一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

『エコノミック・ヒットマン』

2012-01-31 | 乱読日記

「不当債務」というエントリで見つけた本。
やっと読みました。

「エコノミック・ヒットマン」とは天然資源の豊富な新興国に発電所や工業団地などのインフラを建設させ、結果的に新興国を借金漬けにする一方で、天然資源の収益をアメリカのエンジニアリング会社や建設会社に還流させる仕組みを作るために、新興国の指導層に取り入る連中のことを言います。
彼らはCIAなどの政府職員ではなく民間企業の従業員の姿をとって新興国に食い込んでいくといいます。
そして、彼らが失敗すると「ジャッカル」(彼らは政府の工作員?)が工作に抵抗した指導者を事故等に見せかけて排除してきたといいます。

本書は1970年代から80年代にかけてコンサルティング会社の社員としてエコノミック・ヒットマンとして働いた著者が、インドネシア、ベネズエラ、パナマ、サウジアラビア、イランなどでの経験を記した告発本です。

ただ告発本にしてもずいぶん時間が経ってからなのは、コンサルティング会社を退職してから告発本を書こうとするたびに巧みに脅しや買収が持ちかけられ、そのたびに著者はそれに屈してきたからだとも告白します。  

内部からの生々しい告発は読んでいて面白いですし特に中南米・南米の事情は余り関心がなかったので非常に新鮮でもあったのですが、最後のほうになってだんだん不愉快になってきました。  

というのは、著者の反省と告白が、自分が安全圏に逃げ切ったうえで(現在著者はコンサルティング会社をやめたあと、代替エネルギー会社を立ち上げて売却し-その幸運には関係者の口止め料も入っていると認識しています-現在は南米や東南アジアなどの少数民族や伝統文化を西欧社会に紹介し守るためのNGOに従事しています)、さらに良心を満足させようとせんがためという色が濃くなるからです。   

・・・だが、この本は処方箋ではない。あくまでも告白でしかないのだ。EMH(Economic Hit Manの略)になることを、自分に許してしまった男の告白なのだ。男は、数多くの特権を提供され、従うことが正当化しやすかったがゆえに、腐敗したシステムに従った。自分が強欲であることも、悲惨な状況で絶望している人々を搾取し、この地球を略奪していることも、実はよく知りながら、つねに言い訳を見つけていた。この男は、歴史上もっとも豊かな国に生まれたという事実を完璧に利用しつつ、良心がピラミッドの頂点にいないことで自分を哀れんでいた。教師が経済発展の教科書を読むのに耳を傾け、世界帝国を発展させるためには、殺人だろうと大量虐殺だろうと環境破壊だろうと、あらゆる行動を正当化する人々を手本にした・・・   

・・・私にとって、告白することは目覚めることに欠かせない一部分だった。あらゆる告白の例に漏れず、これは贖罪の第一歩だった。  まあ、ここまではよくあるパターンなのですが  さて、今度はあなたの番だ。あなたはあなた自身の告白をしなければならない。・・・  

・・・自分自身にこんな問いかけをしてみよう。私は何を告白しなければならないのか?私はどんなことで自分や他人を騙しているのだろうか?どんな場所に身をゆだねてきたのだろうか?いったいなぜ、このようなバランスを欠いた世界に暮らすことに甘んじているのだろうか?・・・     

百歩譲ってそういう反省をするとしても(そして多かれ少なかれ長く人生をやっているとそういう自省をすることはあると思うのですが)、著者に伝道師面されたくはない、と思ってしまいます。

アメリカのイラク侵攻とその後の国内での批判を見るとこういうのはアメリカ人の得意分野のようにも思えるのですが、考えるとアメリカ人に限らず、日本でも「えらい人」の中でこういうタイプの人はけっこういますね。
敗戦時に「一億総懺悔」した日本国民は総体としてみるとはアメリカと好対照ですが、指導層や財をなした人は懺悔せずに「明日の日本国のために」と言い切って「前向きな」(何にとって前向きかは人によって違いますが)行動をしていたわけですから。

成功するまでは無反省でい続けることは(特定の分野においてだけかもしれませんが)成功の秘訣の一つなのかもしれません。

 

 

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NHK-BS 世界のドキュメンタリー雑感

2012-01-30 | よしなしごと

ここのとことても寒いので、特に出かける用事がないときは家に引きこもっています。
おかげでためていた録画をまとめて観ることができました。

録画しているのはNHK-BSの世界のドキュメンタリーが多いのですが、印象に残る作品が多かったです。


三つ星シェフが挑む料理改革~機内食編~

イギリスの三ツ星レストランのシェフが「まずい料理」を改善して回るシリーズ。
(このあとに小児病棟編もあります)

実は機内食は地上のキッチンで調理された状態では(多少お世辞もあるのでしょうが)おいしいのだけれど、機内の機材で再加熱することで味が損なわれてしまうこと、そして、そもそも機内の低気圧・超低湿度(約20%と砂漠以下らしい)では人間の味覚が鈍くなってしまうことなど新たな発見があります。
そして、機内食は「おいしい」だけでなく限られた時間に限られたスペースと機材で加熱し、盛り付け、配膳できるものでなければならない、という制約があり、そのなかでどう新メニューを作るかを追いかけます。

この三ツ星シェフ、探究心だけでなく機内食調理会社のスタッフやCAの巻き込み方に人柄があらわれていて、好印象。


私の土地は渡さない ~コロンビア~

金などの鉱物資源が豊富なコロンビアの山間部で、採掘許可を得て、土地所有者である貧しいアフリカ系住民を不当に追い出そうとする大企業に抵抗し、法廷闘争で勝利した住民の話。

コロンビアも他の多くの南米諸国同様米国に資源を供給するとともに対外債務によりその収入は国内の一部の権力者・富裕層にわたる以外は米国に還流するというエコノミック・ヒットマン(本も読了しましたが感想は後日)的なメカニズムに対する抵抗でもあります。
クリントン国務長官のコロンビア訪問時の演説が挿入されているのが、地元の人もそのメカニズムを知っていることを示唆していて印象的。


ガスランド ~アメリカ 水汚染の実態~

最近注目され始めた地中の岩盤から取り出す天然ガスシェールガスの採掘に伴う環境汚染問題を取り上げた番組。
シェールガスは採掘技術の進歩で採算に乗るようになったのですが、その技術である水圧破砕法に使われる化学薬品が広範囲な環境汚染、特に河川・水道水の汚染をもたらしているものの、大企業は口を閉ざし、そこから税収を得ている地方自治体もきちんと取り合わないという現状を取材しています。

