テレビで韓国で漢字学習ブームが起きている、という特集をやっていました。
韓国では1970年代の軍事独裁政権下で、それまで漢字とハングルが併用されていた(日本で言う漢字かな混じり文)がハングルのみの使用に強制されたんだそうです。
しかしそのために、もともと漢字で導入された概念を表音文字のハングルだけで表記することになったため(にほんでいえばひらがなだけをつかえときょうせいされたようなものですね)、どうおんいぎごはぶんみゃくでくべつするしかなく、そのためわかもののこくごりょくのていかがとりざたされたり、またこてんぶんがく(これはもちろんかんじはんぐるまじりぶんやかんぶん)がよまれなくなったりというもんだいがひょうめんかしてきているそうです。
しかしもともとはんぐるはちゅうごくやにほんのしはいからのどくりつなどみんぞくてきあいでんてぃてぃにかかわるものなのでしんぶんなどでかんじがふっかつするというものではなく、しょうがくせいののうのかっせいかにやくだつとか、がくせいのしゅうしょくにゆうりというようなどうきがぶーむのはいけいにあるようです。
その話を聞いて、日本の漢字かな混じり文は便利だなと改めて思いました。
(上のように書くとまるで『アルジャーノンに花束を』の書き出しですよね)
『日本語が滅びるとき』流に言えば、漢字かな混じり文という現地語たる日本語は古くは中国の文化=漢語(普遍語)の「図書館」にアクセスし、それを日本語(現地語)の「図書館」に取り込むために役に立ち、また明治維新以後はカタカナも含めて西洋の普遍語(当時は英語仏語独語の鼎立)の「図書館」にアクセスしそれを日本語の「図書館」に取り込むことに役立ったわけです。
民族のアイデンティティとか植民地支配の歴史の払拭という政治的意味も大事かもしれませんが、言葉はやはり道具としての有用性を最優先すべきなのでしょう。その意味では漢語と大和言葉がごたまぜになって出来た「日本語」の融通無碍さは大事にしないといけないですね。
ただそれは常に日本語を生かそうという努力の賜物であり、現在インターネットの世界ではさらにその努力が求められているそうです。
小飼弾氏曰く
今日のインターネットは、著者も主張するように英語で構築されている。しかし器としてのインターネットが英語で出来ていようとも、そこに載せるべき内容(content)は、英語である必要もなく実際そうではない。日本語もきちんと「乗せることが」できる。 今では当たり前のことではあるが、それは放置の結果ではない。それは数多くの人が「英語しか載せられない器などごめん被る」と、英語以外の言語も載せられるように、英語で尽力してきた結果なのである。
水村美苗氏の本は「日本近代文学」に特権的地位を与えているところはどうかと思うのですが、それ以外の現状認識の部分(ある意味岩井克人的な分析)は示唆に富むと改めて思った次第。