一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

ちょっと残念

2011-05-31 | 原発事故・節電・原発問題

クエなくなるの? 浜岡原発停止で養殖ピンチ
(2011年5月30日18時47分 asahi.com)  

原発の恩恵を受けているのは「原発村」の関係者と大企業だけではないという切り口はいいと思うのですが、この見出しは地元の人にとってはシャレになっていないよなぁ。
(思いついたら止められないオヤジギャグ、という気持ちはよくわかるんですけど・・・)

菅政権の要請で中部電力浜岡原子力発電所(静岡県御前崎市)が全炉停止し、クエの養殖やマダイなどの放流が危機に追い込まれている。原発からの温排水も止まり、稚魚の孵化(ふか)や育成に欠かせない水温調整が出来なくなっているからだ。県は国に対策や費用の負担を求めたいとしている。  
温排水は、原発でタービンを回した蒸気の冷却に使った海水。放射能は帯びておらず、水温が海水より約7度高い。毎年11月中旬から翌6月末ごろまで、原発に隣接する「静岡県温水利用研究センター」が毎日各1万5千トンの温排水と海水をもらい、クエの養殖や、マダイやヒラメなどの親魚の飼育、稚魚の孵化・育成に活用していた。  
センターは、原発建設に協力して漁業権の一部を放棄した漁業者への補償としてつくられた。中部電が建設し、県に譲渡。県漁業協同組合連合会が運営している。  

センターが漁業者への補償として作られたのであるなら、中部電力は温排水の供給義務を負っているはずなので、国や県に負担を求めるのでなく中部電力に温排水の提供義務を果たすように求めるかそれに代わる損害賠償請求をすればいいのではないでしょうか。
せっかくならそのへんまで突っ込んで取材してほしかったところ。 

一方「自主的判断」で原発を止めた中部電力は原発停止に付帯する費用の補償を国に求められないので、中部電力にとっては合計するとけっこうな負担になるかもしれないですね。

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「痛みポイント」

2011-05-30 | あきなひ

ちょっとひっかかったのでリツイートしたこちら

何で引っかかったのかと思ったら引用先で参照されている本を読んだことがあったんですね。買おうと思って商品説明を見て気がつきました(苦笑)
そのときのエントリはこちら

この本では飛躍的に向上したコンピューターの記憶容量と計算速度を利用して極めて大量のデータを回帰分析にかけて、有意な因果関係を探る「絶対計算」がマーケティングに威力を発揮していることが実例を挙げて説明されています。

Tweetの引用先ソーシャルゲームが大流行する「薄気味悪さ」ではこの本から「痛みポイント」という概念を取り上げています。

例えばカジノ経営の米ハラーズは、「顧客を逃がさずにどこまでお金を搾り取れるかについて、実に高度な予測を使っている」という。スロットマシンなどの使用状況や勝ち負けなどをリアルタイムで監視し、その顧客の年齢や居住地の平均年収といったデータと組み合わせて分析する。これにより、顧客がお金をすっても楽しんでまた来店するのはいくらまでかを予測し、「この魔法の損失額数値を『痛みポイント』と呼んでいる」(46ページ)という。
このカジノでは、顧客が痛みポイントに近づくと、店のおごりでレストランに案内するといったこともしているそうだ。(中略)

ジンガがこうした統計手法をCity Ville(注:本稿で取り上げている米の人気ソーシャルゲーム)で使っているかどうかは不明だが、ユーザー行動を追跡して予測に利用する技術がエンターテインメント分野に広がっているのは間違いない。

僕はソーシャルゲームはやらないのですが、はまっている友人の話を聞くと雰囲気はわかります(新規客を誘うとポイントになるのか知らんが、たまに誘いが来ます)。

そこにつぎのTweetにあったのがペニーオークションめぐるトラブル増加、弁護士会など実態把握へ

これは記事を見る限りでは詐欺っぽいのですが、これを真っ当な商品を提供しサクラのいないオークションにしたうえで上の「痛みポイント」を利用して、たとえば「落札できなかったら入札に使った○○以上のポイントは戻ってくる」とかのサービスをつければ、実質的には○○ポイントは損なのですが、けっこう繰り返して参加する人も増えるかもしれません。

そういう合法ではあるものの射幸心をギリギリのところまで煽るビジネスが増えるのがいいのかどうかは別ですけど。


その意味ではパチンコの出球制限は「射幸心を刺激して『痛みポイント』のハードルを上げる」ビジネスへの規制とも考えられます。

パチンコは人口が膨大なので、景品交換比率とか来店客のプロフィールだけでなく遊興費の出所(絶対額・可処分所得に占める割合、調達金利)などのデータも入手できるなら非常に興味深い統計データになりそうです。

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復興かきオーナー制度

2011-05-27 | 東日本大震災

最近話題の東日本大震災で被災した三陸の牡蠣養殖業者の復興を支援する「復興かきオーナー制度」。  

仕組みは1口1万円を応募すると、出荷再開後に1口につき三陸産殻付牡蠣20個前後が送られてくるというもの。  
参加する側も義援金を送るだけでなく復興を味わえることになるので、アイデアとしては非常にいいと思います。


仕組みは牡蠣の通信販売
 

この制度は「復興した後に収穫できた牡蠣を売る」という通信販売の仕立てになっています。
特定商取引法に関する表記まできちんとなされています。これは、制度を運営している株式会社アイリンクが被災前に行なっていた牡蠣の通販の仕組みを流用しているからでしょうか。

そこには以下のような注意書きがあります  

  • 出荷できるようになってから当社よりご連絡差し上げ、お届け先、お届け希望日(時間帯)などを確認させていただきます。場合によっては、5年以上かかるかもしれません。通常時の三陸牡蠣養殖の場合でも、成育に2年~3年かかります。港湾の復旧、漁業操業許可を経て養殖の準備が再開されることから、現状では出荷再開の時期をお約束できかねます。
  • 売上金の利用目的 売上金の一部(70%)は、生産者の牡蠣養殖のための資材、設備支援、生産者への牡蠣仕入れ金に活用させていただきます。(残りの30%は、牡蠣をお届けする際の送料、通信費、取材費などの経費となります。)  
  • 商品お届け前 ご返金・オーナー契約の解除は承りません。
  • 特定商取引法上はクーリングオフが義務付けられていません  

通販として見ると購入者側にとても不利な条件です。 
特にいつ来るかわからない商品を一度注文したらキャンセルできない、というのは消費者契約法の「消費者の利益を一方的に害する」条項として無効だという主張とか、そもそも売買対象の牡蠣の数量が「約20個」と(重量や牡蠣のサイズも含めて)特定していないから売買契約は成立していないという主張もありえます。


実態は牡蠣養殖業への投資?  

