一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

『リアルのゆくえ──おたく オタクはどう生きるか』

2008-12-30 | 乱読日記

『ゼロ年代の想像力』を読む前にウォーミングアップをかねて読んだ本です(Amazonの戦略にはまったともいえますが)。

東浩紀と大塚英志の対談集。2001年、2002年、そして時間を置いて2007年、最後に秋葉原事件の直後の2008年の対談をまとめています。

一貫して大塚英志が東浩紀をアジり、非難し、時には罵倒しています。
それは東浩紀があとがきで書いていたり対談中でも発言しているように、批判を超えた感情的なもののように見え、そこには大塚のいらだちが見て取れます。
非難の対象は「公的なもの」へのコミットについて、東が消極的であり、メタレベルの視点からそれを無化しようとしていることについてです。
『ゼロ年代の想像力』の著者宇野常寛に言わせれば「『大きな物語』と『データベース消費』をめぐる80年代的想像力と90年代的想像力の対立」ということになるのでしょうか。
「そうはいっても世の中に対して超然としすぎているのは批評家であり一個人として無責任ではないか」とアジる大塚に対し「世の中の構造はこういうものだ、と伝えるのが批評家としての責任であり、一個人のあり方は別問題(ここであなたに言われるべきものではない)だ」という東の議論が堂々巡りをし、読んでいて疲れるのは確かなのですが、その「殴り合い」の中でお互いの立ち位置、フットワークが浮かび上がってきたりもします。

このふたりの両方、またはどちらかに関心のある方なら面白いと思います。
僕自身は大塚とほぼ同じ世代(ちょっと下)にあたるのですが、ちょっとこの語り口は読んでいて疲れます(苦笑)。
「新人類」「ニューアカ」時代に世に出て生き延びてきた人の戦略的露悪趣味というか・・・(うーん、そういうと僕にも少しそういうところはあるか(汗))

一番大塚の世代感をあらわしているのがこの発言

でも確かにぼくは「社会」というものが健全に機能していた時代の子供だから、結局、個人的にはなりきれないんだと思うよ、団塊の世代よりもっと始末が悪いかもしれない。



あれ?

これって『20世紀少年』のテーマだ(笑)。


 

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『ゼロ年代の想像力』

2008-12-30 | 乱読日記

同じく斎藤美奈子の「2008年の批評」で『日本語が滅びるとき』とともに、その対極にあるとして取り上げられていた本。

サブカルチャー批評や若者文化に関する批評がここ数年若手評論家の代表者である(といっても1971年生まれなのでもう40手前ですが)東浩紀の焼き直しにしか過ぎなかったこと、しかし東に代表される考え方は1990年代の「古い想像力」であり、2001年以降に芽生えてきた「新しい想像力」をとらえてはいない、という主張です。
(「1980年代の想像力」の僕としては半分、下手すると1割くらいしかわかっていないのかもしれませんが・・・)

ひとことで言えば

碇シンジ(引きこもり)では夜神月(決断主義)を止められない。

詳しく言えば
90年代は平成不況と地下鉄サリン事件に象徴される社会の流動化によって「大きな物語」が機能しないことが明らかになり(ポストモダン化)、社会的自己実現への信頼が大きく低下した。そのような「意味」と「価値」を社会が与えてくれないなかでは「なにかの価値観を信じれば(社会にコミット)すれば誰かを傷つける」ので「何も選択しないで(社会にコミットしないで)引きこもる」という考え方、「~する/~した」という社会的自己実現ではなく、価値観を相対化・宙づりにしたまま「~である/~ではない」という自己像(キャラクター)の承認によるアイデンティティの確立が志向された(最後の場面で戦うことを拒否して「引きこもって」しまう『新世紀エヴァンゲリオン』(1995~1996)の主人公碇シンジはその象徴。)。
それが東浩紀のいう「データベース消費」であり、そのような世界観の浸透は成長や社会変革を描く物語から「ほんとうの自分」や「過去の精神的外傷」を描く物語が選択され、その結果「キャラクター的実存」は数多くの排他的コミュニティを生み出すことになった。