外国だけでなく自国でも利益の追求のためには八方手を尽くすというあたりは、資本主義の本家の面目躍如ではありますが、それへの反対の動きもまた強力になりつつあるところもアメリカらしい。


甘いチョコレート 苦い現実

チョコレートの原料となるカカオ豆のほとんどを生産するコートジボワールとガーナでは、過酷な児童労働が今も横行しています。
一方で欧米の企業は自社製品には児童労働に関与した原材料の使用を否定するものの、農家から買い付ける卸業者はほとんどノーチェックである実態が明らかになります。
またフェア・トレード認証についても、認証団体は契約農場に児童労働の禁止を義務付けてはいるものの、現地を取材すると認証団体の契約農場でも児童労働が行なわれており、認証団体が発見すれば契約を打ち切ってはいるもののいたちごっこになっている実態もわかります。

企業のコンプライアンスとかCSRとしてどうあるべきなのかを考えさせられます。

児童労働に関する国際協力NGO"ACE"のサイトでも、この番組への反響が大きかったのかこんな記事があります。

お知らせ : 12月17日放送 NHK-BS1『甘いチョコレート 苦い現実』をご覧になったみなさまへ

フェアトレードとして取引されているカカオ豆の生産地で児童労働が見つかる、という場面もありましたが、フェアトレードが児童労働を予防し、貧しい農民たちによりよい価格や生活を保障する、今選択できるひとつの方法であると認識しています。

チョコレートに関わる企業も少しずつ取り組みを進めています。この度、森永製菓株式会社様には、ACEを「1チョコ for 1スマイル~あなたが食べると、もう一人がうれしい」キャンペーンの支援パートナー団体として選定していただき、ガーナでの支援活動「スマイル・ガーナ」プロジェクトをご支援いただきます。また、チョコレートデザイン株式会社様にも継続的なご支援をいただいております。

現地でも、まだ課題はたくさんありますが、政府や自治体がすでに取り組みを行っており、ACEも地域住民を含む関係者と連携して活動を進めています。

NGOであれば「完璧ではないかもしれないがやらないよりははるかにいい」という論理は十分説得力を持ちます。
ただ昨今妙に完全無欠を求められる企業としては、どう対処すべきかは悩ましいところだと思います。
アパレルにおける縫製工場のように現場が限定されているものなら100%管理することも可能かもしれませんが、途中で仲買人を通すような農産物は100%契約農場にする(それは供給安定にとってはリスクでもあります)というのも現実的には難しいのではないでしょうか。

自分がその企業の立場だったらどう判断するのだろう、と考えてしまいます。


内戦を終わらせた女たち ~リベリア~

権力と資源をめぐる独裁体制と反政府勢力の武力抗争によって多くの市民、特に女性や子供たちが犠牲になっていたリベリアで立ち上がった女性たちの市民運動の話。
粘り強い抵抗運動は最後には内戦の停止と民主選挙に結びつき、運動の指導者と選出された初の女性大統領はノーベル平和賞を受賞することになります。

運動は最初はキリスト教会の女性たちから始まったのですが、集会に参加したイスラム教徒の女性がした演説が印象的

 「私はイスラム教徒ですが、同じ神を信じるものとしてこの運動に参加したい」

伝達経路(といっては怒られるか)が違うものの信じる対象の神は同じということはリベリアでは常識なんだなと妙なところで関心しました。
(中東でも以前は各宗教が共存して仲良く生活していたようなのでこちらが本来の姿なのかもしれませんが)

たぶんアメリカの中西部あたりだと神も違うと思っている人のほうが多いんじゃないでしょうか。

日本人としてはセム的一神教同士が変な形で団結されるとそれはそれで困ったことになるのですが・・・

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男性限界

2012-01-26 | 東日本大震災

ではなく「弾性限界」の話。

東日本大震災地震でも、免震装置のついているマンションに住んでいた友人は揺れがかなり少なかったようです。
ただ大きな入力がかかった場合、免震ゴムが弾性限界を超えて亀裂が入るなどして免震性能が低下しなかったんだろうかと思っていたのですが、やはり専門家の調査がなされていたようです。

免震建物の可動部、大震災で3割損傷 ビル主要部は無事
(2012年1月26日5時0分 朝日新聞)  

免震建物に取り付けられた可動部材の約3割が東日本大震災で損傷したことが、日本免震構造協会の調査でわかった。損傷で天井や壁に傷がついたり、けが人が出たりする恐れもあるうえ、設計通りに機能しないのは問題だとして、同協会は再発防止に向けた指針作りを検討する。    

これだけ読むと、「可動部」というのは地震で揺れると動く免震装置(ゴムやボールベアリングやダンパー)のことで3割も損傷したのかと驚いたのですが損傷を受けたのは「免震建物と地面の間など地震での動きが異なる部分を橋渡しする装置」この図で言う「エキスパンションジョイント」の部分のようです。



(エキスパンションジョイントについてはこちら参照)  

記事のつづきによると、  

不具合は、製品の機能や設置に問題があったもののほか、レールにほこりがついていた、動くのを妨げる柱が別の工事でつけられていたなど、維持管理が不十分な例が目立った。揺れを押さえる装置に亀裂が見つかった例もあった。  

ホコリはともかく、柱があったりそもそも動かないようになっているのはダメですが、それでも素人的に考えるとエキスパンションジョイントが損傷する程度なら取り替えればそれほど費用もかからないように思います。  

より大事なのは最後の部分で、「揺れを押さえる装置」=免震装置に亀裂が見つかったということは、やはり、免震ゴムが弾性限界をこえてしまったものがあるようです。  

免震装置が地震のエネルギーを受け止めた結果の亀裂なので装置自体はきちんと機能したと思うのですが、今回大丈夫だったからといって安心するだけでなく次の地震に備えて点検・交換が必要だというのは注意した方がいいですね。
また、マンションなどでは、一定以上の規模の地震があった後は、免震装置を点検したほうがいいのかもしれません。

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「コンプライアンス改革」にとどまるとコンプライアンスは向上しないのではないか

2012-01-25 | コンプライアンス・コーポレートガバナンス

toshiさんのブログで サラリーマン根性とコンプライアンス意識の統合についてというエントリでとりあげられたNBL(商事法務)新年号「コンプライアンス改革」座談会の記事の中の増田弁護士の発言(孫引きですが)

