トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

真岡事件――何故彼女らは死ななければならなかったか

2009-09-23 22:10:23 | 大東亜戦争
 終戦直後、樺太の真岡(まおか)町で、ソ連軍が侵攻する中、電話交換手の女性9名が集団自決する事件が起こった。一般に真岡事件と呼ばれる(ウィキペディアでは「真岡郵便電信局事件」とされている)。

 私がこの事件を知ったのは、それほど古いことではない。おそらく、1996年に産経新聞で連載していた「教科書が教えない歴史」で初めて知ったのではないかと思う。

 現在産経新聞社から刊行されている『教科書が教えない歴史(普及版)』(以前刊行されていたハードカバー版をペーパーバックにした廉価版)で確認すると、2巻(2005年刊)に収録されていた。そう長いものでもないので全文を引用する。

ソ連軍が迫る中、9人が集団自決した真岡事件

 日本員北端の街・稚内。宗谷海峡を見下ろす稚内公園の一角に「九人の乙女の碑」が建っています。そこにはブレスト(交換手用の送受話器)をつけた女性のレリーフとともに、九人の電話交換手の名前が刻まれています。
 太平洋戦争が終わって五日後の一人四丘年(昭和ニ十年)人月ニ十日、樺人の真岡町(現在の口シア共和国サハリン州ホルムスク)の真岡郵便局で、電話回線の確保に当たっていた九人の女性交換手が集団自決するという事件が起きました。
 戦争は終わったのに、なぜこのような悲劇が起きたのでしょうか。
 戦争末期の八月八日、ソ連は日ソ中立条約を破棄して対日宣戦しました。満州、樺太、千島などに進攻したソ連軍は各地で日本車と戦闘を交え、それは戦争終結後も続いていました。
 樺太の北緯五〇度以南は、日本が日露戦争の結果獲得した領土でした。島内には多くの日本人が住み、四千人もの郵便局職員が郵便の業務と電信に携わっていました。
 この当時の電話は現在のように、自動化されたものではありません。電話の回線はすべて郵便局の電話交換室につながっており、電話交換手が相手先にとりつぐしくみでした。緊急事態が発生した場合は、一般の回線を抑えて、軍や警察関係の連絡を優先させなければなりません。きわめて重要な職務でした。
 すでに一丸四四年(昭和十九年)三月、大本営は「決戦非常措置要綱」を発令し、電信電話部門に関しても徹底的な強化推進の方針を打ち出していました。
 真岡郵便局でも非常体制が取られ、残留の募集に応じた二十一人の交換手が交代で二十四時間業務にあたっていました。ソ連軍が迫って日本人民間人が本土に引き揚げたのち、軍の通信隊に引き継ぐまで通信業務を守るのが彼女たちの任務でした。
 そして、八月ニ十日早朝、ソ連艦がついに真岡沖にも姿を現しました。問もなく艦砲射撃が開始され、真岡の町は戦火に包まれました。
 高石ミキを班長とする九人が集団自決に走ったのは艦砲射撃が始まった直後でした。班長のミキはふところから何かの包みを取り出すと、それを湯のみちちゃわんの水で一気にのどに流し込みました。青酸カリでした。断末魔の形相を浮かべながらミキは事切れていきました。
 このあとを八人が次々と追いました。波女たちがどのような経路で青酸カリを入手したのかは、つまびらかではありません。ただ、当時の女性交換手の間で電話を通じて頻繁に青酸カリのやりとりが行われていたことは事実です。彼女たちが、いざという時には自決するつもりで、あらかじめ薬品を用意していたことがわかります。
 頭上を弾がかすめる交換室内で、女性交換手たちは自らの進退を決めなければならないぎりぎりの状況下に置かれていました。彼女たちの胸中にはソ連車に対する恐怖と、たとえ命をなげうってでも職務をまっとうしようとする気概が、ないまぜになっていたに違いありません。
 頼みの綱としていた班長が決断したのは、まさにこうした瞬間でした。残りの八人が班長の決断に従ったのも不思議でありません。「九人の乙女の碑」は、ソ連軍の違法な侵攻の犠牲となった女性たちの無念の思いを今に伝えているのです。(広田好信)