一方で、2001年の同時多発テロや小泉政権下の構造改革、「格差社会」の浸透により、90年代後半のように「引きこもって」いると生き残れないという「サヴァイヴ感」が社会に共有され始めた。
「大きな物語」が失われた結果「小さな物語」は究極的には無根拠であるが、なにかの「小さな物語」を中心的な価値として自己責任で選択していかなければならない、という現実認識-それを受け入れなければ「政治」の問題としては生き残れず、「文学」の問題としては(「何も選択しない」ということもひとつの選択である以上)成立しない-です。
その「信じたいものを信じる」態度が広まった結果、「9.11以降の動員ゲーム(バトルロワイヤル)」が醸成された。
それを象徴するのが『DEATH NOTE』の主人公夜神月である。

ということです。


もっとも著者はそこで「信じたいものを信じる」という決断主義を無条件に礼賛しているわけではなく、データベース化した排他的コミュニティにタコツボ化した社会からコミュニケーションの可能性を模索しようとしています。

「どうせ世の中勝ったものが正義なのだから」と開き直り、思考停止と暴力を肯定する態度にどう対抗するか、が私たちの課題なのだ。

最終章で語られている将来への処方箋のヒント自体は非常に真っ当な主張です。
ただ、これはまっとう過ぎて、今の20代の人には「結局今までの批評家と同じじゃないか」と思われてしまうかもしれません。


本書が別の意味で圧巻なのは、「ゼロ年代の想像力」の切り口で90年代から現在までの小説・映画・テレビ番組などを次から次へと俎上に乗せて分析し、その有効性を主張している部分です。
僕自身はその中で「読んだ・見た」というのは1割「知っている・聞いたことがある」が4割、残りの5割は「見たことも聞いたこともない」というものでしたが、切り口の鮮やかさ(強引さ)はなかなか見ものでした。
さながら万能包丁の実演販売です(そういえば昔秋葉原の駅前でよくやってましたが、ある意味「アキバ系」かも・・・)。

思い出したのが80年代のパルコ出版のマーケティング誌「月刊アクロス」さまざまな事象を年表に並べて一つのトレンドの切り口でバッサリ切るという大胆な提案が話題になりました(今もWeb Acrossとして続いているんですね。 )。
昔月刊アクロスの編集者だった『下流社会』の著者の三浦展氏の感想を聞いてみたい感じもします。

 

斎藤美奈子曰く

同時代作品はまるで眼中にない水村と、同時代作品しか眼中にない宇野(注:『ゼロ年代の想像力』の著者)。知識人の側に立つ水村と、大衆消費社会のど真ん中に焦点をあわせる宇野。両者の接点はまったくない。が、メディア環境の急激な変化を前に「このままではいけない」「君はわかっていない」と煽る、その姿勢自体はよく似ている。

確かにその通りだと思います。

本書は問題提起としては面白いと思います。

ただ、残念ながら「批評家として上梓すること」に力が入りすぎたのか文体が必要以上に硬いうえに、東浩紀のいう「動物化」「データベース化」「誤配」(デリダか、これは)などの概念を前提にしているのでかなり読みにくいことを覚悟ください。

 

年末につきおまけ(埋め込み無効になっているので画面を2回クリックしてください)

実演販売のコパ・コーポレーションビデオ ののじざく切り包丁 中島章吾実演

 

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『日本語が亡びるとき』

2008-12-30 | 乱読日記
斎藤美奈子が朝日新聞の夕刊に書いている文芸時評のコーナーで「2008年の批評」で取り上げられていた本。
ネット上でも大論争になっていたそうです(知りませんでした・・・)

著者の水村美苗氏は夏目漱石の『明暗』の続編の『續明暗』を書いた人で経済学者の岩井克人氏の夫人、という程度の知識しかなく、一度新聞か雑誌のエッセイで読んだときにちょっと自分に合あわなそうな感じがしたので今まで食わず嫌いできていました。