法令遵守に関しては、表面上の遵守に留まるのではなく、無意識のレベルまで変える(マインドを変える)ことが重要と唱えられており、こうした無意識を変えるためには、「臨場感を上げる」(他人事ではなく、自分のものとして捉える)ことが大事だ、とおっしゃられています。 
そして、臨場感を上げるためには、具体的には、「正しいことをしたらどんな利益があって、自分にどんな満足感があるのかというのを多くのビジネスパーソンが肌でもって体験する」ということが必要だ、と発言されております。  

増田弁護士はさらにこの記事の中で、コンプライアンスの定着にはティーチング(教え込む)のでなくコーチングの発想が必要、といいます。   

コンプライアンスにおいても、大切なことをしっかりやって、お客さんに喜ばれたらどんなにうれしいかという実体験を先輩を見て感じる機会自分が社会にものすごく役立っているんだということを気づかせてあげる   

トップの暴走を許しているのは、それは社員の無意識なのです。・・・本当にボトムアップの要となる一人ひとりの多くが、自分がこの会社で誰のために何をやりたいのか、とか、どうすべきなのだと考えている組織であればあるほど、暴走しにくいと思うのです。  

確かにそうなんでしょうが、ちょっと違和感が残ります。 

ひとことで言えば企業においてサラリーマン(役員でもいいですが)「正しいこと」と「自分の満足感」が高い次元において常に一致するのだろうか、ということ。

マズローの欲求段階説をおさらいします

「自己実現の欲求」(省略)
「承認(尊重)の欲求」
・ 高いレベルの尊重欲求:自己尊重感、技術や能力の習得、自己信頼感、自立性などを得ることで満たされ、他人からの評価よりも、自分自身の評価が重視される。
・ 低いレベルの尊重欲求:他者からの尊敬、地位への渇望、名声、利権、注目などを得ることによって満たすことができる
「所属と愛の欲求」 :情緒的な人間関係・他者に受け入れられている、どこかに所属しているという感覚
「安全の欲求」:安全性・経済的安定性・良い健康状態の維持・良い暮らしの水準、事故防止、保障の強固さなど、予測可能で秩序だった状態を得ようとする欲求 
(一般的に健康な大人はこの反応を抑制することを教えられている上に、文化的で幸運な者はこの欲求に関して満足を得ている場合が多いので、真の意味で一般的な大人がこの安全欲求を実際の動機付けとして行動するということはあまりない。)
「生理的欲求」(省略)  

増田弁護士のメソッドが効果を上げるのは、社員が「高いレベルの尊重欲求」より上に訴えかけることができる状態にある時だと思います。 

ただ実際は、個人としては上位の欲求に基づいて行動したいと思っても、やれ成果主義など外部の(しかも必ずしも自分自身が納得てはいなかったりする)物差しで評価されると「低いレベルの尊重欲求」にとどまることは結構多いように思います(実際に「俺はこれこれをやったんだぜ」と自慢する人って多いですし)。
また、個人的な引き以外での転職を意識すると経験や実績という外部にアピールできるものを持っている必要があるように思います。(スティーブ・ジョブズがジョン・スカリーを口説いた「砂糖水」のエピソードのように、自己実現を引き合いに出すのは誘う側であって、誘われる側からは普通は言い出さないんじゃないでしょうか)。 
さらに、リストラだ何だといわれれば「安全の欲求レベル」を求めるようになります。  


つまり増田弁護士の主張は「社員が自発的・積極的に会社のための行動をとるような風土を醸成すればコンプライアンス上の問題は起きない」ということになるわけですが、そういう会社はコンプライアンスだけでなく生産性も高く、環境変化にも適応でき、イノベーションを起こしやすい、いわば理想の会社なであって、その定義自体がトートロジーになってしまっているように思います。
そういう会社にはそう簡単になれるわけではないところが一番難しいし、それを実現するのであればコンプライアンスに目的を限定するのはもったいないと思います。


また、同じ対談で國廣弁護士は「コンプライアンスは「利益かコンプライアンスか」というブレーキではなく、企業の成長の基礎となるものだと言うことです。」と発言しています。 
この「コンプライアンスと企業利益は対立する概念ではない」もよく指摘されますが、上の伝でいえば、対立している二者を止揚すればいい、という問題でもないのではないかと思います。

企業においては、「ヒト・モノ・カネ」という限られた経営資源の配分をめぐってブロジェクトとか事業部同士の間で熾烈な競争があって、それらを比較検討する議論を通じて意思決定が行なわれています。
つまり「利益」をめぐる意思決定においても、常に対立があるわけです。
もしその意思決定が「サラリーマン根性」に支配されたとするとコンプライアンスの問題が起きなくとも会社自体が傾いてしまいます。(実際「社長プロジェクト」とか「会長案件」が足かせになってしまった会社は結構ありますよね、以下自粛)  


要するに、「コンプライアンスのレベルが低い企業」があるのではなく、「経営の意思決定の質が低い会社はコンプライアンスに問題のあることが多い」ということで、コンプライアンスのレベルだけを上げようということ自体にちょっと無理があるのではないかと思うのです。


そして、対談のタイトルが「コンプライアンス改革」とあるように、NBLでは現在の企業のコンプライアンスのレベルにいまだ問題があると考えているようですが、実際にそうなのでしょうか?

今は、コンプライアンスとかCSRの概念が経営の課題として認識されていなかった時代とは違いますし。大王製紙(創業家の大株主一族が経営している会社)やオリンパス(「財テクブーム」の残滓をいままで引きずっている会社)とか電力会社(事業独占が認められている公営企業)のようなことは一般的だとは思えません。
これらを他山の石とすることは必要でしょうが、これら起きたからコーポレートガバナンスの仕組みを変えなければならない、という議論に直結するのは違和感がありますし、社会全体の費用対効果としてもよくないように思います(それは上場審査や上場廃止基準でコントロールすべきだと思います)。

多くの会社では、たとえば経営陣がミスリード(とか「殿、ご乱心」)しそうになったときに他の役職員が問題点を指摘したり軌道修正するようなことは、レベルの大小はあるものの行なわれているんじゃないでしょうか。
ただそういうのは外部に自慢するような事ではないし、また形式的には偉い人の顔をつぶさないような形で進めたりするので目立たないだけなんだと思います。
(弁護士の社外役員が機能して不正・不祥事が未然に防げたケースがあったとしても、その弁護士は守秘義務があるからその弁護士はおおっぴらには言えないし、「細かくはいえないが私が止めた不祥事は一杯ある」なんて自慢する弁護士がいたとすれば、そういう「低いレベルの尊重欲求」で動いている弁護士は増田理論では社外役員として不適切ですよね。)  