一方で上の主張が非常にKYに聞こえるのは、代金は牡蠣養殖業の復興のための設備投資や仕入れの資金として使われるので、復興に予想以上に時間がかかるからといって金を引き上げるのでは復興支援にならないからです。

そうなると、これは牡蠣養殖業の出資に対する配当として牡蠣を受け取るというしくみとも考えられます。

しかしそうだとすると、これは「集団投資スキームに係る権利」(=出資又は拠出をした金銭を充てて行う事業から生ずる収益の配当又は当該出資対象事業に係る財産の分配を受けることができる権利(金商法2条2項5号))として(要するに投資ファンド事業として)、金融商品取引法に抵触する可能性があります。 
法文上は、出資は金銭に限られるものの、配当は「財産の分配」とあるので、牡蠣が届くのも当たりそうです(間違っていたらごめんなさい。)  

また、金商法には適用除外として  

出資者がその出資又は拠出の額を超えて収益の配当又は出資対象事業に係る財産の分配を受けることがないことを内容とする当該出資者の権利(イに掲げる権利を除く。)  

という条項があるので、本件で言えば配当は生牡蠣20個1回で出資金(=1万円)の価値には満たない、ということで適用を免れられるようにも思います。
また、そのへんの疑義をなくすためには、法律的には「1口につき、三陸産殻付牡蠣20個前後をお届けします。ただし、当該牡蠣の時価は出資額を上回らないものとします」とでも書けばいいのかもしれません。 
ただ、殻つき牡蠣の通信販売を検索してみると、サイズによっては1万円で20個=1個500円というのはあながち高いとも言えなそうです。  

また、集団投資スキーム(ファンド事業)では、投資資金で設備投資をした場合その設備は投資家側の資産になってしまう(=ファンドが書き養殖業を営む)ので、こういうスキームにしてしまうと牡蠣養殖業者への支援にはならない(=牡蠣養殖設備の所有者として漁民に生産委託することのなってしまう-これは皮肉にも「オーナー制度」に近いことになります)というそもそもの難点もあります。


ではストレートに寄付とすればいいのでは?  

復興牡蠣オーナー制度の売上金の利用目的は次のようになっています。  

つまり、商品としての牡蠣代金に相当する部分は仕入れに経費と利益を乗せても多分売上げの半分くらいで、残りは牡蠣養殖業の設備投資代金を支援することになります。 
つまり、代金の半分くらいは寄付に当てられることになります。   

それならば、牡蠣の通販と寄付をセットにしながらスキームとしては分けて、寄付部分は税金の控除を受けられるようにした方がお金が集まりそうです。  

しかし寄付控除を受けるための要件は厳しいという問題があります。 
国税庁のサイト一定の寄附金を支払ったとき(寄附金控除)によると寄付金控除が認められるのは限られています。

  • 日本赤十字、や公益財団法人・公益社団法人の主たる目的である業務に関連する寄附金→しかしこれを新たに設立していては間に合いません。
  • 「認定特定非営利法人(いわゆる認定NPO法人)に対する寄附金のうち、一定のもの」というカテゴリがありますが、認定NPO法人ってけっこうハードルが高いようだし、「一定のもの」の要件も厳しそうです。  

しかも、今回資金が生活資金の援助でなく設備投資にまわされる部分が多いので、NPOを作ってそこから資金提供をしたとしても、養殖業者側でまた課税の問題が発生しそうです。


「過剰コンプライアンス」か行動優先か  

このように法律を当てはめていくとうまく収まらない感じもするし、まずは行動が大事と考えると今の形でもいいのかもしれません。  

ところで、Twitterで知った話なのですが、運営会社の㈱アイリンクは以前グリーンシート登録銘柄だったものの、2008年に監査法人から適正意見をもらえなかったことを理由にグリーンシート指定の取り消しを受けています(参照) 
このこと自体はアイリンクも自分のサイトの会社沿革に正直に書いています(参照)ので隠すつもりはないようです(理由は書いてませんが)。  

ベンチャーが一度うまく行かなかったからといって二度と信用しないというのはもちろん狭量な姿勢だと思います。
しかし監査で適正意見を取れなかったというのは、倒産とか業績不振で指定取り消しになった場合よりも企業(経営者)に対する印象はよくないです。  

特に今回は  

10,000人のご賛同をいただければ、三陸牡蠣を出荷できる道筋が作れます。 
100,000人のご賛同をいただければ、三陸の一部の牡蠣産地を救えます。 
1,000,000人のご賛同をいただければ、三陸の牡蠣産地復興を実現できます。

と、数億円~数十億円の資金獲得を目指しているようです。 
そして売上げは牡蠣養殖業者に直接渡るのでなく、通販の主体のアイリンクに立つ=資金はアイリンクにプールされることになります。

それだけの金を前にすると、経営者自身はしっかりしていたとしても、さまざまな誘惑が寄って来そうです。  
なので

  • 売上金は設備投資などに回る前にはどこにプールされているんだろうか ・アイリンクが倒産した場合の代金の保全や、他の事業の債権者に差し押さえられたりしないような手当てはされているのだろうか。
  • 手元資金の運用はどうしているのか、その安全性はどのように担保されているのか(現時点でも剰余金は既に8千万円ほどあります。
  • 投資先の選定や投資金額の妥当性はどのようにして決めるのか(これは無駄な投資リスクだけでなく、配当のプレッシャーに負けて資金を必要な設備投資に回す代わりに、被災が比較的少ないところの種牡蠣購入にばかり回してしまうリスクも考慮する必要があります)  

などについて、特定の法律で義務付けられていなかったとしても、もっと少し詳細な説明が必要だと思います。  


震災復興には考えるよりも行動が大事なことが多いのもわかりますし、「過剰コンプライアンス」よりも拙速を旨とすべき場合も多いとは思います。

しかし、億単位の金を集めるなら相応の説明責任や規律は当然に求められると思います。  


「復興かきオーナー制度」で購入する消費者側としても、自分のお金が復興に回らないリスクや巨額の資金を特定の人に預けるということのリスクは承知しておく必要があると思います。
(まあ、義援金もまだ手元に届いていないらしいのでいずこもいい勝負かもしれませんけど)


また当然ながら、これが牡蠣養殖業者支援の唯一の方法ではないことにも注意が必要です。
たとえば「大地を守る会」ではOyster for Oysterという取り組みも(これはストレートに寄付をする、というもの)しています。


