

そのへんの情報をどこまで裁判員に事前に入れるか、逆にそのことが裁判員を誘導してしまい、裁判員制度を導入した意図と反してしまうのではないか、というあたりは難しいところだと思います。


(つづく)

 

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より道 (模擬裁判体験記 おまけ)

2007-12-22 | 裁判員制度

模擬裁判の話はようやく終わりが見えてきました。
シリーズ物は覚悟が必要だ、ということを学びました。

さて、今回はちょっと寄り道。

今朝の「世界のニュース」でイギリスの爆弾テロ事件の裁判でDNA鑑定の証拠能力が否定された、というニュースが流れていました。

DNA test halted after Omagh case
(Friday, 21 December 2007, 18:14 GMT BBC News)

Police have suspended the use of a controversial DNA technique following the Omagh bomb verdict.
Earlier, the Crown Prosecution Service said it would review live prosecutions in England and Wales using Low Copy Number (LCN) DNA testing.

Omah Bombというのは1998年にアイルランドで起きて大量の一般市民が巻き添えになった有名な爆弾事件だそうです。
今回の裁判で犯人特定の決め手になったのは「LCN」という方法で、ごく微量のDNAを複製・増殖させ犯人のDNAを復元する方法のようですが、この増殖・復元の過程に問題があり、もとのDNAと一致しない可能性がある、ということのようです。


これで思ったのは、裁判員制度でこんなのにあたったら大変だろうな、ということでした。

また逆に、専門知識を持った裁判員がいた場合、その人の知識を用いることがいいのでしょうか。
その裁判員の知識が弁護側か検察側の主張・立証の不十分な点を補強するようなものであった場合、証拠の後だし(横だし?)のようなことにならないでしょうか。
また、その裁判員が製薬メーカーなどその技術に利害関係を持つ人である場合、途中で排除することになるのでしょうか(でも黙っていたらわからないですよね)

裁判員制度のコンセプトである「市民の意見の反映」というなかに、市民の専門的知見、というのも含まれるということなのでしょうか。
それとも通常一般人としての判断が期待されているのでしょうか。


実は今回の模擬裁判でも、「殺意の有無」酔って激高したとはいえ包丁まで持ち出すか?という疑問に、元居酒屋経営の女性が、酔っ払いは気が大きくなるもので、すぐに「殺してやる」とか言って包丁を手に持とうとするので喧嘩が始まると必ず包丁は隠していた、という話をされ、なるほどと一同感心したようなこともありました。


各論になるといろいろ課題が出てきそうですね。

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情報のギャップとかタイムラグとか

2007-12-21 | よしなしごと
友人と忘年会。

中央監査法人に勤めていた奴は、転職したら給料があがったとか。
しかも顧客とチームごともって行ったにしろ、中小のところではなく同じ大手なのにだそうです。
勤務先がつぶれて転職したのに給料が上がるとはさすが資格と顧客を持っている奴は強いな、というやっかみもあるのですがそれ以上に自分の金勘定に疎くて公認会計士としてどうよ、という突っ込みを受けていました。

更にJ-Sox、内部統制バブル特需で景気いいねぇ、といったところ、実は公認会計士の合格者が今年は昨年の倍以上(1300人が2800人?)になったそうで、長期的にはおいしい商売というのでもなさそうだということです。


情報ギャップやタイムラグといえば、某大学教授の言うにはこの売り手市場においても学生は先輩たちの苦戦の話を聞いているので早く就職先を決めることに躍起になっているようです。
理系の教授氏に言わせると、3年までは教師の教えることを覚えるのが主で、学問というのは4年からが本番なのに、その大学4年の授業が形骸化してしまったり、優秀(になりえたはず)の学生を大学院にリクルートするのが難しくなっているとか。

これはリクルートなどの就職情報会社が、彼らは企業の求人広告の効果をあげてナンボの商売なので、依然として(または別の切り口で)学生の危機意識を煽っていることにも原因があるのではないか、というのが教授氏の見立て。

確かに、自分たちに就職情報を無料で提供してくれる会社の収益構造からどういうインセンティブや情報バイアスがかかっているかということを批判的に検証できる余裕は学生にはないのかもしれません。


逆に企業側(面接側)からすると、自分たちの青田買いを棚に上げれば、大学において学んだこと、または自分と学問とか世の中とのスタンスがほとんど身についていない学生を面接しても金太郎飴的な印象を持ってしまいます。
個人的な印象では逆に総じて大学院卒の方が印象がよかったりしますし、とりあえず入社して合わなかったら辞めてやると思っても現実的には難しかったりします。