確かに大きな不祥事を起こした場合などは、コンプライアンスをきっかけにして会社のありようを変えていく、ということは可能だし必要でしょうが、順調に行っている企業においてそれをとりたてて行なう必要があるかは疑問です。

対談でも社外役員である弁護士の役割が議論されていましたが、「役員」なんですから弁護士だからといってコンプライアンスとか不祥事の防止という専門的かつ狭い分野だけに注目するのでなく(それは「悪い意味の弁護士根性」ではないでしょうか)、「利益」のほうも含めた経営の意思決定もきちんとなされているのかという会社のありよう(それって要するに広い意味でのコーポレート・ガバナンスとか内部統制ということですよね)が正しい方向にあるかどうかを見極める姿勢や見識が求められているのではないでしょうか。
コンプライアンス意識の向上はあくまで結果なんだと思います。




ところで、昨日とりあげた『武士道の逆襲』の中に諫言(かんげん)について触れている部分がありました。
『葉隠』には

「主君の御用に立つべし」、これを家老の座に座りて諫言し、国を治むべし、とおもふべし。

というくだりがあるそうです 。
これについて著者はこういいます。

 「諫言して、国家治むること」が「奉公の至極の忠節」(聞書2-141)といわれる、より本質的な理由は、むしろ諫言が、治世において唯一はっきりと、己れの名利を度外視して主君のために命を捨てる奉公の形態であると言う点にこそある。

ここまで腹は据わっていれば立派ですし(江戸時代でもここまでの人は少なかったから『葉隠』が著されたのでしょう)、社員が皆この覚悟であれば内部通報制度は不要ですね。
ただ、そこまではいかないにしても、結構サラリーマンも場面場面ではいい根性を見せる人もいるし(もちろんそうでない人もいますしその方が多いかもしれません)、「いい会社」とまではいかないかもしれないけど「そこそこ真っ当な会社」というのが多いように個人的には思うんですけどね・・・

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『武士道の逆襲』

2012-01-24 | 乱読日記

現代における武士道のイメージといえば新渡戸稲造に代表されるような倫理・道徳思想ですが、著者はこれら明治期に興った武士道(本書では「明治武士道」といって区別します。)は、10世紀以降江戸時代までの軍事力の担い手であった私的戦闘者である武士の思想、行動原理とは異なるものである、という問題提起の書です。

前半は武士の思想として乱世を通して形成されてきた武士道について詳しく解説します。 

武士は私的戦闘者であり、実地の闘争の中で強さの追求をしてきました。   

武士の強さは、武力はもちろん、知恵、人望、統率力、動員力、地の利、天運など有形無形のあらゆる力の総合の上に成り立つものである。

武士道はこうした、自分が身につけ、使うことのできるあらゆる力を勘定に入れながら、本当の強さとは何か、最後に勝つ武士の条件は何かということを切実に追求する中から生まれてきたのだ。  

こうやって形成されてきた武士道は、江戸時代の中期以降、乱世の武士の精神を太平の世にふさわしい人倫道徳によって説明しようとし、儒教的道徳思想からの解釈がなされるようになります。 
ただ、あくまでも江戸時代までは武士は私的戦闘者の集団であり、個人ベースでの忠誠を元にしているという点では変わりはありませんでした。

しかし明治維新で大きな転換点をむかえます。  

明治維新により武力は国民兵が担うことになり、武士は消滅します。
本来そこで武士道も消滅するはずだったのに、なぜ逆に明治になって武士道ブームが起きたのか。 

著者はそこには軍隊における統制の確保という要請があったと指摘します。 

江戸時代の常識からは、明治新政府の軍隊は諸藩の連合軍であり、それは一体のものではなく当然離合集散のありうるものと受け止められていました。
しかし、近代国家の軍隊としては一体の統制の元に行動する必要があり、その統制を支える思想が必要になります。   

国家の軍隊は「天朝さまに御味方する」諸藩の連合軍=官軍であってはならない。それは、天皇自身が「大元帥」として統率する帝国軍隊=皇軍でなければならない。

そこで、天皇=大元帥を頂点とする上下関係を主体的に受け入れるために、従来の武士道の「忠」(忠義、忠節)の考えを取り入れようとします。 
しかし、武士の主従一体の関係は同じ武士として共に戦うことを核としている、つまり近代国家の軍隊とは相容れないという問題があります。 

これについて陸軍参謀局の課長をつとめ、軍人勅諭の起草に中心的な役割を果たした西周は『兵家徳行』でこういいます。   

日本陸軍ハ日本固有ノ性習ニ基ヅカザルヲ得ズ。然リト雖ドモ悪弊ナル性習ハ固有ト雖モ除クコトヲ勉メザルベカラズ。

そして民族全体の精神としての「大和心」=日本という国で長い間共に暮らしてきたことを「忠」の根拠として、「武士を否定しながらも軍人道徳の基盤を武士の道徳に依存する」という微妙なバランスの上に軍人勅諭が発布されます。 

しかし、軍人勅諭の中では「武士」という単語は「中世以降の如き失態」を著すものとして2箇所に用いるられているだけで、「武士道」という単語は使われていません。
それは軍人勅諭の明治15年という時点では「武士」は否定すべき存在であるとともに「武士道」は旧武士階級のものだったという微妙なバランスがあります。

そうして軍隊の統合をなした明治政府は、明治23年の教育勅語で国民道徳のあり方を定めることになります。  

・・・『教育勅語』は、明治十年代の軍指導者が模索していた、実感的な封建道徳を、「メカニズム」(近代的国家・軍隊)の中にいかにして定位させるかという課題に、最終的な決着をつけたものだということができる。在来の道徳的諸概念を、その生い立でた土台からごっそり抜き去り、新たに、天皇と人々が共にこの島国で暮らしていたという事実(難しくいえば「国体」)の上に植えかえる。つまりは、全ての道徳は、「民族精神」「大和魂」から生まれるという命題が、国民周知のこととして確定される。それが、『教育勅語』発布という事件だったわけである。

そして、明治30年代に日本の国力が対外的にも認知される中で、列強に対しても日本人がキリスト教同様普遍的な道徳を持つ民族であると主張するために、本来「大和魂」と出所の異なる「武士道」が「民族の精神」として再びとりあげられることになり、ここに「明治武士道」のブームが来ます。
しかしその「明治武士道」は、「武士道は、当事者たる武士はおろか、儒教的な武士道徳も突き抜けた、全くの観念と化」したものになっていました。  


