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靖国神社と新追悼施設に思うこと(中)

2009-09-07 22:50:34 | 靖国
(前回の「靖国神社と新追悼施設に思うこと(上)」はこちら

 私は以前から、東京裁判における刑死も一種の戦死であり、靖国神社がそれをまつるのは当然と考えていた。
 だが、最近考えが変わってきた。

 そもそも、戦争指導者と一兵卒を同列に扱えるものだろうか。
 命令を下した者と、命令に殉じた者は同列だろうか。

 靖国神社はあくまで戦死者をまつる施設である。
 誰がまつるのか。それは、戦死者に犠牲を強いた国である。
 何故まつるのか。それは、戦死者が、本来であれば死ななくてもよかったかもしれないのに、その尊い命を国のために尽くしてくれたことに対して、国が感謝を示すためである。

 ところで、戦争指導者は、誰に命令されて戦争を起こしたわけでもない。自らの判断で戦争を始めたのである。
 その結果、敗北して、敵国に殺されたとしても、それは自業自得とは言えないだろうか。
 少なくとも、国民の義務として徴兵され、その結果死亡することになった一般兵とは、その死の意味合いは大きく異なるのではないだろうか。

 戦争は政治の延長であるとか、政治の一形態であるという主張があると聞く。私もそう思う。
 だから、個々の残虐行為や、ナチス・ドイツのような民族絶滅政策は別として、単に戦争を起こしたということそれのみを理由に死刑に処されるということには納得がいかない。
 ただ、それとは別に、その戦争を起こした政治指導者や、戦争自体を指導した将官たちが、それ故に敵国によって殺されたとしても、それをもって戦死者と同列の扱いを受けるというのはおかしいのではないかと、最近思うようになってきた。

 私は無神論者である。霊魂の存在も信じない。人は死ねばゴミになるというセリフに共感する。

 だが仮に霊魂なるものがあるとしよう。靖国にまつられている者は神になるのだとしよう。
 だとしたら、靖国にまつられているいわゆるA級戦犯(死刑判決を受けた7人だけでなく、公判中に病死した松岡洋右や永野修身、受刑中に獄死した白鳥敏夫や平沼騏一郎などを含む)は、どのつらさげて兵卒に会えるというのだろうか。

 私は、他国の侵略に対して国を守るためなら当然戦うべきだと思う。いや、国策に殉じて侵略戦争に従事したっていい。

 しかし、戦って死ぬならまだしも、愚劣な作戦によって、補給のないまま餓死したり病死したり、投降を禁じられて玉砕せざるをえなかったり、あるいは、十分な技量もないのに軍のメンツのためだけに特攻機に乗せられたりしたら、死んでも死にきれないだろう。

 そうした死を強いられた者と、その戦争を指導する立場にあった者を、同じようにまつるというのは、おかしいのではないか。

続く


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