一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

入試問題漏洩騒動

2011-02-28 | よしなしごと

大学入試の「Yahoo知恵袋」投稿問題、気になったのは犯罪報道同様に手口と犯人の正体にばかり関心が集まりすぎなところ。


今回は犯人が答えをインターネットで広く募りカンニングを「公開」したことで話題になったのですが、逆にこの手段を使うということは、今回のカンニングが多数の受験生を巻き込んだ組織的なものとも思えません。
犯人は問題を「Yahoo知恵袋」にのせる以上、カンニングがすぐに発覚することは承知していたはずだし、そうであれば同じ回答を書く複数の受験生がいたらすぐにばれてしまうので(特に英文和訳など)。

要するに「上手くやって逃げおおせそうな奴」がいるのがわかっただけで、まあたいしたことじゃないとも言えます(過去にもカンニングがばれなかった奴はいると思います。)。
現時点では入試問題の漏洩の可能性をアピールして入試の信頼性を揺るがそうという悪質な愉快犯だというような証拠もありません。
なので、記者会見でどこかの大学の人が言っていたような「受験制度の根幹を揺るがす暴挙」では決してないように思えます。


しかし大学はこれを偽計業務妨害として告訴するようです。

普通であれば「カンニングした受験生を捕まえてください」などと警察に言っても相手にされないでしょう。たとえばDVやストーカー被害・幼児虐待への通報が警察で取り上げられないというのはよくあります。それに京都大学の長い歴史のなかで一度もカンニングがなかったということはないでしょうし、カンニングをした受験生を刑事告訴したことはなかったわけですから。
かといって大学がYahooにipアドレスを教えろと言っても、個人情報保護法を理由に断られるのは目に見えています。

今回はマスコミがこぞって取り上げたので警察も「事件の社会的重要性」から捜査に着手することを正当化しやすい状況にあるのでしょうが、逆に言えば大学側は「犯人探しにはYahooにipアドレス情報を提供する必要があって、それには警察を経由する必要がある」という便法をとったと考えられます。

ただ、犯人はつかまるかもしれませんが、警察は事後的に犯罪を摘発するしかできないので、捕まえれば入試の公正が保てるとも思えません。
それに大学が「カンニングしたら警察につかまるぞ」ということで抑止をはかるというのは、僕の子供のころの「悪いことをするとおまわりさんが来るよ」みたいでちょっとみっともないです。
それに、便法として警察を使うというのが大学としていいのか、という点もあります。


ipアドレス情報の提供と個人情報保護の問題とか、警察の事件としての取り上げる基準とか、他の社会事象でも同様の論点をもう少し掘り下げてみると報道としても広がりが出ると思うのですが。
それとも京大法学部の学部の試験問題にするとか。


一番大事なのは、犯人を捕まえるより以上に同種の行為をできなくする再発防止です。
当然ながらそれは大学も承知していて、試験会場への携帯電話の持ち込み禁止が検討されているようです。
ただ、現実には預かった携帯をどこに保管するか、こっそり持ち込もうとした受験生を韓国のように金属探知機でチェックするのかなどすぐに実現するにはけっこうハードルが高そうです。

それなら試験会場に妨害電波を流して「圏外」にしてしまえば手っ取り早いと思うのですが、それって電波法に引っかかるのだろうかと思ってググッたら早速ありました。

  携帯電話妨害装置と電波法(教えてgoo)

やっぱり便利だわw
Wikipediaのほうがより詳しいですけど)



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「客寄せパンダ」はまだ死語ではないか

2011-02-21 | よしなしごと

上野動物園へのパンダレンタルが盛り上がっています。
低迷する入場者数に歯止めをかけ、反転攻勢を目指すための目玉としたいようです。

しかし、上野動物園の入園者数の記録を見ると

2003年度 - 3,162,015人
2004年度 - 3,202,775人
2005年度 - 3,385,013人
2006年度 - 3,649,769人
2007年度 - 3,494,870人
2008年度 - 2,898,191人←4月にリンリンが死亡
2009年度 - 3,028,386人

と、実はパンダの有無にかかわらず入場者は長期低落傾向にあります。
逆に2008年はリーマンショックもあったので、2009年度にはパンダがいなくても若干ではありますが回復しています。

ちなみに最近大人気の旭山動物園の入園者数を見ても、

2003年度 - 823,896人
2004年度 - 1,449,474人
   ↑
 あざらし館が完成。
 特徴的な水槽が行動展示の代表として多くのメディアに取り上げられる。
2005年度 - 2,067,684人
2006年度 - 3,040,650人
2007年度 - 3,072,305人
2008年度 - 2,769,210人
2009年度 - 2,463,274人

とやはり2008年度は落ち込んでいて、2009年度はさらに減少しています。


これだけから結論を出すのは早計かもしれませんが、上野動物園はパンダなしでも結構がんばっていたともいえるし、旭山動物園といえども人気を維持し続けるのは難しいとも言えそうです。

そう考えると、年間約8000万円(ちなみに通貨は何立てなのでしょうか?)でレンタルするというのは、上野動物園としては背水の陣を敷いたわけで、中期的にはパンダ人気の上にあぐらをかかずに、さらに他の展示の魅力をアップすることが求められます。