ざっと述べるとそういう内容の本です。
個人的には後半部の「明治武士道」に換骨奪胎されていくところの分析が興味深かったですが、前半部の本来の武士道に対する著者の思い入れを反映したかのような詳しい解説も勉強になります。

時間があれば読んで見る価値はあると思います。


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そんなことではなかろうかとは思っていたが

2012-01-23 | 原発事故・節電・原発問題
やはり残念。

NHKニュース 政府の原災本部 議事録を作らず

責任追及以上に、どういう情報を元に意思決定をしたのか、どういう情報が必要だったのか、何が想定外だったのか、何を準備すべきだったのか、指揮命令系統への反省点、緊急時の意思決定において陥りがちな陥穽など、今後に生かすべき情報が山のようにあったでしょうに。

証拠を残さないという明確な意思があったなら事の是非はさておきまだましですが、自分たちのやっていることの意味を理解していなかった、または対応に追われて考える余裕がなかったとしたら、そういう冷静な視点を持てない程度のレベルだったというところから反省して立て直す必要がありそうです。


このニュースを見て思い出したのが、映画『プラトーン』の最後の方の場面。
基地がベトコンの猛攻で陥落必至となり、司令官が爆撃機に基地を爆撃目標として指示する場面。
ここで司令官は爆撃機のパイロットに「これは俺の指示だと記録しておけ」と言います。(下の動画の7分50秒あたり)

このセリフは最初に映画を見たときから妙に印象に残っていたのですが、戦闘における意思決定は生死を伴う判断なので、記録に残して指揮命令や責任の所在をはっきりするという習慣があるのでしょう。


震災のときに官邸でも自衛隊からきた若手が冷静さを欠かずに頼りになったという話がありましたが
こちらの2~3ページ参照)、自衛隊しか頼りにならない、という状態は長期的にはよろしくないと思うので、政府の緊急対策本部のメンバーになる人たちは、非常時の対応について一定の訓練を受けおいたほうがいいように思います。


(戦争映画なので人が死ぬ場面が大量にありますのでご注意を)
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「出産回転率」という発想

2012-01-22 | よしなしごと
あべのハルカスの隣にある「Q's MALL」に寄ったところ、渋谷の109ゾーンを設けるなどの店舗構成もあって、若い人中心にかなりの人手でした。

印象的だったのが、エレベーターに乗ったときヤンママが3人(うちヒョウ柄1名)と唇にピアス3つくらいつけて双子用のベビーカーを押したパパ1名が子供を総勢7人連れて乗り込んできたこと。

少子化問題どこ吹く風、という感じです。

僕の周りでも子供が3人以上いる家族というのもけっこういて、子供いなかったり一人っ子の世帯と二極化しているように感じますし、晩婚化と言われていますが、若くて結婚する人もけっこう多いです。


少子化問題といえば、出生数や合計特殊出生率を云々しますが、ここで「回転率」という概念も考えてみるべきではないでしょうか?

たとえば女性が子供を生む平均年齢が5歳若返ると人口の再生産のサイクルがその分短くなります。
企業活動だと在庫回転率や総資本回転率は重要な指標なのですが、人口政策ではあまり議論されていないように思います(僕が知らないだけかもしれませんが)。
「出産 回転率」で検索するとほとんど畜産関係のサイトしかヒットしないのですが(「分娩回転率」というのが正しい用語のようです)、生産増には意味のある指標ということでしょう。
(ところで「生む機械」発言で辞任した大臣がいましたが、ここで言いたいのは出生数に有意な変化を与える要因という意味で言っているので、畜産と同視しているわけではないので為念)


一定のライフスタイルを押し付けることには反発もあるかもしれませんが、人口増加が国家的な課題であるならば、それに対するインセンティブをつけるというのも一つの方策だと思います。
若年出産に対する補助を厚くするのは、一般に若い方が所得が低いという点からも正当化されるように思うのですが。
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『友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル 』

2012-01-19 | 乱読日記

現代の若者が直面している人間関係、コミュニケーションの問題を分析した本。僕のようなオジサン世代にとっては、具体例も交え非常にわかりやすい分析になっています。

また、amazonでの高校生のレビュー(参照)でも、適確な分析だと評価されているので、現実(の少なくとも一定の部分)を的確に切り取っているのだと思います。


著者は現代の若者たちが対立の回避を最優先し、注意深く気を遣いながら、なるべく衝突を避けようと慎重に人間関係を営んでいることを「優しい関係」と特徴づけ、それによってもたらされる若者たちの息苦しさや現代の人間関係の困難さを分析しています。  

・・・彼らの「優しい関係」は、その外部へ一時的に避難することも、その内部で孤高にふるまうことも、どちらも認めない強い圧力をもっている。だから、他の人間関係へ乗り換えることも難しいし、ひとりで生活していくことも難しい。そのため、現在の人間関係における躓きは、そのまま社会生活の難しさを意味しがちである。  

・・・社会生活からひきこもり状態に移行するときの敷居の低さは、ひきこもり状態から社会生活に復帰するときの敷居の高さと、じつは表裏一体の関係にある。そのどちらも、円滑で過剰なコミュニケーションへの没入を共用する「優しい関係」のキツさを背負っているからである。

一方で、最近のビジネスにおいては自分や相手の感情を場面に合わせて適切に処理し対人関係をスムーズに築く能力が「コミュニケーション能力」「人間力」として重視される「人間像の矮小化」「コミュニケーション能力の市場化」が起こっていると指摘します。  

いわば孤島化した人間関係を生きる若者たちは、人間関係の多元化にともなう価値の相対化とその魅力の低下に対処するために、また、昨今の新自由主義的な経済活動に適合したコミュニケーションへの社会的圧力に抵抗するために、・・・それでもなお生のリアリティをなんとか保ちつづけるために、社会へとつながる回路をあえて積極的に遮断しようとしているのである。  

新書版ということもあり、具体例からテンポ良くと論旨を進めていく書きぶりは気持ちよくもあり、また「そこまで行ってしまっているのか」と怖くなりもします。  


若者世代を理解する一助になるだけでなく、実は我々大人の世界も「空気を読む」コミュニケーションに毒されつつあるのではないかと反省するきっかけにもなります。

「外部へ一時的に避難することも、その内部で孤高にふるまうことも、どちらも認めない強い圧力をもっている」って、こういう組織ってありますよね。
オリンパスや大王製紙の取締役会もそういう雰囲気になってしまっていたのかもしれません。


お後がよろしいようで。


 