 筆者の広田好信は、執筆者一覧によると、札幌市立西野中学校教諭だという。執筆者一覧の肩書きは原則ハードカバー版当時のものだが現在の肩書きが判明している者はそれを記したとある。広田がどちらのケースなのかはわからない。

 今年の2月、無宗ださんのブログで、「北方領土について思うこと」という記事を読んだ。その中で、真岡事件のことについて触れられている。
日本は、北方領土がどのようにして不法占拠されているのか、きちんと中学校の歴史で教えるべきである。
北方領土が武力占拠されたのは、ポツダム宣言受諾後である。
ソ連が北方領土を占拠したのは1945/8/15以降である。


ポツダム宣言受諾後におきた
樺太における「北のひめゆり」と言われた「真岡電話局」の九人の電話交換手の自決
日本人の常識となるべき事件である。


 私はこれを読んで、心に引っかかるものを覚えた。


 ソ連による北方領土占拠が不当であることは言うまでもない。
 そもそも、日ソ中立条約が有効であったにもかかわらず、それを無視して開戦し、なおかつ、わが国がポツダム宣言受諾を表明しているにもかかわらず、侵攻を続けた。
 ケシカラン話だ。

 ただ、電話交換手の自決事件は、単にソ連を責めるだけでいいのだろうか。
 たしかに、ソ連軍の侵攻がなければ、彼女らは自殺することはなかっただろう。
 しかし、ソ連軍が彼女らを捕らえ、強姦し、虐殺したわけではない。
 一方的に自決したのである。
 その死をも、ソ連の不当性を訴える材料にしていいのだろうか。

 彼女らの自決は、敵兵に捕らわれたら辱めを受けるからその前に自決せよという当時の風潮の現れだろう。
 また、戦陣訓に見られるような、投降を潔しとしない思想の影響もあったのだろう。
 そうしたものによって、自決せざるを得なかったという面もあるだろう。
 この事件は美談としてではなく、悲劇として伝えられるべきではないだろうか。