特に最近の日本の観光業は、海外からのインバウンド需要の取り込みが課題になっているので、中国から来る人にも「日本の動物園」としての魅力をアピールできるようなものが今後は必要になるのではないでしょうか。

ちなみに日本パンダ保護協会の「パンダの基礎知識」によれば、さすがに中国の主要都市の動物園にはパンダはいるようですが、2頭以上いるところは意外と少ないので、実は中国人にも受けたりして・・・

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リストラ予算案

2011-02-20 | まつりごと

「リストラは業績好調のときにこそすべき」という名言を、NHKの日曜討論会を見ながら思い出しました。

不採算事業を整理したり新規分野に進出するにも資金が必要なので、好業績で余裕のあるうちのほうが事業の再編をやりやすい、というわけです。

大概の会社は好業績のときはボーナスを奮発したり、「余剰資金」を自社株買いにあてROEを上げたりと、好業績を謳歌してしまいます。

しかし業績悪化局面になってからリストラをしようとしても、不採算事業からの撤退には部門の閉鎖や人員整理には巨額の費用がかかり、また新事業分野への進出にも初期投資が必要でしかも「一発必中」で成功するとは限らないので、悪化した財務体質下で資金需要がふくらむというジレンマに陥ってしまう、だからリストラは好業績のときにそれに浮かれずに先を見て行なえ、ということです。


このジレンマに陥ってしまっている典型が今の日本の財政なわけです。

民主党の予算編成の理屈は
①マニフェストを実現するために支出が必要
②景気を刺激するためには財政支出が必要
③景気が悪いので税収が減っている。
④しかも景気を刺激するために法人税減税も必要
⑤歳入が減る割りに歳出が増えるから国債発行が必要
(⑥事業仕分けなど財出削減の努力は続けるけど限界はある)
(⑦だから将来的には消費税増税が必要)

撤退・事業縮小(=歳出削減)よりは、新規事業(=景気拡大して中期的には歳入を増やす)を優先しよう、というわけです。
企業だとしたら、業績回復のために負債比率を上げてで起死回生の勝負に出る、というところでしょう。


景気刺激のためには何が正解かを論じるだけの知見はないのですが、企業の業績回復と考えると

① 総花的な施策はとらない。
② 「不退転」にこだわらずうまくいかないことがわかったらとっとと方針転換する。

というあたりがポイントではないかと思います。
具体的には
・ 徹底した歳出削減か景気刺激のために財政出動するのかの大方針のメリハリをつける。
・ 大方針と矛盾した「個別の配慮」は行なわない
(やるとしても総枠を設定してその範囲内で優先順位をつける)
・ 目的と手段の整合性をつける
(法人税減税と租税特別措置法の関係とか年金財源とか八ツ場ダムや諫早水門とか)
・ リストラはやるとなったら一気にやる。そのために費用を惜しまない。
(特殊法人改革とか公務員制度改革とか)
・ 新規事業は総論の議論でなく各論の収支計算を前提に仮説・検証をしながら進める(TTPはそもそも最近のアイデアで道具としてどう使うかを議論すべきなのに「平成の開国」と振りかぶるからおかしくなる。農業の議論も「空中戦」になっている)

てなところでしょうか。


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SNS・ビラ・新聞

2011-02-15 | よしなしごと

今朝の朝日新聞の記事
「これは革命だ」エジプト、デモ計画した30歳の18日

・・・友人らと3年前、賃上げや民主化などを訴える「4月6日運動」を立ち上げた。インターネットの交流サイト・フェイスブックなどで呼びかけ、デモを始めた。だが、デモをしても警官の方が参加者よりも多かった。  

1月25日のデモも「二、三千人くればいい」と思っていた。フェイスブック上の別のグループも、この日のデモを呼びかけていた。  

そこに同14日、チュニジアでベンアリ政権が倒れた。デモ呼びかけへの賛同者が突如として増え始め、7万人を超えた。ネットの威力に、改めて驚いた。  

ここまでは今回よく言われている「Facebook革命」風なのですが、ネットだけで革命ができたとするのはちょっと過大評価のようです。  

マヘルさんらはタハリール広場に近い事務所に戻り、26日、27日とデモを続けながら、次の手を打った。イスラム教金曜礼拝がある28日の大規模デモの呼びかけだ。政権側は携帯電話とインターネットを遮断したが、メンバーが各地に走り、デモのことを知らせた。  

午後1時すぎ、金曜礼拝を終えた人々が、各方面からタハリール広場に向かった。「ガラベーヤ」という伝統的な服を着た貧しい農民や労働者、ジーンズ姿の若い女性、家族連れ。その多くは、これまでのデモで見かけたことのない顔ぶれだった。  

マヘルさんは腹をくくった。「チュニジアを見て、人々の勇気に火がついた。これはもはや抗議活動じゃない。革命だ。この流れは、だれにも止められない」

これはWSJのこの記事とも平仄が合います(下線は私)
The Secret Rally That Sparked an Uprising  

The plotters say they knew that the demonstrations' success would depend on the participation of ordinary Egyptians in working-class districts like this one, where the Internet and Facebook aren't as widely used. They distributed fliers around the city in the days leading up to the demonstration, concentrating efforts on Bulaq al-Dakrour.  

