一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

「悪者」であるための実存的努力について

2006-08-31 | 余計なひとこと

ホリエモン、村上氏に続いて噂どおり三木谷氏にお鉢が廻ってきたあたりで「ヒルズ族」バッシングについて、ちょうど今読んでいる内田樹『私家版・ユダヤ文化論』の中で、サルトルの反ユダヤ主義の分析をきっかけとした以下のくだりがひっかかりました。

「反ユダヤ主義者は自惚れない。彼は自分のことを中位の人間、真ん中よりちょっと下くらいの人間、ありていに言えばかなりできの悪い方の人間だと思っている。反ユダヤ主義者が自分はユダヤ人より個人的に優れていると主張した例を私は知らない。しかし、彼はそのことをまったく恥じてはいないのである。彼はその状態に満ち足りている。その状態を彼は自分で選んだからである。」

反ユダヤ主義者とは自分が何者であるかをあまりに深く確信しているために、それについて考える必要のない人間である。(中略)彼は「ここ」にいるという事実によってすでに「ここ」にいる権利を確保し終えている。だから彼は誰に対してもアカウンタビリティを負わない。(中略)端的に「考える」ということ自体を彼は必要としないし、誰も彼にそれを求めないのである。


「○○バッシング」は「出る杭は打たれる」という日本特有のやっかみの風土が背景にあるとも言われますが、自分を「普通の人」に位置付けることの気楽さというのは人間の立ち位置の選択として本来魅力的なものなんですね。
そして現在ではマスコミは「市民の声」を代弁してくれるし、検察も一般国民の基準を代弁してくれるわけです。
たとえばこんなこと

「実のところ、僕たちは適用基準を決められない。時々の一般国民の基準で適用基準は決めなくてはならない。僕たちは、法律専門家であっても、感覚は一般国民の正義と同じで、その基準で事件に対処しなければならない。」
(佐藤優『国家の罠』での検事の発言)

「市民」「一般国民」(「一般でない国民」は何か、はここでは考えないことにします)「庶民」というのは(その前段階としての「市民革命」などの近代的「市民」概念との混同も含め)民主主義社会においてア・プリオリに正しいとされがちな言葉であるという部分も、この立ち位置の選択に寄与しているのかもしれません(または逆にそういう市場があることの結果?)。

でも、そこには近代市民社会をかちとった「市民」の緊張感はありません。
ウチダ先生の本の続きの部分に戻ると

 人間はおのれの属性のすべてを状況に身を投じることを通じて主体的に構築しなければならない。歴史的状況との相互規定を通じて構築されたのではないような属性は存在しない。サルトルの実存主義とはまさにそう教えるものだった。だとすれば、反ユダヤ主義者とは、実存主義的にゼロであることを主体的に選択した人間だということになるだろう。
 ならば、その逆に、ユダヤ人こそ、その語の真の意味における「実存主義者」だということにはならないだろうか。
 なぜなら、本質的に赤貧であるユダヤ人はおのれの自己同一性を実存的な努力によって構築せねばならず、にもかかわらず、そうやって獲得したものはそのつど無価値なものという宣告を受け、あらたな獲得目標に向けての競争に駆り立てられるからである。
(下線は原文では傍点)

ヒルズ族バッシング」の一つの動機は、時代の先駆者であった(あると思われていた)彼らが、実は「実存的な努力」により自己(その投影としての事業)を構築していたのではなかった、ということにあったのではないか、と思うわけです。

たとえばマネーゲームの世界でひたすら実存的努力を続けている外資系投資銀行などは、ハゲタカ(とかそれこそ「ユダヤ人」)という非難をされています。
ただ、ライブドアや村上ファンドなどは、そこまで到ってなかった(=単なる不正だった)わけですね。
そのこと明らかになってしまったことへのある種の落胆がバッシングに拍車をかけているのではないかと。

つまり「市民の敵」「格差社会の根源」というような本格的な悪者が登場すれば、(たとえばフ●ーメー●ンなどのように)常にヒルズ族を悪者にすることで、実存主義的にゼロである私などの「一般市民」は気楽な生活をおくることができたわけです。しかし、彼らが単なる一過性の悪者に過ぎなかったことで、私たちは次の責任者を探す必要に迫られてしまったわけです。
(世の中を悪くしている原因者、黒幕としてよく引き合いに出されるのは「大企業」「官僚」「マスコミ」であって、暴力団とかカルト宗教は世の中の悪さの一例ではあっても原因にはされないということと同じです。)


取り上げられる事象がインサイダーとか利益供与とか薬物使用とかヒルズ合コンとか単純な犯罪とか不祥事に矮小化されているのがその証左ではと思うのですが。

ちょっと前は「ホリエモン/村上ファンドは日本の社会/株式市場を変える力がある」という前提で、その変化の方向が本当にいいのか、という議論がなされてませんでしたっけ。


PS 引用した本についてのエントリはまた後日(予定)

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うまい話?

2006-08-30 | あきなひ




こういう看板を見てどう感じるか、で人生が分かれることもあるようです。



投資配当“自転車操業”新規資金を分配…近未来通信
(2006年 8月29日 (火) 07:01 読売新聞) 

インターネットを利用したIP電話会社「近未来通信」(東京都中央区)が、「電話の利用料から配当する」とうたって一般投資家から事業資金を集めながら、実際には配当の大半を他の投資家の資金で賄っていたことが、関係者の話で分かった。  
同社の説明などによると、同社は国内外に独自の中継局を設置し、他社の電話網とネットをつないで格安料金で通話サービスを提供。アパートの一室などに設ける中継局の通信用サーバーの設置費用を「オーナー」として募った投資家に出してもらい、オーナーには電話利用者が払う利用料から配当するとしている。契約上は、同社とオーナーの共同事業をうたっている。

近未来通信、投資説明会で財務状況など一切公表せず 
(2006年 8月29日 (火) 14:58 読売新聞) 

東京国税局から所得隠しを指摘されたIP電話会社「近未来通信」(東京都中央区)が、投資家を募る説明会で「IP電話は飛躍的に発展する」「継続的な収益を保証する」などと繰り返し強調しながら、同社の電話サービスの利用者数や財務状況については一切公表していなかったことが分かった。  