まあ、斎藤美奈子が読めというなら読まざるを得まい、ということで読んでみたところ、確かに面白く、また問題提起の書でありました。

最初に「食わず嫌い」の件から言うと、導入部の第一章で語り口はけっこう気に入ってしまったので、あとは抵抗なく入れました。


本書の内容をまとめると

昔から世界のそれぞれの地域では「母語」=日常使っている言語があったが、文化や技術を継承するための言語として母語とは別にギリシャ語やラテン語のような「普遍語」があった。
文化的な後進国では先進国に留学し普遍語で学んだ者がそれぞれの国に帰り、学んだものを自分の国の「母語」に翻訳した。
そのとき普遍語を「母語」しか読めない人によめるように翻訳したことで「現地語」ができ、現地語で書く人間が増える、現地語での文化の蓄積が増える=現地語を通して文化(その蓄積を筆者は「図書館」と言います)にアクセスできることで「国語」が成立した。

「日本語」は明治維新後に西洋文明を大量に翻訳し蓄積されたなかで成立したが、それはかつて中国から漢語を翻訳した経験と江戸時代の出版文化があいまってできた非西洋文明における奇跡である。

しかし一方国語として成立した日本語だが、西洋語(現在では普遍語になった英語)からの翻訳は多いが日本語の文献が西洋語に翻訳されることは極めて稀である。
したがって、日本文化、日本文学が普遍語の「図書館」に入れられることは極めて稀である。
今後インターネットの普及などでますます文化へのアクセスが普遍語である英語で蓄積された「図書館」に集中する中で「叡智を求める人々」は英語へと流れてゆく。

今後とも日本語が「国語」としての魅力を持ち続けるためには、
①世界に向かって英語で発言力を持てるバイリンガルのエリートを育てること
②日本の国語教育は日本語が「国語」として成立した原点である近代日本文学を読み継がせることを主眼とすべき

ということになります。

最後の段落までの部分、普遍語が文化の伝播・承継の中心として機能するというあたりは、夫の岩井克人氏の貨幣論を髣髴とさせるテンポのいい語り口で説得力があります。
貨幣でいえば、基軸通貨と現地通貨のようなものですね。
実際に自然科学の分野では論文も先端の研究は英語で発表して評価を得ないと意味がない時代になっています。


論争になっているのは最後の段落の部分だと思います。

①については育てようと育てなかろうと、研究者やビジネスマンは英語での発言力を磨く必要に迫られています。それを学校教育特に選抜された「エリート」に叩き込む、ということが必要かどうかは議論のあるところだと思います。
「エリート教育」という言葉自身に抵抗があるのかもしれませんが、僕自身は「エリートに限定する必要はないんじゃない?」と思います。エリートでなくても必要に応じて意味のある発言をする必要は出てきますので(たとえば「ジャパニメーション」について「エリート」が代弁しても意味や影響力のある発言が出来るとは思えません)。

より問題は②。
そこまで「近代日本文学」に特権的地位を与えないといけないものなのでしょうか。
日本語の「図書館」を充実させる中で、文学は近代文学以外の蔵書を入れない、というのは理屈に合わないのではないかと思います。
著者は最近(というか戦後以来)の日本文学は価値がない、とものすごく大胆に切り捨てています。
まあ、それも一つの意見ではあると思うのですが、『ニッポンの小説-百年の孤独』で高橋源一郎は逆に現代小説は近代日本文学の呪縛から逃れられていないのではないか、という問題提起をしています。
それはある意味近代日本文学以外はクズ、という水村氏の主張と表裏でもあるのですが、高橋氏はそこを突破することこそが「文学」である、と、その先を信じています。

僕としては高橋源一郎の考えの方が好きです。

近代日本文学が「聖書」になってしまい、後はその解釈や伝承だけ、というのなら、あえて守る必要もないんじゃないかな、と思います。


<追記>
関連したエントリはこちら参照



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