ネットにつながっているようなインテリ・エリート階層でない多数の市民が加わったことが政権打倒につながったわけで、携帯電話とインターネットを遮断しなければ「メンバーが各地に走り、デモのことを知らせた。」ということにならなかったのではないかとふと夢想したり。

"ordinary Egyptians in working-class"の参加がなければ「革命」には至らなかったわけですね。  

これは、日本の安保闘争・学園紛争は「学生運動」にとどまってしまっていたことが限界だったことを想起させます。
実際僕自身の子供のころの印象では、当時の学生より二世代近く上で低学歴の両親はそもそも主張の内容が良くわかっていなかったみたいだったし、たまに巡回で家に来る近所の交番の若い警官(昔はそういうのをやっていたんだよね)が家に上がってお茶を飲みながらの「好き勝手やってる大学生vs警備に借り出される高卒警察官」視点の話をしているのを聞くと、なんとなくそっちの方が気の毒な感じになったものです。  


一方でネットに押され気味の新聞の既存メディアは、自らの図体が大きく守るものが多いのか、「革命」という局面でも力を発揮できないようです。
同じ朝日新聞
エジプト政府系メディア、手のひら返す 革命称賛の報道  

約30年にわたって強権支配を続けたムバラク政権が倒れたことで、政権べったりの報道を続けてきたエジプトの政府系「御用」メディアが、手のひらを返したように一斉に民主化を求める市民の動きを伝え始めた。  

戦時中の報道を省みると(政府系ではなかったはずの)朝日新聞が言えた義理ではないと思うんですけどねぇ・・・  


豊かで平和で不満はあっても革命が起きるほどではない今の日本あたりが、既存のマスコミがそのままで生き残るには最適なのでしょうか(それじゃ全部が茹で蛙だが・・・)

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『公共事業が日本を救う』

2011-02-13 | 乱読日記
「道路不要論」に対する反論の書。

民主党政権のキャッチフレーズのひとつに「コンクリートから人へ」というのがあるが、日本のインフラは現状で十分だというのは統計のまやかしであり、実際は違うということを、主に道路を中心に説いています。

以前川崎に住んでいたときに、国道1号線で多摩川大橋を渡ると、いきなり最初の信号で3車線の一番右側がそのまま右折専用レーンになってしまい(右折専用レーンがない)、東京と神奈川のインフラの違いを実感していました。
この右折レーン問題はゴルフなどで千葉や埼玉に行くたびに、交通渋滞の現況なのではないかと感じます。

また、橋などの構築物の更新(首都高速って50年になるけど大丈夫なんだろうか)や船舶の大型化に伴う港の競争力強化など「既にあるからいい」というわけでもないというのもわかります。


そして本書の後半は、デフレ脱却にこそ公共工事が必要という景気対策の話になりますが、ちょっとここは贔屓の引き倒しの感じがあります。
「不景気のときこそ国債を発行して公共事業を」というのは景気対策の一つとしてはあると思うのですが、橋やダムなどについて論じている部分での災害対策や更新投資も含めた長期的な計画が必要、という議論からはちょっと飛躍があります。
(景気対策ならば、「広く浅く」でなく一気に新しいインフラを整備するようなものがいいような)

新書版+問題提起ということなので「道路不要論」への反論に絞っているのも仕方ないとは思いますが、ではなぜ道路整備が進まないのか(土地収用の問題とか)、都市圏の渋滞解消と地方のアクセス向上のどちらを優先するのか、縦割り行政と都市計画の問題など現状の公共事業の課題にも触れてもらえると公平だったのではないかと思います。


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『息もできない』

2011-02-12 | キネマ
公式サイトの説明を借りると、こんな感じ

「家族」という逃れられないしがらみの中で生きてきた二人。父への怒りと憎しみを抱いて社会の底辺で生きる男サンフンと、傷ついた心をかくした勝気な女子高生ヨニ。


ストーリーを文章にしてしまうと意外と平板になってしまうのですが、ディテイルの描き方が徹底していて、画面からの圧力を感じる映画です。
音楽が流れず、効果音も最小限で、手持ちカメラで登場人物を大写しにしながら会話と表情で押してきます。


登場人物はそれぞれ、彼/彼女なりの愛情や善意を持っているんだけどそれがいつも相手に届く一歩手前。そんな行き場のない感情の矢がいろんな方向に飛び交って見るものを切なくさせます。

普段僕らが切り捨ててる、または切り捨てようとしている意識の部分を表に出して見せられるので、筋書きを追う(途中でフラグが立っていて先は予想できます)だけでなく、自分がそれぞれの立場にいたらどうすると考えながら見ると、問いかけてくるものの多い映画です。








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FCレジの時間差攻撃

2011-02-10 | M&A

成り行き上フォローしているFCレジデンシャル投資法人ですが、動きがあったようです。
それもちょっと怪しげ・・・
(過去のエントリーはこちらこちら参照)

まずは投資法人のリリース
投資主総会の招集請求書受領後の一連の経緯と今後の方針について(2011年2月8日)

