一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

『20歳のときに知っておきたかったこと』

2011-11-30 | 乱読日記

昨年あたり話題になった本

副題に「スタンフォード大学集中講義」とあるように『これからの「正義」の話をしよう』の「ハーバード白熱教室」の二匹目のドジョウっぽい感じの売り込み方がひっかかるのと(こちらが先かもしれないけど)、著者の経歴も

現在、スタンフォード大学工学部に所属するアントレプレナー・センター、スタンフォード・テクノロジー・ベンチャー・プログラムのエグゼクティブ・ディレクター。さらに、スタンフォード大学の経営工学・エンジニアリング課程やハッソ・プラットナー・デザイン研究所でアントレプレナーシップとイノベーションの講座を担当。全米の起業家育成コースのなかでも高い評価を得ている。幅広い分野の企業幹部を対象に、頻繁に講演とワークショップを行なっている

といかにも「起業バンザイ」「人生アグレッシブに生きねばならぬ」本だといやだなと放置していた。


僕は「起業家」という言葉に抵抗感がある。

単に「自分で商売してる」といえばいいのに、「起業家」というとそれ自体が特別の価値を持つと発言する人間自体が思っている感じがそもそも鼻につく。

そして、世の中の「起業」について語られている中の多くがビジネスプランの説得力ある企画書へのまとめ方という、資金調達の仕方に焦点を当てているのもちょっとおかしいと思う。

もちろんそれも必要な知識だし、多額の初期投資が必要な事業もあるだろうが、最初から巨額の資金調達(またはその先のIPO)が自己目的になるのはどうなんだろう、それって最初からエージェンシー問題丸出しだし、そういう起業が世の中を活性化するとは思えないのだ。


などと読む前から偏見山盛りだったのだが(だったら買うなよ、と言われそうだが)、読んでみるととても真っ当な本だった。

たしかに最初の2章は「起業家コース」っぽかったが、そこからあとは偏見を持っている僕も鼻につくところもなかった。

本書が伝えようとする「制約にとらわれるな、自分で枠をはめるな、賢明な行動でなく正しい行動をしろ」というようなアドバイスは、 20歳のときに限らず今でも役立つと思いながら読んでいたら、最後のほうに書いてあった。

わたしが伝えたかったのは、常識を疑う許可、世の中を新鮮な目で見る許可、実験する許可、失敗する許可、自分自身で針路を描く許可、そして自分自身の限界を試す許可を、あなた自身に与えてください、ということなのですから。 
じつはこれこそ、わたしが20歳のとき、あるいは30、40のときに知っていたかったことであり、50歳の今も、たえず思い出さなくてはいけないことなのです。

逆に中年になって自分の仕事のスタイルが固まってしまった僕のような人間のほうが刺激になるかもしれない本。



 

コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ソーシャル・ネットワーク時代の死に方

2011-11-29 | よしなしごと
ソーシャル・ネットワーク時代の死に方

昨日とりあげた『明日のコミュニケーション』を読みながら気になっていたこと。

特にこの図が、その前に読んだ
『人はひとりで死ぬ 無縁社会を生き抜くために 』とつながってしまった。



これこそ都会におけるサラリーマン化が「家業」をなくした結果、家族それぞれが所属集団とのつながりを重視し家族間の関係が希薄になるという状況を現している。
同書はその結果家族・親族、地域を中心としたネットワークの継承がしにくくなり、無縁化を促進している。

会社や学校のつながりは老後にまで続くことは少なく、歳をとるとメンバーの葬式で出会うくらいしかなくなる。親戚だって離れていればそうだ。

その葬式にしても、家族が交友関係を把握していたときは訃報の連絡もできただろうが「個別プラットフォーム時代」になるとそれも行き届かなくなる。
さらに「無縁社会」となるとなおさらだ。


先日こんなTweetを見たが、気持ちはわからなくもない。

島田裕巳氏の言うように「死ぬときはひとり」と考えれば、葬式のときは自分は死んでしまっているのだから何も感じようがないのでいちいち気にする必要はない、と割り切るのが正解なのかもしれない。


そして、葬式よりも難題なのが墓。


最近はインターネット墓というのもあるようだ(これではないかもしれないがテレビでもやっていた)が、誰が利用するのだろうか?

故人を偲ぶ遺族が作るのなら、個別のサイトを作ったほうが安価だし設計の自由度も高い。
生前の依頼をベースにすると、どうやって告知をするのか、そもそも故人が自分の思いのたけをこめて作ったネット墓に墓参を期待できるのかなど、それ自体が自己満足の感じがする。


自己満足といえばこのブログもそうなんだが、自分が死んだらどうするのだろうと考えてみた。

放っておけば利用料金が払われなくなるので、閉鎖ということになる。
規約を見ると「当社は会員の死亡を確認できた時点を以って、前項の意思表示が当社に到達したものとして取り扱います。」とあるので誰かが引き継ぐのも公式にはダメのようだ。

駄文を積み重ねただけなので無くなってもかまわないのだが、更に歳をとるとだんだんこの世に未練がわいてくるかもしれない。
そうすると無料アカウントにうつして(無料アカウントだと永久保存というのも矛盾した仕組みだ)、死後にも誰かが駄文を読みに来てくれることを期待するなどの行動に移ることを考えるのか。

また、知人の「墓参り」を期待するなら、実名でしかも無料のFacebookやGoogle+(まだ使ってないけど検索機能が強力そうだから過去のことを振り返るのにはいいかもしれない)のほうが向いているかもしれない。


そうすると、将来的には「無縁アカウント」が増えることになるかもしれない。
ただ、死者はサイトを更新しないのでサーバーの容量は限定されるから、無縁墓の整理のようなことは必要がなく、運営側も大目に見てくれるようにも思う。

そうなればさらに、積極的に「いいね!」のほかに「合掌!」を作ってSNS墓参りができるようになると面白いと思う。



そのうち遺言でSNSやブログのIDとパスワードを託して死亡告知を依頼する、というのが流行るようになるかもしれない。



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『明日のコミュニケーション』

2011-11-27 | 乱読日記
さとなおさんの新刊。

ソーシャルメディアが広まるにつれ、人々が限られた発信者からの情報を受け取る形から、「共感」を通じて自らも伝達者になりながら広がっていくという形に変わっていく中で、企業や広告はどう対応すべきなのかを語っています。