復興支援のスキームは今後ますます新しいもの出てくるでしょうから、その中での健全な競争と支援資金流入ルートの多様化が実現すればいいと思います。

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「隠蔽」と「自粛」

2011-05-26 | 原発事故・節電・原発問題

東電の福島原発の炉心溶融について、事故当初の想定が甘かったことについて、日経新聞では 

専門家は「電源喪失によって喪失されていた次章が、次々とシナリオ通りに起こっていった」とみる。

朝日新聞は 

専門家は、燃料は冷却水から露出したことがわかった時点で、詳細な解析を待つまでもなく溶融の可能性を指摘していた。

という指摘をしています(いずれも5/25朝刊)。  

しかし、少なくとも「東電は震災後しばらく、燃料棒が一次露出し、一部で損傷していると述べ」(日経)ていたで、マスコミとしても事故当初から専門家に取材して、炉心溶融や水素爆発の可能性を認識していたのではないでしょうか。  

記者会見などで「メルトダウンはしてないのか」という質問をしたとしてもそれがyes/noの質問にとどまり、結果的に東電の発表を鵜呑みにして報道したとしたら、上の批判は天ツバのように思います。  


逆に、事故当初「炉心溶融の可能性もあるが現状は差し迫った危険はないのでパニックになるような報道は控えてくれ」と言われていたらマスコミ各社はどうしたのでしょうか。  


これで思い出すのが古い話ですが、山一證券破綻のときに安田信託銀行に解約を求める預金者が殺到した時の話。
どこかの支店で店を取り囲むくらいの列ができたところを取材したNHKに対して大蔵省(当時)から「取り付けと誤解するから」と報道をやめるようにという要請があったとか。現場は「これが取り付けでなかったら何が取り付けなんだ」と怒っていたそうですが、結局NHKは自粛に応じたそうです。  
この件、Wikipediaによると「各マスコミもこの「取り付け騒ぎ」を報道するのを控えた」ということなので、NHKだけの問題ではなかったようです。  

当時はまだ政府と報道機関の馴れ合い友好関係があったけど今は違うのでしょうか。
政府との関係如何にかかわらず、要請に反して報道することは、「社会不安を招いた」と結果的に非難されるリスクをとることになります。
それが取れないのであれば、今回「メルトダウン」を「隠蔽していた」と非難しても仕方ないよです。(逆に隠蔽されていてラッキーだったかもしれません。)

そのへん、マスコミのほうも自己検証してみたらいいと思うのですが。


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解脱

2011-05-25 | 飲んだり食べたり

といっても日本酒の話。

「古酒」といっても日本酒の場合、熟成は年数に比例して進むわけではないらしいです。

最初の2,3年は順調に熟成が進むのですが、そのあとは酒質は低下の一途をたどるそうです。
ところが7年目あたりをボトムにして急に酒質がよくなる。ここを酒蔵では「解脱」というとか。

しかし世の中そんなに上手くいかず、またしばたらくしてピークを迎えるとまた低下が進み、30年目くらいに次のボトムが来るそうです。
それ以降に再度「解脱」するかは、日本酒の熟成のメカニズムが解明されたわけでないのでよくわからないとか。これは30年前の酒造は今ほど安定していなかったし古酒を造る酒蔵も多くなかったことによるらしいです。


このライフサイクルってなんとなくサラリーマンと似てますね。

最初は一生懸命働いて経験を積むんだけど、そのうち天狗になってくる。
30くらいでこれじゃいかん、と、ギアを入れ替えてがんばって一皮むける。
ただ、だんだん歳をとってきて体力・知力の衰えを経験だけではカバーできなくなったり、得たポジションを維持することに専ら能力を使うようになると「労害」「お荷物」になってくる。

という感じでしょうか。

そして、2度目のボトムでもう一ふんばりするとか別の味わいのある生き方をするというスタイルが一般化するかは、まだ団塊の世代がそこにさしかかったばかりなのでわからない、というところも似ています。

ちなみに、生酒や吟醸酒は吟醸香などを出すアミノ酸が熟成するとヒネた香りの元になってしまうので、古酒にはあまり向かないそうです。これもキャリアシステムとか採用基準を考えると示唆的です。


熟成が環境によって大きく変わるところは、日本酒(温度、タンク内か瓶内かetc.)も仕事も同じ。
ただ、仕事は自分のほうから環境を変えることができるので、酒でなく酒蔵の立場で試行錯誤ができるのが大きな違いです。


明確な方法論とか「キャリアパス」がないところが古酒の奥深さであり人生の醍醐味だ、と味わうのが大事ということですね。


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高橋源一郎vs糸井重里の対談「「さよなら」するものしないもの-ニッポンの30年とこれから」

2011-05-24 | よしなしごと

文学界、もとい「文學界」4月号のつづき。

80年代から活躍してきた二人がこの30年を振り返ると共にこれからを語ってます。
二人とも還暦を過ぎて、歳を取て見えてきたことについての話なども味わい深いです。

まずは昭和の総括

高橋 昭和の最後は昭和64年=平成元年、つまり昭和天皇が亡くなった年なんだけど、その年には手塚治虫と美空ひばりも亡くなっている。つまり、同じ時期に天皇が三人死んだ。昭和を代表する各ジャンルの天皇が--そもそも昭和は各ジャンルに天皇をもつ天皇制だったこと自体が驚きなんだけれど--同時にいなくなったんですよ。しかもそれが経済の動きと連動していて、天皇が亡くなった翌年に株価も頭打ちになって、バブルがはじけた。その後は20年間ずっと下がりっぱなしなんだよね。

ほんと、平成は下がり局面なのが普通になってきてて、そのへんが団塊ジュニアや就職氷河期世代のマインド形成にも影響していますよね。
そもそも「平成」:Flat=現状維持という目標設定がよくなかったのかもしれない。
もしドラッガーが年号を考えたら・・・?