12月の解散請求から今まで何をしていたかというと  

本投資法人は、解散を目的事項とする投資主総会の招集を決定するに当たり、本請求書に記載されている投資主総会の招集の請求理由である本投資法人の解散および本投資法人の保有する全資産の売却手続が安定的に行われるかどうかの検証作業を行ってまいりました。具体的には、本請求書記載の資産購入希望者(以下「本希望者」といいます。)が行うデュー・ディリジェンスに協力し、その結果、本希望者より平成23 年1 月 21 日付で一定の条件の下で本投資法人の保有する全資産の購入を希望する旨の申し出を受けましたので、当該申し出で提示された条件および売買価格の妥当性につき、法令及び資産運用委託契約に基づいてどのように取り扱うべきかを検討したうえ、資産運用会社に対し検討を依頼し、その検討結果を待っている状況でございました。

つまり、解散請求したSJも、既に買い手候補を見つけてきていて(まあ、そうでなければ解散しても叩き売りになってしまいますから)そこに価格提示をさせていた、ということですね。
その価格が資産評価額より安ければ解散して売るのは得策でない、という理屈でしょう。

 一方で かかる状況下、本投資法人はともに平成23 年2 月7 日付にて解散を目的とした議案に反対する意向表明書(以下「本意向表明書」といいます。)を下記投資主(以下「反対投資主」と総称します。)より下記内容を骨子として受領いたしました。

(1) Ichigo Asset Management International, Pte. Ltd.の意向表明書
・ 投資口保有比率:Ichigo Asset Management International, Pte. Ltd は、本投資法人の発行済投資口総数の約33.24%を保有している(平成23 年2 月8 日付で33.24%を保有している旨の大量保有報告書が同社より提出されております。)。
・ 表明された意向の概要:本投資法人の解散を目的とする議案には不同意とすることを決定し、解散を目的とした投資主総会の開催を決定しないように依頼する。
・ 反対の理由:投資主の皆様のための価値向上の最良の方策は、今後も継続法人として投資主価値の最大化を図ることである。

いちごはもともとスポンサーのファンクリと提携関係にあるのですから、裏切らずにサポートすることにしたのでしょう。
投資口も従来29.41%だったものを3.8%買い増しています。

(2) JPE Capital Management LTd.の意向表明書
・ 投資口保有比率:JPE Capital Management LTd.は、本投資法人の投資口保有比率について言及していない。(ただし、平成22 年10 月31 日の最終の投資主名簿において同社は実質的に本投資法人の発行済投資口総数の8.08%を保有している。)
・ 表明された意向の概要:本投資法人の解散を議案とする投資主総会が開催された場合、かかる議案の採決につき否決することを決定した。よって投資法人の執行役員においては、かかる議案を目的とした投資主総会の開催を決定しないように依頼する。
・ 反対の理由:特に記載なし。  

こちらはファンクリが説得したのでしょうか。  
その結果

・・・エスジェイ・セキュリティーズ・エルエルシーによる解散を目的事項とする投資主総会の招集請求に対して、発行済投資口の保有割合で合計3 分の1 を超えると思われる投資主より解散に反対する旨の意向表明を受領しており、よって解散を目的とする決議が成立しない蓋然性が高い状況になりました。
また、反対投資主により本投資法人に対し投資主総会の招集を決定しないよう要請があり、本投資法人が投資主総会の開催を決定することは投資主総会の開催費用の費用負担を生じさせ、かえって投資主の皆さまの利益を害する結果になるのではと懸念しております。
したがいまして、本投資法人としましては反対投資主の本投資法人の投資口の保有比率等を早急に確認の上、また、本希望者により提示された条件および売買価格の妥当性に関する資産運用会社の検討結果を受け、速やかに結論を出す所存でおります。  

要するに、解散決議の否決に必要な1/3は確保したので総会を開いても無駄になるので解散の総会招集請求には応じないぞ、と匂わせています。  

ファンクリが時間稼ぎしながらがんばった、というように読めます。


ところでいちごの大量保有報告書(発行者コードE14150で検索してみてください)を見てみると、2月2日に3.82%を市場外で@300,000円で取得した、としています。
2月2日の終値が@245,600円ですから34%ものプレミアムがついています。

では誰から買ったのかですが、そもそも3.82%以上持っている投資主はいちごとSJを入れても5人しかいません。うち4人は5%超持っているので、他の4人が売った場合は大量保有報告の提出義務があります。
2月2日の取引だと大量保有報告書の提出期限は2月9日なので翌日チェックしたところ、JPEが3.82%売却していたという報告書が提出されました。  

要するにJPEに対して「寸止めプレミアム」を払って投資口を取得した、という構図ですね。

でも、

① いちごの大量保有報告
② FCレジのリリース
③ JPEの大量保有報告

というリリースの順番は、示し合わせた感じがします。

特に

JPE Capital Management LTd.は、本投資法人の投資口保有比率について言及していない。(ただし、平成22 年10 月31 日の最終の投資主名簿において同社は実質的に本投資法人の発行済投資口総数の8.08%を保有している。)

という部分はカマトト風です。  

JPEの大量保有報告を遅らせたのは(もしそこに意図があるとすれば)なぜかと考えてみると、 「いちごがJPEから高値で投資口を1/3ギリギリまで買いました。JPEも解散には反対です」というと、JPEといちごの親密さが目立ってしまい、「議決権を共同で行使する合意が成立しており、TOB規制違反ではないか」という疑いを避けたのではないかと思われます。
でも、@300,000円という価格は「高く買うからついでに反対してよ」というやり取りを想像させますね。

また、そもそもいちごは投資ファンドなのでFCレジが解散しようが高値で売り抜けられれば問題ないはずです。
にもかかわらず今回SJの解散請求を時価より34%高の@300,000円で買い増してまで阻止しようとしたのは、いちごがSJの連れてきた「資産購入希望者」の購入希望価格が低いと知っていたからではないか、という疑念が生じます。

そうすると、3.82%の取引はインサイダー取引にならないのでしょうか?