助けあいジャパンなどのプロジェクトがソーシャルメディアを通じていかに瞬時に立ち上がったかなどの豊富な事例をもとにテンポよく読ませます。

僕自身はソーシャルメディアを全然使いこなせていないので「なるほどなぁ」と感心するだけなのですが、「共感」というキーワードに関して思ったことは、「ずっとブログやツイートを読んでいると、その人の文体になじみが出てくるので本もスムーズに読みやすくなる」ということ。
これは書籍の販売上もプラスになると思います。
内容的には「AIDMA」とか「SIPS」などいかにも(元)広告代理店の人のプレゼンっぽい概念が出てくるあたりはあまり好みではないのですが、語り口の馴染み方はそれを相殺して余りありました。

ただ、これがメルマガなども出している人だと、著書に新味がないと厳しいのかもしれませんね。


さて、ポイントになるのは、従来は家族というプラットフォームが人間関係、コミュニケーションの中心にあり、「お茶の間」に情報を届ければ全体に伝えることができたのが、それぞれが職場、学校、趣味など複数のつながりを持って家族という中心がなくなる「個別プラットフォーム時代」になってきた。
これは広告にとって逆風でもあったのですが、ソーシャルメディアの登場でそれぞれのつながりが共通の構成員を通じて複層的につながることになり、情報が拡散しやすくなった。
なので、これをうまく利用すれば・・・ということになります。

概念図としてはこれ



こういう中心のない人間関係が、ソーシャルメディアを通じて複層化したものになるといいます。




このへんは説得力はありますし、なるほど、と思います。



ただ自分について言えば、ちょっと違う感じです。

米国の友人からFacebookにしつこくお誘いが来た(というかメアドで検索するとFacebookで自動的に招待メールが来るのだと思うが)ので試しに登録してみたのですが、「プロフィールの公開設定はあとでできます」というのを信じたら最初に一瞬公開されてしまったようで(Facebookって全体に日本語がちょっとおかしくてわかりにくいと思いません?)、そうするとおせっかいにも「友達では?」などというレコメンデーションを流しまくるようで、非公開設定に変更する前の数分に、勤務先の人間から友達リクエストが来ました。

Facebookまでやって友達が会社の連中がほとんどというのも悲しい感じもするし、ただほうっておくとそちらの「友達」の人数は簡単に増えそうで、そうなると内輪のコミュニケーションばかりになったり、ROMってる奴(そういう「友達」を増やすことに意味があるのか、と考えてしまうこと自体古いのかもしれません)から「こんな店に行ってるんだ」などとつっこまれるのもいやなので、その辺の事情を説明してとりあえず保留にさせていただきました。

上で言えば僕においては、哀しいことに会社というプラットフォームが他に比べて強すぎるせいなのでしょう。
それに、同年代の友人はほとんどTwitterもやってなかったりするので「ソーシャルグラフ」どころの話ではないという現実があります。

そして、そもそも付き合いにも濃淡とかジャンルの違いがあるので、それをフラットに並べてというのもどうしても抵抗があります。
全然関係ない人から妙な突っ込みをされてもスルーすればいいのかもしれませんけど、それ自体面倒ですよね。
それに友達リクエストを拒否するのってけっこう波風立ちそうですし。


結局「目黒の秋刀魚」のような無難なことを書いたり、「いいね!」を発表するだけの場になってfacebookの広告営業の手助けをすることになりそうなので、現在のところFacebookは引きこもり状態です。


まあそれでも今日のコミュニケーションは足りているので、とりあえずはよしとしてます。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『人はひとりで死ぬ 無縁社会を生き抜くために 』

2011-11-19 | 乱読日記

宗教学者で、オウム真理教を擁護したとしてバッシングにあい一時期表舞台から姿を消していた島田裕巳氏の本。 

昨年『葬式は、要らない』で話題になりましたが(これは未読)本書は葬儀だけでなく現代日本人の死のありかた、特に「無縁社会」「孤独死」について論じています。

著者は戦後の高度成長期の日本社会においては、多くの人が地方の地縁・血縁中心の村社会から自由を求めて都会に集まってきた、いわばあえて無縁を求めてきたと指摘します。
さらに都会におけるサラリーマン化が、ネットワークの継承をしにくくし、無縁化を促進しているといいます。サラリーマンは「家業」として承継することはできず、その結果家族それぞれが所属集団とのつながりを重視するほど家族間の関係が希薄になるのです。

著者は現在の無縁社会、孤独死の問題はその結果であり、結果だけを問題視するのでは解決はしないと主張します。  

無縁死ということが社会的な問題として意識されるようになったなかで、重要なのは、無縁死や孤独死自体を防ぐことではない。  
実は私たちは無縁死を求めてきたのではないか。その角度からもう一度事態を振り返ってみなければ、無縁死に同対処するか、本当の解決策は見出されないはずなのである。

そして大前提として表題の「人は一人で死ぬ」という認識の重要性を説きます。  

私たちは、個人が村や家といった共同体に縛られない人生のあり方を望み、それを実現させてきた。そこには、束縛の少ない自由な暮らしがある。 
それは、反面から見れば、無縁を希求する生活であり、最期は無縁死に終わる人生である。 
そちらを選択した以上、私たちはそうした生き方をまっとうするしかない。それが動かしようのない事実であり、結論である。 
最期は、ひとりで死ぬ。 
その現実を受け入れ、そこから出発するしかない。  

もっとも筆者は無縁死に陥らないように縁を大事にし、家族としての生活を営み、それを維持するよう努力するという選択肢も認めています。 ただ、自分で無縁を望んでおきながら、最期になって無縁死を恐れる姿勢については厳しく批判します。  

・・・社会から十分な恩恵を被った上で亡くなるなら、死後にそれ以上のことを望むのはあまりに贅沢すぎる。 
もし、浄土というものが存在し、支社が極楽往生するものであるなら、それで十分なはずだ。 
にもかかわらず、現在のシステムでは、遺骨が残るために、墓をもうけなければならず、そこに供養や墓参りの必要が生まれる。死者は恵まれているかもしれないが、残された生者には過大な負担がかかる。 
それは極めて不合理なことではないか。 
これからの社会では、経済の発展は望めず、生者はさまざまな面で苦労を強いられる。
今の死者は、手厚い年金や医療といった社会保険の恩恵を受けてきたが、これからの人間はそれと同じ恩恵を受けられるとは限らない。年金は削られ、医療負担は増えるかもしれない。そうした生者に対して、死者が経済的、物理的、心理的な負担をかけていいものだろうか。  