マクロでは少子化が進んでいるので、きちんと経験を身に着けていれば就職市場での需給関係は間違っても悪くはならないです。
就職してからの人生のほうが確実に長いわけですから、日本の将来を担う貴重な人的資源としてもあまりあせらずに(また短期の需給関係の好転だけをチャンスとしてとらえるのでなく)どっしり構えてもらえればと思います。

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評議 その3 (模擬裁判体験記18)

2007-12-20 | よしなしごと

つぎの論点は被告人が犯行当時心神耗弱の状態だったか否か(=責任を問えるかどうか)。

刑法では

第39条  心神喪失者の行為は、罰しない。
  2    心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。

とあります。

更に裁判長の方から解説資料が配られます。

人を罪に問うにはその人に責任能力が必要で、責任能力とは「物事の善い悪いを判断し、その判断にしたがって行動をコントロールする能力」をいう。その責任に問題がなければ完全な責任能力を負わせることができるが、責任能力が著しく減退している状態(=心神耗弱)の場合は罪を減軽することになります。

本件では飲酒の影響が論点になっていますが、通常の酔い(性格が表面に出た結果言動や行動が多少乱暴になるようなもの)なのか心神耗弱と言えるかのような異常な酔い(人が変わってしまい、普段からは理解できないような行動を取るレベル)なのかを判断してもらうことになる、という説明がありました。

(※)模擬裁判終了後の意見交換で、弁護側から裁判所の出した心神耗弱の説明資料は心神喪失も含めて段階的に表現しないと「心神耗弱はきわめて例外的」という印象を与えたのではないか、という指摘がありましたが、本件については後述の通りそこまでの影響はなかったように思います。


今回はこの論点については裁判員はそろって弁護側の主張に否定的でした。

・被告人の証言でも志村を脅そうとした、といっており、そのために包丁が有効という判断をしている。
・タオルで巻いてズボンに突っ込んで隠し持っていた
・加東証言や通りがかった会社員の目撃証言でも酩酊しているようには見えなかった
・警察官によるアルコール呼気検査でも数値は高くなかった
・被告人の記憶も犯行直前までが鮮明で犯行自体の記憶だけないというのも不自然

などが理由です。

個人的には今回被告人と志村がともにやった「包丁をタオル巻いてズボンに突っ込んで隠し持つ」という行為が包丁の持ち運び方としてポピュラーだったということをはじめて知りました。
そして、飲酒で判断能力を失いながらもそういう行為をしている、という主張には無理があるんじゃないかなと思いました(正気でなければ歩きながら自分の脚か尻を切ってしまいそうです)。


いずれにしろ、裁判員全員の同意として、被告人の「心神耗弱」の主張は認められませんでした。


ということで、「殺人未遂が成立し心神耗弱は認められない」というところまで意見がまとまりました。

つぎは量刑に移ります。



休憩時間中に、裁判員の中のOLの女性から余談ですけど、といって「宴会でのセクハラも泥酔しているのであれば心神耗弱になっちゃうんですか?」という質問が出されました。

裁判官からは、個別判断なのでしょうが、普段から思っていたことがタガがはずれただけでは心神耗弱とは言えないんでしょう、などという話が出ました。
つまり酒のせいにする、というのはいかん、ということですね。

ちなみに刑法では原因において自由な行為の法理というものがあり、自ら心神喪失・心神耗弱の状態になり犯罪を引き起こした場合は」その結果について完全な責任を負う、とされています。
後輩で酒席になると「私は飲んだら飲まれますよ」といっていつも自分から飲んだ上に速攻で酔っ払っていた奴がいたのですが(まあ、タチは悪くなかったのでいいのですが)、そういうのは自己責任、ということです。

身に覚えのある方はご注意ください(笑)


(つづく)

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鉄の結束

2007-12-20 | M&A

新日鉄・住金・神鋼、相互の株式追加取得発表
(2007年12月19日 14:26 日本経済新聞)  

新日本製鉄と住友金属工業、神戸製鋼所の3社は19日、相互に出資比率を高めて提携関係を強化すると正式発表した。新日鉄と住金は相互に1000億円程度の株式を追加取得する。新日鉄と神戸鋼、住金と神戸鋼ではそれぞれ150億円の株式を追加取得する。19年度末までに株式市場で実施する予定。基幹生産設備で相互補完を推進して競争力を高める一方、M&A(合併・買収)で成長する鉄鋼世界最大手のアルセロール・ミタル(ルクセンブルク)に対抗する。
 