バスケット条項に該当するかどうかというところなのでいろんな見方があると思いますが、解散請求時における投売り価格の提案というのは重要事実になるようにも思えます。
特に今回の手続きで解散請求まで進めた場合、デューデリをしている「資産購入希望者」は実質的にはアドバンテージがあるわけなので。


そんなこんなでFCレジの反撃は時間差攻撃にで始まったようですが、タッチネットやトラベリングにならないのか生温かく見守ろうと思います。

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『ソーシャル・ネットワーク』

2011-02-08 | キネマ

(ネタバレ注意)






Facebook起業の内幕映画としてだけでなく、エリート大学生の青春映画でもあります。


起業が爆発的な成功をおさめるには、タイミングとスピードとそのときに必要な能力を持った人間がきっちりそろうことが必要で、逆にそれらがそろうことがいかに稀なものかが。

あとから振り返ってみれば、最初の1000ドルとその後の活動資金を出した友人のエドゥアルドがいなければ何も始まらなかっただろうし、ナップスターの創業者ショーン・パーカーの口八丁がなければ急拡大もなかったわけですが、結果的に企業が大きくなればなるほど、最後まで乗り損ねたり切り捨てられた人たちとの軋轢も増えることになります。

2つの訴訟の証人尋問のシーンが過去とフラッシュバックしながら描かれますが、「そこまでやる必要があったのか」と「そうしなかったら今があったか」(=訴訟になるほどの成功を収めたか)、どうするのが正解だったのかを考えさせられます。


映画のもう一つの見所が主人公であるFacebook創業者のザッカーバーグの性格の描かれ方。
特に冒頭のガールフレンドとの会話のシーンが秀逸。

頭の回転の速さとプライドとエリート意識とコンプレックスと上昇志向と強迫観念のないまぜになった相手の話を聞かずに何かにせかされるように早口でまくし立てる主人公と、戸惑いながらも会話を成立させようとする(途中で"F*ck"といいかけてFだけで飲み込むあたりとかに育ちのよさが見えます)「アメリカの普通の優秀な大学生」の典型のようなガールフレンドが喧嘩別れに至るまでの長回しで主人公の性格を一気に浮き彫りにします。

米国の大学教員をやっている友人の話によると、イェールやハーバードに入るには、高校まで(極端な話小学校から)オールAでなおかつクラブ活動やボランティアにも取り組む「完全無欠」な生徒なうえに何か一つ突出している必要があるそうで、したがってそういうトップクラスの大学を目指す連中は高校でも成績にむちゃくちゃこだわるそうです。
(その点入試一発勝負の日本の方が楽だとか。)
また、入ったら入ったでエスタブリッシュメントの子女を中心にした学生クラブとか運動部のヒエラルキーや競争もなかなか激しいそうです。

プログラミングの才能はあるものの、家柄がいいわけでもスポーツ万能なわけでもイケメンなわけでもない単なるコンピューターオタクだった主人公の自己アピール・自己実現の方法としてみるとfacebookを起業するのは自然だったのかもしれません。

映画はある意味公平に、最初にfacebookのアイデアを持ちかけたとして主人公を訴えたエリート一族でボート部の花形選手の双子のエリート臭や、共同創業者でこれも主人公を訴えたエドゥアルドの「普通」で殻を破れないところ(ハーバードのクラブへの入会を目指したりFacebookインターンシップに行こうとしたり)なども描いています。



登場人物や物事の展開のいろんなところに感情移入しながら楽しむことができました。


PS
ところで、2つの訴訟はいずれも守秘義務条項つきで和解になったと映画の最後にも触れていましたが、そうなると映画が事実に反すると名誉毀損などで訴えようとしても守秘義務に制約されるので映画側は漁夫の利を得ている面があるのでしょうか。

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ゆるいと困るもの

2011-02-07 | よしなしごと

ひこにゃん以降町おこしにゆるキャラが流行だが、茨城県のは




ハッスルこうもん

最初テレビで音だけ聞いたときに、一瞬どきっとしたのだが、
(お試しあれ)









実物はこれ



ハッスル黄門


手にバラ持ってるし・・・



公式サイトによると、バラは県の花なんだとか。

狙っているように思うのは俺だけだろうか・・・?