歳を取ってわかること。

高橋 そもそも「わかる」ということには、「言っていることがわかる」の他に、「フィジカルにわかる」ということがあると思うんですね。鶴見(俊輔)さんの本がなぜ面白いのかというと、一言で言えば「経験」があるからなんです。つまり、その人のフィルターを通して語られる。フィルターを通して出てくる言葉というのは、そうでない言葉と比べて、全然重みが違う。言ってみれば、経験は神様みたいなもので、たとえ言っていることが無茶苦茶だとしてもなぜ説得力があるのかというと、「自分の人生」という戦場の中でコントロールができているからです。

糸井 「頭でわかる」と「身体でわかる」は別のことですよね。・・・実は今日、ぼくが「ほぼ日」に書いたのが、人が死んだときには生き残った人の方が寂しいと言うけれど、実は「死んだ人の方が寂しいんだよ」っていうことなんです。それは10年前にはわからなかったことなんだけど、でも今なら「死んだ人の方が寂しい」とわかる。死んだ人の気持ちをくみつつお墓参りをするっていうのは、だから本当にすごいことなんだなと思うんですよね。

高橋 ・・・今までの小説はほとんどが青春文学だからです。青春文学はほとんど死を考えない。あったとしても自殺で、死は突然、なんですね。明治以来、森鴎外も夏目漱石もみんな早くに死んでしまった。だから小島(信夫)さんも古井(由吉)さんも、谷川俊太郎さんにもそんなところがあるけれど、「自分の死」がテーマになるというのは最近の話なんですね。死は突然くるものではなくて、徐々にボケてきて、身体も動かなくなってきて、言っていることも意味不明になってくる、そういう途中経過をたどるものなんだということが、ようやくわかってきた。
・・・ちょうど若い頃に経済がマックスの昭和を生き、緩やかに衰えていけるというのは恵まれていると思いますね。

糸井 ・・・ぼくは・・・年をとるにつれて・・・「見つける目」を見つけてしまったから、若いときより面白いものがいっぱい見つかるわけ。昔ならこれでおしまい、って言えたのに、その遊び場が好きになってきて、「さよなら」したくなくなるんですよ。

高橋 ・・・今は、みんなそういう「遊び場」を見つけているんじゃないかな。

糸井 日本には定年っていう便利なものがあって、定年と退職を重ねていけるでしょう。人生のおしまい感を味わえるような目盛りを差し出されると、一度考えざるをえなくなりますね。

前半部分はさておき、後半部分については世代間で異論があるところだと思うし、だから団塊の世代はいいんだよなぁ、とか、もっと若い世代からは僕のような「昭和のサラリーマン」は気楽だったよなぁ言われそうな気がします。
しかも、団塊の世代サラリーマンの中で「遊び場」を見つけて定年をポジティブに捕らえている人ってそれほど多くないように思います。
まだまだ右肩上がりの昭和を引きずっていて「忙しい」ことに価値を見出しながら、老後をどうやって忙しくしようかと考えているように思います。


「右肩下がり」について

糸井 景気が悪くなっても生き延びる方法はいくらでもあるんだけど、つまらなくなるのと景気が悪くなるのは、間違いなく関係してきますね。「良薬は口に苦し」、ではないけれど、みんな、つまらないことのほうがもうかる、苦しいことの方がお金になると考える。「面白いことやっていて儲かるわけがないじゃない」、その幻想たるやすごいんじゃないですか。

実は景気がいいときは、地味でつまらないことの方が簡単で需給関係もよく競合もしないので儲かったりするんですよね。
景気が悪くなると、すぐ「リストラ」「経費節減」「選択と集中」とか「コンプライアンス過剰」になる。東日本大震災でサプライ・チェーンにも冗長性が必要だということが明らかになったにもかかわらず、業績は気にしなければならないので、なかなかつらいところです。(東電の賠償問題でよく言われる「徹底したリストラ」と安全性の確保のトレードオフの関係はどう考えてるんだろう。)
業績の四半期毎の開示をやめたら、かなりの節電対策になるんじゃないでしょうか。


糸井重里がコピーライターから「ほぼ日」に転じて

糸井 ・・・早い遅いじゃないんですね。そこしか場所がなかった。思いついたアイディアを友達に話すと面白いといってくれるんだけど、たとえば、面白い企画があります、って言って文學界編集部に電話をかけても載せてくれないでしょう。世の中はそうはできていない(笑)・・・だから、ぼくは海の中に住み続けられなくて上陸せざるを得なかった両生類みたいなものですよ(笑)。希望に満ちて進化した生物なんていないんですから。ただちょっとずるいのは、まだコピーライターをやっていて、そこでした仕事をこちらに向ければいいなと加減ができたことですね。要するに肺呼吸とエラ呼吸が両方できた。

高橋 ・・・ぼくがそれ(インターネットに進んだこと)よりも面白いと思うのは、糸井さんが会社を作ったことなんですね。会社を作るというのはたくさんの社員、つまり子どもを抱えるわけだから面倒でしょう。それまでのコピーライターという仕事は基本的には一人なわけで、誰の面倒を見なくてもいいし、誰からも面倒を見られなくてよかった。それが人を集めて自分でみんなの責任もとるという共同作業に移行していった。そのことが面白かったんです。

糸井 それは、すごく段階を踏んでいると思いますよ。・・・たとえば15人で会議をするとしたら14人のチーム対ぼく一人なわけで、相手14人よりもぼく一人のほうが力があると思っていいかな、と。それが僕の飯のタネだったんです。ところが徐々に、14人のチームも14人がそれぞれに機能しているんだということがわかってくるようになった。チームとしての仕事がとてもよくなってきて、ぼくがチームリーダーでもないのに、この人たちがいてよかった、皆ありがとうね、という気持ちになることが多くなっていったんです。

糸井 ・・・でも会社をやっていると、アイディアを生む前提として「知識の量」というものがそもそも必要なのかどうかあやしくなってくる。それぞれの分量が少なくても良い仕組みがあれば、すごい力が出るんですよ。

ここはサラリーマンにも参考になる。
大企業のサラリーマンが起業や転職をしても上手くいかないと言われるが、ビジネスが上手くいくにはオペレーション・組織作りも大事で、そこについては今まで大きな組織に乗っかっていただけなので、実はノウハウがなかったりする。なので他人の力を合わせて集団で力を発揮するのでなく個人でどうにかしようと「他人には任せられない」モードになってしまったり、(もっとひどいと)「乗っかり型管理職」になってしまうのだろう。
必要に応じて徐々に大きくしていったので組織というものを考えることができたのかもしれない。


そして小説はどこに行くか

高橋 ・・・今までの小説の多くは青春小説で個人主義、つまり中心にあったのが「自分」だったんですね。「ルック・アット・ミー」が基本で、若くして失敗したら死ぬ、という枠内で終わっている。では長生きしたらどうするか?漱石はちょっと書きかけたんだけど、結婚して二人でなんとかやっていく、という方向で落ち着いてしまったから、その先の共同体のあり方については書いていないんです。
 では今まで、なぜ個人だけで小説が成り立っていたかというと、「家」とか「社会」がかっちりしていたからです。否定できない共同体があるから、個人が成り立つ。
・・・昔は「一人」を威張れたけれど、今は「一人」すら、あやしい。世界とか家がぼんやりしているから、そこから出ることにはもはや意味がなくて、個人にスポットを当てると、はっきりしない小説になる。・・・この百年間「家」が壊れ、ルールが壊れ、国家が壊れた。・・・そして今、一人では生きていけないという単純な事実が残った。

