地方を中心に寺院の経営が成り立たなくなり、廃寺されていく現状を、自らも実家の寺の副住職でもある著者が取材した本。
地方での人口減少をきっかけに、経営難、後継者不足、地域コミュニティの中での役割の低下などの負のスパイラルに巻き込まれている寺院の現状を紹介するとともに、新しい寺院経営の在り方を模索している実例も紹介している。
そして、経営難の背景を掘り下げていくと、人口減少だけでなく、さまざまな要因が明らかになってくる。
たとえば戦前の寺の経営は地代に支えられていたこと。1700年代頃から地域コミュニティの核であった寺院が住民に貸金を行い、代物弁済をうけて貸地を増やしていったが、戦後の農地解放で所有権を失い地代収入が一気に少なくなったこと(逆に言えば都心部の寺院は貸地が宅地だったので今でも借地の底地をたくさん持っているわけだ)。
(注:葬儀についても直葬やお布施の見える化などが進み、寺院の関与の仕方が変わってきていること(現在の寺院経営の「葬式仏教化」への批判の代表例としては『0(ゼロ)葬--あっさり死ぬ』参照)。
さらには、東日本大震災の被災からの復旧においては、政教分離の原則により、国や自治体からの補助金をうけられないという事情もある。
本書は寺院経営に関するのドキュメンタリーとしては幅広い問題を扱っているが、最後は「経営」と「宗教・信仰」という二つの性格の違う問題になってしまうことが難しさを象徴している。
本書では檀家制度の廃止や事情があって引き取り手のいない遺骨の「送骨サービス」などの新しい取り組みを始めている寺の事例が紹介され、また各地の先進的な僧侶とのインタビューのも挿入されている。
それらの中では、宗教・信仰に立ち返ることの重要さが強調されていた。
反面、本書の帯には「あなたの菩提寺がなくなる?」とあるが、「寺がなくなるから困る」ではなく、時代の経済環境や死生観に合った宗教・寺院のありかたを寺院だけでなく檀家や檀家候補者の我々も模索していく必要があると思う。
一方で、現実には、改葬(墓を移す)の際には行政に提出する改葬申請書に住職の署名が必要で事実上住職の同意が必要になる(これは本書で初めて知った)など寺院・宗教法人にはさまざまな既得権がある。それ以前に、そもそも墓地を作るの許可は宗教法人か地方公共団体にしか与えられない。
しかし、イエ主体から個人主体への変化に伴う宗教観・死生観の変化や人口の(都市部への)移動に伴う墓地・祭祀のありかたの変化があり、それを無視して既得権をてこに変化に抗おうとするのであれば、寺院の在り方は今後、より厳しくなるのではないか。
これからの寺院には、経営面以上に、宗教により軸足を置いた変化が求められているように思った。
積読だけでなく、これは、と思う本はもったいないので読まないでしばらくとっておく、というのが私の悪い癖。
実は「Ⅰ」を読んで非常に面白かったので、「Ⅱ」はしばらく読まないでとってあった。
「Ⅰ」「Ⅱ」とあれば「Ⅱ」は続編と思うのが普通だろうが、実は「Ⅱ」は「Ⅰ」とセットになっていた。
「Ⅰ」に訳者あとがきや解説がないので気が付かなかった方も悪いのだが、それなら「上」「下」とか「前編」「後編」とするのが誤解を招かないのではないか。
などと文句を言いつつも、中身は非常に面白いので堪能できた。
後半のテーマの一つに「戦争」がある。
戦争と言っても、南北戦争の話(祖父から聞いた)もある。
第一次大戦はその後欧州から米国に移ってきた祖父などから来た話が主。
一番多いのが第二次大戦で、ベトナム戦争の話は少ない。
原書の刊行が2001年だったのでイラン進攻の前であるし、湾岸戦争は生々しすぎるのは分かるが、ベトナム戦争も25年では物語として昇華(消化)するのは難しいのかもしれない。
事実は小説より生成り。
ポール・オースターがラジオ番組のためにリスナーがつづった実話の中から精選した作品集。