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東西の背比べ

2012-01-18 | うろうろ歩き

「阿呆と煙は高いところにのぼりたがる」と言いますが、「高いものを建てたい」という病も伝染するのかもしれません。

今、日本の私鉄のNo.1とNo.2が東西で高い建物を建てていますが、それを続けて見る機会がありました。


東はいわずと知れた東京スカイツリー。



事業主は私鉄としては東日本最大、全国でも2番目の営業距離の東武鉄道です。

スカイツリー本体だけでなく、足元に東京スカイツリータウンという複合開発になっていて、「東京ソラマチ」という商業施設や、

(大きくて一部しか写っていません)



「東京スカイツリーイーストタワー」というオフィスビルが建築中です。 




トリビアですが、この全体が建築基準法上は1棟の建物になっていて、階数としては事務所ビルの「31階建て」ということになるそうです。
スカイツリー部分は地上29階(=第二展望台)棟屋3階(=アンテナ)という扱いだとか(うろおぼえですが)。


スカイツリーの団体申し込みは連日満員だそうで、「阿呆と煙は・・・」ではないですが新名所であるスカイツリーや商業施設は相当の集客を見込めるでしょう。

ただ、スカイツリーの隣にあるから目立たないものの、オフィスビルもかなりの大きさです。



こちら)によると、貸室面積で7700坪もあるそうですが、従来オフィス立地でなかったところですし、誰が借りるのでしょうか。
東武鉄道自身は既に近くに別棟の本社屋を作って移転済のようなので、自社以外のテナントで埋めきれる自信があるのでしょうか。

株式会社日本格付研究所(JCR)の2011年11月29日のレポート(参照)では 

東京スカイツリータウンは、商業施設のテナントリーシングが終了し、現在オフィステナントのリーシングが進んでいる。都内オフィス市況の改善が進まない状況下で当社施設についても計画当初の賃料収入を下回る可能性があるが、スカイツリーや商業施設と合わせた収支ではJCRの従来の想定の範囲内に留まる可能性が高いと考えている。  

と微妙な書きぶりになっています。

完成したらすいているオフィス棟の方を見に行こうと思います。 
ちなみにイーストタワーの30階と31階にもレストランができるそうで、そちらのほうが落ち着いて夜景とスカイツリーを眺めることができるとか。ただ、スカイツリーを眺めるには近すぎるかもしれません。

もうひとつトリビアですが、スカイツリーの展望台まで水を上げるには約100m毎にポンプを繋いでいるそうですが、一方で下水は中継タンクなどは経由せずにそのまま下に落とすそうです。
なので、展望台にあがる機会があれば、ぜひトイレで大きいほうの用を足されることをオススメします。
第二展望台からだとあなたの分身が450m一気に落下する醍醐味を味わえます。(実際はカーブをつけて減速するようにしているそうなので、ウォータースライダー気分でしょうか)



次に西。

先日大阪に寄ったついでに見たのが、私鉄最大の営業距離を誇る近鉄が大阪阿部野橋駅の再開発で建てている「あべのハルカス」



何とこのビル、完成すると地上60階建て高さ300mの日本一高いビルになります。
北東に天王寺公園を挟んで建つ通天閣(高さ100m)を遥かに見下ろす感じです。
(そういえば通天閣には「HITACHI」の電飾がありますが、スカイツリーのライトアップはパナソニックだそうです。スカイツリーには社名は表示しないようですが。)

まだ180mまでしかできていませんが、既に存在感十分です。




この計画は2006年に航空法による高さ制限が緩和されたのを契機としているそうです。
そして東京スカイツリーの建設地が最終決定したのも奇しくも2006年3月です。(あべのハルカス「計画の経緯」、東京スカイツリー「取り組みの経緯」 参照)

私鉄最大手、そして関西を代表する企業である近鉄としては「東武に負けるな」そして「関東(それまで日本一だった横浜ランドマークタワー)に負けるな」という意識がはたらいたのかもしれません。

建物は近鉄百貨店とマリオット都ホテル、それにオフィスから成り立っています。ホテルは376室と大きめのうえ、オフィス部分は18,000坪もあるそうです(参照)。
都ホテル、近鉄百貨店を含め「オール近鉄」プロジェクトという感じが前面に出ていますね。

テナントとしてはシャープの営業・開発部門が移転してくるらしいですが(参照)、大阪は梅田北ヤードなどにも大きなビルが続々と建っている中で全部を埋めるのは大変なんじゃないでしょうか。

こちらも株式会社日本格付研究所(JCR)の2011年10月6日のレポートでは(参照

阿部野橋ターミナルビル開業後に財務の改善が進むかどうかは、売場増床後の百貨店の収支および新規に供給されるオフィスやホテルの稼動状況に大きく依存している。このため、今後の阿倍野エリア全体の集客状況にも注意を払っていく。

とされています。


東西の背比べ、どうなるでしょうか?


万が一思ったほど業績が上がらなかったとしても、立山と白山の背比べのように、わらじや石を積んでごまかしたりはしないように願いたいものです。


お後がよろしいようで。

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『ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録』へのバンカーからのつっこみ

2012-01-17 | 乱読日記

先日取り上げた『ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録』にからめて、昨日(1月16日)の朝日新聞経済面の「証言 そのとき」というシリーズ(?)で、高橋温住友信託銀行前会長がUFJ信託の三菱東京FGとの争奪戦について語っています。

 著書で西川さんは、UFJの沖原頭取らが自分にサインを送ってきたのは本音では三菱東京と組みたくはなかったのだろうと指摘している。適切な手を打てば、UFJ本体も三井住友に統合できただろう、とも振り返っている。そして「正直に申せば、大魚を逃したということだ」と総括しているのだ。
 だが「大魚を逃した」と言いたいのはこちらの方だ。西川さんは6月のUFJ経営陣との会談を私に打ち明けたことはなかった。だから私はUFJがなぜ三菱東京を選んだのかずっと理解に苦しんできた。

そして、本書にある、西川氏は会合の時には合併の打診と認識しながらそれには触れず、後で部下の幹部と相談し「UFJは問題が多すぎる」と指摘されると、それ以上は話を進めようとしなかった、というくだりについて

この話はそういうゴシップレベルで判断するテーマではない。

三井住友に大局観が欠けていたことが今もって悔やまれる。

とかなり怒り心頭の様子です。


銀行の頭取はそれぞれに思惑もあるしプライドも強烈でしょうから、特に統合となるといろいろ大変だったんでしょう。
統合してからがさらに大変だったところもありますし・・・