IP電話の「近未来通信」、1億7500万円の所得隠し
(2006年 8月29日 (火) 10:32 朝日新聞) 

インターネット技術を利用し、通話料金が格安のIP(インターネット・プロトコル)電話事業で急激に売り上げを伸ばしている「近未来通信」(東京都中央区)が東京国税局の税務調査を受け、05年7月期の1年間で1億7500万円の所得隠しを指摘されたことが分かった。 
民間の信用調査会社や同社のホームページなどによると、近未来通信は97年に設立し、国内外向けにIP電話事業を展開。06年7月期の売り上げは約245億円で、5年前の10倍以上に増えている。



私は冒頭の看板を最近見かけて、「新しい副収入プラン」「IP電話中継局オーナー」と、いかにもな謳い文句と「近未来」というレトロな社名(と、大地真央の不自然な表情)の胡散臭さは(どうせインチキな商売にせよ)逆効果なのではないかと思っていたのですが、けっこう業績が伸びていた(被害者が広がっていた?)んですね。


会社のHPを見ると、もともとは国際電話のプリペイドカード(これがどういう事業モデルでそもそもまともなのか自体知らないのですが、けっこう街角で売ってますよね)をやっていた会社のようです。

ただ上の記事を見る限りでは、フランチャイズ○○とかマ○チ風なテイストが強い会社だったようです。


ググッてみるとここ数年相当派手にTVCMや新聞広告をやっていて、事業の中身についても以前から問題視されていたようです。
こんな告発サイトもあります(wiki形式のうえネタ元が2ちゃんがメインなので信憑性は不明ですが)。
http://www8.atwiki.jp/enmirai/pages/10.html  



金融商品取引法で「出資」とか「○○債」というようなものには広範に規制がかかるようになりますが、フランチャイズのように事業として設備投資させるようなものは法規制がない(多分)ので今後ますます増えるのかもしれませんね。 

「浜の真砂は尽きるとも・・・」なのでしょうか。

今後は手口もますます巧妙になってくるでしょうから、気をつけないといけませんね。
(私はこれにしろ平成電電にしろ、マスコミで話題になるまで全く知りませんでした。どうもニセモノもホンモノも儲け話には縁がないようですw)




話は横路にそれますが、正式社名は「株式会社近未通信」と旧字体を使っているのには何かこだわりがあったのでしょうか。


全然関係ないですが、「倖田來未」も「來」ですね。

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神楽坂「馳走 紺屋」

2006-08-29 | 飲んだり食べたり
今日は久しぶりに神楽坂。

お店は馳走紺屋

場所も神楽坂から仲通りにはいって更に一本折れたところ。
表の喧騒からは離れ、家並みにもなかなか風情があります。



(家並みはさておき迷いたくなければ、あずさ監査法人の向かいから入ればすぐです)


築50年の割烹旅館を改装した建物で、2階が個室、1階がカウンターと座敷。
ここ数年神楽坂ではこういう昔の情緒を生かしたお店が増えましたね。

3人だったので個室も3畳くらいのコンパクトな部屋でしたが、それも一興かと



話が盛り上がってしまい、料理は美味しかったのですがそれほど強烈な印象は残りませんでした、ごめんなさい。
でも、コースの最後に追加で勧められた干物は美味しかったな。


ただ、雰囲気という意味では、玄関先でせっかく店員さんが和服で迎えてくれるんだから、予約を告げたときにクリップボードで確認などせずに、名前くらい覚えていて応対してほしかったのと、帰り際に部屋を名乗って靴を出してもらうならちょいとしゃれた下足札があったほうが気が利いているのでは、と思いました(オヤジはうるさいねぇw)。



今日は精神科医と弁護士と私、という組み合わせ。


精神科医は人間ドックに行って不整脈が出て、内科医に「ストレスですね」などと精神科医のようなことを言われてちょっと落ち込み気味。

最近は、「訴訟に有利だと弁護士に言われたので診断書ください」という患者、とか「前の先生はこのクスリくれてたんですよね」という向精神薬の処方箋目当ての患者とか、インターネットなどでやたら詳しくなってあたかも自己診断のセカンドオピニオンを聞きに来るような患者とか、わがままな人が増えたらしい。
でも、診断書にしろ処方箋にしろ「病気」という診断をする以上は治療(クスリ目当ての人には他の処方など)が必要なわけですが、そういう人は次回の予約をとっても現れないことが多いそうです。

先のドックの例も含めて、どうも世の中は精神科の診断は精神科医以外がするようになったのではないか、とぼやいてました。


弁護士氏は、入院中で意識不明の身寄りのない老人の成年後見人(法定)を別の弁護士が辞任した後引き継いでいて、医師から終末医療の判断を迫られて困っている(財産もほとんど残っていないとか)。
世渡りとしては前の弁護士のように「正当な事由」をでっちあげて辞任するのがいいのかもしれないが・・・


いいトシになると、自分の人生にも垢がたまってくるし、世間の垢すりのような仕事もする役回りになる、ということでしょうか。


そのほか、ロースクールの話(試験制度と社会人の転進の話、旧試験受験者との違いの話、患者としての話)、グリーンシート銘柄の胡散臭さの話、摂食障害とリストカットの話、マスオさんに適した性格の話、確定申告で認められる経費率の話、仕事熱心な「女王様」の話など(詳細はオフレコ)で盛り上がりました。
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2006-08-28 | よしなしごと

『漢文の素養』 のエントリで、「鞄」という漢字は銀座のかばん屋が考案した漢字を明治天皇が行幸の際にご覧になって「あれは何だ」と質問されてから広まった、という話をしようと思ったのですが、出展もうろ覚えだったので改めて調べてみました。

件のかばん屋さんは明治7年創業の銀座タニザワというお店で、HPを見ると 

1890年(明治23年) 銀座に店を構える。 
禎三が考案したといわれる「鞄(かばん)」の文字を看板に掲げたところ、これが銀座をお通りになった明治天皇のお目にとまり、侍従職を通し「何と読むか?」との御質問を受ける。これをきっかけに「鞄」の字が全国に広まったと伝えられている。  