糸井 ・・・今までの「家族」とは違っていいんだけど、それにかわる新しい「ホーム」がないとダメなんだと思う。・・・独身の独り者にだって、ホームはあるんですよ。大きくなりすぎると邪魔になるけれど、育てるもの。だから「ホーム」っていうのは重要な概念だと思うんだけど、その中に含まれているの大切なものは、「ストーリー」ですよね。

高橋 それはつまりエピソードのある世界、ですよね。・・・全てに日付も場所もある、エピソードを提供できることはものすごく強いですよね。
・・・小説が何を作っているかというと、そのいちばん大きなものは、エピソードだと思うんですよ。小説の中にあるエピソードがさながら自分のもののように感じられる。あの日、自分も同じものを見た、というような同時代の感覚をもたせる。それは小説の大きな仕事のうちの一つですよね。・・・「出版社が厳しい」「小説が厳しい」というのは一面ではまったくその通りだと思う反面、ぼくは全然絶望もしていない。だって、人は共同体もエピソードも絶対必要としている。今はそういう意味で、みんな「家」をなくしたホームレス状態だけど、小説というのは--政治も、宗教もそうかもしれないけど--もういちど「家」を作り出すことができるはずで、では誰がどんな形で新しい共同体の形を作るのか、というのが競争といえば競争だし、仕事といえば仕事ですよね。

政治・宗教でも「家」や「共同体」の「復権」「復活」というのはキーワードになりそうですが、こちらはそういう行動の美名に惑わされず、出来上がりが何を目指しているかをよく注目しないといけないですね。

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「文學界」4月号

2011-05-23 | 乱読日記

内田樹センセイの最終講義が収録されているというので初めて(文学雑誌というもの自体も)買ったのですが、けっこう盛りだくさんなので読了するのに時間がかかってしまいました。

文学雑誌というものは、作家に発表の機会を与えるためにあるのか、有名になった作家が恩返しとして出版社の売り上げに貢献するためにあるのか素人にはその位置づけがよくわかりません。
桐野夏生の『白蛇教異端審問』などを読むと、いろんなしきたりがあってけっこう難しい世界のようでもあります。

「文學界」と自ら業界を代表するタイトルを(しかも旧字体で)冠しているあたりから老舗の自覚が伝わってきますが、吉本ばなな(まともに読んだの初めてだったが、なるほどこういうものを書くのか)、角田光代らの書き下ろしや藤沢周、島田雅彦らの連載などさすがに強力です。

ほかにも、内田センセイの講義(これはブログの読者にとってはいつも通りの感じ)や柄谷行人・山口二郎の対談、高橋源一郎・糸井重里の対談などもあっりますが、こっちは新しい読者を呼び込むための工夫なのでしょうか。

柄谷行人・山口二郎の対談は「イソノミアと民主主義の現在」と題して、古代ギリシャの政治システムから現代社会を変える方向を考える、という難しいもの。
柄谷行人は『マルクスその可能性の中心』を読んで、(理解できたとはいえないけど)その理路が凄いなと思ったのですが、そのうちに地域通貨の提唱をされるなど凡人の想像力を超えてしまったのでずいぶんご無沙汰です。
なので、この対談も十分理解できたとはいえません。

まずは政権交代を主張していた山口教授

山口 ・・・ところが民主党が政権をとってからは大変な混迷の連続でした。民主党政権に対しては私は外から見ていただけなのですが、民主党の一番大きな問題は、理念や思想のレベルできちんとした土台を作っていなかったということです。

物事を変えようとすると、当然、既存の権力の反対にあいます。そうすると、理念のない政治家はたちまち怯んでしまい、現状維持という立場に変わってしまい、野党時代に主張していたはずの対決の構図を描くことを躊躇してしまいます。

政権交代をすれば社会が変わるだろうという幻想を多少煽りすぎた部分はありましたが、その幻想を断ったところに、今回の政権交代の意義はあったと思います。

以前は民主党のブレーンだったと思うのですが、今は距離を置いているとはいえちょっと他人行儀すぎるような。少なくとも政権交代の前段階で予見できたのでしょうからアドバイスをしてあげればよかったように思います。それとも、政権交代後に重用されなくなったとか言うことがあるのでしょうか。

つぎに柄谷氏

柄谷 現在、民主主義と呼ばれているのは、自由・民主主義です。相互に反する自由主義と民主主義の結合です。別の観点からいえば、自由と平等という相克する原理の結合です。「自由」を強調すると不平等が生じる。「平等」を強調すると、自由が抑制される。自由・民主主義は、自由と平等の危ういバランスの上にあります。だから、一方の極に行き過ぎれば他方に揺り戻しがおこる。そのように政権交代がなされる。経済的先進国の政治形態はどこでもそうなっています。このゆな形態が世界史において最終的なものだ、といったのが、フランシス・フクヤマの「歴史の終焉」論です。
 しかし、僕の考えでは、それは「資本=ネーション=国家」というシステムなのであって、最後の形態ではありません。それを変えることはできるのです。

このあと、既存の民主主義の問題点とかそれを超えるビジョンとか「交換様式D」とかの話になっていくのですが、ついていけず。
二人の対談もかみ合っていない風でした。


そのあとの高橋源一郎と糸井重里の対談「「さよなら」するものしないもの-ニッポンの30年とこれから」の方が面白かった。
もとから馴染みがあるというところもあるんだろうけど、世の中の切り取り方と、切り取ったものの見せ方がやっぱり上手い。
僕の思考力が落ちてきたので、わかりやすいものに向いているということもあるかもしれませんが。

先が長くなりそうなので続きは明日。

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『人類は「宗教」に勝てるか』

2011-05-22 | 乱読日記

著者は禅寺で修業した後米国でキリスト教神学を研究し、現在は比較宗教学・比較文明論の研究者です。

内容的は既存の宗教(タイトルで言うカギカッコつきの「宗教」)がいかに宗教本来の役割である「個人に対する救い」から離れてしまっているかに対する批判・問題提起になっています。

私の主張は、組織としての宗教に依存することによって、真の意味での<個>の尊厳を見失ってはならないということに尽きる。私がいう<個>の尊厳とは、仏教で言う仏性であり、キリスト教でいう精霊のことであるが、その自覚に到る道は、何者にも寄りかかることのできない孤独な道なのである。