 そんなことを漠然と考えていたころ、ある古書市で、次の本を目にして、購入した。



 1989年、恒友出版刊。私が手にしたのは1994年発行の3刷。
 著者は1950年生まれの北海道出身のノンフィクション作家だという。私は初めて知った。

 私がこの本によって知り得たことは大きい。
 要旨は次のとおり。

・当時郵便局にいた女性電話交換手はこの9人だけでなく、ほかに3人いた。3人は青酸カリを飲まずに生き延びた。
・交換室は局舎の2階にあり、1階には電信課があった。電信課には男性職員8名と女性職員2名がいた。
・接近するソ連艦が儀礼あるいは威嚇として空砲を撃ち、これに対し日本軍が実弾で応戦し、戦闘となった可能性が高い。
・砲声が響く中、班長の高石ミキは青酸カリを口にした。まだソ連兵が局舎に迫っていたわけでない。6名がそれに続いた。
・やがて市街戦となり、通りに面した1階には銃弾が飛び込み、危険な状態にあった。局舎外の防空壕に待避しようとして飛び出した男性職員2名は還らぬ人となった。残りの職員はシーツで白旗を作って掲げ、危機を脱した。2階は山側に面しており、銃撃される危険はなかった。
・残った5名の交換手のうち、最年長の伊藤千枝が樺太内の各局に電話して真岡の状況を伝え、これから死ぬ旨を伝えた。岡田恵美子は机の下にうずくまっていて他の4名の様子は見ていない。伊藤は岡田を除く3名に自分がいいというまで薬を飲むなと言ったが、うち1名が制止を破って服毒した。伊藤は1階に内線電話をかけ、9名が死亡したと伝え(自分も含めている)、自らも青酸カリを口にした。
・電話を受けた電信課では男性職員が2階に向かい、伊藤の断末魔を見た。生存していた川島ミキと境サツエを救出した(岡田恵美子は発見していない)。
・ソ連兵が局舎に侵入。1階にいた電信課の8名と川島ミキ、境サツエの交換手2名を連行。倉庫に収容される。
・2階に残っていた岡田恵美子、訪れた見知らぬ日本人男性に救出され、倉庫に収容される。
・真岡局の幹部は当時、局から200mほど離れた施設に寝泊まりしていた。上田豊蔵局長はここから局に向かったが銃撃戦に遭遇して負傷し、路上の同じ場所にいた者に白旗を作らせ、ソ連兵に連行され倉庫に収容された。
・高石ミキは幌泊監視哨からの緊急連絡でソ連艦隊接近を知り、直ちに電話で局長に知らせている。それからソ連軍の攻撃が始まるまで少なくとも1時間余の余裕があった。何故局長はこの間に局に向かわなかったのか。局長がいて電話交換手らに避難誘導などの指揮をとっていれば集団自決は避けられたのではないか。
・交換手に対しては残留命令があったはずだが、局長は戦後それを否定し、残留は交換手の自発的な意志によるものだと主張している。これは元交換手らの証言と矛盾する。
・1963年、稚内公園に「九人の乙女の碑」が建てられた。碑文には「日本軍の厳命を受けた真岡郵便局に勤務する九人の乙女は青酸苛里を渡され最後の交換台に向かった。ソ連軍上陸と同時に日本軍の命ずるまま青酸苛里を渡され最後の力をふりしぼってキイを叩き」云々と、軍命により残留し服毒したとされていた。この事件はこのころ広く知られるようになり、週刊誌などが取り上げ、さらに電電公社(現在のNTTの前身)の社内報にも掲載されるに至ったが、いずれもこの軍命説をとっていた。上田はこれに異を唱え、逓信業界誌『逓信文化』昭和40年4月号に手記を発表した(本書に収録)。当時樺太の電話が全て軍管轄下にあったというのは嘘であり、残留も軍命ではなく自発的であり、引揚命令に対し残留を望む血書嘆願が出されたという。また、電話交換手を9人だったとしており、生還した3人については触れていない。1階にいた電信課員についてもほとんど触れていない。9人の交換手が弾丸が飛びかう中1時間半も孤軍奮闘した末自決したとされている。
・碑文はその後、「八月二十日ソ連軍が樺太真岡上陸を開始しようとした その時突如日本軍との戦いが始まった 戦火と化した真岡の町 その中で交換台に向かった九人の乙女等は死を以って己の職場を守った 窓越しにみる砲弾のさく裂 刻々迫る身の危険 今はこれまでと死の交換台に向い」云々と書き改められた。


 川島はあとがきで、「もし現場に上司や男子職員がいたならば、悲劇は回避出来たのかも知れない。」と記している。私も本書を読むとそのように思わせられる。

 果たして、自決しなければならないほどの身の危険が迫っていたのだろうか。

 高石ミキは、引き揚げる母にお気に入りの写真を渡し、また自分の形見だといって隣近所に着物を配っていたという。死を覚悟していたのだろう。
 また、電信課の女性職員の1人は、ソ連艦の襲来直前に、高石の泣き顔を見ているという。

 状況が緊迫する中、班長であり最年長である高石がまず服毒し、ナンバー2である可香谷シゲがそれに続いたという。指導者を失ってどうしたらいいかわからず、連鎖反応で服毒していったという面もあるのではないだろうか。
 真岡町の北方にある泊居郵便局は、ある交換手から、局の裏側にある下水溝に避難したが、銃撃が激しくて再び上がってきた、高石や可香谷はとっくに死んでしまった、自分も心細いから死ぬという交信を受けている。
 川島が言うように、上司や男性職員がその場にいて、的確な指示を出していれば、自決にまでは至らなかったのではないだろうか。

 そんな中で、各局に状況を報告し、若い交換手には服毒しないよう言い聞かせ、しかも1階の電信課に電話した上で自決に踏み切った、3番目の年長者である伊藤千枝の勇気を讃えたい。

 そして、3人の交換手と2名の電信課女性職員は収容されたが、彼女らは、当時言われていたように、ソ連兵に陵辱されたのだろうか。
 その点についての記述は本書にはない。
 仮にそうしたことがあったとしても、今さら明かしたくないことだろうし、伏せているのかもしれない。しかし、被害者を特定せずとも、そうしたことがあったとぐらいは書いてもいいはずだ。
 おそらくは、なかったのではないだろうか。
 満洲や北朝鮮ではその種の事件がすさまじかったとは聞くが。