とあります。

ところが、"Japan Bag.com"という鞄専門のサイトの中の 日本における「鞄」ことはじめを見ると、正確には中国にも「鞄」という漢字はあったが、「革職人」という意味であり、日本人がそれに「かばん」という意味と読みをつけた、というのが実際のところのようです。
※日本オリジナルの漢字を「国字」というらしいのですが、国字の要件は「字形」「読み」「意味」の3つを創作ることで、「鞄」のような読みと意味を作ったものは「国訓字」というそうです。

ちなみに「カバン」の語源は  

カバス(スペイン語)、挟板(キャハン、支那語)、堤嚢、革盤、革包等々種々な名称、語源があり、以上の中の革包が転化して鞄(かばん)になったと言われています。
社団法人日本かばん協会のHP

なんだそうです。


と、今日はなんのオチもひねりもない単なる落穂拾いのエントリになってしまいました(^^; 

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マイアミ・バイス(TV版)

2006-08-27 | キネマ
「マイアミ・バイス」が映画化されたということで、懐かしくなってTVシリーズをTSUTAYAでさがしたところシリーズ2がDVDになっていた(映画をあてこんでの仕入れのためか新作扱いでしたw)ので早速借りてみました。

なつかしの80年代満載のテレビドラマです。

 

車、美女、ドンパチ、流行りの音楽、という4拍子そろった(そろえた)MTV感覚の当時としては斬新なヒットドラマで、日本でもこういう面白い番組を仕入れるのが上手なテレビ東京(昔で言えば「モンティ・パイソン」とか、ね)で楽しませてもらいました。


久しぶりに見ると、80年代満載の懐かしい感じがします。

皆シャツをズボンの中に入れているわ、シャツの襟は大きいわ、靴は白だわ・・・(ドン・ジョンソンのTシャツに白いジャケットはお約束でした)
皆タバコを吸っていて、夜遊びは煙もうもうのディスコ(爆)
NY(1話目はスペシャルでNYを舞台にしていた)は治安が悪いので有名。
携帯電話なんて誰も持っていない
銃もクロムメッキ(!)のコルト・ガバメントとショットガン
それに主人公2人はどこにいっても必ず派手なコンバーチブル(屋根あき)に乗るわ、捜査の途中でも美女と見れば口説きまくるし・・・

車はSUVだし携帯電話は必需品、銃もベレッタ、シグ、グロックという小型軽量装弾数の多いNATO系9mm銃、恋愛も職場恋愛ばかりと機能重視一辺倒の「24」と比べると20年前のおおらかさが伝わってきます。
(タイトルも、今だったら「マイアミ・ヴァイス」だったでしょうね。)


TV東京では再放送が開始されたようです(毎週月~水、12:30から)。


映画もTVシリーズと同じマイケル・マンが監督・脚本です。主演がコリン・ファレルとジェイミー・フォックスという「いかがわしい」コンビのところはいいセンをついていると思います。




映画館に観に行こうかな、とちょいと思っている次第です。
コメント (2)
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『貝と羊の中国人』と『漢文の素養』

2006-08-26 | 乱読日記

この2冊の筆者加藤徹氏は京劇の研究家です。

『貝と羊の中国人』は「中国人とは何か」について、『漢文の素養』は日本人が漢文をどのように取り入れて「教養」として文化の核としていったかについての本です。


『貝と羊』は三千年前の殷周時代にさかのぼり、殷人の「貝の文化」と周人の「羊の文化」の融合から中国人の気質を豊富な故事をひいてあざやかに分析しています。

殷人は豊かな東方系の農耕民族で貝を貨幣として使い、多神教で人間的な神々(日本の「八百万の神」に通じ、酒やごちそうなど物質的な供え物を好む)を信仰していました。そのため有形物財に関わる漢字に貝が含まれる(宝、財、費、貢、貨、貸、貯、貰、贅、贖etc.)のは、そのなごり。
一方周人は中国西北部の遊牧民族系で、唯一至高の神である「天」を信じてました。天はイデオロギー的な神で、羊を捧げるだけでは不十分で、無形の善行を伴わなければ嘉納してくれませんでした。そのため、無形の「よいこと」を示す漢字に羊が含まれる(善、義、美、祥、養、犠、儀etc.)のはそのなごり。

著者は中国にはホンネとしての「貝の文化」とタテマエとしての「羊の文化」の両方を受け継いでいるところに強みがある、といいます。

そしてまた、現代中国においては「言論の自由」がない中で中国人のタテマエだけを聞いていてもホンネはなかなか見えてこない、として、さまざまなエピソードから中国人の「貝」と「羊」を明らかにしていきます。

著者はいわゆる「親中派」でも「反(嫌)中派」でもなく、ありのままの中国を理解しようとしています。

 外国を理解するときに勘どころとなるのは、しばしば、その国の人にとって自明の、空気のような機微である。
 外国人が、中国の機微を理解するためには、「冷たい目」と「暖かい心」の両方が必要であろう。
 外国人として、中国社会を外からつきはなして見つめる、冷徹なまなざし。
 それと同時に、同じ人間として、中国人といっしょに怒り、泣き、笑うことができる、共感する心。
 そのどちらが欠けていても、中国人の機微を理解することは、難しい。


***********

いっぽう、『漢文の素養』は日本がアジアでも独自の漢字文化をいかにして育んできたかに焦点をあてています。

アジア全体を見ると、漢字に対する態度が国によって大きく異なります。

漢字を全廃した地域・・・北朝鮮・ベトナム
漢字の全廃を予定していた地域・・・中国
漢字を極端に制限した地域・・・韓国
漢字を簡略化して使っている地域・・・日本
漢字を無制限に使っている地域・・・台湾・香港