株式追加取得後は、新日鉄による住金への出資比率が9.4%(従来は5.01%)、住金による新日鉄への同比率は4.1%(同1.81%)へそれぞれ上昇する見通し。  

ちょうど12月5日の商事法務に長島大野常松法律事務所の藤縄弁護士が「検証・日本の企業買収ルール」という寄稿をされています。
その中で、経産省と法務省による買収防衛策指針が提案したライツプラン型防衛策が予想外に普及しない理由として以下の二点をあげています。  

日本の企業経営者の間に、買収防衛策指針の背景にある「企業価値が上がるのであれば買収提案を受け入れるべし」という規範意識簡単には育たない  

買収防衛策指針が提示したライツプラン型防衛策の設計思想と防衛策をめぐる司法判断との間の溝が埋まらず、(※)多くの実務化がライツプラン型防衛策の法的な有効性について確信がもてない

(※)「裁判所からの「株主意思の尊重」と「買収者の損失補償」という二つのメッセージは、日本のライツプラン型防衛策が参考にした米国のライツプランの①株主に対する信任義務に基づき取締役が買収の適否を一時的に判断する、②買収者に甚大な損害が生じることを抑止力として買収行動を停止させるという基本設計を否定するものである。  

ことの2つを上げています。 

そしてこの論文の目的は公開買付制度の見直しや種類株式の上場などを提言するものですが

自社が敵対的買収の標的になる可能性がゼロとは断言できない中で、株主総会での支持さえ得れば買収防衛が可能であるというのであれば、安定株主工作に手を染めるという誘惑は絶ち難いものがある。  

と、持ち合いの弊害にも警鐘を鳴らしています。  


藤縄弁護士の指摘は正鵠をついていて、しかも方向性としては正しいとは思うのですが、とはいえ本音ベースでは「アルセロール・ミタルに(事業上)対抗する」以上に「アルセロール・ミタル(からの買収)に対抗する」ことを意識せざるを得ないというのも現実なわけです。  


ところで3社の時価総額は、新日鉄4兆2000億円、住金2兆1000億円、神戸製鋼所1兆円、合計で7兆3000億です。
ミタル・スチールのアルセロールの買収資金269億ユーロ(1ユーロ=163円で4兆3000億)という規模を考えると、あまり3社が実質的な提携を進めて、ちびくろサンボのバターになってしまったトラとか溶鉱炉に放り込んだ鉄同様混然一体となってしまうと逆に「まとめて買っちゃえ」という気にさせてしまうかもしれませんね。

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評議 その2 (模擬裁判体験記17)

2007-12-19 | 裁判員制度

午後も評議のつづきです。

まずは論点のひとつ「刺突行為の有無」(=刺したのか刺さったのか)に関して証拠からどのような判断ができるのかについて検討します。


被害者である志村証人は「被告人が刺した」と明言しています。
一方弁護側は「もみ合いの中で偶然刺さった」と主張しています。
その理由として弁護側は、①傷が浅いこと②まっすぐに入っていないことを主張しています。

※この「まっすぐ入っていない」というのは最終弁論で弁護側が言い出したことで、被害者の断面図から傷を説明する図の提示はルール違反だったそうですが、この論点自体は排除して考えろ、という指示はありませんでした。証拠の提示方法がルール違反なだけで、主張をすること自体は適法、ということなのでしょうか。

裁判員の意見としては

・ 「すぐ刺した」というが志村が加東の部屋を出てから加東が部屋を出るまで2,3分かかったのだから、それなりのやり取りはあったのではないか。
・ 2,3分というのは本人の印象なのであまり厳密に考える必要はないのでは。
・ 「もみあい」というのが具体的にどういうことを言うのかわからない(単なる言葉のあやのような感じもする)。
・ 志村証言でも1mくらいの距離があったといい、加東証言や通行人の証言でも被告人が志村の肩を押さえていた、といっており、抱き合うような形ではなく距離があったので、やはり「刺す」という積極的な行為はあったのではないか。
・少なくとも志村は抜き身の包丁を持った被告人ともみ合ったり(=自ら刃物に体を寄せる)するだろうか。
・傷の浅さは逆に距離があったことの証左では?
・志村は被告人の右手を押さえ、助けを呼んでいる(これは加東も聞いている。)

なんとなく被告人役の男性がかなりいい味を出していたのが印象に残り、若干成績は応じて利益分配がなされるかもしれません。
議論がひとしきり出た後で、裁判長がまとめます。  