ここの指摘はそのとおりだと思います。 
墓を作ることや墓参りまで否定する気はありませんが、お金持ちならさておき、自分の死後のためになけなしの財産を使って高価な墓を準備したうえ維持費の負担を後世にかける、という行動は今後少なくなっていくように思います。 
逆に、こういう状況を寺院の側はどう見ていて、どのように社会の動向の変化に対応しようとしているのかも興味あります。  

主張や結論だけ見るとちょっと救いがない感じもしますが、冒頭から戦後日本社会の状況を概観し、同時にその間に起こった新興宗教の勃興と変化(ここは著者の専門分野)や最近の縁を求める動きなども紹介しつつ、説得力をもってかつテンポよく読める本になっています。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

GNH

2011-11-18 | よしなしごと

国民総幸福(GNH)で話題のブータン国王夫妻が来日しています。


でも、国民の幸福というのは為政者に期待する当然のことのはずです。

なのになぜここまで話題になるのか、ちょっと考えてみました。


・日本人は「不幸」から出発したがる

日本で首相が同じことを提唱したら、「幸福の定義とは?」「どのように計測するんだ」などという批判が続出すると思います。
一方でブータンの人々はそんなことを言わずに、現状をポジティブに考えて「そうかそれはいいことだ」と思うような国民性なのではないでしょうか。

一方、日本人にとっては、幸福というのは不幸な現状を克服した先にあるもの、達成すべき目標というとらえ方をしているように思います。

「最小不幸社会」を標榜して不評だった首相がいますが、それはネガティブなメンタリティを正面きって指摘したから不評だっただけで、ポピュリストとしてはいい勘をしていたのかもしれません。


・遠いものへの羨望と近いものへの嫉妬

もし「県民総幸福」の向上を目標にした県があったとすると、マスコミはよってたかってあら捜しをするんじゃないかと思いますし、他県の人も批判的な態度をとるのではないでしょうか。

遠い人が幸せそうにしているとあこがれる反面、身近な人が幸福そうにしていると何かしら嫉妬心が芽生えがちなので、外国という距離感も大事なんだと思います。


・でも、今の生活にはそこそこ満足している

ではブータンのGNHをうらやましがる人の多くも、ブータンに一度旅行に行こうかというレベルで、移住まで考える人はほとんどいないと思います。
「日本の生活レベル・利便性を維持しながら、ブータンの人々のような幸福感を感じたい」というところが多くの人の本音ではないでしょうか。

同様に、上の例が県でなく、過疎の村が「村民総幸福」の最大化を謳っていたとするなら、逆にほのぼのとした話題として取り上げられるのではないかと思います。



幸福になるには、まずこういうメンタリティから脱却する必要があるような気がします。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ファインマン『光と物質のふしぎな理論 私の量子電磁力学』

2011-11-17 | 乱読日記

『宇宙は何でできているのか』の勢いをかって積読の処理にとりかかりました。

本書は量子電磁力学の研究でノーベル物理学賞を受賞したリチャード・ファインマンの著書です。

ファインマンといえば『ご冗談でしょう、ファインマンさん』が有名で、これはご本人の飄々とした人柄と旺盛な探究心がにじみ出る印象的なエッセイでしたが、この本は量子電磁力学(光と物質の相互作用にかかる量子論)を素人にわかりやすく説明しようとした講演会を元にした本です。

正直言って後半部はきちんと理解できずに読むだけになってしまいました。
ただ、テーマを光子の運動にしぼっているだけに実験による観測とそれを説明する理論の研究を繰り返すことで物理学が進んできたところが実感として伝わってきます。

そして、ファインマン先生らしく、あくなき探究心は自分がノーベル賞を受賞した「くりこみ理論」に対しても向かいます。

・・・この理論が無矛盾であることが、いまだに何らかの方法で証明されていないのは意外なことで、おそらく例の「くりこみ」が数学的に筋が通らないためだろうと私はにらんでいます。ひとつ確実なことは、量子電磁力学の理論を説明できる良い数学的方法がまだないということです。njおよびmeの関係を説明するのに、こんなにもたくさんの言葉を使わなくてはならないのでは、決して良い数学とは言えません。

わからないこと、納得がいかないことを解明しようというのがモチベーションであって、ノーベル賞はゴールではないんですね。

『宇宙は何でできているのか』でも常に従来の理論に合わない現象が観測されたり、突拍子もない理論と思われていたものが実は観測結果を上手く説明したりということが繰り返されて研究が進んでいることが紹介されましたが、理論体系の進歩の過程を学ぶ以上に「わからないこと」を解明しようと取り組む好奇心・探究心が必要なのでしょう。

先日、村山斉さんの講演を聴く機会があったのですが、「だいたい90%は上手くいかないので、好きでないとやってられない」とおっしゃっていたのが印象的でした。

ファインマン先生も冒頭にこんなことをおっしゃってました。

ところで今までざっとお話してきたことは、私が「物理学者による物理学史」とよんでいるもので・・・物理学者が弟子に話し、その弟子がそのまた弟子に語り伝えるといったたぐいの、伝承化された神話のようなもので、必ずしも物理学発展の歩みを実際にたどったものではありません。物理学の歴史的発達が事実どのような道筋を通ってきたかなど、ほんとうをいうとこの私にもわからないのです。

「その先」に興味がある物理学を体系的に説明させようってのは無理があるよって、正直すぎますw

 



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自然エネルギー

2011-11-16 | ECO・環境問題
先日クラス会があって、時節柄自然エネルギーになんらかの形でからんでいる人も多かった。

以下、飲みながらだったのでうろおぼえで、しかも裏をとってない(取る情報源がない)が興味深かった話


太陽光パネルはコストでは圧倒的に中国製が優位

日本は家庭用の太陽光パネルの開発からはいったので、小規模の効率などは最先端をいっているが、中国製は砂漠に何ヘクタールという規模で設置する前提のものを作っているので、効率や精度にはさほどこだわらずにコスト競争力優先で開発している。

