先の真岡事件についての記事を書くきっかけとなった無宗ださんの記事「北方領土について思うこと」の文中、
という箇所で、上記のように「「北のひめゆり」と言われた「真岡電話局」の九人の電話交換手の自決」という字句にリンクが張られている。
リンク先は、「ある通信兵のおはなし」というサイトの「氷雪の門」というページ。
このサイトは、元通信兵だっという人物のメルマガを元にしており、この「氷雪の門」の回は、平成17年3月4日に配信されたのだそうだ。
ソ連侵攻時の自分の体験を交えながら、真岡事件を紹介している。
しかし、先の記事でも書いたように、8月20日、真岡局の電話交換手の責任者は班長だった高石ミキ主事補である。
これは、先の記事で紹介した川嶋康男『「九人の乙女」はなぜ死んだか』に記されているほか、同書に収録されている上田豊蔵局長による手記でもそうなっているので、間違いないだろう。
川嶋によると、可香谷シゲは高石主事補を補佐する「代務」という役職であったという。
「ある通信兵」さんは、最後の交信を受信した局は「稚内電話局」だとしているが、これも川嶋の記述とは異なる。
川嶋によると、最後に服毒した伊藤千枝は、その前に豊原、本斗、泊居、そして生まれ故郷である蘭泊の各局と交信したという。いずれも樺太の都市である。稚内と交信したとの記述はない。
「ある通信兵」さんの文章では、まるで真岡を最後に南樺太全土がソ連に占領されてしまったかのようであるが、そうではない。樺太全土の占領が完了するのは8月25日、大泊の占領によってである。その後、南千島が占領された(加藤聖文『「大日本帝国」崩壊』(中公新書、2009))。
真岡事件と稚内電話局といったキーワードで検索してみると、次のような「最後の交信」を紹介しているブログが複数見られた。おそらく、共通の出所があるのだろう。
しかし、真岡を最後に樺太全土が占領されたわけではなく、他都市の局にも電話の設備はあったから、「これが、樺太から日本に送る最期の通話となる」などと言うはずはない。
これは、何らかの創作物を出所としているのではないだろうか。
そして、可香谷シゲについては、こちらのサイトに次のような記述がある。
「ある通信兵」さんは、こうしたものを根拠にしているのだと思われる。
「この九人の乙女の犠牲によって、真岡市に結集していた日本軍は殆ど無傷で樺太から撤退したといわれています。」というのも、何を根拠にしているのか不可解である。
真岡では市街戦が展開され、民間人にも死傷者が出ていた。そんな中、軍が無傷で撤退するなどということが可能だろうか。
また、「ある通信兵」さんは、上記記事「氷雪の門」の末尾に、
と掲げた上、注として、
と書いているが、「日本の古本屋」などで検索したところ、NTT出版刊の「電信電話100年史」なる本は見当たらない。
『関東電信電話百年史』『九州の電信電話百年史』といった本はある。いずれも昭和40年代の刊行である。
わが国の電信電話は既に昭和40年代には100年の歴史を持っていたのであり、昭和60年のNTT発足後に「電信電話100年史」なる本が刊行されるはずはない。
「ある通信兵のおはなし」内の「著者の紹介」には次のような記述がある(太字は引用者による)。
果たして、「幻の部隊」であるが故に、除隊記録がなく、行方不明となっているなどという事態が有り得るのだろうか。
行方不明となっているならば、その不明となるまでの在籍記録はどうなっているのか。
行方不明とは、戸籍上もそうなのか? ならば戦後は無戸籍者として過ごしてきたということか?
そういった疑問はさておき、このteruteruさんと、エンリケ航海王子さんが主張しているのは、要するに、この「ある通信兵のおはなし」は、検証不可能であり、検証を断るということだろう。
疑うことを知らない純朴な読者だけを対象としているということだろう。
素人の目から見れば「フィクション?」と疑いたくなる?