事実は細部までは再現できないので提示された証拠の中から何が言えるだろう、と考えて判断してください。

というようなことを言われます。

ということで、被告人が積極的に刺したかについてそこで裁判員と裁判官の意見を確認した結果、「偶然刺さった」のではなく「刺した」という意見に全員が一致しました。


次に殺意の有無について。
裁判長から配られたレジュメをもとに簡単な説明があります。

殺意の有無で殺人未遂罪か傷害罪かがわかれる。ただし殺意にも強い殺意(相手を殺してやろうという明確な意思)と弱い殺意(相手が死んでしまうかもしれないけどそれでもかまわないという意思)があり、弱い殺意でも「殺意あり」ということになる。
ここについてはいろいろな意見が出、また私も含めてそれぞれの意見が二転三転しました。

そもそも裁判員全員「『相手が死んでしまうかもしれない』という程度の行為」を見たりした経験がないので、どのレベルの行為が「殺意あり」というのかいきなり聞かれても判断に困る、というのが正直なところだと思います。 

さらにその後

・「志村を殺す」という発言の重さ、逆に興奮状態で口走ったともいえないか。
・加東が駆けつけたとき、加害行為は止めていた。興奮して刺してしまった、ということはないか。
(興奮していれば殺意がないのか?とも思ったのですが、そこは深く突っ込みませんでした)
・しかし、被告人は血を流している志村を手当てしようともしていなかった。
・深く刺さっていないことをどう考えるか。振りかぶってとか踏み込んでではない。
・しかし包丁を握る手には力が入っており、手をはがすのに大変だった。

などという議論がでたあと、誰かが「志村が出血多量で死んでいたとしたらどうなんでしょうね」とするどい疑問を呈します。
そうすると志村は証言できないわけでまさに「死人に口なし」になってしまう、というのもおかしな話であります。


これをうけて裁判長がまた解説します。
被告人と志村の間に実際に何が起こったのか、どう考えていたのかについては完全には解明はできない。その解明できない部分が検察側の主張、それが立脚している志村証言に疑問を抱かせるかを判断していただくことになります。

そこで皆で志村証言をおさらいしたうえで(繰り返しになるので省略)、殺意の有無を議論することに。
意見としては

・2回刺した、という点で少なくとも弱い殺意はあったのではないか。
・「外に出ろ」といってすぐに包丁を取り出したあたりからも殺意は感じられる。
・いや、酔っ払いは気が大きくなるもので、すぐに「殺してやる」とか包丁を手に持とうとする(元居酒屋経営の女性談。「喧嘩が始まると必ず包丁は隠していた」という実体験をふまえ非常に説得力ありました。)
・殺すために呼び出したのなら「何の用だ」といわれてカッとなったりはしないのでは?
・いや、かっとしてそこで殺意がわいたということもある。

などいろいろ出たのですが結局ひとつにはまとまらず、多数決をすることになりました。
結果は「殺意あり」が多数になりました。


個人的にはこのあたりの判断に迷いました。刃物で相手を刺す(切る)という行為をすることで当然に殺人があると認定されるのか(それもちょっと厳しすぎるような)、逆に相手を刺しても殺意がないと認定される場合はどのような場合か、というところは何のガイドラインもなく判断にまかされています。

アメリカのように構成要件を細分化して、たとえば刃物を持って相手に切りつけたら第○級故殺、という風に刑法に定められていれば楽なのでしょうが、殺意の有無を常識で判断しろ、と言われてもそもそも本気で人を殺そうと思ったこともなく、また刃物でどこをどう刺すなり切るなりすれば人は死ぬかという経験もない中で殺意の有無を認定しろというのはけっこう難易度が高いと思います。

逆に上に出たように被害者が死んでいた場合は、殺意を認定しやすい心理状態になってしまうのではないかとちょっと心配です。
 

(つづく)

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『かもめ食堂』

2007-12-18 | キネマ
フィンランドのヘルシンキで「かもめ食堂」を経営している主人公(小林聡美)に、妙な事情で知り合った片桐はいりともたいまさこが加わり・・・という映画

80年代・90年代まではこういう「街角の小さな食堂をめぐる人々を描いた小品」はヨーロッパ映画(その後アジア映画)が得意で日本映画ではあまり印象に残る作品なかったのですが、これはなかなかいいです。