なので、メガソーラーの世界で日本メーカーが競争するのは苦しいのではないか。

しかも中国メーカーも設備投資過剰なので値崩れしてきていて、参入して儲かるのかという問題もある。



風力発電は風車が大きくなるほど風切音が大きいので市街地近くには作りにくい。
日本は平地が少ないのでそうなると自然と洋上ということになるが、今度はあまり遠いと送電コストがかかってしまう。
洋上だと基礎を立ち上げるにしろ浮体にしろコストはかかるが、送電のための海底ケーブルも海流でゆれても切れないなどの高品質のものが必要で、けっこうそのコストが高い。

福島沖に洋上風力発電所計画 政府、復興支援の目玉にという計画があるが、125億のうち30億が送電用海底ケーブルの費用(この辺不正確かもしれません)

また、で近場に作ると漁場との共存という問題がある。
日本海のどこかでは漁礁とセットで作ろうという実験をしているが、なぜかサザエがとれなくなったとかいう例もあるらしい。

さらに、日本は落雷が非常に多く、欧米のメーカーの風車が想定している落雷対策では不十分な点もコスト高の原因になっている。


一方中国の「メガ風力発電所」が話題になっているが、実はその1/3近くが稼動していないらしい。
というのは中国は技術移転を条件に導入するが、ノウハウの流出を恐れている欧米メーカーは図面しか渡さない(製造・運転ノウハウまでは出さない)ために、故障が多いとか。


いろいろやってみることが大事、という段階なのかもしれない。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

独裁者も楽じゃない

2011-11-15 | まつりごと
昨日に引き続きNHK BS世界のドキュメンタリー

このシリーズは秀作が多く、タイトルだけで削除する気にはなれずにハードディスクに録画した番組がたまってしまっていて、深夜に見ることになり、睡眠不足の原因です。
(削除するにも我が家のレコーダーはパソコンみたいに画面で選択して一括消去できないのでめんどくさいというのもあり)

昨日見たのが最愛の敵 カダフィ

1969年のクーデター成功から2007年の国際社会復帰までを映像資料や関係者の証言で追ったものです。

カダフィ大佐は1969年にクーデターに成功して以降今年まで42年間リビアの指導者の地位にあり、そういう超長期政権からは強固な独裁政権だったという印象を持っていたのですが、国際情勢の変転の中で苦労の連続だったことがわかります。


革命当初は石油利権を餌に欧米諸国との関係で主導権を握り、購入した武器で国内の反対派を弾圧する一方で、エジプトのナセル大統領の後継者としてアラブ諸国の旗頭をもって任じていたのですが、その戦略がうまくいっていたのは最初の10年。

1979年にエジプト・イスラエル間で平和条約が締結されその目算が狂うと、今度は冷戦下で旧ソ連に接近する一方で、反イスラエルのテロリストを支援したりパンナム機爆破など親イスラエル国家と対立姿勢を前面に出し各地でテロ行為を行ないます。

ところがまた10年後、ソ連がゴルバチョフ政権下で冷戦が終結すると、後ろ盾を失ったリビアはテロ支援国家として国連から経済制裁を受けるようになってしまいます。

するとカダフィは石油利権を餌にアメリカと接近し、パンナム機爆破犯を引き渡して裁判を認め、遺族補償にも同意と急展開し、1999年に国連の経済制裁決議が解除にこぎつけます。
つぎにアメリカの制裁解除を狙ってアルカイダなどのイスラム過激派の情報をアメリカに提供します。当時リビア国内ではアルカイダの反政府活動が盛んで、リビア情報部はアルカイダの情報を持っていた一方で、アメリカはノーマークで、これでアルカイダの情報を得ることができていたというのは皮肉な感じもします。

さらに911以後のアメリカの「テロとの戦い」を怖れたリビアは自ら大量破壊兵器の廃棄を申し出(欧米はこれも全然念頭になかったらしい)、またしても石油利権や武器購入をテコに欧米との関係修復に乗り出します。


2011年初頭の作品なのでここまでで終わっていますが、ふりかえってみると、約40年の独裁政権でも10年ごとにピンチが訪れ、それをどうにか乗り切っていたことがわかります。
40年間ふんぞり返っていたと思ってたらけっこう苦労しているんだなと思ったのですが、こういう政権維持の努力を「楽じゃない」と考えるようでは独裁者にはなれないということですねw


アメリカが自分の意のままになる独裁者を"our son of a bitch"と言いながら使っていたことは以前ふれましたが、カダフィもほとんどの時期国際社会で"son of a bitch"と非難を浴びながらも、その時々の状況に応じて常に"somebody's son of a bitch"なりつつしのいでいたことがわかります。

ただ、カダフィは国民にとっては一貫して単なる"son of a bitch"だったわけで、そこを政策転換することは自分の存在を否定することになるので最後までできずに、こういう結末を迎えたということなんでしょう。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不当債務

2011-11-14 | よしなしごと

といっても貸金業法の問題ではありません。
言わば「街金」でなく「国金」の話。

NHKBSの世界のドキュメンタリーで ギリシャ 財政破綻への処方箋 ~監査に立ち上がる市民たち~という番組をやってました(本日再放送があったようですね)

NHKのサイトによると、この番組の生い立ちはつぎのとおり。

この作品は市民から寄付を募り、約85万円という低予算で制作され、最初はウェブ上で発表されましたが、金融関連報道で「豚」呼ばわりされたギリシャ、スペイン、ポルトガルなどの民衆の共感を集め、難しい経済の話ながら各地で上映されました。

ここで取り上げられていたのが「不当債務」という概念 。

元は1927年にアレクサンダー・サックという学者によって提唱された概念で、

① 政府が国民の認識と承認なしに融資を受けた場合
② その融資が国民の利益にならない活動に使われた場合
③ 貸し手がこの状況を知っていたにもかかわらず見て見ぬふりをした場合

の3条件を満たす場合国家は「不当債務」として返済を拒否できるとするものです。  

サックの提唱前の19世紀末、アメリカはスペインとの戦争によってキューバを保護国にした際に、同様の理屈によって400年間にわたるスペインの植民地支配時代のキューバに対する累積した膨大な金額の債務の返済を拒否しています(Wikipediaの "Odious debt"の項目によると、この史実が不当債務の概念の下敷きになっているようです)  