このアンソロジーには179の物語が入っている。過去1年に送られてきた四千点のうち、私から見て最良の物語がここに収められている。と同時にこれは、いわばナショナル・ストーリー・プロジェクト全体のミニチュア版というか、全体の傾向を伝えるような選択にもなっている。この本に収められることになった、夢、動物、なくした物等々に関する物語一つひとつに対し、代わりに選ばれてもよかった同テーマの物語がそれぞれ何ダースかずつあったのだ。
これらの物語をあえて定義するなら「至急報(ディスパッチ)」と呼びたい。つまり、個人個人の体験の前線から送られてきた報告。アメリカ人一人ひとりのプライベートな世界に関する物語でありながら、そこには逃れがたい歴史の爪あとが残っているのを読み手はくり返し目にすることになる。個人の運命が、社会全体によってかたちづくられていくその入り組んださまを再三再四思い知らされるのだ。
一編一編がとても面白い。
また、「普通の人々」などいない、それぞれの人生がオリジナルな喜怒哀楽に満ちているということを改めて考えさせられる。
翻訳は柴田元幸ほか。
いろんな人の語り口を生き生きと訳してくれている。
高校生の時に早稲田商店会の活性化に携わったことをきっかけに、街おこしビジネスに取り組んでいる著者が、町おこし、地域活性化について「誰も言わなかった10の鉄則」を書いた本。
冒頭の早稲田商店会の活動がどのようにして成功し、何をきっかけに暗転していったかのエピソードが一番印象的。
「10の鉄則」については、ビジネスの立ち上げ全般に共通する部分もある(その意味では変なビジネス本よりは理屈っぽくないし実践的でいい)が、やはり一番大事なのは補助金依存の危険性のところだと思う。
税金は、そもそも最初から事業性がない社会制度のためにあります。補助金を入れた瞬間に、その事業は本来の機能を失い、誰も対価を支払うような取り組みではなくなり、補助金なしには継続できない状況にまで追い込まれてしまいます。
補助金は事業メニューというものがあり、「こういうことをやれば補助金をあげます」と使い道がもとから規定されています。そうすると、補助金をもらうことが目的化して、みんなが役所の推奨する取り組みばかりするようになります。
しかも、補助金のメニューは、他の地域でうまくいった事例をそのまま他の地域に導入する前提になっており、「同じようなことを、補助金を使って真似してください」と言っているようなもの。つまり、他の地域の枠組みのコピーを推奨しているにすぎないわけです。
行政、特に国や県の施策は、もともと行政自体にアイデアがないから、どこかの成功事例を「全国(全県)展開する」というものが多い。
それは一概に行政の責任だけではなく、「ウチにもあれが欲しい」という圧力をかける議員や首長の存在も大きいのだが、そうすると、日本どこをとっても金太郎飴のようなことになってしまう。
地方活性化については著者のいうとおりであるし、最近のインバウンド観光客の増加をうけた「観光立国」についても、かえって外国人観光客にとっての魅力を減じてしまう結果にならなければいいと思う。
良書。
外務省外交資料館、防衛庁防衛研修所戦史部以降、教科書検定臨時委員、日米「密約」問題に関する有識者委員会委員など一貫して問題国の歴史事業に携わってきた著者が、戦後の歴史問題の発端から現在に至るまでの事実関係と背景を年代ごとにまとめている。
本書の議論の中心は、「過去の戦争」について、なぜ国民の多くが共有できるパブリック・メモリーが形成できないのか、というより、多様な歴史認識や戦争観の共存・競合を前提とする敗戦国が、どのように戦争や植民地支配に起因する「歴史問題」に対処してきたか、という点である。それによって、より本質的な問題群が見えてくると感じたからである。
とあるように、本書は現在ではあまり話題にならない問題も含め、その原因と現在への影響について語っている。
たとえば、在外私有財産問題-日本人が植民地や占領地域に残した財産の国家による補償問題-ドイツ(ヴェルサイユ条約)やイタリア(イタリア平和条約)でも政府による補償が明文化されたにもかかわらず、日本政府の財政事情や「他の戦災者との公平」からの配慮の要求が功を奏してか講和条約では定められなかった。