閑話休題



黄門様といえば、超長寿番組になったドラマの「水戸黄門」。


毎回冒頭に悪代官の圧制に苦しむ庶民や商家が出てきて、見るに見かねた助さんや格さんがご老公に登場願おうとすると、大抵ご老公は 「しばらく様子を見ましょう」と言う。
ところがそうしているうちに犠牲者が出てしまい、もはや見過ごせないとなったご老公が印籠を出して一件落着、というのが定番のパターン。


でも、よく考えてみると、悪代官は徳川幕府の行政機構の一員なわけで、「先の副将軍」としてはそもそも一定の管理監督責任があるはず(各藩の治下にあるとしても「先の副将軍」のご威光があるわけで)。
悪代官を懲らしめて庶民に感謝されて呵呵大笑している場合ではない。


どうもわれわれは「悪人退治」にカタルシスを感じるところがあって、他のことを忘れてしまう癖があるようだ。

たとえば今回の郵便不正事件の関する検察不正でも、村木元局長は刑事被告人としては無実の罪に問われたのは気の毒だが、部下の係長は不正を行なったことについての行政官としての管理責任は問われず「悲劇のヒロイン」として復職している。これが実行した係長(だけ)が逮捕されていれば上司も戒告なり減給なりの懲戒を受けるのが普通なのではないでしょうか。

さらにご老公の「しばらく様子を見ましょう」についても、現在であれば、被害の発生が予見される状況で回避する措置を取らなかったことについて、少なくとも印籠が効果がある=結果を回避する権限はあったわけで、JR西日本の福知山線の事故で元社長同様業務上過失責任が問われる可能性はあるのではないか。

いやいや「元」の副将軍なんだから職務上の義務はないという反論もあるかもしれない。
一線を退いた「大御所」が世のために働くというのも日本人ウケするのかもしれないが、時には武力行使をする連中を従えて「ご隠居」もないもんだと思うのだが。
それに、「相談役」や「名誉会長」の発言権が強い企業(富士通とか)はあまり健全とは思えないし。


いずれにせよ、コーモン様があまりユルいといいことはないように思う。


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酒飲み話

2011-02-05 | よしなしごと

週末友人たちと飲み。
違う畑の人間が集まったこともあり盛り上がって遅くまで飲んだあげくに風邪を引いてしまい、家で休んでいるという間抜けな状態なのですが、いくつか面白かった話をメモ。

まあ、言いっぱなしの話ですし、僕も根拠を調べてはいないのと多少の脚色があるのでその前提で。



経団連が法人税減税を要望して実現したが、会長会社の住友化学の法人税負担率が17%(参照)というのはちょっと説得力に欠けた。設備投資や研究開発費の優遇措置等が理由だろう。逆にたとえば海運会社のように船は韓国に発注し船籍はリベリア、船員はフィリピン人とさんざんコストをしぼって稼いだものを本社が日本にあるからとごそっと持って行かれるというところは納得感はない。租税特別措置法が誘導しようとする産業政策(国内への投資優遇といういみがあるかもしれないが)と競争力のある日本企業の姿が時代に合っていないのではないか。

パナソニックと三洋のときのように中国の独禁法で待ったがかかったが、新日鉄と住金の経営統合は双方とも中国での直接のシェアは低いので大丈夫だろう。というかむしろそこが問題で今回の統合も国際競争力を復活しようという目的ではないか。公取に事前相談なしだったが公取も国内シェアだけを基準に考えている場合ではないのではないか。

予算関連法案が参議院で否決されそうだが、自民党・公明党も単純な日切れ法案は通す腹ではないか。公債特例法案は時間がかかるかもしれないが、資金繰り的には(国債の償還時期など?)7月頃までは新発債を発行しなくてもどうにかなるようだ。

で、地方債は大丈夫なのか、というと、基本的には資本的投資のために発行する(建設国債的)し一定の財政の健全性が要件とされている(*)からデフォルトを起こすことはまずない。経常収支の赤字については地方交付税交付金が当てられている。ただ税収不足の分は国債でまかなっているのでそれは別の意味で問題ではあるが。

鳩山元総理は表現力の問題はあったが理解力はあったが、菅総理は自分の気持ちのいい(格好つけられる)話を聞きたがって人の話を理解しようとしない。仙石前官房長官は旧社会党だが意外と官僚と総理の調整役になっていたらしいが今は・・・

弁護士増でレベルの低下は確かにあるが事務所の教育体制も一因ではないか。200人以上の事務所はそれなりのトレーニングをつめるが逆に専門が細分化し、サラリーマン化している。一方で30人くらいまでのところは教育に手が回らないところも多く個人の資質によっていて、できの悪いアソと仕事をしないパートナーを押し付けあっているうちにできる奴が独立したりするので50人~100人規模の事務所というのは意外と少ない。


あとは忘れた。


* 付記

片山義博現総務大臣の、昨年9月10日(大臣就任7日前という微妙なタイミング)の学士会夕食会の講演で、「わが国には第三者に断らなければお金を借りられない属性を持ったグループが3つある」として①未成年者②認知症などで成年後見下にある人③自治体と地方自治体の自主的裁量がない例としてあげています。

この講演録(学士会報No.886)はタイミング的にも興味深いものがあります。ちなみにここで今後の地方自治改革のポイントとして片山氏は次の三つをあげています

① 住民自治の側面から見た議会改革
  (現在の自治体の議会の機能不全に対する指摘は痛烈です)
② 住民の政治参画機会を増やす
③ 国からの自治体に対する護送船団的関与の廃止