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ボーイング787

2012-01-16 | うろうろ歩き

出張の帰りに岡山からボーイング787に乗りました。

機体の「787」の文字が誇らしげです。


機内に入ると、照明が虹色になっていました。
夕方の便ならではの演出なのでしょうか。


しばらくすると、ギャレーと同じ白色になってしまいます。
照明がLEDのため、白色光はとても明るいです。

特に読書灯は初めて十分に役に立つ明るさになったといえます。


座席は、横幅は従来と変わりませんが、椅子の厚みが減ったのと、リクライニングがシェル式(背もたれ全体が動かずにクッションだけが動く)ので、前後方向は多少広がった感じです。
ただリクライニングすると座面が前方にせり出すので、その分は狭くなります(このへんは自己責任で調節しようということでしょう)。

飛行中の騒音も少なくなったと聞いたのですが、前回飛行機に乗ったのが昨年の9月だったので比較するほど記憶に残っていませんでした。言われてみればそうかな、という感じ。
今回1時間程度のフライトだったのですが、長時間だと疲労度が違うかもしれませんね。


トイレに窓がついたというので期待していたのですが、僕が入ったところは窓がありませんでした。これは残念。

ただ、洗浄便座はついています。




写真はありませんが、手洗いも自動で水(お湯も)が出ます。


トイレで一番気に入ったのがこれ




水を流すときに蓋も(ということは便座も同時に)自動で閉まります。

この機能自体は家庭用でもあるのですが、蓋の閉まり方が独特です。

まずはごらんあれ


家庭用だとヒンジのところにモーターがついているタイプが多いと思うのですが、それだと支点と力点が近いので使用頻度が高い、または慣れない人が無理やり手で動かすと故障するおそれがあるのでこういうタイプにしたのでしょうか。

このカラクリ風の動きは「日本のおもてなし」風で気に入りました。

 

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"Global Entry"懸賞詐欺

2012-01-15 | よしなしごと

郵便受けにいきなり上海からの封書が入ってました。

「緊急発送対象者」とあるものの、何か向こうで悪いことをしたという記憶もないので、いぶかりながら開封。

中にはこんなのが

裏面はこう


要するに懸賞詐欺ですね。

同封されていた案内の中に事務手続料として1万円払え、とありました。
返送先はカナダになっています。

ご丁寧にクレジットカードも使えるようですが、VISAとMasterCardだけで、JCBが使えないのは日本人相手だといまひとつではあります。
おまけに「T-pointがつきます」とくればもっとよかったのに。

ただ、クレジットカードを使えるということは、一応真っ当な会社の体裁をとっているようです。それともクレジットカード番号を入手するのが目的?
郵便為替は宛先を無記名で、という指定です。


一方でもし、これが本当に「合法的」で「信頼できる監査機関」のチェックを経ているとするとどういうものなのだろうか、と考えました。

一つのアイデアがこれ。

① ある条件のもとで金銭を分配するような信託基金を作る
② 基金は、このGlobal Entryに対する事務手数料を原資とし、当該原資が1兆円(というような非現実的な金額)相当の申し込みがあった場合に、事務手数料として99.9%を控除した残額を申込者に抽選で分配する。
③ この基金は6ヶ月(というような詐欺の店じまいのための短期間)以内に1兆円に達しなかったな場合は、全額を事務取扱者に支払って解散する。

こういうようなルールを作れば、適法にかつ監査の認証も受けられるスキームができるのではないでしょうか(準拠法に日本の景品表示法のような規制がないことが前提ですが、それはケイマンとか英領ヴァージン諸島とかなら平気でしょう)。


残念ながら(?)これが詐欺として稚拙なのは中国からの郵便にしていること。
普通の日本人は、中国からいきなり郵便物が届いたら身構えると思います。

おそらくDMの印刷、封入、発送のトータルの費用と品質(欧米だと漢字の字体が妙だったりしますよね)が中国の業者を使うのが一番安かったんだと思いますが、返信先がカナダなら送付元もカナダにしたほうがよかったと思います(「カナダからの手紙」ってのもありましたしw)。
その意味では、DMのアウトソーシングを考えている人は中国ルートというのも検討の価値はあるかもしれません。


そもそも僕の自宅住所がどこからこの連中に伝わったのかは若干気になりますが、日本人の個人情報を片っ端から集めれば引っかかることもあるんでしょう。
「詐欺にかかりやすい人リスト」とかに入っていると困りますが・・・
これに返送すると、事務手数料を取られた挙句、詐欺にかかりやすいリストとして個人情報(自宅住所やクレジットカード情報)が転売されるんでしょうね。

数年前にナイジェリア詐欺(参照)というのがありましたが、いろいろ新しいことを考える人はいるものです。

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パッカー車の夢のコラボ

2012-01-14 | よしなしごと

昨日朝方近所で消防車やパトカーが大勢集まっていました。

野次馬根性で覗いてみると、ごみ収集のパッカー車の内部に注水しています。
おそらく、ガスボンベやスプレー容器を穴を開けずに収集に出した人がいて、ゴミを圧縮する過程で発火したのだと思います。

このパッカー車の火災は頻発しているらしく、「パッカー車 火災」で検索すると、自治体からの注意喚起のお知らせが数多くヒットします。
(たとえば茅ヶ崎市パッカー車(じんかい収集車)の火災

スプレー缶やカセットコンロのボンベゴミを出すときは気をつけないといけませんね。



ついでに調べたところ、パッカー車はこんな仕組みでゴミを圧縮して奥に押し込むようです。

 

①や③の状態は見ることがあるのですが、全体像がやっとわかりました。二枚の羽根の動きが絶妙ですね。


このゴミを圧縮する後ろの部分を作る専門の会社があるようです。

その一社、新明和工業のサイト(上の図解を拝借しました)を見ると、こんな新製品の紹介がありました。

「G-PXタウンパック」は新明和工業(株)と富士重工業(株)が共同開発した圧縮式塵芥車。両社の工場長をプロジェクトリーダーとして、設計・営業・購買・製造・生産技術の各部門からメンバーを集めて開発しました。

富士重工といえば、前身は戦前の中島飛行機で、陸軍の主力戦闘機「隼」で知られます。
一方で、新明和工業も、前身は川西航空機で、海軍の名機二式飛行艇(二式大艇)で知られています。
つまり、このパッカー車は帝国陸軍・海軍の垣根を乗り越えた夢のコラボでもあるわけです。