 私が宗教の超克を訴えるのは、宗教が過去と未来を見て、現在を見ようとしないからである。過去を見るというのは、人間が過去に犯した罪とか、先祖が作った因縁とかを大仰に語ることである。そして、その贖罪のために、教会や寺院に寄付を求めてきたのが、宗教の伝統である。
 未来を見るとは、終末論やら地獄の思想を説き、いまだ来ぬ死の恐怖をあおり立てて来たことである。その上で、後生のために信仰をもつことを勧めたり、手厚い葬儀を営んだりすることによって、民衆の心を教会や寺院につなぎとめようとしてきた。
 救いを説きながら、そこに欠落しているのは「今」をどう生きるかという教えである。「幸せになるために、神仏に願をかける」というのも、先を見て、現在を見ていないことになる。人間として幸せになりたいというのは、自然な感情であるが、その幸せが何かを手に入れないと実現しないと考えるのは、妄想である。

「過去と未来を見て、現在を見ようとしない」というのは、今回の大震災の復興や原発議論にも通じるものがあるように思います。
そういう議論のレトリックは昔からの蓄積があるのでしやすいという面があるのかもしれません。


平易な語り口と個別のエピソードから宗教批判とか一神教に対する多神教からの批判的な印象を受けがちですが、著者はできるだけ中立であろうと心がけているようです。
著者はあとがきで自分の生活は宗教的だし迷信深い普通の日本人だといいつつ、この本の執筆の動機を語ります。

宗教への思い込みから、自分の生き方をずいぶん窮屈なものにしている人もいるかと思えば、反対に宗教的なものにまったく無関心のため、もう一つ人生に深みを見出せない人もいる。そういう人たちにも、宗教とはいったい何なのかと、もう一度、考え直してもらいたいという気持ちがあった。

僕自身後者の典型だし、この本もどこまで身になったかはわかりませんが、いつかはまたこの本を開こうとおもう時がくるのかもしれません

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地震保険と火災保険の境界

2011-05-19 | 天災・人災

tweetでも触れたのだが、例えば地震後の停電・断ガスの時に隣家の裸火使用による火災で類焼した場合は、地震保険に入っていないときに火災保険ではカバーできないのだろうか、という疑問。

同旨のリプライもあり、明らかに地震が原因でない火災は通常の火災保険でカバーできるのだろうと思ったのですが念のため確認。

そうしたらこんな記載が
地震等発生から何日か経って生じた損害には保険金が支払われるの?

地震等が発生した翌日から起算して10日を経過した後に生じた損害に対しては、因果関係がはっきりしなくなるため、保険金は支払われないことが約款に規定されています。

まさか一律10日以内の火災は地震保険に入っていないと補償されなかったりするってことはないよなと、念のため日本損害保険協会の そんがいほけん相談室に電話してみました。
回答は

「地震が直接的な原因か否か」で判断し、地震の直接的影響を受けない火災については、個別事例を調査して判断するので一般論ではいえない

ということでした。
ちなみに津波・噴火は地震に起因していなくてもそれ自体が火災保険では免責、地震保険でのみカバーされるそうです。

ちなみに
72時間経過後の余震はそれぞれ別地震であるので個別の損害とみなす。
なんていうきまりもあるようです。

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年金

2011-05-18 | よしなしごと

震災関連の間に年金問題が出てきているのは、財政問題・増税路線と関係しているのだろうか、とか思いながら記事を見てもいまひとつよくわからない。

最低保障年金「年収600万円超は支給なし」で最終調整
(2011年5月15日 asahi.com)

現行の基礎年金(満額月6万6千円)は加入者だけが対象で、財源は税と保険料で折半する仕組み。一方、最低保障年金はすべて税金を財源とし、ほとんど収入がなかった人も含む低所得者に支給するため、年収300万円超の所得層の多くは年金支給額が減る見通し。財源は、基礎年金より5兆円程度増えそうだ。

でも、記事の図を見ると、最低保証年金は600万で打ち切りだけど、従来の基礎年金との合計額は増えるように見える。 

 

40年で新年金制度に移行=改革原案を提示-民主調査会
(2011年5月17日 時事通信)
によると(太字筆者)

民主党の「社会保障と税の抜本改革調査会」(仙谷由人会長)は17日、総会を開き、同党の年金改革原案を出席者らに提示した。同党の2009年衆院選マニフェストに沿って、すべての公的年金制度を一元化し、40年かけて(1)消費税を財源とする満額で月7万円の最低保障年金(2)現役時代の収入に応じた所得比例年金-で構成する新制度に移行させると明記したが、どの程度の負担で老後にどれぐらいの年金を受け取れるのかなどの詳細は示さなかった。
 新年金制度では、最低保障年金と所得比例年金の合計で、すべての人が40年加入で少なくとも月7万円の年金を受け取れるようにする。ただ、最低保障年金で満額7万円を受け取れるのは現役時代の収入が少ない世帯に限定。一定の収入以上は支給額を減らし、所得比例年金の割合を高くする。

ちなみに現行の年金制度はこういう仕組み(社会保険庁「年金制度の仕組み」から)


この、現行の基礎年金+厚生年金・共済年金の上積み部分を全部所得比例年金に一体化し(=上の三角の部分)、年収600万以下の人は最低保証年金を支給し、7万円は受け取れるようにしよう、ということらしい。(それ以外は「公的年金」でない私的年金なので存続?)

要するに、今のままだと基礎年金は支払い減資が足りなくなるので上積み部分から補填しようということなのだろうか。
結局上積み部分のところを払っていた人が割りを食う感じ。

ちなみに、現在の制度が破綻しない前提だと、年収600万円のサラリーマンは国民年金と厚生年金でいくらくらい受給できるのだろうか。
年収300万~600万の層は厚生年金を支払うインセンティブがなくなってしまうのではないか。


この議論は、年金制度の積み立て不足(制度の破綻)と社会保障(生活保護)の問題を一緒にして論点を曖昧にしているような感じがする。

朝日新聞によると

 新年金制度は、2015年度の移行開始を目指す。当面は現行制度の見直しから手をつけ、徐々に移行させていくため、新制度が完成して月額7万円の最低保障年金が支給されるのは開始から40年後になる。

 そのため、民主党の調査会は議論を封印し、制度設計の先送りも検討。だが、年金の具体案を示さないと与野党協議の実現がさらに難しくなるため、近く具体案をまとめることとした。