確かに。
あと、無宗ださんは、自身の記事「北方領土について思うこと」のコメントで、
という箇所にも何か思い入れがある様子を示しているが、これは単なる「ある通信兵」さんの思い込みだろう。
ヤルタ協定で南樺太と千島列島をソ連が領有することが認められたが、それ以外のわが国の領土変更は認められず、他方ポツダム宣言でわが国の北海道領有は保障されていたからだ。
(最近読んだ前掲の加藤聖文『「大日本帝国」崩壊』によると、スターリンは8月16日にトルーマンに対し、ソ連軍に対する日本軍の降伏地域に、全千島列島と、釧路と留萌を結ぶ線以北の北海道を含めるよう要求し(北海道はシベリア出兵の代償だという)、トルーマンは18日に、前者は容認したが後者は拒否したという)。
北海道の占領が避けられたのは、「日本軍の奮闘のおかげ」ではない。
こんな基本的事実を誤認するこの「ある通信兵」さんには、私はやはり不信感を抱かずにはいられない。
ポツダム宣言受諾後におきた
樺太における「北のひめゆり」と言われた「真岡電話局」の九人の電話交換手の自決は
日本人の常識となるべき事件である。
という箇所で、上記のように「「北のひめゆり」と言われた「真岡電話局」の九人の電話交換手の自決」という字句にリンクが張られている。
リンク先は、「ある通信兵のおはなし」というサイトの「氷雪の門」というページ。
このサイトは、元通信兵だっという人物のメルマガを元にしており、この「氷雪の門」の回は、平成17年3月4日に配信されたのだそうだ。
ソ連侵攻時の自分の体験を交えながら、真岡事件を紹介している。
ポツダム宣言を受諾して戦争は終結したにも関わらず、ソ連軍は樺太の国境線を越えて南下を続けていました。8月20日には、樺太南端の真岡市に上陸して街を蹂躙しました。
この時、最後まで残った9人の女子決死隊が電話局を死守し、本土との電話回線を確保していましたが、ついに電話局が砲撃を受け、全ての電話線がソ連軍により切断されました。
(注2)
最期の通信は、責任者であった可香谷(よしがだに)シゲからの無線でした。
「ワレニンムヲオエリ。サヨウナラ。サヨウナラ。サヨウナ・・ラ」
彼女は服毒後、最後の力を振り絞ってキーを叩いたようです。
(当時、無線は、局相互の中継回線が輻輳した際に、待ち合わせている次の電話番号を送るために使っていました。(速度は分速50字程度)
従って、電話回線で「さようなら」と告げた後に「可香谷主事補」が最期の「サヨウナラ」を無線で通報したそうです。
有線の電話も無線連絡も、受信した電話局は「稚内電話局」です)
この九人の乙女の犠牲によって、真岡市に結集していた日本軍は殆ど無傷で樺太から撤退したといわれています。
殉職された方々は、次の9名ですがいずれも独身であったそうです。
可香谷シゲ 23才(主事補、現在の主任)
高石ミキ 24才 吉田八重子 21才
渡辺照 17才 高城淑子 19才
松崎みどり 17才 伊藤千枝 22才
沢田きみ 18才 志賀晴代 22才
九人は靖国神社に祭られ、同神社の遊就館には「九人の乙女」の写真などが安置されています。
しかし、先の記事でも書いたように、8月20日、真岡局の電話交換手の責任者は班長だった高石ミキ主事補である。
これは、先の記事で紹介した川嶋康男『「九人の乙女」はなぜ死んだか』に記されているほか、同書に収録されている上田豊蔵局長による手記でもそうなっているので、間違いないだろう。
川嶋によると、可香谷シゲは高石主事補を補佐する「代務」という役職であったという。
「ある通信兵」さんは、最後の交信を受信した局は「稚内電話局」だとしているが、これも川嶋の記述とは異なる。
川嶋によると、最後に服毒した伊藤千枝は、その前に豊原、本斗、泊居、そして生まれ故郷である蘭泊の各局と交信したという。いずれも樺太の都市である。稚内と交信したとの記述はない。
「ある通信兵」さんの文章では、まるで真岡を最後に南樺太全土がソ連に占領されてしまったかのようであるが、そうではない。樺太全土の占領が完了するのは8月25日、大泊の占領によってである。その後、南千島が占領された(加藤聖文『「大日本帝国」崩壊』(中公新書、2009))。
真岡事件と稚内電話局といったキーワードで検索してみると、次のような「最後の交信」を紹介しているブログが複数見られた。おそらく、共通の出所があるのだろう。
「内地のみなさん...稚内電話局のお友達に申し上げます。
只今、ソ連軍が、我が真岡電話局に進入いたしました。
これが、樺太から日本に送る最期の通話となるでありましょう...
