人類学のススメ

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世界の人類学者1.フランツ・ワイデンライヒ(Franz WEIDENREICH)[1873-1948]

2011年01月16日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

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ワイデンライヒ1.アメリカ自然史博物館でのフランツ・ワイデンライヒ[Roger LEWIN(1993)"The Origin of Modern Humans",p.52より]

 フランツ・ワイデンライヒ(Franz WEIDENREICH)[1873-1948]は、二十世紀最高の人類学者だと称されます。それは、主に、ペキン原人研究を仕上げたからだと考えられます。

 フランツ・ワイデンライヒは、1873年6月7日、ドイツのエデンコーベンで、カール・ワイデンライヒとフレデリーケ・ワイデンライヒとの間に生まれた、4人の兄弟の末っ子として生まれました。

 やがて、ミュンヘン大学・キール大学・ベルリン大学・ストラスブルク大学と渡り歩き、1899年に「哺乳類の小脳中心核の構造と機能」で医学博士号を取得します。このように、1つの大学だけではなく数校の大学を渡り歩くというのは、伝統的なドイツの教育方法でした。

 卒業後、母校・ストラスブルク大学の解剖学教室助手と私講師に就任します。この私講師とは、大学から給料をもらうのではなく、受講生が受講料を支払うというドイツ独特のシステムのようです。1900年に、講師資格論文「人類脾臓の脈管系」をまとめると、梅毒の特効薬サルバルサンの発明で有名なフランクフルト・アム・マイン大学のパウル・エールリッヒ(Paul EHRLICH)[1854-1915]に招かれ助手に就任します。

 ワイデンライヒが在籍していた頃のストラスブルク大学解剖学教授は、グスタフ・シュワルベ(Gustav SCHWALBE)[1844-1916]でした。当時、ヨーロッパではネアンデルタール人が次々と発見されていましたが、ルドルフ・ウィルヒョウ(Rudolf VIRCHOW)[1821-1902]は、人類化石とは認めず、クル病にかかった人類だと考えました。しかし、シュワルベは、1901年から1902年にかけて、ネアンデルタール人は、ジャワ原人の次の段階の人類の祖先だと反論しています。ワイデンライヒが、後に人類学研究を志すのは、シュワルベの影響だと思われます。

 翌年の1901年には再び母校・ストラスブルク大学の死体検死者に就任し、1904年には教授資格論文「赤血球について」をまとめ、退任したシュワルベの後任として解剖学教室教授に就任します。また、同じ年に、解剖学の師・シュワルベの姪のマティルデ・ノイベルガー(Mathilde NEUBERGER)と結婚しました。夫妻の間には、3人の娘が生まれますが、やがて、数奇の運命を辿ることになります。

 ところが、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ワイデンライヒは科学者の地位を捨て、アルザス・ロレーヌ民主党の議長になり、1914年から1918年までストラスブルクの市会議員に転身します。1918年にドイツが敗戦し、ストラスブルクがフランス領ストラスブールとなると、ワイデンライヒはストラスブルクから追われ、次のポストを得るのに3年かかりました。実際、1915年から1920年にかけては、論文は1本も発表していません。

 1921年にハイデルベルク大学の解剖学教授に就任し、1928年にはフランクフルト・アム・マイン大学の人類学教授に就任します。ところが、やがてドイツ国内はアドルフ・ヒトラー率いるナチスが台頭しユダヤ人の迫害が始まります。1933年4月に、ナチスはドイツ国内の大学からユダヤ人をすべて解任しました。そこで、ワイデンライヒは、1934年にドイツを退去し、アメリカのシカゴ大学解剖学客員教授に就任しました。1935年9月15日には、「帝国市民法(ニュルンベルク法)」により、ユダヤ人には市民権が無くなりますから、ドイツ脱出のタイミングとしては丁度良かったのでしょう。

 その後、大きな転機が訪れました。1934年3月15日、中国の北京でペキン原人の研究を行っていた、カナダ人解剖学者のダヴィッドソン・ブラック(Davidson BLACK)[1884-1934]が49歳という若さで急死してしまったのです。ブラックの師である、ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジ校の解剖学教授、グラフトン・エリオット・スミス(Grafton Elliot SMITH)[1871-1937]は、ワイデンライヒをブラックの後任に推薦しました。ワイデンライヒは、すでに、ペキン原人についての論文を発表していましたから、適任でした。しかし、ブラックはスミスの弟子ですから、スミスはさぞ気を落としたことでしょう。