この中で日本の漢字文化がユニークなのは、

・漢字を外国の文字とは見なさない。
→中国でさえ、非漢民族は、漢字を異民族の文字と見なしている。
・漢字に音読みと訓読みがある
→日本以外の国では漢字は「音読み」だけで、訓読みはない。
・一つの漢字の音読みが、複数ある。
→日本以外の国では、漢字は一字一音が原則である。
・漢字をもとに、いちはやく民族固有の文字を創造した。
→仮名文字の発明は、ベトナムのチュノムや朝鮮半島のハングルより早かった。
・中国に漢語を逆輸出して「恩返し」をして、唯一の外国である。
→幕末・明治に日本人が作った「新漢語」は、現代の中国でも普及している。

中国は漢民族以外の王朝のときは漢字文化を否定し、過去の書籍などを廃棄してしまうなかで、日本は漢字文化を独自に取り込んで教養としての漢文を確立し伝承してきました。江戸時代には清国の禁書が日本で数多く出版され、明治時代に国交が樹立した後は清国の留学生が争って買い求めていたそうです。

逆輸出した「日本漢語」についても、現代中国語の中の社会科学に関する語彙の60~80%は日本からきたものだ、というくらい中国に定着しています。
たとえば「中華人民共和国」という国名は「中華」以外はすべて日本漢語だそうです。


『貝と羊』でも言及しているように、著者は士太夫階級(=中流実務階級)が国のパワーの源であり、その没落が王朝の没落を招くという史実を重視しています。そして教養は中流実務者階級の活力のバロメーターであるとし、現在日本の教養・ひいては国力の衰えを憂いています。

現代の日本の政治家は、少数の「勝ち組」のパワーで日本社会が浮上できると勘違いしているように、筆者には思える。たしかに、中国やアメリカのような大陸国家なら、そんな方式も可能かもしれない。しかし日本のような島国社会では、中流実務階級の知力を充実させることこそが、国全体の活力を高める早道である。それは、江戸から明治にかけての日本の歴史をふりかえれば、あきらかである。


一例をあげると、今日の日本人は、「パソコン」にあたる漢語さえ考案できず、中国人が考案した「電脳」を輸入して使っている。カタカナの外来語をなんでも新漢語に置き換えればよい、というわけではない。しかし、今日の中国で、パソコンやインターネット関連の用語をどんどん新漢語に置き換え、自国民にわかりやすいものにしている様子を見ると、まるで明治期の日本のような勢いを感じる。
(注:「電話」は日本人が発明した新漢語が中国製をおしのけて中国でも使われるようになったそうです。)

そして日本における教養の回復のきっかけとしての漢文の価値を熱く訴えます。


どちらもおすすめの良書だと思います。


<余談その1>
toshiさんにはぜひ内部統制やコンプライアンス関係のカタカナ用語をわかりやすいくあらわす漢語を発明していただきたいと思います(何しろ「SOX法」なんて議員の頭文字ですからねぇ・・・)。
また、47thさんには、M&Aや買収防衛策の用語の新漢語を(「ワクチンプラン」なんて言ってないでw)ぜひ発明していただきたいと思います。

普及には微力ながら協力させていただきますので。


<余談その2>
漢文といえばはるか昔の受験生の頃、通信添削のZ会の漢文はときどきポルノが問題文に出るのが名物(楽しみ)だったのですが、今も続いているんでしょうか?


 












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NOVAへの疑問

2006-08-25 | ネタ

電車の広告を見ていたら、英会話学校のNOVAの広告に

スクール見学に
来られた方にもれなく
NOVAパンダ
プレゼント

というのがありました。



「NOVAパンダ」というのはこれ



ちなみにCMに出てくるご存知「NOVAうさぎ」はこれ


 

で、



昔からの疑問なのですが、






ウサギやパンダなのに、何でクチバシなんでしょうか。







NOVAに通えば、英語を口走るようになる、ということ?




おあとがよろしいようで・・・

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「『アットホーム』な『会社』」という矛盾

2006-08-24 | あきなひ

bunさんの人を信じるということ・職場の雰囲気というエントリーに関連してtoshiさんが「アット・ホーム」な会社と内部統制というエントリーを立てられています。

bunさんもtoshiさんも、「アットホームな雰囲気の会社」の持つ「『和を尊ぶ』自己抑制」「相互牽制の不在」という問題点を指摘しています。


内部統制に対しては、「アットホームな(和気藹々とした/自由闊達な)わが社の社風には、相互信頼と業務の効率性を損なう内部統制とは両立しない」というような批判がしばしばされます。

感情的にはわからなくはないのですが、では「アットホームな」企業風土でかつ内部統制がなくてもステークホルダーが一切文句を言わない状態というのを想像してみると  

① 経営者が「私は当社従業員を信頼しているので無意味な内部統制は導入しないと判断している。
② すなわち経営者には「万が一何かあった場合には私が全責任を取る」という腹のくくりがある。 
② 当然、取締役の責任限定契約などしない(または株主が免責を与えている) 
③ したがって後暗いことはないはずなので、監査する側に対しては「重箱の隅まで好きなだけつついていただいて結構、隠し事はしませんから」という姿勢で臨む  

というのが同時に成り立つケースに限られると思われます。  


これはよほど信頼できるチーム(と腹の据わった経営者)でない限り成り立ちませんね。
そして、その場合の会社雰囲気は、かえってbunさんのおっしゃる一つの理想形である「必殺仕事人」に近いものになるのではないかと思います。  


しかし、一定規模以上の企業ではそこまで従業員を信用する経営者がいる、または全幅の信頼に足る従業員のみを集めるということは現実的には不可能です。  

なので、結局何らかの形で内部統制が必要になるわけです。  


つまり内部統制の議論は

「株式会社においては従業員すべての行動を無条件で信頼し全責任を引き受けるような主体(株主、取締役、特定の従業員)は存在しない」

といういわば当たり前の前提(=有限責任という株式会社の意義そのものですよね)から出発するとわかりやすいのではないでしょうか。  

そのうえで、「利益を上げる」という会社の設立の目的に沿うように、どう合目的的に組織を作り上げていくか、と考えるのが本来の筋道のように思います。

つまり 、

① 株主は自分の金を出資し、取締役に経営をさせる
② そのうえ実際の日常業務は自分に任免権のない従業員が行う
③ そうだとすると自分の金をちょろまかされないように、取締役に・監査役「しっかり見張れ」といい、万が一のときは取締役・監査役の責任を追及する
④ 一方、会社本来は利益追求が目的で、利益を上げないと取締役はクビになってしまう ⑤ そこで取締役は自分の責任のリスクと(成功)報酬をはかりにかけながら内部統制を考える