番組では、2002年12月のイラク侵攻計画の中でアメリカ国務省はこの概念を使ってイラクの債務(フランスやロシアからの数十億ドルの武器購入にあてたものなど)を免除しようという計画を立てたものの、この概念を途上国が主張しだすとパンドラの箱を開けることになってしまう(たとえばキブツ政権下のコンゴ、マルコス政権下のフィリピン、アパルトヘイト時の南ア・・・)ので、債権国はイラクに対する債務を自主的に80%削減するという大人の解決をしたと指摘しています。  

そして、この概念を使って最近債務の削減に成功した例としてエクアドルを取り上げます。  
エクアドルは石油資源があるにもかかわらず、インフラ投資などにかかる先進国からの融資がふくれあがり、2005年度では国家予算の半分の30~40億ドルを返済にまわす状態でした。  
しかし、これらの債務は、過去の政権が先進国の企業と癒着して行なったものであり、投資は先進国の企業に発注されて回収され、後には無用の長物と借金だけが残っている。そしてエクアドルの石油輸出代金は債務返済という形で先進国に吸い上げられ、国民には何も残らない。(この途上国を借金漬けにする手法は「エコノミック・ヒットマン」と言われています。 エコノミック・ヒットマンの仕事については下の動画をご参照ください(ちょっと長いですけど))

本来エクアドルの石油はエクアドルの国民のために使われるべきだと新たに選出されたコレア大統領は主張します。  

そしてコレア大統領は就任早々に世界銀行・IMFの指導を拒否し、過去の債務を調査する委員会を立ち上げます。  

そして大統領は調査の結果を国民に公開し、過去の政権の負った債務の70%の支払いを停止すると宣言します。  


エクアドルが巧妙なのはその後で、この宣言の結果投資家があわてて売りに出して暴落したエクアドルの債券を、エクアドル政府は陰でこっそり買い集め、その結果30億ドル分の債務を8億ドルで清算できたといいます(相場操縦風ですけど)。  


番組は、ギリシャの債務においても不当債務が多いと主張します。 

2001年には有利な為替レートを適用することで債務隠しをする(為替スワップか何かでしょうか)ことにゴールドマン・サックスが加担し、その後も元ゴールドマン社員がギリシャの債務削減の担当者に就任していたこと、独仏は金融支援の見返りとして戦闘機や潜水艦の購入を申し入れてきたことなどをあげます。  

そして、ギリシャもエクアドル同様、国の債務を監査し、不当債務があれば弁済拒否をすべきだ、とまとめます。  


今回「不当債務」という概念は初めて知りました。
独裁政権と結託して借金漬けにする経済支配の手法に対しては有効な主張のように思います。  

ただ、番組の主張についてはギリシャって民主主義国家だったんじゃないの?という疑問はありますし、イタリアやスペインあたりがこれを言い出したら収拾つかなくなりそうです。  

これはギリシャの人の主張ということで。
また、一部特権階級だけが恩恵をこうむって、借金は国民全体が負担していることに 不満が渦巻いているのは事実のようです。



エコノミック・ヒットマンが語るアメリカ帝国の秘史 前編

エコノミック・ヒットマンが語るアメリカ帝国の秘史 後編 

上の動画でインタビューに応じている「元エコノミ・ヒットマン」が書いた本
(動画で取り上げられている本の前著。日本語訳がでているのはこれだけみたいです。)
読んでみようと思います。

 

コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

清武の乱

2011-11-12 | よしなしごと
ナベツネ氏の放言は貴重なネタ元だったのに「コンプライアンス上の問題」とか言われてスポーツ記者は当惑しているんじゃないかと思います。

ワンマン会社だから球団経営しちゃいけないというわけでもないし、プロ野球界自体球団の株式を保有しているわけでもない人を「オーナー」という擬制をとっているので、ワンマンとは言わなくても意思決定の集中(またはそれによる劇場化)を求めているように思いますし。


で、結局昨日の会見はなんだったんだろうと清武代表の声明文を読み直してみました
巨人・清武代表:渡辺氏独断「コーチは江川氏」声明全文1
巨人・清武代表:プロ野球の私物化許せぬ 声明全文2止


一つは「岡崎ヘッドの降格と江川氏のヘッド就任をナベツネが勝手に決めた」ということも、桃井オーナーと清武氏の異動をナベツネが決めたということについても、取締役を解任するとかでなければ「オーナー」とか「球団代表」については重要な人事異動が誰の権限かというだけの問題です。

清武氏に権限があるなら取り合わなければいいだけの話だし、越権行為があったらとがめるのが「球団代表」か少なくとも取締役として相互の職務執行を監督すべき人の仕事のはずで、これを外部に泣き言をいうのは権限のある人のすべきことではないように思います。

「造反」などと夕刊紙に書かれていましたが、もしクーデターを狙っていたのならナベツネの首を取るまでのシナリオを練っておく必要があるのに、そのシナリオも見えないし、協力者もいませんよね。
一人で反乱するなら、周到にマスコミを味方につけるとか、違法行為の証拠を握ってからにしないと勝ち目はありません。

これがジャスミン革命のように読売新聞やグループ会社に波及すれば「最初に抗議の自殺をした人」として意味があるとは思うのですが、どうなるんでしょうか。


世の中には「人事は全部会長が決めちゃって・・・」と愚痴っている社長ってけっこう多いんじゃないかといると思いますし、その一人が大王製紙やオリンパスを見て「世間は自分に味方してくれる」と勘違いしてしまったようですね。

なんだかんだと日テレに面倒を見てもらっている江川氏の世渡りの上手さとの対照も趣き深いものがあります。






コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大前研一「TPPは『国論を二分する』ほどの問題ではない」

2011-11-09 | よしなしごと

ひきつづきTPPについて。
nikkei bp netの大前研一氏のTPPは「国論を二分する」ほどの問題ではない

大前氏らしい冷静(冷ややかな)言い回しですが、今のところいちばんまともな意見のように思えます。
長めの引用ですが備忘録代わりに。

・・・他の参加国には少なからず自国に有利な戦略的なねらいがあることだ。それに対して日本は、「交渉参加が自分たちにとって損か、得か」のレベルでもめているように見える。何とも「滑稽」な話ではないか。少なくとも日本がTPPに参加する以上は「何を達成したいのか」を明確にする必要がある。


・・・日本の財界はおしなべて賛成意見を持っているようだ。私は今まで40年にもわたって経営コンサルタントとして企業のグローバル化を手伝ってきたが、貿易障壁があって経営戦略に支障を来した国はTPP交渉参加9カ国では一度もなかった。だから、これらの国とどんな障害をどのように取り除いていこうとしているのか、政府あるいは財界には明確に説明してもらいたい、と思っている。