私達9人は、最期まで、この交換台を守りました。
そして間もなく、9人そろってあの世に旅立ちます。
ソ連軍が近づいております、足音が近づいております。
稚内のみなさん、さようなら、これが最後です。内地のみなさん、さようなら...
さようなら...」
しかし、真岡を最後に樺太全土が占領されたわけではなく、他都市の局にも電話の設備はあったから、「これが、樺太から日本に送る最期の通話となる」などと言うはずはない。
これは、何らかの創作物を出所としているのではないだろうか。
そして、可香谷シゲについては、こちらのサイトに次のような記述がある。
尚、一部の演劇シナリオに亡くなった可香谷シゲさんが稚内局に向けて和文モールスで『みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら……』と打ったとされているが、もちろん事実とは違うが最高の演出と言えるだろう。
「ある通信兵」さんは、こうしたものを根拠にしているのだと思われる。
「この九人の乙女の犠牲によって、真岡市に結集していた日本軍は殆ど無傷で樺太から撤退したといわれています。」というのも、何を根拠にしているのか不可解である。
真岡では市街戦が展開され、民間人にも死傷者が出ていた。そんな中、軍が無傷で撤退するなどということが可能だろうか。
また、「ある通信兵」さんは、上記記事「氷雪の門」の末尾に、
(参考図書)NTT出版「電信電話100年史」
と掲げた上、注として、
(注2)
電話回線のケ-ブルは、配線盤(MDF)にケ-ブルを立ち上げるまでに、人が立って歩けるぐらいの大きなマンホ-ル(「洞道(とうどう)」と言います)を通っていました。
参考図書の「電信電話100年」には、この場所が爆破されたと記載されていますので、海底ケ-ブル、中継ケ-ブル、加入者回線ケ-ブルのすべてが断線になったものと思われます。
と書いているが、「日本の古本屋」などで検索したところ、NTT出版刊の「電信電話100年史」なる本は見当たらない。
『関東電信電話百年史』『九州の電信電話百年史』といった本はある。いずれも昭和40年代の刊行である。
わが国の電信電話は既に昭和40年代には100年の歴史を持っていたのであり、昭和60年のNTT発足後に「電信電話100年史」なる本が刊行されるはずはない。
「ある通信兵のおはなし」内の「著者の紹介」には次のような記述がある(太字は引用者による)。
tメールマガジン「ある通信兵のおはなし」は、次の世代を担う若い方々を対象に執筆しております。
巷に溢れているような、自序伝ではなく、私が経験した中から「戦争とは」を感じていただくために毎週投稿していますので、戦後氾濫した戦記書物のように、裏読みすれば自分の武勇伝となるものとはいささか趣きを異にしています。
上官の氏名、詳細な部隊名、使用兵器、日時場所(東経○○度、北緯○○度)といった「単なる事実の羅列」は、関心がある方以外は読んでいてもつまらないもので、今の若い方々の多くは読み飛ばしてしまいがちと思います。
特に、戦闘日時などは、読み飛ばす見本のような気がして、敢えて割愛しています。
これは、広く最大公約数的に読者の皆さんに、当時の状況をご理解いただきたいからです。
ですから、連載に当たって私はなるべくオタクっぽい精密な表現は避けるようにしています。」
平成16年6月
著者:teruteruさま
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「ある通信兵のおはなし」は、メールマガジン「軍事情報」がお届けしている2つの別冊のうちのひとつです。
配信は毎週金曜日です。
戦争経験者の生のお話を伺える機会というのは、実はそうあるものではありません。
また、「戦争経験者の話」といえば、誤った反戦教育に利用される「戦争とは悪だ」式の話や、戦争を必要以上に美化する傾向のある話になってしまいがちです。
しかしながら、著者のteruteruさまがお書きになるこの「おはなし」には、そういったヒステリックさが全くなく、必死に生きていた当時の若者の様子、そして彼らがその後どのように生きてこられたかが淡々と書かれています。
この「おはなし」を、私はひとつの日本の現代史として受け止めています。
ひとりの男性の一生を通して、わが国が歩んできた道、私たちは一体何を得、何を失ってきたのか・・・。