という順番で議論を整理するということですね。  


なんか「株式会社とは何か」のおさらいみたいになってしまいましたが、そう考えていくとtoshiさんの 

むしろ内部統制のシステムというのは、いやがうえにも言いたくないことまで情報として伝達しなければいけないよ、というお決まりごとを最初に決めてしまって、それが職場の雰囲気を壊してしまうというのであれば、それもひとつの仕事のスタイルである、と割り切ってしまわなければならないのではないか

やbunさんの(toshiさんのエントリへのコメント) 

職場なんだからアットホームでなくても仕方がないときっぱり割り切れる人との「アットホーム」 というのが本来の姿なんでしょう。  

という意見のほうがしごく真っ当な本来の姿であるように思われます。  


でも一方で、世の中の多くの企業は既に「アットホーム」な組織や企業風土が出来上がっているわけで、その中に後から内部統制という「ドライ」な要素を入れようとすると抵抗があるのも事実です。  

でもこれはたとえて言えば

冷たい水に適宜お湯を加えて温度を調整するのであれば皆歓迎するが、お湯に浸かっているところに水を加えると結果同じ温度になったとしても皆文句を言う

という違いに過ぎないと思います。  

さらに、「会社は誰のものか」という議論における「ステークホルダーとしての従業員」という文脈も内部統制への抵抗の要因になっていると思われます。 
これは上のたとえで言えば、会社の長期的な人材確保・生産性維持のためにどの程度の水温が適正か(=冷水では優秀な人材を確保し長期にわたってちゃんとしたパフォーマンスをあげることはできない)、という議論ですね。 


でもこの議論も、会社とはそもそも内部統制が効いている「冷水」で、それに社風とか待遇という温水を足してどのように適正温度を保つか、というのがそもそもの議論の手順だ、という認識が欠けている(=過去からの実績のある「ぬるま湯」で機能しているからいいじゃないかと単純に考えている)、という点で問題があると思います。


もし現状内部統制が十分でない(=元の水温がぬるい)がために「居心地のいい」適正温度になっているとしたら、一度十分な冷水を加え(内部統制を構築し)た上で、他の温水を足す(いままで「なあなあ」で気楽だった部分を別の方法で補完をする)、またはその低い温度が適正温度だという意識改革をする(「ちょっと冷たいくらいの方が身体にいいよ」)というのが本来の姿のはずです。

それを、今の状態で居心地がいい、という理由のもとに判断を停止する、というのはやはり正しいあり方ではないような感じがします。



でも、実際の説得の局面において上のロジックを使うとすると、「あなたが考えているほど経営者はあなたを信じていない」「あなたの行為(不作為)の結果に対して全責任を負ってもかまわないと考える取締役はいない」という、「アットホームな会社」の共同幻想を壊すところから始めなければならないので、けっこう抵抗があるかもしれませんね。

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海外もお盆明け?

2006-08-23 | よしなしごと

お盆休み明けを狙ったかのように海外からも面白いネタが増えています。  

冥王星降格、「惑星8個」最終案を提出へ…24日採決
(2006年 8月23日 (水) 20:53 読売新聞)

惑星の定義について検討を重ねている国際天文学連合は23日、冥王(めいおう)星を惑星から降格させ、太陽系の惑星を8個とする案を最終案としてプラハで開催中の総会に提案することを決めた。  

太陽系の惑星を3個増やし12個にする原案に対しては、「惑星が際限なく増える可能性がある」などと会員から異論が続出。修正案の調整をしていた同連合の評議委員会は、「8個案なら多数の賛成が得られそうだ」と判断した。

絵に書いたようなヤブヘビですね。もともと冥王星は他の惑星と軌道面も違うし周期も違うので惑星にはあたらないのではないかという議論があったのを、唯一のアメリカ人が発見した惑星として冥王星をアメリカがゴリ押ししたという経緯があるそうです。  

「水金地火木土天海冥」という丸暗記をしたのを改めないといけないですね。 

セーラームーンの「セーラープルート」とか、浦沢直樹の『Pluto』とか、ディズニーキャラのプルートーは肩身が狭くなるのでしょうか。  


トム・クルーズ、「奇行」で契約打ち切りへ
(2006年 8月23日 (水) 11:55 朝日新聞)  

親会社のメディア大手バイアコムのレッドストーン会長は同紙に対し、契約を更新しないと決めた理由について「彼の最近の行動は許容範囲を超えていた」と説明した。  

クルーズさんは最近、新興宗教サイエントロジーへの傾倒ぶりが目立ち、撮影中にも現場に宗教ブースを設けたり、テレビ番組で興奮して跳びはねたりするなどし、米メディアで奇行ぶりが話題になっていた。  

パラマウントはクルーズさんのヒット作である「トップガン」や「ミッション・インポッシブル」シリーズを送り出してきたが、最近の振る舞いが同シリーズの第3作の不振につながったと見ているという。  

一方、クルーズさんの代理人は「ヘッジファンドから資金を得て独立した活動を展開することにした」と語っている。  

これは宗教を理由にした差別にはならないのでしょうかねぇ。 

そういえば生まれてから姿を見せていない赤ん坊を自宅に招待されたベッカム夫妻が目撃したとかいう話もありました。 

最後の段落がアメリカらしい、と考えるのか(理由は何であれ、キャッシュフローは得られそう、という読みなんでしょうか)、資金も教団から出ていると考えるのか、どっちが正確な理解なんでしょうか(日本でも大川隆法の映画などというのがありましたね)

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引くに引けないのでしょうが

2006-08-23 | あきなひ

みずほ証券、株誤発注で東証に404億円請求
(2006年 8月22日 (火) 19:53 朝日新聞)