ちょっと妙な舞台設定や登場人物の背景について過剰に説明することなく、セリフと演技でひとつの世界を作っています。

日本でこの三人がからむと、他の映画やドラマのイメージの影響が出て「濃く」なってしまいそうなので、ヘルシンキ、という設定はよかったのかもしれません。


それにしても日本を舞台にすると、肩肘張ったものか、思いっきりおちゃらけたものか、企画物になってしまうのはなぜなんでしょう。
小津安二郎の存在が逆に足かせになっている、というようなことがあるのでしょうか。







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『ラストキング・オブ・スコットランド』

2007-12-17 | キネマ

※ ネタバレ注意

自分探しにウガンダに来た学校を卒業したばかりのイギリス人医師の主人公が、偶然のきっかけからウガンダの独裁者アミン大統領の主治医になり、人間的魅力に引かれながらも、やがて独裁者の負の側面に気づき追っ手を逃れて帰国するまでを描いています(実話にもとづくらしいです)。

この作品でアミン訳のフォレスト・ウィテカーは2006年アカデミー賞主演男優賞を獲得しました。
フォレスト・ウィテカーは昔『クライング・ゲーム』でクリケットの投球のスローモーションでの回想シーン以来気になる俳優になっていました。
もっともこの映画自体はテレビの妙な時間帯に放送していたので漫然としか見ていなくて、途中で「こんな筋書きが複雑なら最初から言ってくれよ」と思った記憶が先にたっているのですが、改めてあらすじなどを調べてみるともう一度見てみようという気になる映画です。

何で黒人のフォレスト・ウィテカーがイギリス人の上流階級の子弟のスポーツである(と思っていました)クリケットを、というあたりはこちらに詳しいです(私は覚えていませんでした・・・)。
この程度の記憶しかなかったのですが、なぜか彼の誠実さと不器用さと世の中との間に薄皮一枚の距離感(違和感)を持ったような存在感は印象に残っていました。
wikipediaを見るとそれ以前に『プラトーン』や『グッドモーニング, ベトナム』にも出演していたようですが、そちらはあまり印象にありませんでした。最近の『パニック・ルーム』や『フォーン・ブース』への出演は覚えてますが。 )

そんなフォレスト・ウィテカーが独裁者アミン大統領を熱演しています。
政治家としての魅力、素直さと複雑さを併せ持った人間としての魅力、そして独裁者としての自信と怖れを凶暴さという形にしていくところを見事に表現しています。

当初アミンはイギリス政府の後押しで政権を取ったものの、やがてその独裁政治が問題になるにつれイギリス政府も彼を非難し始めます。
この辺はイラクのサダム・フセインに対するアメリカと同じですね。
イギリスの「独立工作」は歴史が古く、アラビアのロレンスなんかもそうです。
話は飛びますが坂井啓子『イラクとアメリカ』(岩波新書)によると。

そのイラク地域が「イラク」というひとつの国として成立したのは、第一次世界大戦でイギリスが湾岸から進軍して次々に陥落させていった地域をまとめた結果にすぎない。有名な「アラビアのロレンス」(本名T.E.ロレンス)のいた英外務省アラブ局がヨルダンのアカバからダマスカスにイギリス支配の先兵を進めて行ったのに対して、イラク地域には当時オマーンや休戦海岸(現在のUAE)などの湾岸首長勢力を支配していた英インド政庁の湾岸政策が大きく影響していた。

と、他所の国まで行ってお役所間の縄張り争いをしていたのですから相当なものです。


今回の主人公は「アラビアのロレンス」のようなイギリスの外務省職員ではなく言ってみれば単なる「とっぽい若者」 で、イギリスの外交官を馬鹿にした挙句に最後に助けを求めても

「アミンの白いサル」、それも手が血で汚れたサルに差し伸べる手はない

と突き放されてしまいます。

そしてアミンからも

おまえはウガンダに何ももたらしていない。「僕は白人、君は黒人」ごっこをやりに来ただけじゃないか。

といわれてしまいます。
気の毒ではあるのですが、冷静に考えるとそのとおりではあります。

主人公はPFLPのハイジャック犯がウガンダのエンテベ空港に着陸した際に、開放されたイスラエル人以外の乗客用の飛行機に紛れ込んで国外に脱出するのですが、その脱出を自らを犠牲にして手引きしたウガンダ人医師は

君はウガンダの実情を世界に伝えてくれ。世界はそれを聞く。なぜなら君は白人だから。

と言います。

結局とっぽくてもなんでも1970年代は白人であることが大きな意味を持った時代だということですね。

逆にいえば「独裁者アミン」や「後ろで操るイギリス」というようにわかりやすい「悪者」を作らずにこの若者医師を主人公にしたことで、映画としてのリアリティを獲得できたのかもしれません。







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