また、植民地住民の戸籍問題。
国際慣行では、ある地域が割譲される場合には住民には国籍の選択権が賦与されているにもかかわらず、講和条約発効時の法務府民事局長通達で韓国・朝鮮人、旧植民地出身者は敗戦までは「日本臣民」として扱われていたにもかかわらず(日本国内に在住している人も含めて)一律「外国人」とされ、国籍選択権を与えなかった(この通達については1961年の最高裁判決において合憲の判決がなされている。また講和条約発効までの間は1947年の外国人登録令により、在日台湾・朝鮮人は日本国籍を持ちながら外国人とみなされるという状態が続いて社会的問題になったこともあった。)。
その後帰化要件が緩和されたとはいえ現在でも残る国籍差別問題を議論するにあたっては、この辺の知識は不可欠だと思う。
著者は歴史問題の根源は戦後日本が過去の克服をできなかったことにあると指摘する。
このように、新憲法体制は戦前国家との「断絶性」を強調する国家像と、「連続性」を強調する国家像という、二つの国家像を内包しているということができる。戦後政治の中で、前者が基本的な国家像として定着していくものの、戦争や植民地支配という「過去の克服」という点では、それに相応しい解決策を提示することはできなかった。
その一方、犠牲者意識に支えられた平和主義は、戦争に対する「リアリティ」を欠いていたがゆえに、戦争の評価と戦没者の追悼・慰霊とを切り離すという政府の一貫した立場と親和的であり、遺族援護法や恩給法を支える役割を果たしてきた。とくに、軍人・軍属の遺族の処遇を優先するという点で戦前と強い連続性を持つ恩給法は、戦争に対する評価を棚上げにした上で可能となった措置であった。
二つの国家像は、互いに矛盾するものとして認識されていたわけではなかった。天皇制維持の国際的認知を得るためにも、平和主義と民主主義の徹底は不可欠とされたからである。しかし両社は、国際冷戦と連動する国内冷戦(左右イデオロギー対立)に翻弄され、それぞれの立場は抜き差しならぬ対立に陥り、歪みのない形での「過去の克服」の道を閉ざしたのである。
戦後西ドイツは(中略)いわば普遍的価値を実現する戦後国家として再出発したがゆえに、「記憶・責任・未来」財団のような、戦後補償問題への持続的対応が可能であった。
しかし、日本の新憲法体制は、戦争や軍備を想定した規定の徹底的な排除という点では平和主義の規範性をより際立たせることになったものの、平和主義に依拠した過去の戦争の清算に関する法令や公的プログラムを有せず、歴史問題の解決に役立つものではなかった。
平和国家論をいわば「国是」として守り抜こうとすれば、そこには沖縄からの批判にも耐え、村山談話を力強く支えるような内実を与える必要がある。その内実とは、近代日本の絶え間ない戦争と帝国圏の傍聴の遺産について、広く歴史的検証可能は知的基盤の形成にあろう。それは、国や地方を問わず日本の行政機関に著しく欠けている「未来への説明責任」を果たすためでもある。
日本国内の世論や中国、韓国の主張はその時々で大きく変わる中で、政府が公式声明だけでなく外交活動も含めてどのように対応してきたかを丁寧にまとめている。
公式声明や首脳会談にあたっては、相手方の中国・韓国政府とも事前に綿密な協議を重ねながら、その時々の相手の事情にも配慮しつつ日本の主張の一貫性を維持するという外交活動の実態が描かれている。
印象的だったのが、自民党単独政権から細川内閣・村山内閣と政権交代があった中でも、その時々の政権が国としての主張の一貫性の維持の重要性を考えていたこと。
その反面、ここ数年、政権を担う立場の重みが当の本人に意識されなくなっているように感じられるところが心配である。
父親からタイムトラベルの能力があることを教えられた主人公が、時間を巻き戻して失敗をカバーすることを繰り返しながら、人生で大事なことを学んでいく、という話。