得るところの非常に多い連載であると思っています。
私どもは、この連載を通じて当時の「最前線」の様子、そこにいた人々の姿を楽しんで読んでいただきながら知っていただきたいとの思いが第一にあります。
従いまして、各種事実確認事項は、一般の読み手の方にとっては全体の話の流れをストップさせるだけの無益な事実羅列と判断しています。
事実関係の確認につきましては、当HPをご覧いただくか、お問合せいただければいつでもお答えするという形をとっております。
teruteruさまが配属されていた「第一航空軍司令部直轄第101通信隊」の実像は、高度の機密を扱っていた「諜報・索敵部隊」でした。
また、部隊が米軍の通信を頻繁に妨害したことから敗戦時に「GHQの手が周る怖れがある」との情報が入ったため、司令部の記録から抹消されたという「幻の部隊」でもありました。
したがって、この部隊のことは、防衛庁防衛研究所戦史資料室にも資料は残されていません。
そのため、敗戦後も出身地の県(世話課、現福祉部)に対してteruteruさまの復員通知は送付されておらず、入隊記録はありますが、除隊記録がないということで、書類上teruteruさまは「行方不明扱い」のままだそうです。
部隊の任務から見て当然のことですが、隊員には全陸軍航空から選抜された有能な人材が充てられ、素人の目から見れば「フィクション?」と疑いたくなるほどの高度な空戦を展開できるT曹長のような一級の操縦士が敗戦直前までおられたわけです。
teruteruさまが手記を公表されるに至ったのは、ご本人はおっしゃいませんが「当時最高度の技術と能力を有しながら、誰にも知られることなく消えていった部隊そして仲間達への鎮魂」にもあるのでは?とわたしは個人的に思っています。
〔中略〕
平成16年6月
メールマガジン「軍事情報」発行者
おきらく軍事研究会代表 エンリケ航海王子)
果たして、「幻の部隊」であるが故に、除隊記録がなく、行方不明となっているなどという事態が有り得るのだろうか。
行方不明となっているならば、その不明となるまでの在籍記録はどうなっているのか。
行方不明とは、戸籍上もそうなのか? ならば戦後は無戸籍者として過ごしてきたということか?
そういった疑問はさておき、このteruteruさんと、エンリケ航海王子さんが主張しているのは、要するに、この「ある通信兵のおはなし」は、検証不可能であり、検証を断るということだろう。
疑うことを知らない純朴な読者だけを対象としているということだろう。
素人の目から見れば「フィクション?」と疑いたくなる?
確かに。
あと、無宗ださんは、自身の記事「北方領土について思うこと」のコメントで、
優勢なソ連軍に対し、非力ながらも徹底抗戦した日本軍の奮闘のおかげで、ソ連軍の侵攻が遅れ、その結果、北海道の分割を避けることができたのです。
という箇所にも何か思い入れがある様子を示しているが、これは単なる「ある通信兵」さんの思い込みだろう。
ヤルタ協定で南樺太と千島列島をソ連が領有することが認められたが、それ以外のわが国の領土変更は認められず、他方ポツダム宣言でわが国の北海道領有は保障されていたからだ。
(最近読んだ前掲の加藤聖文『「大日本帝国」崩壊』によると、スターリンは8月16日にトルーマンに対し、ソ連軍に対する日本軍の降伏地域に、全千島列島と、釧路と留萌を結ぶ線以北の北海道を含めるよう要求し(北海道はシベリア出兵の代償だという)、トルーマンは18日に、前者は容認したが後者は拒否したという)。
北海道の占領が避けられたのは、「日本軍の奮闘のおかげ」ではない。
こんな基本的事実を誤認するこの「ある通信兵」さんには、私はやはり不信感を抱かずにはいられない。
第79話の「米軍戦闘機の性能」で箇条書きにて機種の長所/短所が説明されていますが,この説明文の一部がMicrosoft社のCombat Flight Simurator2(以下CFS2)のマニュアルの内容に酷似しています.
この記事は「平成16年5月28日配信」と明記されていますが,CFS2は平成11年発売ですので,Microsoftが引用したとは考えにくいです.
これだけでは真偽を確かめることは出来ませんが,一部に間違いがあったとしても,本当に実体験に基づいて書かれたものであれば大きな価値を持つ回想録であることは間違いありません.