第二次菅内閣は前途多難ですが、がんばってほしいものです。

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「知性の二つのかたち」(ハイエクつづき)

2011-02-02 | 乱読日記

ハイエクのつづき。
同じ「哲学論集」に「知性の二つのかたち」という論文(エッセイ)があります。

これは、学者のタイプを2つに分けるところから始まります。

ひとつは「学科の達人」タイプ。
これは、読んだり利いたりした特定のことを長い間記憶にとどめておくことのできるタイプの知性の持ち主で、専門分野についてのすべての理論と重要な事実をいつでも利用して問いに答えることのできることで「他の多くの科学者は、これが学者のめざすべき基準だと感じており、しばしば、そこに到達できないことで無力感に苛まされている。」

もう一つがこういう能力に欠けている「混乱した人(puzzler)」。
ハイエクは自らをこちらのタイプに分類します。

私がこういった有能な学者仲間に激しい劣等感を募らせずに済んだのは、なんであれ論じるに値する新しいアイディアをいくつかでももてたのが、・・・有能な専門家であれば精通しているはずのことをしばしば覚えていられないおかげであると、知っていたからである。 

彼らの絶え間ない困苦は、ごく例外的には斬新な洞察によって報われるとはいえ、他の人であれば既存の言語化された公式や論証をつかって順調かつ迅速に結論へ進むのに彼らはそれを上手くつかえない、という事情から生じている。しかし、一般に認められたアイデアを表現する自分なりの方法を見つけざるをえないことで、彼らは時折、従来の公式が隠していた欠陥や正当化されない暗黙の前提を派遣してしまう。だから、明示的になっていない不当な前提についてのもっともらしいけれども明確性を書いた言い回しによって、長きにわたり効果的に回避されてきた問いについて、彼らは明示的に答えざるをえなくなるのである。

そしてハイエクは大学の選抜試験についてこういうアイデアを披瀝します。

知識の成長に資する二つの知性のかたちが本当にあるならば、大学への入学者を選抜する現行の体制(注:この論文は1978年のもの)は、偉大な貢献をしうる人を排除しているのかもしれない。  ・・・私は、一定の試験に合格することで大学教育への正当な資格を得る人の数をさらに増やすべきかどうかについてかなり疑問を抱いている。他方、科学的知識を獲得する欲求の強さが決定的な重みを持つような別の方法があるべきだと強く感じている。

ここに至ると「詰め込み教育反対」「個性を伸ばせ」「AO入試万歳」という風につながりそうですが、学問に対して誠実なハイエク先生はそこまで甘くはありません。

その道は「自ら犠牲を払うことによってこの権利を獲得する」ことで正当化されるといいます。  私が思いえがいているのは、この道を選んだ人には住むところとか質素な食事とか十分な書籍を手に入れる権利など、どうしても必要なものは与えられるが、それ以外では非常に限られた予算で生活することを約束しなければならない、そういった体制である。若者であれば普通に得る喜びのいくつかを数年間あきらめる準備ができていることは、学校でのさまざまな学科試験の合格以上に、個人が高等教育から利益を得る見込みを示す優れた指標であるように思われる。  

もちろんそういったシステムであっても、入学後には、自ら選んだ領域での能力をなんらかのかたちで証明することや、勉学の過程でその進捗を繰り返し明らかにすることが求められるだろう。  

本来AO入試はこういうものであるべきで、AO入試「いい学生集まらぬ」 廃止・縮小の大学相次ぐなどというのは、そもそも大学の「アドミッション・ポリシー」がしっかりしていないことの方に原因があるように思います。

そして彼らは、受験秀才たちが、すべての知性がお決まりのわだちのうちで動きまわっているような聖なる公式群の支配を確立するのに対抗する安全装置となるであろう。  

実は「アドミッション・ポリシーがしっかりしていない」というのは企業の採用面接にもいえて、結局入社してから「鍛え上げる」からいいんだ、となりがちです。 
しかし企業においてこそ、「学科の達人」-別のところでは「置かれた状況で支配的な見解やその時代の知の流行にとりわけ影響を受けやすい」といわれています-だけでなく「安全装置」になりうる多様な人材を育てることが重要なわけで、それを研修や日常の意思決定や人事考課の中でどれだけ実現できているかというと甚だ心もとないなかで、大学の悪口を言っているばかりではないなと反省。

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ハイエク「見せかけの知」(ハイエク全集2期 4 『哲学論集』)

2011-02-01 | 乱読日記

この前とり上げた『不連続変化の時代-想定外危機への適応戦略』で1974年にハイエクがノーベル経済学賞を受賞した際の受賞講演の一節が引用されていました。   

現在の経済学者は、急加速しつつあるインフレーションの世界から自由世界を救出することを求められている。だが、そのインフレーションは、多くの経済学者が支持し、推しすすめてきた政策によって作り出されたものだ。そのことを考えると、内心忸怩たるものがある。経済学者は混乱の張本人なのだ。  

講演"The Pretence of Knowledge "の全文はこちらhttp://nobelprize.org/nobel_prizes/economics/laureates/1974/hayek-lecture.html
邦訳は「見せかけの知」は『ハイエク全集第2期4 哲学論集』に収録されています。
10ページ足らずに4410円も出すのは気が引けたので図書館で借りてきました。(借りてみると、しおりも中に折り込まれたままなので、おそらく僕が最初に借りたよう。何かいいことをした感じ。)