 1935年に、ワイデンライヒは、北京協和医学院の解剖学客員教授兼中国地質調査所新生代研究所名誉所長に招聘されます。ここで、ワイデンライヒは、精力的にペキン原人の研究に没頭しました。

 1936年3月末日、ワイデンライヒは日本に招待され、日本解剖学会及び第1回東京人類学会(現日本人類学会)・日本民族学会連合大会で、ペキン原人について発表します。この時の大会会長は、小金井良精[1859-1944]が務めました。この大会後、ワイデンライヒは、京都を訪問し、ストラスブルク時代の旧友・足立文太郎[1865-1945]と再会しています。ちなみに、小金井良精も同時代ではありませんが、かつてストラスブルク大学に留学していました。

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ワイデンライヒ2.1936年京都での、ワイデンライヒ(中央)・足立文太郎(左)・清野謙次(右)[赤堀英三(1981)『中国原人雑考』、六興出版、p.206より] 

 1937年には、インドネシアへ旅行してドイツ人古生物学者のグスタフ・フォン・ケーニヒスワルト(Gustav. H. R. von KOENIGSWALD)[1902-1982]を訪問し、ジャワ原人化石を共同研究しています。二人は、ペキン原人とジャワ原人を比較研究し、どちらも同じ種のホモ・エレクトスに属することを確信します。

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ワイデンライヒ3.ジャワ原人を研究中のワイデンライヒ(左)とケーニヒスワルト(右)[Ruth MOORE(1953)"Man, Time, and Fossils", PlateXVIより]

 ワイデンライヒは、ペキン原人の化石を、それぞれ、部位毎にまとめていきました。1936年に『脳の鋳型と脳』と『下顎骨』・1937年に『歯』・1941年に『四肢骨』が、出版されています。しかし、日中戦争の影響はワイデンライヒの研究にも支障をきたし、1941年4月、最後の引揚船プレジデント・クーリッジ号で中国を後にしました。この時、まだ完成していなかった『頭蓋骨』を仕上げるために、精巧な模型を持参したと言われています。その後、ペキン原人の実物が失われ、現在まで行方不明であることは有名です。

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ワイデンライヒ4.北京でのワイデンライヒ一家[『周口店記事』(1999)より]

 再びアメリカに渡ったワイデンライヒは、ニューヨークのアメリカ自然史博物館で、人類研究部の客員研究員となり、ペキン原人頭蓋骨のまとめを1943年に出版しました。しかし、ワイデンライヒ夫人の母親は戦争に巻き込まれて亡くなり、3人の娘の内、長女・次女は強制収容所に収容され、次女の夫であるイタリア海軍将校はムッソリーニ反逆罪で銃殺されています。末娘だけは、ニューヨークにいて無事でした。ただ、幸運なことに、戦後長女と次女が無事であることがわかり、ニューヨークに呼び寄せることができています。

 ワイデンライヒは、冠状動脈血栓症にかかり、1948年7月11日に死去しました。ドイツに生まれ血液学者として大成しながら、一時政治活動に没頭したものの戦渦でストラスブルクを追われ、人類学者となったもののユダヤ人であるがゆえにドイツを追われてアメリカに渡り、中国でペキン原人の研究に没頭したものの再び戦渦に追われて、アメリカで生涯を閉じた波乱万丈の75年の人生でした。 

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ワイデンライヒ5.ワイデンライヒ(中央)と中国地質調査所所員。ワイデンライヒが、北京を発つ前の記念写真。[『北京原人匆匆来去』(1984)より]

 フランツ・ワイデンライヒの自伝は、私が知る限り出版されていません。しかし、北京でワイデンライヒの弟子だった赤堀英三[1903-1986]がワイデンライヒの本を翻訳した『人の進化』(1956年・岩波書店)と『中国原人雑考』(1981年・六興出版)に「フランツ・ワイデンライヒ小伝」を書いています。これは、日本語で書かれた一番詳細なものです。また、英文では、1949年にThe Viking Fundから出版された『Anthropological Papers of Franz Weidenreich 1939-1948』の中に、W.K.Gregoryによる詳細な小伝が書かれています。


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