「新たな開国」というフレーズはなんとなくかっこいいですが何を意味しているのかわからないし、議論を曖昧にしているように思います。
また、少なくとも経団連に加盟しているような企業がTPP参加国に対して参入障壁があって困っているということもないように思うのですが。
ひょっとすると民主党と経団連の仲直りのための握手代わりのような感じも。

一方の反対派の多くは「情緒に流されているだけ」のように見える。

・・・交渉を始めたら最後、「奈落の底まで突き落とされるぞ!」という恐怖の物語はあまりにも主体性のない脅し、と映る。

これは同感だけど、上の政府の主体性のなさとあわせると漠然と不安も持っている、という人も僕も含めて多いのではないでしょうか。


で、大前氏らしさが出るのがこのあと。

「滑稽」と言えば、TPP交渉参加国である米国もそうだ。米国がTPPでねらうのは「対アジア輸出の拡大」「自由貿易圏の拡大」だ。もちろん「その心は?」と問えば、米国内での雇用拡大である。

しかし過去30年間、米国はこの手の貿易交渉の結果、貿易を拡大させたことがあったろうか? 雇用を増大させたことがあっただろうか? 私の記憶では一度もない。

(米国は)日本との交渉は政治的にうまみがある(雇用につながるかもしれないという期待がある)のでしっかりやるが、次の国が台頭してくる頃には米国側の当該産業界に強いロビー勢力が消えており、政治的に興味を失ってしまっている。こういうパターンはこの40年間、いっこうに変わっていない。

もう一つ面白い現象がある。米国が門戸開放をした市場に当初の予定通り、米国企業が「進軍してきた」ケースはほとんどない、ということである。

米国は軍・宇宙などの半導体が主力であるため、またインテル社やテキサス・インスツルメンツ社のように強いメーカーはすでに日本で生産していたため、日本が必要としている民生用の半導体を輸入することはできなかった。日本企業はやむを得ず韓国にノウハウを与えて無理に20%分の生産を委託し、「輸入実績」を作ろうとした。当時はこれが名案のように思われていたのだろうが、結局これが命取りとなって、世界最強を誇っていた日本の民生用半導体の主導権を韓国に奪われる悲惨な結果に終わっている。

つまり米国は過去40年間、「輸入自由化を相手国に飲ませます。輸出の拡大によって米国の景気や雇用は改善します」と米国民に対して言い続けてきたが、結局のところは景気も雇用も改善したわけではなかった。

米国は貿易相手国に門戸を開かせるまでは熱心だが、その後は続かない。いつも「漁夫の利」を得るのは他の国なのだ。これを「滑稽」と言わずして、何と言おう。

・・・仮に日本がTPPに参加して環太平洋で自由貿易圏が確立したとしても、米国の雇用も経済もほとんど改善することはないだろうと私は見ている。肝心の米国企業にその気がないからである。つまり、米国の強い企業は世界の最適地で生産し、魅力ある市場で勝負している。「米国国内に雇用を創出しよう」などと考えている殊勝なグローバル企業はない。だからこそ、この期に及んでも米国企業は好決算、米国の景気や雇用は停滞という対照的な状況になっているのである。

そう言われてみれば確かにそうだよな、という話。
カーター政権のときのピーナッツ問題で千葉の落花生農家が崩壊したわけではないとか、日米繊維交渉が長引いた結果日米共に東南アジア諸国に負けてしまったなどの実例をあげています。
こういう話があるのにけっこう忘れっぽいんだよなぁと自省。

米国が欲しいのは雇用であって「市場開放」ではない。ましてやEU並みの国家資格の相互認証など米国はまったく考えてもいないだろう。米国が考えてもいないことを想定して煙幕を張り、日本が世界に誇り、世界がまた日本をうらやむ「国民皆保険」を人質にとって「それが崩壊してもいいのか!」と脅す医師会も、もう少し冷静になってもいいのではないか?

日本に対して市場開放を迫る米国の農業も、オーストラリアと一本勝負すれば負ける。補助金のないオーストラリア農業は、補助金で支えられた米国農業よりも圧倒的に強いのだ。

今回の9カ国メンバーにオーストラリアが入っているということは、「例外」を設けるに違いないというヒントでもある。

これは僕も思っていて、「例外はまったくない」というのを鵜呑みにするのはナイーブ過ぎるし、国民の安全のための規制はなんと言われようと非関税障壁ではない、と断固として言い返すのが政府の仕事だと思う。

そして、相前後しますが気になるフレーズ

・・・対外交渉の下手な政府は米国の言いなりとなるが、その被害者には税金で応分の負担をしましょう、というやり方を用いるのである。今回も野田首相は早速このお家芸を持ち出し、万一農家などに被害が及べば補償はしっかりやります、などと交渉の始まる前から「鎮静剤の散布」を提案している。

結局「焼け太り」狙いかよ、と思われるのは、農業の発展を目指す人々にとってもプラスではないように思います。

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元農水事務次官の告白

2011-11-08 | よしなしごと

日経ビジネスonlineの記事「農業の守り方を間違った」元農水次官の告白

共感できる部分もあり、できない部分もあり。
(以下抜粋の部分は若干前後します)


何しろ「原則関税撤廃」というのが大きな誤解だ。撤廃する品目もあるが、そこは正に交渉して決まる話だ。米国は米豪FTA(自由貿易協定)で砂糖などを関税撤廃の例外にしている。TPPでも米豪FTAの内容は変えないというのが米国の基本姿勢だ。若干は変えるところがあるとしても、基本は絶対に守るだろう。

日本がどうしてもコメを守りたいならば、早く交渉に入って、我々はコメ問題をこう考えると主張するべきだ。米韓FTAでコメを例外にした韓国が、もしTPPに入ってくれば、当然コメを例外にするよう主張する。日本が先に入り、WTO(世界貿易機関)のドーハラウンド(多角的通商交渉)でそうしたのと同じように、韓国と一緒にコメを守ればいい。  

情報がないのが問題なら、まず交渉に参加しろということだ。交渉に参加して情報を取り、日本の強み、弱みを踏まえて交渉する。協定の中に自分たちの考えを反映させるよう、一番国益に沿うものを勝ち取る。そして協定の形ができあがったら、批准するかしないかはまさに国会の役割だ。


