四方源太郎日記(京都府議会議員・綾部市選挙区)

これからの綾部のために、さらなる「挑戦」を!

当番交替奉告祭

2021年01月24日 | 歴史の探求

 24日㈰、10時半から熊野新宮神社(出口孝樹宮司)当番交替奉告祭に出席した。今年1年は、新宮・川糸組から並松上・下組に当番が交替することになる。

 終了後は、今年の当番で片づけをし、弁当とお下がりをもらって帰った。

 

 熊野新宮神社は、元は大本「御神体」である本宮山にあり、平安時代末期平清盛の長男・重盛が勧請して建立されたと言われている。重盛綾部では他にも綾部八幡宮を建立したとも伝えられている。

 江戸時代初頭九鬼氏綾部藩主となり、最初は今の綾部高校東分校のあたりにあった豪族・梅原氏の館に入ったが、後に上野町現在の大本長生殿の場所に館を移した。その際本宮山から現在の熊野新宮神社の隣地に場所を移したとされている。

 大本との関係も深く出口王仁三郎聖師全国およそ40ヶ所に歌碑を建立したが、その一つ「熊野神社歌碑」大正10年1月熊野新宮神社境内に建立された。第一次大本事件同年2月12日なので、その直前のことである。
 昭和10年の第二次大本事件で、全国のすべての歌碑は撤去され、ほとんど破砕されてしまった。現在、熊野新宮神社に建っている歌碑昭和43年4月8日に再建されたもので、境内に入って、すぐ右のところにある。

 現在の本殿の紫幕が寄贈されたのが昭和43年だったので、もしかすると、この時に合わせて新調されたものなのかもしれない。

 歌碑には出口王仁三郎聖師の和歌が二首、刻まれている。


「神の子の真心ささげて拡めたる神苑(みその)清(すが)しも石の玉垣」

「苔(こけ)生(む)して神(かむ)さび立てる常磐木の松に志るけし水無月の宮」

 

 石碑の裏面には石碑建立の寄附者名簿が刻まれており、私の曾祖父・源之助、祖父・源太郎の名前もあった。

 祖父明治24年(1891)生まれなので大正10年(1921)にはまだ30才当時住友電線(現在の住友電工)で経理部工場係の一従業員であった。すでに結婚して子どもがおり、55円という大金を自らが寄附できたのかは疑問に思う。曾祖父・源之助が20円を寄附しているので、長男の名前で55円の寄附を出したのではないか。二人合わせて75円で、山下清吉さんの80円に少し遠慮したのかもしれない

 石碑が建てられた大正10年第一次大本事件の年であるが、祖父はこの年、会社からの勧めで研修会に参加した「修養団」にそのまま入団している。

 大正13年には修養団の団長平沼騏一郎氏が就任している。平沼氏は大正元年に検事総長、10年に大審院長となり、のちに総理大臣にも就任した。いわば大本を弾圧した側の責任者のような立場である。祖父は大本の縁と修養団の活動をどう折り合わせていたのかなと思う。

 

 修養団の創設者である蓮沼門三主幹戦後の昭和21年、ひょっこりと綾部を訪問された祖父は次のように書き残している。

 …蓮沼主幹が綾部へ全く突然にやってこられたのでした。顔色は青味をおび、手は氷のように冷たく感ぜられました。私は愕然としました。平沼団長が戦犯として捕らえられていた事情もあり、八紘一宇、忠君愛国の思想が如何に進駐軍の逆鱗に触れたであろうことは、当時、府の教育委員をやっていた私には充分想像することができたのでした。主幹のご苦悩がいかばかりであったか、全くもって察するに余りあるものがあったのです。

 その時、宗教団体大本の二代教主様に会っていただきましたが、蓮沼先生は「全国でたくさんの人々にお出会いしたが、あんなえらい女性は知らん、大きな励ましを受けた」と言っておられましたし、一方の二代教主様も「あの人は立派な人やなあ」と言っておられました。

 蓮沼先生が、何故、綾部のような片田舎にひょっこり来られたのか、そして二代教主様と何をお話なされたのか、今の私には知る術がありません。当時の窮状の中では、何のおもてなしもできず、お慰めする言葉もありませんでしたが、二、三日ご滞留後、お帰りになられる時には、いつもの明るいご温容に立ち戻られ、お別れすることができたのでした。

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