東証の調査によると、みずほが誤発注の直後に取り消し注文を出したが、東証のシステムの不具合で受け付けられなかった。みずほは特別損失として407億円を06年3月期決算に計上。みずほは、1回目の取り消しが受け付けられていれば損失は3億円で済んだと計算し、404億円の賠償を求めたとみられる。  

一方、東証は、証券会社など取引参加者をめぐる内部規定で、東証を利用した業務で参加者が損害を受けた場合、「故意または重大な過失がなければ東証に賠償の責任はない」とされていることから、「システムの不具合は重過失にはあたらない」として賠償を拒否している。


事件は昨年の12月8日ですから、半年以上も協議していたんですね。
東証も中途半端な妥協はできないし、みずほ証券も簡単には引き下がれないでしょうから、時間をかけても合意は難しかったと思うのですが。


東証も「システムの不具合」は認めているんですね。
私はシステムのことは詳しくないのですが、この不具合を放置していたことが過失なのか、今回のようなとんでもない株数の注文がないかぎり発生しない(=発見できない)不具合は重過失でない、またはこの程度の不具合は利用者側が受忍すべきもの(=債務不履行ではない)なのか、また、東証に責任があったとしてもそもそも誤発注した側の過失相殺が認められるかどうか(注文取消しシステムは誤発注をリカバーするものでなくてはいけないのか)、などというあたりが争点になるのでしょうか。

もっとも東証は万が一重過失が認められた場合は、システム開発をした富士通(でしたっけ)に求償できるので、比較的余裕なのかもしれません。


ただ、「システムの不具合」が重過失にあたる、という判決が出た場合、ネット証券会社のソフトウエアが推奨環境にあるにもかかわらずフリーズして注文が出せなかった・取り消せなかったなどの理由で利用者が集団訴訟を起こすなんてことにつながる可能性もあるかもしれないので、要注目ではないかと思います。

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榎本さんは何を買ったのか

2006-08-23 | よしなしごと

元ライブドア・榎本さん、宇宙旅行取りやめ
(2006年 8月22日 (火) 00:01 読売新聞)

ロシア宇宙庁報道官は21日、民間宇宙旅行客として国際宇宙ステーション(ISS)での滞在が予定されていた元ライブドア取締役、榎本大輔さん(千葉県松戸市出身)が、医学審査委員会により「医学上の理由」で飛行許可を却下された、と明らかにした。

榎本さんは9月14日、露宇宙船ソユーズTMA9で打ち上げられ、ISSへ向かう計画だった。今回、宇宙船への搭乗が許可されなかったため、代わりの飛行士が乗り組むことになる。

榎本さんの宇宙旅行は米スペースアドベンチャーズ社が企画したもので、費用は約2000万ドル(約23億円)。榎本さんは自らの21日付けホームページで「訓練残す所後2日…今日は最後の検査と言うことで病院に行きCTを撮った」などと書き込んでいた。

こうなると、榎本さんは再挑戦できるのか、とか2000万ドルはどうなるのか--健康上の理由による飛行不許可の場合の再挑戦の権利の有無やそれにかかる費用負担、また、飛行を断念した場合の返還金額などがどのような取り決めになっていたのか--ということに関心が集まります。

この記事によれば、榎本さんの契約の相手方は米スペースアドベンチャーズ社(SA社)ですが、宇宙飛行を実施するとともに、搭乗を許可する権限はロシア宇宙庁にあるようです。
例えて言えばSA社は旅行代理店でロシア宇宙庁が航空会社のようなもののようなので、榎本さんが買ったのが変更・払い戻し不可の団体チケットなのか、変更・払い戻し可の正規航空券なのかによって扱いが違ってくることになりそうです。

ただ、こういうビジネスは少数の超のつく金持ち相手の商売でしょうし、金持ちは弁護士に事前に契約書を見せるでしょうから、「私たちが売っているのは夢でした」などというやらずぼったくりの商売はできないと思いますので、なんらかの補償(または再搭乗のチャレンジの保障)はあるんじゃないでしょうか。
それに顧客が再搭乗が難しい高齢者の場合も想定しているでしょうから。

ただ、代わりの搭乗者がいなかった場合の打ち上げ(または打ち上げ順延)費用を誰が負担することになっているかというあたりの問題はあるでしょうから、再挑戦する場合にも若干(相当?)の追加費用はかかるかもしれません。


私は「宝くじがあたったらどうしよう」などと3億円程度の妄想がせいぜいなので、そもそも23億円をポンと払える人の気持ちなどについては全く想像もできないのですが、「頭の体操」としては面白そうですね。

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生中継で見られなくて残念でした

2006-08-22 | よしなしごと
昨日はTAのトラブルシューティングで力尽きてしまい、1日遅れになりましたが、高校野球の決勝戦、2試合ともいい試合でしたね。


個人的にはここ2,3年高校野球への関心がちょっと薄れていたのですが、今大会は初日から好カード、好ゲームが多く、目が離せなくなってしまいました。

個人的には八重山商工を応援していたので、決勝の両チームはどちらに肩入れすることもなく試合を楽しませてもらいました(早実は東京なんですけど「地元」という感じはないですね・・・)。

引き分けの試合は法事のために車のラジオで後半の中継を聞いて、テレビを見たのは延長12回から。
再試合は仕事中のため、PCで速報のウインドゥを立ち上げて横目で見ながらだったのですが、それでもけっこう手(マウス)に汗握る展開でした。
そして家に帰ってから「熱闘甲子園」などを見て、改めて感動しました。


両投手の冷静なピッチングには感動を通り越して鳥肌の立つようなものがありましたね。

早実の斎藤投手の完成度の高いフォームと勝負所を押さえた投球術もさることながら、
力投型でより疲労がたまっていたであろう駒大苫小牧の田中投手もスピードを抑えながらホームベースを広く使うピッチングをしていました。
(引き分け試合の15回表、斎藤投手の140キロ代後半連発にも挑発されず、スライダーやチェンジアップで冷静に0点に抑えたところは見事でした。)