SF映画ではないので、タイムトラベル物にある未来を変えることの影響についてはそれほど厳密な制限があるわけではない。
「やり直し」ができること、できないことの意味や大切さを訴えるという点では、個々のタイムトラベルのきっかけになる事件が、主人公の成長に沿ってうまく設定してあり、コメディとして、またドラマとしても面白い。
ただ、現実には選択肢が複数あることが多く、時間を巻き戻したとしても正解にたどり着けるとは限らず、それをはっきりとは分からない正解にたどり着くまでに何度も繰り返すと逆に疲れてしまうのではないか、などと無粋なことを頭の隅で考えながら見ていた。
映画『アバウト・タイム ~愛おしい時間について~』予告編
これは9月に劇場で鑑賞。面白かった。
あらすじ(シネマトゥデイから。詳しくは公式Website)
世間を震え上がらせたハッキング事件を起こし、さらに殺人容疑で追われる天才ハッカーのベンヤミン(トム・シリング)が警察に出頭してくる。ハッカー集団「CLAY」に加担して盗んだ情報によって殺人事件を引き起こしてしまい、今度は自分が狙われていると告白。その自白を基にベンヤミンの身辺調査に着手した捜査員は、不可解な事実を次々に見つけだす。
ドイツの映画で、ハリウッドでのリメイクが決まったらしいが、ハッカー系は登場人物がなかなか正体を現さないので、トリックものには向いている。
ここまでトリックを自慢しているので見破ってやるぞと意気込んだ挙句に自分も騙されたのだが、経路依存性、というか、自分がトリックを見破ったと思ったところに落とし穴がある、といういい見本である。
最後のなぞ解きのスピードが速いので、ちょっとずるいぞと思わなくはもないが、ここは素直にやられたと認めよう。
このトリックを見破れるか!?映画『ピエロがお前を嘲笑う』予告編
進歩的市長が進める行政サービスの民間委託の象徴としてのプロジェクトのエンジニアが誘拐された。警察のサイバー犯罪捜査官に捜査官が過去に冤罪で逮捕したハッカーが絡みながら、誘拐の裏にある巨大プロジェクトの闇に挑む、というストーリー。
行政サービスの民間委託、システム開発業界の重層下請け構造、マイナンバー制度やその前にあった住基カードのシステム上の問題、個人情報保護法の限界など、最近のタイムリーな話題を精緻なミステリーに仕上げていて一気に読ませます。
作者はソフトウエア会社に勤務しながら第一作を電子書籍で自費出版したのがデビューのきっかけだったそうですが、業界事情に詳しいだけでなく、4冊め(電子出版の時代ではもはや「冊」ではないのかもしれませんが)の長編小説である本作では、文体に変な生硬さもなく、システム開発の現場の実情や個人情報保護の実態がリアリティをもって迫ってきます。
マイナンバーの配布が開始され(そういえばまだ通知も来ていないな)、CCCへの図書館委託も話題になる中、また「ITゼネコン」「IT土方」などという言葉もあるように建設業界に例えられる重層構造の話はここのところの基礎杭をめぐる話も想起されるなど、タイムリーな一冊です。
石を投げれば日本人に当たる、とか、シェフ以外はすべて日本人というレストランもあったなどと言われた時代だった。
その2002年にイタリアに渡った料理人を現地で取材して本にした著者が、10年後の彼らを取材した本。
イタリアで修業したとしいても、人数が多いので帰国後には激しい競争が待っている。もちろん日本でも毎年料理学校を卒業する若者がいるわけで、その中でシェフとなり、店を続けてることができているのはごく一部だろうという著者の予想に反し、多くの料理人がシェフを続けていた。
その中の15人の10年間の軌跡と現在をまとめている。
確かに最近はターミナル駅だけでなく小さな駅にもこじゃれたレストランを見かけるようになっている。
自宅の最寄駅は飲食店が比較的多いが、一方で入れ替わりも激しい。
1年持てば軌道に乗るのだろうが、1年を乗り切れない店も多い。
また、競合店の出現などで3年目くらいからさびれていくところも多い。