個人的には、「誉を載せた屠龍」がツボに入りました。
大体、当時陸軍で誉なんて呼び方してないでしょう。
屠龍でP-51をバタバタ墜とせるようなパイロットがいたら、名前が知られていないはずありませんよ。第一、この話の中だけで何機撃墜した計算になるんでしょう。
説明文の一部がフライトシムのマニュアルに酷似していて何が問題なのかと思いましたが、第79話を読んでわかりました。Y中尉なる人物の講義の内容とされているからですね。
たしかにおかしな話ですが、部分的に現代の資料を参照したのだと言い逃れされるかもしれないですね。
しかし、どうせなら信頼できる定評ある文献を参照すればいいのにという反論もできるでしょう。
そして、「なるべくオタクっぽい精密な表現は避けるようにしてい」るという著者が、このような米軍戦闘機の性能比較という、まさに「関心がある方以外は読んでいてもつまらない」記述をダラダラと続けているというのも不可解です。
>Unknownさん
引用した「氷雪の門」に続く2本の「おはなし」を読んでみました。
アホらしくて私はもう読む気になれません。
文字どおり「おはなし」、フィクションとして読むべきものでしょう。
このようなものが「手記」として流布するネットの現状は大いに問題だと思います。
「氷雪の門」の末尾には次の昭和天皇と香淳皇后の御製が紹介されています。
>【樺太に命をすてしをたやめの心を思えばむねせまりくる】
【からふとに露と消えたる乙女らの御霊安かれとただいのるぬる】
「をたやめ」とは何でしょうか。
「いのるぬる」などという日本語があるでしょうか。
そんなことにも気付かない戦中派がいるでしょうか。
真岡が樺太南端の市だと言い、「九人の乙女の犠牲によって、真岡市に結集していた日本軍は殆ど無傷で樺太から撤退したといわれています」などと言う。そして謎のNTT出版「電信電話100年史」。
歴史とは、人間の営為の集積です。電話交換手の自決にしろ、その他の住民やわが軍の犠牲にしろ、あるいはソ連軍の動向にしろ、そこには実際にその場を生きた人々の思いや行動が反映されているのです。
そう考えると、いいかげんな記述をWeb上に残して、多くの読者を誤導させることは許されないはずです。
しかし、この著者には、そうした歴史に対する敬意のようなものが感じられません。ただ、おもしろおかしくネタにすればよいのだという感覚しか受け取れません。
私は、こうした人物に、したり顔で歴史を語ってもらいたくありません。
起算は逓信省の頃です。
本は一般には出回ってないと思います。
私も何かの記念式典でこの本を貰いました。
中身は読んでませんが、ひめゆり部隊の話もあったと思います。
問題の「ある通信兵のおはなし」みたいな部隊がいたら日本は戦争に負けなかったでしょうね。(笑)
社史のたぐいは、たしかに一般にはあまり出回りません。しかし手放す人が多いのと、一応は資料としての価値があるため、古書店には結構流通するものだと思いますが……。
再度検索してみましたが、やはり見当たりませんでした。
・逓信省→電電公社→NTTへの変革概要
・電報・電話にまつわるちょっと良い話、悲劇、喜劇
・お偉いさんのお言葉
だったと思います。
「九人の乙女」の話も含まれていたと記憶しております。
私はまだ捨ててないはずですので蔵書を探してみます。
気長にお待ちください。
どうでも良いのですが通信兵のお話は日本軍の飛行機が強すぎますね。
私は大好きですよ。武勇伝。
誰だって当時の記憶を100%寸分の狂いなく覚えてないんだから。
人の文献で学んで偉そうに語って本書いてる人が大半なんだから。
そうやって作られた「歴史観」を押し付けてる訳じゃないんですし。
私も探します。
手柄話が大げさになってしまうこともあるでしょう。
しかし、そういったレベルではなく、明らかにフィクションであるものを、実話だと言い張って公表するその姿勢は、やはり大いに問題だと思います。
フィクションはフィクションとして楽しむべきだと思います。
えー(笑)
そんな仰々しいものじゃないですよ。あのおはなしは。
実話フィクションとでも言うべきジャンルで「へー」「すごーい」という感覚で楽しめばいいものだと思いますよ。
普通程度(学校+α)の歴史知識の人の感覚ですが。
すみません、自分が好きなものがちょっと揚げ足取りで文句言われてるように感じたので思わず書いただけです。