この講演はなかなか面白いです。

ハイエクは講演冒頭から飛ばします。 (上で引用されているのもこの冒頭部分) 

本講演が特別な場であることと、経済学者たちが今日直面している主要な実践的問題とによって、この講演で何を話すかはほぼ必然的に決まりました。一方で、比較的最近、ノーベル経済学賞が創設されたことは、経済学が一般公衆の意見のなかで自然科学の備える尊厳と権威のいくばくかを分け与えられることになった道のりのなかで、重大な一歩を示すものであります。他方で、大多数の経済学者が推奨し政府にたいして強く迫りさえした数々の政策が引きおこしたと認めざるをえない、急速に加速するインフレという深刻な脅威から自由世界をいかに救いだすべきか、経済学者は今まさに発言を求められています。われわれは事実、現時点においては誇りを持つ根拠がほとんどありません。というのも、われわれ経済学者は、職業集団として、大失敗をやらかしてしまったからです。  

ノーベル経済学賞は、『ブラック・スワン』の中で著者のタレブがしつこく繰り返しているように、正式にはアルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞といい、1968年にスウェーデン国立銀行が設立300周年祝賀の一環としてノーベル財団に働きかけ設立された賞で、アルフレッド・ノーベル自身が設置、遺贈したものではなく、賞金もスウェーデン国立銀行から拠出されていて、正式なノーベル賞ではありません(しかし、選考や授賞式などの諸行事は他の部門のノーベル賞と合同で実施されているため混同されています。)。  
ノーベルの子孫からはノーベル経済学賞は「全人類に多大な貢献をした人物の顕彰」というノーベル賞の趣旨にも沿わないという批判もあるようです。

ハイエクは、なぜ経済学が誤るのかを続けて語っています。  

経済学者が政策をもっと成功裏に導くことに失敗したのは、輝かしい成功を収める自然科学の歩みをできるかぎり厳密に模倣しようとするその性向と密接に結びついているように思われます。・・・これは「科学主義的(scientistic)」態度と描写されるようになったアプローチであり、私がおよそ30年前にした定義によれば、「思考の習慣が、それが形成されてきた領域とは異なった領域へと、機械的かつ無批判に適用されるという点で、言葉の真の意味において決定的に非科学的な」態度のことです。

物理化学で妥当している考え方とは異なり、本質的に複雑現象をあつかう経済学その他の学問分野においては、説明すべき現象のうち定量的データを入手できる側面は必然的に限定されており、いくつかの重要な側面がそこから脱落してしまうかもしれないのです。・・・多くの個人の行為に左右される市場のような複雑現象を研究するに際しては、…プロセスの結果を決定する事情のすべてが完全に理解されたり測定可能になることはほぼありません。また、物理科学において研究者は、一応正しそうな推論にもとづいて自身が重要だと考えることがらを測定できるでしょうが、社会科学ではたいていの場合、たまたま測定が容易なものが重要事項として扱われることになります。これは時に、われわれの理論は測定可能な数値のみに言及する言葉で定式化されなければならない、と要請されるようになります。  

僕は(ハイエクだけでなく)経済理論については詳しくないので、昨今の経済対策をめぐる議論でも読むたびに(それらが対立するものであっても)いちいち「なるほどなぁ」と思ってしまいます。
なので、今の経済対策をめぐる議論を傍から見ていると、多くの論者の日本経済に対する現状認識は一致しているように見える中で、なんで意見がここまで対立するのだろうという素朴な疑問を持ってしまいます。 
おそらく、それぞれの論者の理論のよって立つところの「正しさ」の根拠が違う-そしてそれぞれが理論としては正しい-というところに原因があるのでしょうし、それが成り立つこと自体が経済事象の複雑さの裏返しなのでしょう。  

それから「たまたま測定が容易なものが重要事項として扱われる」というのは、経済学に限らず仕事とか人生でもよくあることで、気をつけなければいけないと自戒。  


ハイエクは講演をこう結びます。

もし社会秩序の改善のために努力するに際して、益以上に害をなくしたくなければ、このような場合人間は、組織的な種類の本質的な複雑性が支配する他のあらゆる領域でも見られるように、出来事を統制することが可能となるほどの充分な知を獲得はできないのだということを学ぶ必要があります。 ・・・人間の知が持つ克服不能の限界についての認識から、社会を研究する者は謙虚さの教訓を学ぶべきです。その教訓は、社会をコントロールしようという破滅に導く奮闘の共犯者になってしまうことを防いでくれるでしょう。その奮闘は、彼を仲間にたいする暴君にするばかりでなく、どんな個人の脳によっても意図してつくられたわけではないが何百人もの個人達の自由な努力から育ってきた文明の、破壊者にしてしまうのです。  

僕はハイエクの経済学の理論やケインズとの論争については語るべき知識を持っていないのですが、この哲学論集はけっこう面白そうです。



<おまけ>
動画「ケインズvsハイエク 」

これは面白いです。
素人目には中身もけっこうまともなんじゃないかと思います。
Division of Knowledge経由のネタ。)

 

 

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