そういう中で、本書は自分のスタイルを持ちながら店を続けているシェフを取り上げている。
業界的には成功者の部類に入るのだろうが、それでもスポンサーとの意見の相違など、様々なハードルを乗り越えて現在に至っていることがわかる。
特にオーナーシェフになると、料理だけでなく経営から労務管理まですべて自分でやらねばならず、その中で試行錯誤しながら今のスタイルにたどりついた経緯が(そしてそこから先に何を目指そうとしているかが)描かれている。
自分のようなサラリーマンはこういうプロフェッショナルを見ると「好きじゃなきゃやれない」「自分にも才能があればなぁ」などと無責任なことを言うが、「好きなだけではできない」ところを乗り越えてきた人々の話は迫力がある。
前半の「居場所のない男」では、戦後日本のサラリーマンの労働観を形作ってきた就労第一主義は、高度成長期までは婚姻率と就業率の高さによってそのひずみが表面化してこなかったが、団塊の世代が退職し、婚姻率が低下し、景気低迷により無業者の比率が増えることで、家庭や地域社会での孤立(特に退職後や無業者)が問題になってきたことを指摘します。
これ自身は、他所でも言われてきたことではあるのですが、本書の価値は第二部の「時間がない女」のところにあります。
ここで「男性の就労第一主義」が女性の時間が家族の共有財産(「時間財」)と位置づけられ、社会活動参加に直結しない活動に(しかも「愛情」を持って「自発的」に)携わることが求められてきた、その結果、家事労働はいまだ女性に偏重するなかで、社会進出、同時に少子化対策としての出産、さらには親の介護までもが求められることの矛盾を論証していきます。
第三部で、ワーク・ライフ・バランスを取り戻すためのいくつかの視点の提示と提言がされています。 ただ、そこの部分がこれ、という決め手のあるものに感じられない(簡単解決できるなら本書はいらない)のが、この問題の根深さを表しています。
現在必要とされているのは、男性も含めた労働と家庭生活のあり方の再編である。単位時間あたりの生産性を高めかつ評価し、就労インセンティブを保ちつつ生活満足度を上げるためには、総合的な見直しが必要である。
政府が述べてきた「女性活躍」は、スーパーウーマンが飛来して問題を解決してくれることを待っていてはかなわない。そうではなく、今、就労の現場にいる普通の女性が、普通の男性と協業し、その能力を発揮するための環境整備こそが求められている。
このためには、逆説的に「既存の男性の就労モデル」を疑い、問題を検証する必要がある。(中略)
だから、女性の社会進出と男性の家庭・地域社会進出をぜひとも推進することから始めてほしい。女性を企業のメンバーに加えると同時に、男性を地域社会メンバーに加えることが必要である。このためには、旧来の「標準世帯のライフスタイル」を前提とした社会制度を見直し、全方位的な雇用環境の改善を行う必要がある。(後略)
ノウハウ本は、一つか二つ役に立つところがあれば儲けものなのだが、その基準からはお買い得感はあり。
特に最初の部分、テクニックに走るのでなく(=TED風に格好よくプレゼンをするのでなく)、「一番伝えたいことは何か」を絞り込むことの大事さ強調している部分が説得力があった。
まあ、確かにTEDのサブタイトルも"Ideas worth spreading"だし、当たり前なんだけど、TEDがメジャーになった結果「TED風プレゼン」の方が流行しているという状況もあるので、原点に返るということは大事。
残りの部分はテクニック論だけど、「TEDトーク研究家」を自称する著者だけあって、体系だった解説がされている。
既に他所でも言われていること、自分には関係ない(またはレベルが高すぎてできない)ことなどもあるが、なるほど、と思うこともそこそこ多かった。
特に演台とメモの使い方は早速利用させていただきました。
これも機内で。
日本は(まだ)未公開のようです。
あらすじをザクッというとこんな感じ