 侵入してきたソ連兵により、男性職員の時計や万年筆などが強奪されたとの記述はある。

 ウィキペディアの「真岡郵便電信局事件」の項目には、
ソ連兵が現われると、被弾の恐れも無くなった。最初は男性局員のみが応対し、女性はそのまま隠れていたが、安全であると判断すると、救出された2名の電話交換手を含む4名の女性局員も姿を現した。実際、金品の没収はあったが、被弾することも陵辱されるようなことも無かった。
とある。

 さらに、次のような記述もある。
事件後の真岡郵便局
事件から1ヶ月程経つと真岡の町も平静を取り戻し、進駐軍命令で郵便局も業務を再開した。局の各部署には元の局員が就業すると共に、ソ連の局員も配置された。業務は先ずロシア語を学ぶことから始められた。間もなくして、ロシア語による電話の取次ぎを日本人局員により行えるようになった。給与は日本時代よりも多かったが、ソ連人局員は更に高給だった。ソ連人が業務に慣れるにつれ、日本人局員はソ連人の部下として配属されるようになった。


 通信設備は接収され、陵辱もされなかった。
 となると、彼女らの死は何だったのか。
 無駄死に、犬死にだったということではないか。

 こうした行動は、戦時の異常心理の産物だろう。
 広田好信は、
「九人の乙女の碑」は、ソ連軍の違法な侵攻の犠牲となった女性たちの無念の思いを今に伝えているのです。
と結んでいるが、そのような理解だけでいいのだろうか。
 このような痛ましい事件を、ソ連の不当性を訴える材料として安易に利用したり、大和撫子の鏡であるとか、職務遂行を全うしたとかいって美化してはならないと思う。

 なお、川島の本は、増補版が『九人の乙女 一瞬の夏』と改題されて響文社から2003年に出版され、さらに全面改稿した『永訣の朝 樺太に散った九人の逓信乙女』(河出文庫、2008)が現在も刊行中である(ただ、『永訣の朝』の現物を確認したところ、上記の上田局長の手記は収録されていない)。


付記

 産経新聞ワシントン駐在編集特別委員・論説委員の古森義久のブログに、上記の広田好信による「教科書が教えない歴史」の初出時(新聞掲載時)の記事と思われるものが載っている。 

 読み比べてみると、結びの部分が異なる。

 単行本普及版では、上記のとおり、

 頼みの綱としていた班長が決断したのは、まさにこうした瞬間でした。残りの八人が班長の決断に従ったのも不思議でありません。「九人の乙女の碑」は、ソ連軍の違法な侵攻の犠牲となった女性たちの無念の思いを今に伝えているのです。


とあるのが、初出時には

 頼みの綱としていた班長が行動を早まったのは、まさにこうした瞬間でした。残りの八人に集団心理がはたらいて従ったのも不思議でありません。彼女たちがこのときどんな行動をとるべきだったのか、それを考えることは、現代にも通じる課題といえます。


となっている。
 ハードカバー版でどうなっていたのかは未確認〔追記参照〕。

 初出時には「早まった」「集団心理がはたらいて」と否定的なニュアンスが見られる。そして、「彼女たちがこのときどんな行動をとるべきだったのか」と、このとき実際にとった行動については肯定していない印象を受ける。
 「早まった」とは何事か!彼女らを貶めるつもりか!といった批判でも受けて、修正したのだろうか。
 それとも、著者の心境の変化によるものだろうか。

 この連載「教科書が教えない歴史」は、藤岡信勝ら「自由主義史観研究会」により執筆されており、広田好信もこのメンバーである。
 自由主義史観について、藤岡は当初、東京裁判史観(自虐史観)とも大東亜戦争肯定史観とも異なる是々非々の史観、例えば司馬遼太郎の史観だと述べていた。しかし、その後彼らの主張は、大東亜戦争肯定史観と何が異なるのかわからないものと化していった。
 上記の広田の記述の変更は、彼らの変質を示す好例であるかしもれない。


〔以下2010.3.5追記〕
 その後ハードカバー版を見かけたので確認したが、普及版と同じ記述だった。
 「早まった」云々は産経新聞初出時のみの表現だったようだ。  
 


最新の画像もっと見る

5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
TBありがとうございました。 (無宗だ)
2009-09-24 00:45:47
・当時郵便局にいた女性電話交換手はこの9人だけでなく、ほかに3人いた。3人は青酸カリを飲まずに生き延びた。
・交換室は局舎の2階にあり、1階には電信課があった。電信課には男性職員8名と女性職員2名がいた。
・軍命により残留し服毒したとされていた。