9回の表、駒大苫小牧は2ランホームランで1点差に詰め寄ったのですが、逆にランナーがなくなったことで、斎藤投手は冷静さを取り戻すことができたと思います。
これがホームランでなく、2塁打か3塁打でランナーが残っていれば、斎藤投手の気持ちも違ったでしょうし、打者の方もつないでいく気持ちがより強くなったでしょうから展開としてはわからなかったのではないかと思います。

※気持ちを切り替えること、また、そのための「損切り」「リセット」は冷静な判断のためには大事だと改めて思った次第。


今大会のホームラン量産で来年から「低反発ボール」の使用が検討されるようですが、投手については、この暑さの中での連投にもっと少し配慮してあげてもいいのではないかと思いました。

試合時間にしても、早朝7:00頃から2試合と15時頃から2試合とか、準決勝以降は中1日空けるなどの配慮はできないんですかね。
雨天順延があって日程がずれ込んだとしても、プロ野球はナイターなので、午前中に試合をすればいいと思うのですが、どうでしょうか。

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機械も夏バテ

2006-08-21 | よしなしごと
7月中旬からネットに接続できなくなることが多くなってきました。

どうやらTAが原因というところまではわかったのですが、TAなんて壊れるところもなさそうなのでとりあえずできることとして電源を入り切りするとなぜか回復する、という状態が続いてました。


ところが今日はウンともスンとも言いません。
リセットボタンを押しても反応すらせず。


保証書を見て購入したのは2003年12月とまだ3年も経っていないのにひどいだろう、などとグチをこぼしながら、ふと仕様のところを見ると

  動作温度/動作湿度 0~40℃/20~80%(結露しないこと)

とあります。

我が家のTAは屋内配線の関係で押入れの奥にある電話線とLAN関係のジャンクションボックスの中に入れています。
ひょっとするとこの暑さで日中は40℃を超えてしまったのかと、ためしにボックスのカバーを開け押入れも開けて、部屋の冷房をかけてみました。


しばらくするとTAの作動ランプが点灯し、復活するじゃないですか^^

今までも作動したのは電源の入り切りではなく、そのためにボックスを開けて通風したためだったんですね(^^;

これで秋口までは熱が溜まらないようにすればだましだまし使える目処がたちそうです。


それにしても、最近の日本で使用する機器として、作動温度の上限が40℃というのは、低すぎませんかねぇ、メルコさん?
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いきなり発砲されるリスクをどう織り込むか

2006-08-20 | あきなひ

日本漁船に対する銃撃・拿捕問題ですが、(お亡くなりになった方は気の毒だとは思いますが)日本政府としては遺憾の意を示すくらいしかないというのは仕方のないところだと思います。


領土問題(「日本の領土で日本の漁船を銃撃するとはけしからん」)を正面に出すと、そもそも入り口論で両国ともにらみ合いになってしまい、話が一歩も進まなくなってしまいます。
そして両国の合意事項としては日ロ漁業協定があり、今回の漁船が禁止海域で操業していたとすれば、基本的には漁船側の部が悪く、拿捕されても仕方ないわけです(東シナ海では海上保安庁が中国・韓国の漁船や北朝鮮のニセ漁船に対して行っています)。

すると問題はその際の発砲が適切だったか、ということになりますが、そうなると漁船を狙ったのか、威嚇射撃がそれたのか、とか、漁船が逃げようとしたのかなどは下の記事の主張もありうるわけで「藪の中」なわけです(ロシアの警備艇がゴムボートだった、ということなので、ビデオカメラなどもないでしょうし、漁船は飛行機と違ってフライト・レコーダーとかってないんですよね)。

正直言ってロシアにとってみれば水晶島などは国の領土でも東の果てで、しかもベーリング海峡のようにアメリカと国境を接していたり、ウラジオストックのような軍事拠点もないところの国境警備要員ですから、きちんとした訓練を受けずにいきなり発砲するような輩がいてもおかしくないと思います。

一方で日本の漁船はGPSも完備しているでしょうし、ロシアの漁業専管水域に「迷い込んでしまった」という可能性は低いような感じもします。
(何となくそもそも承知の違法操業をしていたところ、ロシア側がゴムボートだったので事前に漁船のレーダーにも引っかからずに、あわてて逃げようとしたのでは、などと思ってしまいます)


であれば、ちょっと冷たい言い方になりますが、そういう海域で違法(またはスレスレ)の操業をする場合の一つのリスクとしては、拿捕や発砲を受ける(発砲をうければ当たって死傷する)ことは考慮に入れておく必要があったのではないかと思います。



これは北方領土での漁業だけの問題でなく、「違法行為」や「虚偽情報の開示/情報の不開示」、「市場の公正さを損なう買収防衛策」などに非常に敏感な証券取引所に上場している企業や、常に引き金に指をかけているかのごとき金融庁の検査対象の企業(そして、弾が当たれば引責を余儀なくされる(しかも誰も「気の毒」とも言ってくれない)役員)にも言えることだと思いまして。

しかも「漁業専管水域」のような明確な線引きもなかったりしますし、学者や弁護士の先生にはGPSほど明確な指標は期待できないところがやっかいですね。


と、ふと思いました、というところですが、今日はこのへんで。



<参考:報道記事抜粋>

「漁業協定順守で一致」 訪ロの塩崎外務副大臣帰国
(2006年 8月20日 (日) 16:46 共同通信)

成田空港で塩崎副大臣は、北方4島周辺海域での安全操業について「2国間の漁業協定を守ることが大事という認識で一致した。どういうことがあっても人命が失われることがないよう再発防止の徹底を強く要望した」と強調した。


解放のめど立たず、政府は領土問題避け交渉 拿捕事件
(2006年 8月20日 (日) 03:03 朝日新聞)

漁船が拿捕された海域は、日ロ漁業協定で日本漁船のカニ漁が全面禁止されている可能性もある。問題が複雑になるのを最小限に抑えるため、ロシア側が問題視する密漁問題には日本の漁業関係者に漁業協定を再確認・徹底させることで理解を得たい考えだ。  

