1月22日のHNK首都圏特報でお坊さんが変わる!? 時代が求める仏教とはという番組をやっていた。
amazonの「お坊さん便」をきっかけに、檀家制度を廃止する寺など寺院・仏教の在り方を模索する僧侶たちの取り組みを取材している。
お墓の話や寺院との関係は個人的にも関心があって、このブログ内でも、お墓の話(2015/12/20)、『寺院消滅』(2015/11/30)、『0(ゼロ)葬--あっさり死ぬ』(2014/12/30)などでも取り上げてきたが、寺院が一般人の生活から遠い存在になってしまい、多くが「葬式仏教」と化してしまった現在、経済合理性という切り口からの攻撃に抵抗する力が残っていない、というところが問題の根源にあると思う。
実際、東京だと、関東大震災によって寺院の郊外への移転が進んだ結果、お墓のある寺自体が家の近くになく、当然お坊さんとも日常的に接する機会がないために、自然とお彼岸、法事や葬式のときくらいしか付き合いがない。
ではなぜ寺院自体があえて檀家から離れることをしたのだろう、その時点では檀家と宗教的な結びつきが強く、多少郊外に移転した程度では縁遠くなることもなかったのだろうか、などと考えながらググっていると、
[講演要旨]関東大震災による寺院移転:「得生院誌」をめぐって
という文章にあたった。
これによると
・安政2年(1855)の大地震では多くの寺院が被災・焼損したが、その復興が完了しないうちに明治維新が起きた。
・明治維新は、寺域が国有地として召し上げられただけでなく、また大名家の菩提寺や御用商人の外護を経済的支柱としていた寺院にとっても大打撃であった。
・さらに明治21年(1888)の市区改正では東京市15区内の墓地を郊外移転させる方針が出され、墓地の拡張禁止と、郊外移転または納骨堂建設を前提とした墓地の無償払い下げが行われた。
・さらに大正12年(1923)の関東大震災後の区画整理事業を進めるために、無償払い下げを国有境内地にも拡張するとともに、その代りとして境内地や墓地を区画整理地区に強制させる政策がとられた。
という経緯があり、この結果現在ある郊外の寺社町(だいたい環状八号線沿線の距離感)が形成されてきた。(画像は上記サイトから引用)
これを見ると、そもそも一般市民と寺社とのつながりは東京においては昔からそう強いものではなかったのではないかと感じる。
信仰の面でも地元に密着した存在であれば、なんらかの存続運動が起こったように思うし、寄付も集まったのではないか。
結果、今も都心部で残っている寺は、明治時代に既に私有地を持っていて借地の地代で経営が賄えているところに限られている--つまり宗教活動とは直接関係がない要因による--のかもしれない。(寺が貸金の抵当に土地を広げた経緯や、地方においては農地解放でそれを放出させられて檀家との関係が微妙な寺も多いことなどは上の『寺院消滅』で触れられている)
さらに、高度成長期に都会に流入してきた世代(特に長子以外の世帯)を信者として取り込むことにも成功しなかったことが、現在の問題の遠因になっているように思う。
都会においては、そもそも立ち返るべき寺と檀家の関係の「本来の姿」というのが明治以降失われていたとすれば、その「再構築」自体フィクションの上に成り立つものでしかない。
一方で、引きずるべき過去がないのであれば、一から構築することも可能であり、そういう取り組みが(自分の墓をどうするか決める前に)出てくることを期待したい。
amazonの「お坊さん便」をきっかけに、檀家制度を廃止する寺など寺院・仏教の在り方を模索する僧侶たちの取り組みを取材している。
お墓の話や寺院との関係は個人的にも関心があって、このブログ内でも、お墓の話(2015/12/20)、『寺院消滅』(2015/11/30)、『0(ゼロ)葬--あっさり死ぬ』(2014/12/30)などでも取り上げてきたが、寺院が一般人の生活から遠い存在になってしまい、多くが「葬式仏教」と化してしまった現在、経済合理性という切り口からの攻撃に抵抗する力が残っていない、というところが問題の根源にあると思う。
実際、東京だと、関東大震災によって寺院の郊外への移転が進んだ結果、お墓のある寺自体が家の近くになく、当然お坊さんとも日常的に接する機会がないために、自然とお彼岸、法事や葬式のときくらいしか付き合いがない。
ではなぜ寺院自体があえて檀家から離れることをしたのだろう、その時点では檀家と宗教的な結びつきが強く、多少郊外に移転した程度では縁遠くなることもなかったのだろうか、などと考えながらググっていると、
[講演要旨]関東大震災による寺院移転:「得生院誌」をめぐって
という文章にあたった。
これによると
・安政2年(1855)の大地震では多くの寺院が被災・焼損したが、その復興が完了しないうちに明治維新が起きた。
・明治維新は、寺域が国有地として召し上げられただけでなく、また大名家の菩提寺や御用商人の外護を経済的支柱としていた寺院にとっても大打撃であった。
・さらに明治21年(1888)の市区改正では東京市15区内の墓地を郊外移転させる方針が出され、墓地の拡張禁止と、郊外移転または納骨堂建設を前提とした墓地の無償払い下げが行われた。
・さらに大正12年(1923)の関東大震災後の区画整理事業を進めるために、無償払い下げを国有境内地にも拡張するとともに、その代りとして境内地や墓地を区画整理地区に強制させる政策がとられた。
という経緯があり、この結果現在ある郊外の寺社町(だいたい環状八号線沿線の距離感)が形成されてきた。(画像は上記サイトから引用)
これを見ると、そもそも一般市民と寺社とのつながりは東京においては昔からそう強いものではなかったのではないかと感じる。
信仰の面でも地元に密着した存在であれば、なんらかの存続運動が起こったように思うし、寄付も集まったのではないか。
結果、今も都心部で残っている寺は、明治時代に既に私有地を持っていて借地の地代で経営が賄えているところに限られている--つまり宗教活動とは直接関係がない要因による--のかもしれない。(寺が貸金の抵当に土地を広げた経緯や、地方においては農地解放でそれを放出させられて檀家との関係が微妙な寺も多いことなどは上の『寺院消滅』で触れられている)
さらに、高度成長期に都会に流入してきた世代(特に長子以外の世帯)を信者として取り込むことにも成功しなかったことが、現在の問題の遠因になっているように思う。
都会においては、そもそも立ち返るべき寺と檀家の関係の「本来の姿」というのが明治以降失われていたとすれば、その「再構築」自体フィクションの上に成り立つものでしかない。
一方で、引きずるべき過去がないのであれば、一から構築することも可能であり、そういう取り組みが(自分の墓をどうするか決める前に)出てくることを期待したい。