要するに「腰だめ」なんですな。
なんか、年金制度はババ抜きのババみたいに「話題に触れたもの負け」という扱いのようで、問題点を先送りにしながらなし崩しにしていこうという雰囲気がありありなのが不愉快。


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政治家脳

2011-05-13 | まつりごと

数日前のネタですが、菅総理の浜岡原発停止要請について、「小幡績PhDの行動ファイナンス日記」の慧眼

天才 菅直人 浜岡事件  

彼ほど徹底したポピュリズムを目指し、かつ人気が上がらない総理は歴史上存在しないが、政治家としての面目躍如だ。  
中部電力が抵抗すればするほど、経済界の重鎮が反発すればするほど、自民党や民主党内の良識派が玄人的な批判をすればするほど、彼は英雄になる。既成勢力と戦う革命的運動家として。小泉の手法を野党的に反社会活動家として応用したらこうなる。  

浜岡原発を止めることにも一定の意味はあると思うのですが、問題は止めた後の電力事業のありかたや原発政策で、「止める」ことで思考停止に陥らないことが大事だと思います。

一方で浜岡原発のある御前崎の西の浜松は(現在は参議院比例区ですがかつて静岡7区から初当選した)片山さつき氏のお膝元です。朝生などにもよく登場される氏が黙っているわけはないと思い、ブログを見てみました。  

浜岡原発、4、5号機、津波堤防ができる約三年後まで停止要請、石井、那谷屋、フィリピン遊興出張がバレた日に?  

なぜ、今、54の原発の中で、しかも、3月30日の菅政権による緊急安全対策は、浜岡もクリアした、と自ら発表した後で、停止要請? 原発比率四割超の関西電力に無理させ、中電にも、すでに夏乗り越えが苦しいのが見えている東電にも提供させる??そのためには、福井県知事が難色を示している美浜を再開する?  
東電エリアは、真夏に備えて、Gウィーク連日操業など、3月から覚悟して自主計画をやり始めてます。
しかし、自動車はじめ、主要製造業がみっちり立地し、雇用も支えている東海、中部では、今回の根回しなしの、突然の停止は、織り込んでいません。 
どうせ、超法規的にやらせるなら、そのめどをつけてから発表しないと。

浜岡原発停止理由の資料から意図的にぬけていた?今年初めの福島第一第二の地震確率、0、0%!!?  

残念ながら、論点としてはマスコミや評論家と同じで、独自の切り口や語り口がなく迫力が欠けています。 
ゴルフや委員会資料は「野党議員の揚げ足取り」になってしまっている感じがします。  
片山氏の言っていることは「間違ってはいない」と思うのですが、政治家的またはポピュリズム的な発言としては、菅総理の方がはるかにインパクトがあります。  

菅総理のやり方の是非は置くとしても、片山氏が浜岡原発問題で埋没しないためには、正論だけでなくを政治的にインパクトのある切り口をかぎつける「政治家脳」を磨く必要があるように思います。
具体的には、浜岡原発の停止以降に焦点を当て、将来に向かってどのような意味を持たせるのか--再開の基準、他の原発との関係、電力の安定供給についての考え方の整理など--という将来に向けての議論の中で新しい戦線を構築すべきだと思います。

それは政治的な注目を集めるためだけでなく、現実的にも意味があると思うのですが。


余談ですが、櫻井よしこ氏も同じハマり方をしているみたいです。(孫引きですが以下参照)
浜岡原発停止をめぐる櫻井よしこ氏の詭弁
しかも、中身が上で紹介した2つのブログに似ている(元ネタにしたのかな?)ので、オリジナリティという点でもいまいちなところが残念です。

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『アメリカン・デモクラシーの逆説』

2011-05-11 | 乱読日記

ここ数年アメリカにおける貧富の格差や社会保障の脆弱さなどについての本は多く出されましたが、本書は様々な社会現象の背景を、建国の理念にまで遡って考察しています。

 「独立独歩」や「自助」といった個人主義的な価値は、本来、それ自体としては常に尊いものだろう。しかし、現実の状況は、むしろ「自己」を道徳的判断や社会的実践のリファレンス(参照)とすることを個人に余儀なく迫るものである。その結果、社会的な諸関係は、各個人の一人称的な視点から評価・判断されることになる。
 それは、ある意味では、アメリカにおける個々の行為者が、人生においてより多くの自由と選択肢を持つこと(ないし持ち得ること)を示唆するものである。しかし、高度に近代化した社会--あるいは、かつて文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースが「熱い社会(hot society)」と称したような、社会的・文化的な移動性・流動性・変化が奨励される社会--に生きる個人は、自己と社会との絶え間ない緊張感や不確実性を背負わされた存在でもある。人生はまさしく「ハイリスク・ハイリターン」であり、光り輝く「アメリカン・ドリーム」の陰には、無残に砕け散った無数の夢が横たわっている。

「「自己」を道徳的判断や社会的実践のリファレンス(参照)とすることを個人に余儀なく迫る」というのは、議論をわかりやすくする反面、触れ幅が大きくなる原因にもなりますね。
最近のTwitterでの原発関連のtweetでも、発言者を親原発/反原発か決め付けて反論する議論が散見されますが、そもそも140文字というのは自分の立場を明確にした上でのツールというアメリカ的なものなのかもしれないですね。
自分のような「半原発」の意見は140文字では言いにくいのも仕方ないか。

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菅総理の要請は実は中部電力には救いの手になったのではないか?

2011-05-10 | 原発事故・節電・原発問題

(昨晩のエントリを改題・訂正しました)

中部電力の浜岡原発停止の決定ですが、止めた後どうするのか、を考えてみました。

中部電力の電源別発電電力量はこちら

これをみると、原発(中部電力は浜岡だけ)への依存度は関電や東電より低いことがわかります。
また、水力の割合が多いのも特徴です。

では、もし浜岡原発の停止が長期化したり、廃炉になった場合、代替の発電所をどうするかですが、中部電力の管内は海に面しているのは静岡・愛知・三重県しかないため、火力発電所はほとんどが伊勢湾に面しています。(参照

伊勢湾周辺は企業の工場が集中しているため、新たな火力発電所の建設適地を探すのは難しそうです。

また、水力発電は管内の各水系に合計182箇所もあり(参照)、こちらはもっと新設が難しそうです。

なので、中部電力は40年以上経過し休止中の浜岡原発1,2号機を廃炉にし、代わりに6号機を新設する計画を進めていました。

浜岡原子力発電所リプレース計画等について ~1,2号機の運転終了および6号機の建設等について~(2008年12月22日)