同時に、政府はこの海域で50年ぶりに銃撃の死者が出たことを重視し、陳謝と責任者の処罰を要求。ロシア側が応じるかは不明だが、過去10年間でロシア当局に拿捕された日本の漁船は50隻にのぼり、再発の恐れもあることから、政府関係者は「強く問題提起することで、今後ロシア側の銃撃を自制させられる」と語る。


漁船銃撃、ロシア側の姿勢に日本側は手詰まり状態
(2006年 8月19日 (土) 21:32 読売新聞)

日本人乗組員一人の犠牲を生んだロシア国境警備隊による日本漁船銃撃・拿捕事件を巡る日露政府間協議で、日本側は19日時点で、「停船命令を無視した密漁漁船への警告射撃は正当だった」とする露側の強硬姿勢に直面、事実上の手詰まり状況に陥っている。


漁船員死亡「警告射撃が命中」 ロシア、偶発的と主張
(2006年 8月17日 (木) 17:09 朝日新聞)

同沿岸警備局によると、日本漁船が水晶島近くで警備艇に発見されたのは現地時間の同日午前5時45分ごろで、暗闇にもかかわらず、漁船は無灯火状態だったという。将校らが高速ゴムボートで近づくと、漁船は逃走を試みた。ボートから緑色の警告ロケットを6回発射し、英語を使って無線で停止を呼びかけても無視して逃走を続けたとしている。  

銃撃については、船体に当てる意思はなくボートから自動小銃で2度警告射撃をしたが、波が高く、漁船も複雑な操船をしたため、命中する結果になったとした。

 

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読者(私)もわかっちゃいない(その7(完))

2006-08-19 | 乱読日記

お盆休みのネタ切れ対策としてやってきたこのシリーズなのですが、後半は日中関係とか憲法9条の話になり、あまり一言を取り上げてチャチャをいれるのも失礼なので、今回で最後にします。
(このシリーズの趣旨はこちらをごらんください。)


「すべての家族は機能不全」  

すべての家庭はどこかで欠損があり、すべての親は何かに依存しており、そこで育つ子どもたちは、多かれ少なかれ、そのせいで精神に歪みをきたしている、ということである。
そういう家庭で育ったせいで生じる子どもたちの精神の歪みに質的な差があると私は思わない。そこにあるのは「程度の差」だけである。

友達も恋人もできず、人の顔色ばかりうかがい、無価値なものに忠誠を誓い、自己処罰癖のある人間など、私たちの周囲に掃いて捨てるほどいる。だが、私は彼らを「アダルト・チルドレン」というような特殊な病人だとは思わない。たんなる、「役に立たない社会人」だとみなしている。
「役に立たない」と査定するという点において私は彼らを差別しており、「社会人である」ことを認める点において私は彼らと連帯している。この「差別しつつ連帯し、嫌悪しつつ受け容れる」という背理的な身の振りのうちに社会の「健全」は集約されると私は思う。

これは「アダルト・チルドレン」ブームへの批判の文章です。
『14歳の子を持つ親たちへ』(こちらのエントリ参照)でもウチダ先生は「私がこうなったのはこれこれのトラウマのせい」というような(フロイトのトラウマ理論を理解せずに)現在のリアルな体験を過去のチープな物語に収斂させてしまう言い方を批判していました。
「他人と違う」ということに神経質になり、その理由をわかりやすい物語にまとめたがる、というのはアメリカ(の都会)人の得意技だと思っていたのですが、日本もアメリカ文化が浸透したということでしょうか。

逆に「俺様(ワタクシ)はこういう人間だから」という開き直る人も不愉快ですね。
結局個性にしろ病変にしろ、社会的な許容範囲の枠内にあるかどうかというところで評価するしかないというわけです。



「ヨイショと雅量」  

悪口を言うときには対象への適切な理解は不要である。
しかし、ほめるときには対象への適切な理解(と少なくとも書き手自身に承認されること)が必要である。

つまり、相手が正しくほめて欲しいと思うところを探り当てないといけない、ということですね。
落語に「子ほめ」という噺がありますが、その面白さもこのへんにあるわけです。

欧州某国の歓楽街での話ですが、1970年代までは日本人客を見ると呼び込みは「シャチョー!」と声をかけていたのですが、80年代になり、平社員クラスも普通に海外出張するようになると、その掛け声が受けなくなってしまったとか(部長くらいだったら「社長!」と呼ばれてもいいけど、係長には皮肉に聞こえると言うことなんでしょうね)。
ただこれにはオチがあって、呼び込みが次に考えた掛け声は

「センセイッ!」

だったそうです。
商売がからむと真剣になる、といういい例ですね(それにしても誰が教えたんだかw)。




「ネオコンと愛国心」  

自由競争から生まれるのは、「生き方の違い」ではなく、「同じ生き方の格差の違い」だけである。

そのような均質的社会は私たちの生存にとって危険な社会である。
なぜ危険かといえば、それはたんに希少財にたすうの人間が殺到して、そこに競争的暴力が生じるからというだけでない。成員たち全員がお互いを代替可能であると考える社会(「オレだっていつかはトップに・・・・・・」「あたしだってチャンスがあれば、アイドルに・・・・・・」というようなことを全員が幻想する社会)では、個人の「かけがえのなさ」の市場価値がゼロになるからである。
多くの人が勘違いしているが、人間の価値は、その人にどれほどの能力があるかで査定されているのではない。その人の「替え」がどれほど得がたいかを基準に査定されているのである。
(下線部は原文は傍点)

「団塊の世代」が定年を迎えるにあたり、「快適なリタイヤメント」とか「老後の資金はこれだけ必要」とか一大マーケットとしてさまざまなアプローチがされようとしています。
何となく老後も「かけがえのなさ」をかみしめるのでなく「よりよい老後モデル」に向かって邁進することが求められているような気がしますけど、ひょっとするとこの世代にはそれが性にあってるのかな、と思ったりもします(私は(当然親も)隙間世代なので団塊世代のメンタリティというのは実感できないのですが、)。

コメント (4)
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