東京大学には2年の教養課程を終えた時点で志望の学部を変更する「転類」ができるのですが、最近転類の制約が緩くなり文科と理科の間の転類も比較的容易になったそうです。
その結果理科Ⅰ類の転類先として経済学部が一番になったとか。
メーカーの技術者になるより金融機関に就職したほうが手っ取り早く金を稼げる、というような考えがあるのかもしれません(憶測ですが)。
ところがそうこうしているうちに、高給取りの象徴たる米国の投資銀行の名門2社が商業銀行持ち株会社化して投資銀行の看板をおろすということになってしまいました。
別に学生の軽挙妄動(そもそもそうだと決め付けることもできませんし)を揶揄するつもりはなく、また、人生自分の選択だけでなく時代の流れに左右されるもの、ということは早めにわかったほうがいいです。
転類先も学問分野として全く興味がないわけではないでしょうから、一生懸命勉強して欲しいと思います。
さて本書は「わだつみのこえ」に代表される学徒兵たちの軍隊(戦場でなく主に兵営での)経験についての日記や戦後に発表された手記などをもとに、彼らが一般の兵士からどう見られたか、彼ら自身が自分やお互いをどう見ていたか、そして軍隊の制度が高学歴者をどう扱ってきたか(帝国陸軍も単純な学歴平等社会ではなかった)を詳しく検証することで旧制高校という当時のエリートの世代を浮き彫りにしようという力作です。
本書を読むと、改めて旧制高校というエリートの仕組みが日本の成長過程での微妙なバランスの上に成り立っていたことがわかります。
一例で言えば、ある程度の高等教育の大衆化がなければ試験での選抜は不可能であったし、逆に高等教育が大衆化した瞬間に旧制高校自体が「エリート」でなくなってしまうわけです。
その意味では、第二次世界大戦がなかったとしてもいずれは維持できなくなるものだったのかもしれません。
つぎに印象に残るのが、学徒兵の世代(1920年代=大正10年代生まれ)が「貧乏クジ」「ロストジェネレーション」世代であったということです。
彼らの父親の世代(1880年代生まれ)が学生の頃は日露戦争があったものの、学生には徴兵猶予の制度があり(なので明治の文学に戦争体験に関するものがほとんどない)、またそれ以後は戦争がなかったために一つ前の世代の兵役生活は非常にのんびりしていたそうです。
そして戦争後はいわゆる「戦後派」の若者(大江健三郎、石原慎太郎、江藤淳などの1930年代生まれ)に「戦中派」の戦争体験への固執を批判される側に回ります。
そして学徒兵の世代の子供たちが経済成長を謳歌した「団塊の世代」にあたります。
さらに「団塊ジュニア」の世代はバブル崩壊後の経済低迷の下でまた「ロストジェネレーション」のめぐり合わせになっています。
本書でもあとがきで「論座」で話題になった赤木智弘の「「丸山眞男」をひっぱたきたい」に言及しています。
著者が言うように学徒兵たちについての世代論は、当時の旧制高校出という孤立したエリートの問題、いわば「コップの中の嵐」なのに対し、現在は産業構造の変化に伴う社会全体の問題であるところに根深さがあります。
「中学も出ていない一等兵が東大出のエリートである丸山眞男をひっぱたく」というエピソードがこの論文の題名の由来になっています。
しかし東大生がエリートではなくなった(依然として入るのは困難ですし学生や教育のレベルは高いとは思いますが、旧制高校-帝国大学のような社会的優遇は受けていない)現代においてそれを再現することの意味が薄まってしまっているところに問題の根深さがあるように思います。(そして、帝国陸軍でさえ平等な社会でなかったことを考えると、戦争になった場合に「格差」が助長・固定されない保証がないところにも。)
そして、一部のエリートがいればどうにかなる時代でもないでしょうから、なおさら人材の流動化の仕組みが大事になると思います(既に僕自身も世代的には既得権に胡坐をかく側に近くなりつつありますけど(汗))。
話がだいぶ本書の内容からはそれてしまいましたが、旧制高校と学徒兵という歴史の「実験室」を検証した面白く、また最近のブームに乗った新書と違い骨太の本です。