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三木武夫首相の靖国参拝について

2009-09-15 23:59:37 | 靖国
 戦後初めて8月15日に靖国神社に参拝した首相は三木武夫である。それまでにも、独立回復後は吉田茂をはじめ歴代首相のほとんどが参拝してきたが、多くは春秋の例大祭の時期に合わせての参拝であり、終戦記念日である8月15日に参拝した首相はそれまでなかった。

 三木は戦前からの代議士である。日米戦争に反対し、1942年のいわゆる翼賛選挙では非推薦で当選した。戦後は協同組合主義を掲げた国民協同党の委員長となり、3党連立の片山内閣で入閣。自民党に合流後は三木派を率いて独自の存在感を放ってきた。また田中角栄の金権政治との対比から「クリーン三木」とも呼ばれた。
 そんな三木と靖国参拝とのイメージが結びつかず、私は長年不思議に思ってきたのだが、昨日、岩波新書(黄版)の大江志乃夫『靖国神社』(1984年刊)を読んでいると、次の記述が目にとまった。
国会が保革伯仲となった三木内閣時代には、靖国神社国家護持法案はもとより、それを緩和した「戦没者の慰霊表敬法案」も成立する見通しがなくなった。靖国神社国家護持の推進団体である日本遺族会と自民党遺家族議員協議会は、一九七五年五月六日、靖国神社国家護持を最終目的としつつ当面は表敬法案の推進、国家機関の公式靖国参拝、それもかなわぬときは従来の靖国法案の国会提出を要望した。つまり本来の目的から一歩しりぞいたかたちをとりながら、この要望がいれられなければ本来の強硬路線で圧力をかけるという方針である。
 田中角栄内閣が金脈問題で退陣し、ロッキード汚職問題が火を噴きはじめ、党内弱小派閥出身の三木首相に対していわゆる「三木おろし」の工作がはじまり、七月七日の参議院選挙に自民党が敗北して靖国法案を審議する内閣委員会で野党が多数をしめた。七月二七日に田中前首相が逮捕されるという、緊迫した情勢のもとで、三木首相は、保身のためにも、私人としての八・一五靖国参拝という妥協策を講じるほかになかった。(p.12)
 この記述がどれほど正確なものなのか私には判断がつかない。しかし、こういうことならなるほど説明はつく。
 それでも何故8月15日なのかという疑問は残るが、ある種のサービス精神のたまものだったのであろうか。

 なお、A級戦犯が合祀されるのはこれより後の1978年であり、さらにそれが報道されるのは1979年4月のことである。


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