高校の中で目立たないように生きている主人公が、ある日、母親から白血病になってしまったクラスメイトと一緒に過ごすよう強要されてしまい、お互いにぎこちないつきあいが始まる。病状が悪化していく彼女に主人公は映画オタク仲間のアールとオリジナル映画を作ることを決意するが・・・
アメリカのテレビドラマや映画では、向こうの高校の階級社会の様子が強調されているのですが、そういう世界の中で地味な高校生が急に大きな役割を背負わされてしまった困惑(と成長)が描かれています。
白血病になってしまう少女も地味なタイプで、他のクラスメイトからほとんど隔絶した中で二人の話が進むことで、最後に普通の高校生の持っている原石の輝きが強調されます。
サンダンス映画祭で賞を取ったらしく、メインストリームではない「傍流」への共感は確かにそうういトーンがあります。
脚本は良くできていて、他のキャラの立っている(戯画化が激しい?)脇役もたくさん詰め込まれていますがギリギリ消化不良になっていません。
ラストシーンはそこへの伏線と映像の見せ方は見事です。
観る機会があったらおすすめです。
ME AND EARL AND THE DYING GIRL: Official HD Trailer
その他機内で観た映画。
『ピクセル』
1980年代に宇宙の未知の知的生物に向けて発射されたロケットに詰め込まれた地球文化の資料の中のゲームを戦争のルールと勘違いした地球外生物がゲームキャラを道具として地球侵略を侵略してくる。これに対して地球を救うべく、かつてのアーケードゲームのチャンピオンだったが今は冴えないオッサンになってしまったオタクたちが立ち上がる。
という、荒唐無稽な映画。(詳細は公式サイトで)
これらのゲームをリアルタイムで知っている自分のような冴えないオッサン世代には面白いのですが、若い世代はどう思うのだろうと思いながら、大人の童話として楽しませてもらいました。
特に「パックマン」は懐かしかった。
映画『ピクセル』予告編 2015年9月12日(土)公開
『ミニオンズ』
このシリーズは初めて観ました。
キャラの造形ととぼけっぷりが命ですが、その生命線をしっかり押さえていて気楽に楽しめます。
イギリスをネタにしたアメリカ映画というところもちょっと面白い。
映画『ミニオンズ』予告編
『ミッション・インポシブル ローグネイション』
たぶん2くらいまでしか観ていない(トム・クルーズがTGVに張り付いていた)ので背景やその後の展開を理解しておらず、字幕なしの英語版で観ていたら「IMF」が組織の名前だと気づかずに一瞬何の話か迷ってしまいましたw
シリーズが進むと、純粋な巨悪の組織と純粋な正義の組織というのもリアリティを持たなくなるので、その背景や国家との関係に触れざるを得なくなってくるというのは、この手の話の宿命ですね(ひょっとすると007シリーズの後釜を狙っているのかも)。
アクションは派手で面白いですが、アクションのためにストーリーを作っている感があるなどと突っ込まずに、楽しんだほうがいい映画です。
ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション
『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』
コミックは読んでいたのでけっこう楽しみにしていました。
CGやプロダクション・デザインはよくできていました。特に巨人の不気味さ、怖さはなかなかの迫力です。
ただ、残念なのは主役が演技過剰で空回りしているところ。
また、話自体は「次回に続く」というところで終わってしまうので、コミックを読んでいない人には唐突な終り方に見えてしまうと思います。
何回シリーズにするつもりなのか、途中で飽きられないような単体作品としてのまとまりを持てる切り取り方ができるのか(スターウォーズのように)、主役の演技は改善するのか、という意味で次回作に興味あります。
映画『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』プロモーション映像