ところが、今回の震災で原発の安全神話が崩壊したため、現在点検中の3号機の運転再開のめども立たない中で、6号機の建設は相当ハードルの高いものになってしまいました。
つまり、中部電力としては、将来的な電源確保の計画が暗礁に乗り上げてしまったわけです。

そこに今回の菅総理の全面停止要請が来ました。

中部電力としては、中長期的な計画では3号機の再開と6号機の新設に電源を頼らざるを得ない中で、手詰まりの現状を打開するにはここで政府の要請に従った上で、「安全性が確保できたら再開する」という言質を取り付けることで、3号機の再稼動と6号機の建設の道筋を作ろう、と考えたのではないでしょうか。
どのみち現状では防波堤ができるまで3号機は再稼動できないので、ここ2~3年4,5号機を止めることで将来のお墨付きをもらえれば帳尻は合うように思います。
しかも休止中に政府の支援があればよりマイナスは減ります。

もっとも、この判断には、将来(一定の)安全が確保できたと政府が再開にお墨付きを出してくれるか(その度量があるのか)、防波堤ができる3年後まで今の政権が持つのか(こっちのリスクの方が大きい?)、などの不確定要素があります。
また、国との交渉では、どこまでの言質を得るかがポイントになる一方で、それが「密約」などと言われないように情報公開も必要でしょうから、あからさまな拡大再開路線も言いにくいところです。

中部電力にとっては、今回の要請は「渡りに船」とは行かないものの「災い転じて福となす」程度の効果はあったように思います。


ただ、ここで巨費をかけて防波堤を建設し6号機を新設するという現状の計画だけでなく、その費用を他の電源の開発(素人なのでよくわかりませんが、自然エネルギーとか既存の水力発電や火力発電の効率化など)に振り向けるというような他の選択肢もこの機会に検討してみるべきではないかと思います。
原発休止後の燃料冷却中のリスクはあるでしょうが、どのみち防波堤建設には2,3年かかる間には低温で安定するのでしょうから、休止してすぐに再開前提で防波堤建設に取り掛かるよりは、これをきっかけに事業計画を高い視点から見直してみても時間の無駄にはならないと思います。
結果的には浜岡6号機新設が最適という結論になるかも知れませんが、今回の福島第二原発の事故で原発の潜在的リスク(コスト)が想定以上に大きいことを踏まえたうえでのきちんとした議論であれば説得力を持つと思います。
(その意味では僕は原発推進派でも反原発派でもなく、どこか現実的な落ち着きどころが必要だけという「半原発」のスタンスです)

そのへんを検討していくと、ひょっとすると「中部電力」という地域会社であることの限界がはっきりするかもしれませんし。


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『ガルシアの首』

2011-05-09 | キネマ

1974年、サム・ペキンパー監督、ウォーレン・オーツ主演の映画 桐野夏生の『白蛇教異端審問』のなかのエッセイで取り上げられていて、この映画が」封切だったときサングラスをかけたウォーレン・オーツのポスター(これ↓)

を見たのを思い出して。


場末の男と女が人生の逆転をかけて一発勝負する映画なんですが、主人公男女の意見や考え方が短期的な好業績の可能性への挑戦対中期的かつ目に見える安定の対比になっていて、なんか企業経営をめぐる誰かと誰かの対立みたいだなと。

映画は、サム・ペキンパー監督で、しかも世の中が今よりも単純で、善悪・強弱がはっきりしていた時代だけあって、Political Correctnessに配慮をしない迫力があります。

余談ですが、白煙を上げながら走るオンボロ車を見ると、この頃は自動車の方が石油よりも希少価値が高かった時代だったなと感慨にふけったり、最後に主人公が乗って逃げるのがダットサン510(ブルーバード)だったりして、これは昔我が家にもあったし、日本車の海外輸出のさきがけの車だったことも懐かしく思い出されます。

 

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桐野夏生3冊

2011-05-08 | 乱読日記

震災以降あまり硬い本を読む気がしなかったうえに、レビューを書く気も起こらなかったので、今週からぼちぼち書こうと思います。  

まずは桐野夏生。  

桐野作品は、物語のテンポと主人公(作者?)のいらだちが緊張感を生んで、そこの「怖いもの見たさ」が病み付きになるのですが、読み始める前に「さあ読むぞ」と気合を入れる必要があるので、きっかけがないとご無沙汰してしまいます。 
それほど多作でもないしその程度がいいのかもしれません。  

今回は『東京島』の映画化の広告を見て、そういえばここ数年桐野夏生を読んでいないなとまとめ読み。  


まずはエッセイを集めた『白蛇教異端審問』  

さんざん苦労した『柔らかな頬』の第二稿を編集者から「うまく直っていない」と言われ「わかりました、これは捨てます」と言い切った桐野夏生は  

「これからどうしますか」と問われ、「別の小説を書きます」と意地で答えた。この時、『OUT』の構想が生まれた。行き場のない中年女たちの小説を書こう、と。行き場のない中年女とは、まさしく自分のことだった。  

ここが桐野作品に通低する「いらだち」だったんですね。  
この本のタイトルになった「白蛇教異端審問」は月刊誌の匿名での評論に対する反論をつづったもの。ここではストレートに作家としての覚悟が伝わってきます。
ここの争いに期せずして巻き込まれた東野圭吾の解説もいいです。



次が『東京島』  

無人島に漂着した中の唯一の女性が主人公。 
序盤ちょっと中だるみ風に感じたものの、すぐにいつものテンポを取り戻して一気に読ませます。 
主人公だけではなく漂着した中での突出したキャラクター数名の視線からも描くとともに後から漂着した外国人との対比することで現代日本社会の批評にもなっています。 
頼るべき組織がない、とか、気がついたら周りはすべて敵であるというときにはオバサンの方が強さを発揮できるのかもしれません。 
その意味では現代日本の「男社会」への批評でしょうか。  

映画の公式サイトを見ると、主人公役の木村多江は美人すぎるし、その他の日本人漂着者もイケメンでしかも小奇麗に過ぎる感じがします。 
興行的には正解なのでしょうが、もっとドロドロした感じの映画にしてほしかったなと。


最後が『魂萌え!』  

夫が急死したあとに起こる様々な出来事に困惑したり怒ったりと翻弄される女性の話。 
ただ、人生は、それぞれの人生を自分勝手に送っている周囲の人と関わりながら進んでいくので、「試練を乗り越え新しい自分を発見する」とは綺麗にまとめていないところがいいです。 
僕は主人公を取り巻くはた迷惑な男の側なのですが、妙に主人公に共感できます。

 

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