これは、知りませんでした。
情報ありがとうございます。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-04-03 23:48:45
ソ連の不法侵攻であることは間違いはない。
不法侵攻がなければ彼女らが自決することはなかった。

簡単な話を回りくどく小難しく考えすぎ。

彼女らはソ連の不法侵攻の犠牲者である。
それ以上でもそれ以下でもない。

彼女らを殉国者と美化するのもソ連の不当性を否定するのも、イデオロギーで事実を捻じ曲げている点では同じ穴の狢だ。
返信する
Re:Unknown (深沢明人)
2013-04-07 11:15:59
 私は、ソ連の行為は不当だと明記しています。否定していません。
 名無しさんにありがちな誤読コメントですね。

 その上で、彼女らの死はそれだけの原因によるものなのかと問題提起しているのです。
 何も難しい話ではありません。

 ソ連は不当である、はいおしまいで話を済ませようとする態度には、別の論点から話をそらせようとする意図を感じます。

返信する
Unknown (Unknown)
2016-10-03 10:13:37
六年も前の記事にコメントするのもいかがかとも思いましたが、せっかくなのでコメントさせていただきます。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161002-00000001-fsi-bus_all
に対するコメント欄の”真岡事件を忘れるな”から Wikipediaで事件の概要を読み、ブログ主と全く同じ感想を持ったうえでこちらにたどり着きました。
ソ連の不法侵攻については向こうの主張などを知りはしないものの、かなり不義であったとは思いますがこの事件に関してはやはり当時の日本の教育、風潮の問題が大きかった気がしてなりません。
大変参考になりました。有難うございました。
返信する
記事を読んだ感想 (通りすがりの権兵衛)
2017-01-10 06:00:25
読んで居て、終始ずっと思っていたのは、命を絶ったのは、無理も無いという事。彼女らは、知っていたのではないでしょうか?ロシア軍人の蛮行のみならず、他国の軍隊に戦争で侵攻された国や街で、女性がどんな目に遭ったのかを。サイパンのパンザイクリフの悲劇を考えると、その手の恐ろしい話を知っていたら。そして、いきなりロシアに侵攻されれば、大なり小なり混乱を来すのは、必定。ロシアの意図なぞ、知る由もない。相手は、問答無用で、銃撃や砲撃を繰り返し、侵攻してくる。追い詰められ切羽詰まった状況の時に感じるのは、死の恐怖のみならず、自分達がどんな恐ろしい目に遭うか、まったく分からない底の無い、得体の知れない恐怖。そうした状況で選べる選択肢に何があるでしょうか。抗って死ぬか、自ら死を選ぶか、二つに一つではないのでしょうか?何故なら、現在のような他国との交流が無く、情報を得る手段は、ラジオや無線、通信符号でのやりとりしかない当時、民間人には、他国やその軍人を信用出来るファクターが、皆無に等しいのですから。そして、当然ながら東京大空襲や広島と長崎の原爆投下の事は、知っていた筈です。それを知っていて、他国軍の良心など、信用出来る訳がない。兵隊ではない。戦う術も乏しい彼女らには、不安と恐怖しかなかった筈です。自ら死を選ぶには相当な覚悟が要る事です。でも、それを実行したという事は、死を選んででも逃れたいと思う程、強い不安と恐怖に駆られていたという証拠。想像してみて下さい。戦う術がまるで無いのに、一発の被弾も命取りの中、弾丸が飛んでくる。建物の中に居ても、弾丸が壁に当たる音や貫通してくる弾丸。割れるガラスの音。そんな中に自分達が要る。白旗を振り、降伏しても捕虜になる。今ここにロシア軍人が来たら。彼らによって辱しめを受けて、殺されるかも知れない。男なら拷問を受けて、殺されるかも知れない。そうならないと言える保証はどこにもない。そんな時、あなたならどんな道を選びますか?
※最後に私のコメントは、この記事自体を否定するものではありません。記事の文章を読んでいて、彼女らの死が、ただの勇み足で愚かだったと言っているように感じてしまったので、思う所あり、コメントさせていただきましたm(__)m
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。