さらにWikipediaをよく読むと、

川西財閥の川西清兵衛は中島飛行機に出資していたが、中島の技術者を引き抜く形で、1920年に川西機械製作所(神戸市・兵庫)を設立し飛行機部を設置した。  

ということで、元は同根なんですね。  

富士重工ももともとパッカー車も作っているようなので、開発に携わった人々はそんなことは考えていなかったのかもしれませんが、70年ぶりの復縁といえるかもしれません。

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『生命保険のカラクリ』

2012-01-13 | 乱読日記

『ネットで生保を売ろう』を読んでいて、そういえばこの本が試行的にネットでダウンロードできたときにPCに落としておいたのを思い出して読んでみました。
(買わなくてすみません)

内容的には重複している部分も多いのですが、より生命保険の仕組みを詳しく説明していて役に立ちます。
読んだ後に自分の生命保険の保障内容を改めて見直しました。

初めて知ったのが、「終身保険」が終身ではなく、男性106歳、女性104歳という保険期間があること。
平均寿命は女性のほうが長いのに、保険期間は男性の方が長いのはちょっと不思議です。
ただ、自分の生命保険の約款を見てみたらそういう記述がないので、最近の基準なのでしょうか。
まあ、そこまで生きることはまずないでしょうから、あまり気にしても仕方がないのですが、万が一そこまで生きていた人が終身保険に入っていた場合、受取人にとっては微妙なことになりかねませんね。

たとえば子供や兄弟がなく(既に死亡していて)「老々介護」の状態になっている介護者(たとえば母親104歳で本人70歳)が、親の加入している終身保険の保険金で自ら介護施設に入ろうと計画していたりすると、けっこうつらいことになるかもしれません。


そんなこと意外で、入院補償特約とかけっこう無駄につけていることが発覚したので、今度見直そうかと思います。


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『医療の限界』

2012-01-12 | 乱読日記

著者の小松秀樹氏は出版当時の2007年は虎ノ門病院泌尿器科部長、現在は亀田総合病院泌尿器科顧問(参照)で『医療崩壊』(未読)などの著書で医療に対する過剰な「安心・安全」の要求と法的責任の追及、そして現行の医療制度に警鐘を鳴らしている人です。

本書は著者の問題意識を新書版にまとめた本。

前半は医療行為についての刑事責任の追及の問題点について、かなりの部分を割いています。
著者は司法関係者は医療行為の無謬性についての思い込み、医療行為自体に存在するリスクについての無理解があると指摘します。   

ある知人の弁護士が、「医師が初めての医療を指導者なしにやることは許されない」と言いました。しかし、実際には、創始者がいて、免許皆伝を受けた人から弟子、弟子からまた次へ教え伝える、医療の世界はそうなっていません。一つの手術の広まり方というのはこうです。まず誰かが最初にやってみる。詳細な報告が論文になる。その論文を読んで、あるいは実際にその人の手術をみて次の誰かがやる。学会で経験者が集まって議論する。創始者も批判の対象であり、創始者のやり方が無条件に受け入れられることはありません。創始者が指導に行くこともありますが、ただやってみせただけで、指導とはとてもいえません。しかも、新しい技術は創始者も上手ではありません。・・・新しい技術を指導者をよんで教えてもらうということは、制度的には用意されていない。ですから、同時にいろんな場所で同じことが行なわれるようにならざるを得ません。  

通常、創始者により後のグループの中からもっと上手な人が出てきます。そして回数を重ねるほど、参入グループが増えるほど改善されていく。法律家は、免許皆伝モデル、とでもいうようなものにとらわれていますが、そんなものはありません。

一方で著者は現在の医師の教育システムにも問題があり、医療事故を見ると、医師の技量が未熟であっることが原因である場合も多いことも認めています。

現行の研修制度は、医師の技量所向上に結びついていない。医局制度、大学内での論文数優先の評価、研究医と臨床医の進路の混在などで有効に機能しておらず、さらに、医療費抑制の要求を受けた診療報酬制度なども加わって、医師にとっても(大学)病院が自らの技量の向上に結びつかない魅力の乏しいものになってしまっている、と指摘します。   

過酷な勤務と過大な責任、加えて、患者からの攻撃に意欲を失い、多くの医師、看護師が病院勤務を離れつつある。  

そして著者は、医療事故調査機関を作り、そこに紛争処理や検察・行政への告知する機能を持たせるべきと主張します。  

このような制度の是非について私は評価する知識がないのですが、確かに医療については医療費抑制のために市場原理を導入べきという意見と、公共財としてのサービスの充実やその期待の裏返しでもある無謬性の要求の間をことあるごとに揺れ動いているように感じます。  


上の新しい医療行為についての記述を読むと、確かに技術の進歩というのはこうやって進んでいくものだと思います。そして、全ての手術技法に資格制度のようなものを作るわけにもいかないでしょう。 
また、一人一人病状が違う生身の人間に対する医療行為で100%安全ということはないと思います。
 
一方で、そうはいうものの、患者にとってみれば自分の生死(または手術の成功・不成功)は確率論ではなく結果が0か100かという問題がかかっているので、できるだけ「名医」に診察や手術をしてもらいたい、少なくとも自分のときには完璧な対応をして欲しいと思うのも当然で、この理屈と感情のズレをどう折り合いをつけていくかに問題の根源があるように思います。

とはいうものの、これが難しい。
気持ちの整理もそうだし、「名医」を見つけるのも、そして名医だからといって常に結果を出せるとも限りません。

医師をやっている私の友人で椎間板ヘルニアになった奴がいます。 
彼はいろいろ情報を集め、つてをたどり、その世界の名医という医師に手術をしてもらいました。 
しかし、いかに名医でも手術にも限界があるのか、何か別の要因なのか、術後のレントゲン写真を見ると専門でない彼の目にもヘルニアが完治していないように見え、実際手術後も慢性的ではないものの時折り痛みがぶり返すのでがっかりしたそうです。  

医者において斯くの如し、ましてや一般人においてをや、です。  


本書で山本常朝『葉隠』の一節が引用されています。 

「人は誰も、人生において成すべきことが皆遂げられたときに、はじめて死がやってくるもののように思い込んでいます。しかし、よく考えればそんなことはありえないので、用事が済もうが済むまいが、こちらの都合とは関係なしに死はやってくるのですし、人生というのも本当はそういう仕掛けになっているわけです。」

確かに、医療の進歩で「大概の病気は治る」という風に期待するようになっているのかもしれません。
医師に言われると素直に聞きにくい部分もあるものの、心構えとしては大事だと思います。  



 

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