トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

『岸信介の回想』から(5)

2007-07-02 23:29:50 | 日本近現代史
承前

○李承晩
 1950年代、日韓間では国交が結ばれないまま、いわゆる李承晩ラインに基づく日本人船員の拿捕や、戦後不法入国した韓国人の送還などが問題となっていた。矢次は1958年、岸首相の個人的特使として訪韓し、李承晩大統領と会見した。
《――李大統領の手紙には、これで国交回復をちゃんとやろうという・・・・・・。
 矢次 そういうことではなく、私への招待状を岸さんのところへ手紙でよこした。誰も李承晩という人物に会ったことがないから、お前行ってこいということになったんです。
 岸 吉田茂さんは会ってるね。
 矢次 そうだね。それで行く前にいろいろ勉強しなければならないので、吉田さんの所へ行ったんだ。すると吉田さんは、占領時代に、リッジウェーから、李承晩が来日したから会えと言われて会ったが、自分は養父・竹内綱につれられて明治三十何年かに韓国へ行っただけで、あまり韓国に馴染みがない。それで何も話のタネがないから、吉田さんは李承晩に、「君の国にはまだ虎がおるか」と聞いたら、彼は「君の国の加藤なんとかというギャングが何百年か前に来て、みんな殺したよ」という話になったという(笑)。その時、吉田さんは、僕の時代にもう少し韓国問題をまじめに考えてなんとかしておけばよかった、そのために君たちに苦労をかけて恐縮している、と言っていた。
〔中略〕
 矢次 そのあと、大統領との話になって、吉田という男には会ったけれども、正直にいってあまりいい印象はもっていない。岸総理には会ったことはないが、いろんなことを聞いて信頼している、と言う。自分の代に岸総理と話し合うことで、日韓関係が解決されることは望むべきことである、反日・抗日といった敵対関係は自分の代でおしまいにしたいというのが自分の念願で、そのことを岸さんによく伝えてほしいと李承晩は強調した。それが済んでから、私は時にといって、虎の話をしたんですが、彼は、あれはジョークで言ったんだと苦笑いしていたね。
 李承晩という人は反日・抗日を煮詰めて固めたような爺さんで、これを口説き落さんことには日韓交渉は一歩も進まない。それを向うの人も言うし、私らもそう思っていたから、経歴を詳しく調べたんだ。彼は日露戦争で、日本軍がソウルに進駐した時に、反政府分子として逮捕されていたのを、日本軍の手で釈放されている。そして日韓併合後の明治四十三年に来日したことがあって、YMCAに入っていた関係で、新渡戸稲造博士を葉山に訪ね、一ヵ月くらい世話になり、それから京都に行ってYMCAの宣教をして、そのあとアメリカに行っている。
 で、私が新渡戸さんの話をしたら、オー・ミスター・ミノベと言って立上がり、急に態度が変って、あの人は自分が世話になった先輩だが、生きておってくれればよかったな、しみじみ言っていた。だから李承晩は日本との関係はあまりないんで、日本の憲兵にいじめられたとか、当時いわれた爪の間に竹針を通されたなんていうことはあり得ない。岸さんは、握手する時に李承晩の手をよく見てこい、と言うので、私も注意してみたが、そんな形跡はなかったな(笑)。》(p.221~223)


○北朝鮮への帰国運動と韓国の妨害
《――北鮮送還問題が出て、送還協定ができるのは昭和三十四年八月になってからですが、三十三年には、大村収容所の密入国者の中で、北朝鮮に帰りたいといってハンストを始める者がいたり、これを社会党が取上げるとかでやっかいな問題になりますね。この時点で、岸さんは北鮮問題も含めてどういうふうに解決していくお見通しだったのですか。
 岸 国会で、韓国と交渉するというが、韓国の国境線をどこに考えているのか、鴨緑江まで含んでいるのか、三十八度線までかなどという議論があったけれど、当時、第一段階としては北を無視して、韓国とだけやるつもりだった。
 ――ところが実際問題として、北鮮への送還問題が出てきて、送還問題では日本が韓国の希望するような形でやらなければ、国交回復にはねかえってくるというわけでしょう。
 矢次 南が反対しないような方法で、北鮮送還問題を取扱うべくひと苦労したんだ。あの時は、私と赤城官房長官とで討論しながら、円満に静かに処理しようとして、私と赤城協定みたいな話合いがあったんだが、それを藤山外相が名古屋かどっかでしゃべってしまって一ぺんにダメになったことがある。それで、藤山外相は素人すぎると私が藤山さんに抗議して、ひどい喧嘩をしたことがある。
 ――いつごろの話ですか。
 矢次 三十四年の一月下旬の頃じゃないかな。当時各府県のそれぞれの地域に北の諸君が住んでいて、北鮮に帰りたいという請願が、意図的・政策的かどうかはわからないが、府県議会を通じて中央政府に全部くるわけだ。政府としても放っておけないということになって、北鮮送還問題を取り上げた。その時のことだが、新潟に集結して、北鮮に帰ろうとする人たちの宿舎を、韓国大使館のKCIAが爆破しようという計画が起ったんだよ。幸い新聞に出ない未発の段階で、県警が事前に情報をキャッチして処置したんだ。何百人か宿舎にいたんだから、実行されていたら、金大中事件どころの騒ぎではない大変なことになっていたと思う。それで、この問題を当時、外務次官で、しばらく前まで帝国ホテルの社長だった大野勝巳君が柳泰夏との間で上手な外交交渉をして、この件に関係した六、七人のKCIAの連中を送り返し、大使館は陳謝するという処置で済んだ。KCIAは大使館のなかにあっても、大使の指揮命令下にない別個の組織だから、柳泰夏は勇気をふるって大統領に直訴して、特別の許可をとってやったという事情があったんだ。》(p.224~225)
 柳泰夏は韓国の外交官。当時東京に置かれていた韓国代表部に勤務。以前から矢次と接触していた。のち駐日大使を務めた。
 KCIA(韓国中央情報部)は朴正煕政権下の1961年に設置されたので、矢次の記憶違いか。李承晩時代にも同種の組織があったのだろうか。


○日韓関係
《――結局、国交回復の最大の障害は・・・・・・。
 岸 いろいろあったけれど、どちらかといえば感情的なものだったと思う。
 矢次 韓国側からすれば、国家の主権をかつて日本に奪われたという恨みは簡単には忘れることはできない、ということです。あなた方だって戦争に負けてアメリカに占領された経験からそれはわかるだろう、という論法で、私はこれを何百人もの人からいわれた。私の年でも岸さんの年でも同じだと思うけど、日本が韓国を侵略したとか、帝国主義的に支配したという意識は全然ないでしょう。明治生れのわれわれだってその意識はないんだから、今の日本の半分以上を占めている昭和生れにあるわけがない。そう言ったら、けしからんといわれるかもしれないが、日韓併合は、私たちの六つか七つ、親父の時代の出来事ですからね。ところが向うでは三、四十代から上の人は大統領に至るまで、まるで昨日の事のように記憶しているだけに責めてくる。
 ところが日本側からみれば、終戦直後に在留韓国人が、日本人を敗戦国民だということでひどいめにあわせたということの方がピンとくる。あの鳩山さんでさえ、当時の軽井沢への往復の汽車のなかで、あんまり傍若無人にやられたんで、俺は韓国人が嫌いになったと言っていたことがある。そしてこの気持は日本人に広く行渡っていた。だから、このずれを、お互い率直に話し合って片付けようといったことが、歴史的に積重なって今日に及んでいるということだね。》(p.227)
 原文では「ずれ」に傍点。

(了)