このへんは共感できます。
交渉する前にどうこう言っても仕方ないし、交渉に入ったら負ける前提のところがそもそもまずいと思います。

ただ、今までの各国とのEPA・FTA協議でも農水省の人はNOの一点張りだったという話も聞いたことがあるので、実際にできるかどうかはちと心配。
一方で内容はともかく調印することが目的、という省庁の人もいるようで、TPPに参加するのなら国・官僚組織としての交渉力を磨く必要がありそうですし、交渉過程を(事後的にでも)きちんと示すべきだと思います。
さらに野田政権はG20で他国の関心がないのに消費税10%とか言うし、それを「国際公約」といかいうマスコミもいるのでなおさら心配です。


ただ、それ以外のところは今ひとつよくわかりません。  


農業で言えば、小沢さんがかつて言ったように、戸別所得補償を導入すれば日米FTAも乗り切れるはずだった。2009年のマニフェストにもそう書いてある。農村の振興と国際化は両立させる、というのはそういう意味だ。そういう政策目的をもっていたはずなのに、マニフェストと全く関係ないことをやってしまっているのは、政策目的なき、究極のバラマキと言わざるを得ない。


「戸別所得補償を導入すれば日米FTAも乗り切れる」というのは、戸別補償は「補助金」ではないから非関税障壁じゃない、というロジックでFTAに抵触しないだけで、日本農業の発展にプラスになるのでしょうか?
戸別補償は日米FTAとセットだというなら、なぜ小沢グループはTPPに反対しているのでしょうか。(このへん私の理解不足かもしれませんが)


私の原点となる主張は、農業経営は総合産業ということだ。経営資源は農地、人、技術であり、作物を加工し、付加価値をつけて販売、マーケティングする。そういう意味では製造業と何ら変わらない。今は「6次産業化」という言葉を使っているが、先進的な農業者は前からみんなそうしている。  

私はそういう経営体を「持続的農業経営体」と呼んでいる。すでに存在している経営体を点から面へと広げていく。既存の制度の壁を取り払うため、持続的農業経営体の総合支援法を作り、そこで農地の問題、新規参入も含めた人の問題、技術の問題を取り扱い、企画力や販売力を高めていく支援体制をどう作るか考える。  

今の農地制度を廃止するぐらいまでやればいい。それは経過措置を取ればいいし、持続的農業経営体支援法のなかに使いやすい簡単な農地制度として入れてもいい。今の農地法の特例法をその中に書くやり方もある。要するにやる気になればいろんなことができるはずだ。  


この「原点」っていつのことなんでしょう?
事務次官のときにやっていれば今更反省はしなかったはずだし、経歴を拝見すると事務次官を2001年に退官後は農林中金総合研究所理事長、農林漁業金融公庫総裁を歴任。2007年からNPO(特定非営利活動法人)日本プロ農業総合支援機構副理事長、とあり、少なくとも農林中金総合研究所理事長や農林漁業金融公庫総裁のときに主張されればもっと影響力があったのでは?  

事務次官経験者って退官後、天下りで十分利食ったあとにNPO法人の理事長とか大学教授とかになって宗旨替えする人が多いように思うのですが、「今までは間違っていた」と言われてもどうしても色眼鏡で見てしまいますね。

それに、この人は先進的な取り組みの人を例に挙げているだけで、結局自ら何か規制を突破したとか、少なくとも先進的な取り組みの人を支援したというわけでもないようです。

せっかく反省するのなら、現役のときにそういうことができなかった背景にある官僚組織や政治家の関わり方の問題点などを掘り下げて欲しかったと思います。


やはり人間は生身だから、保身もあるし、出世欲もあるし、いろんな思いがごちゃごちゃにある。そういう中で、政治というものがどっちを向くのか気になる人たちもいる。改革を始める時は、ほとんどがその改革を理解していないか、改革に反対か、改革に消極的だ。改革をする時、組織の中に信念を持った人間が1%いればいい、と私は言ってきた。

農業関係者は、とかく排除の論理に陥りやすい。農政のことは、俺たちだけしかわからない、俺たちが一番わかっているんだ、となると、内輪でしか通用しない用語ができてくる。そうした用語を理解しない人たちは全部わかってない連中ということになる。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

村山斉 『宇宙は何でできているのか』『宇宙は本当にひとつなのか』

2011-11-04 | 乱読日記
『宇宙は何でできているのか』は幻冬舎新書で昨年のベストセラーにもなった本。
遅ればせながら読んでみましたが、やはり面白かった。

難しいことを門外漢にもわかりやすく説明するという点では出色のできばえだと思います。

朝日カルチャーセンターでの講義をもとにしたためか、非常にくだけた語り口で、たとえ話もわかりやすいうえに、研究の発展をけっこう体系的にカバーしています。
そして何より著者の研究者としての楽しさが伝わってくるのがいい。

知り合いに天文学者に星間物質の何たらを研究していると聞いたとき、それが何を意味するかいまひとつわからなかったのですが、この本を読んでなんとなくわかった感じがしました。
もっとも、わかりやすく説明するのに新書1冊かかるのに、一言で説明しろといわれたら無理もないですがw



『宇宙は本当にひとつなのか』は講談社ブルーバックスから出た二匹めのドジョウ狙いの本。
こちらは4つの講演をまとめたそうです。

前半部は『宇宙は何でできているのか』と内容が重複しますが、後半部の多次元宇宙と多元宇宙の話はこちらで詳しく触れられています。
なのでタイトルもこうなったのでしょう。このへんは後塵を拝してしまった科学系新書の老舗のブルーバックスとしての意地もあるのでしょう。


ただ、どちらか1冊を推薦しろ、と言われたら『宇宙は何でできているのか』ですね。



(余談)

今回からリンクのアフィリエイト先を楽天ブックスに変えてみました。

日本に法人税を納めていないamazonに金を落とすのは悔しいので自分が本を買うときはできるだけamazon以外を使うようにしているのですが、gooブログの編集画面だとamazonでリンクを作るメニューがあるので今までは楽をしてました。
ただ、今回TPPネタを書いているうちに、少しでも日本経済を応援という気分になったのでアフィリエイトも変えてみた次第。
(面倒だと元に戻るかもしれませんが)








コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NHK「激論TPP」

2011-11-03 | よしなしごと

NHKの「激論TPP」というTPP問題についての解説委員による討論を見ていて思ったこと。


・「 今TPPの交渉に参加しないと、枠組みの決定に参加できず、日本の主張も反映できない」という主張


これは僕もそう思うので、「交渉に参加」はした方がいいんじゃないかと漠然と思っています。

Wikipediaで拾った「環太平洋戦略的経済連携協定 (TPP) の概要と意義」( 亜細亜大学 国際貿易投資研究所)を見ると「サービス貿易の自由化約束についてネガティブ・リスト方式を採用している」とか「競争法の適用除外分野はannex で提示されている」など、枠組みが決まってからだと不利になる可能性のありそうなところとか「地理的表示については、TRIPs 協定第22 条によるチリのワインおよびスピリッツについての地理的原産地の表示の保護が規定されている」というように、早めに言っておけば日本の主張も反映できそうなところなどもありそうなので。

ただ一番の心配事は、日本政府の交渉力。
よくあるパターンとして「交渉に入る、入らないの議論は盛り上がるが、一度交渉に入ると決まると、次は「交渉に入った以上妥結する」ことが至上命題になってズルズル譲歩を繰り返してしまう。」というのがあります。
いつの間にか政治家の面子や交渉担当の官僚の成果測定の問題になってしまうパターンです。
(企業間の交渉もそういうケースもあるし、逆に相手をそういう方向に持っていくというのもテクニックの一つではありますが)

現状の議論が「交渉をする=相手の言い分を飲む」という風になってしまっているのがとても気になります。
和平交渉ではないのだから、冷静かつ粘り強く交渉して、結局国として利益にならないと判断したら調印しなければ言いだけの話だと思うのですが。

もっとも「普天間問題で怒らせてしまったアメリカへのお土産」などという主張もあるそうで、そういう動機があるのだとしたら交渉に入らないほうがいいと思います。



・ 日本の農業はどうなる


専門知識がないので物品貿易が完全自由化されると日本の農業が壊滅してしまうのか、競争力を持つように生まれ変わるのかはよくわかりません。

ただ、議論で気になったのは、「安全でおいしい農産物を作れば競争力が持てるし輸出もできる」という論調。
この前提として「安全でおいしい農産物」は高級品として品質で勝負するのか、価格競争力で勝負するのかを整理したほうが良かったと思います。
たぶん「安全でおいしい農産物を輸入食品と同程度の価格で」というのは難しいと思うので、国際競争力を持つのは「安全・高品質な高級品」になるはずです。
そしてそれは「お金のある人は安全・高品質な食品を食べて、お金のない人は輸入原材料による安価な加工食品やファストフードを食べる」という今のアメリカと同じ状況をもたらすのではないでしょうか。

それは避けたい。

そうすると、農業問題は、安全で高品質な農産物を適正な価格で食べられるくらいに国民の所得レベルを維持向上させることができるのか、という経済政策とも関連してきます。

企業が労働力をコストとしてのみ考えると、労働分配率が減り総需要が減少するという合成の誤謬の指摘もありますし、一方で労働政策で対応しようとすると既得権のある(僕らの年代以上の)年寄りの抵抗も予想されます。

そのへんが自分としてはいまひとつ整理できていない感じでした。

野田首相とか経産省とか経団連はどう考えているのかにも興味があります。


<追記>
そのあとBSで「キング・コーン-とうもろこしの国を行く-」というアメリカのドキュメンタリーを見ました。

アメリカのトウモロコシはほとんどが牛の飼料や高果糖コーンシロップ、コーン油など食品や添加物の原料として使われている。
それは1970年代に食料補助金制度を増産にインセンティブを与えるように変えて、安価に大量のトウモロコシが供給されるようになったことによる(この既存の米国の農業補助金がTTP上どうなるんでしょうか)。
そのため栽培されているトウモロコシは収穫量とデンプン量を最大にするように品種改良されたいわば工業品であり、直接の食用には適さない。
逆にアメリカ人の摂取する食品の80%がトウモロコシを飼料や原料にしていて、それが糖尿病などの成人病を引き起こす原因になっている。

というような内容です。
(本来穀物を食べるようにできていない牛の飼料にすることの弊害や糖尿病の問題については『フードインク』でも指摘されてました。)

つまり、デンプンを安価に供給できれば、何もトウモロコシ(や場合によっては農業自体)に頼る必要はないわけです。

ここからは思考実験。

たとえばトウモロコシよりもデンプンを採取するのに高効率な穀物がどこか(中央アジアとかアフリカの奥地とか)で発見され、その遺伝子特許を日本企業が取得して、たとえばオーストラリアとかで大量に生産することになった場合、TPPではアメリカは関税をかけられない一方で日本の特許は保護されることになります。
そのときにアメリカは自国の農業の衰退を座して待っているだろうか。TPPの例外規定を作るとか、脱退をほのめかすとかするのではないでしょうか。


日本が交渉に参加するのであれば、そういう連中と交渉する、そしてこちらも同じくらいの振る舞いをする覚悟が必要なんだろうと思います。

個人的にはそこのところが一番心配・・・

 

コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本郵便の怠慢

2011-11-02 | 東日本大震災

こんなことだから年賀状がジリ貧になるのだと思う。

被災地で年賀はがき販売開始
(11月1日 13時3分 NHKニュース)

被災者のなかには、仮設住宅などに入居したあと、郵便局に転居届けを出していない人も多く、年賀状が届かないケースも懸念されるということです。

仮設住宅住まいの被災者は過去の年賀状リストもない人がほとんどどだろから「送りもできず届きもしない」という状態にあるのではないか。
「懸念」などという受身では公共サービスを事業独占する資格はないと思う。

「どんな過疎地でも郵便を届ける」というのが民営化への抵抗の謳い文句だったが、それは平時に限定されるということだろうか。

日本郵便のサイトを見ても、4月6日に 避難先届(お客さま確認シート)等の提出のお願い というのがあるだけ。

転居届けを待つのでなく、仮設住宅に聞き取りのローラーをかけるとかなぜしないのだろうか。

「昔の正しい住所に送れば、仮設住宅に転居している人については必ず届ける」
「被災地からの年賀状は、名前と大体の住所さえ書いてくれれば、最大限届ける努力をする」

くらいのことはすべきではないか。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする