鴨長明は建保4年閏6月10日に61歳で遷化しています。
賀茂御祖 神社の禰宜長継の次男に生まれ河合 (ただす) 神社の禰宜に任じられようとしたが,同族の反対により実現せず出家。琵琶・和歌に優れ実朝とも対談。歌集『鴨長明家集』歌論書『無名抄』がありますがなんといっても『方丈記』が有名です。
当方は四国遍路の時、遍路道の沿に廃屋が多く、おもわず方丈記の一節「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れ(やけイ)てことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。」とか、「世に仕ふるほどの人、誰かひとりふるさとに殘り居らむ。官位に思ひをかけ、主君のかげを頼むほどの人は、一日なりとも、とくうつらむとはげみあへり。時を失ひ世にあまされて、ごする所なきものは、愁へながらとまり居れり。軒を爭ひし人のすまひ、日を經つゝあれ行く。家はこぼたれて淀川に浮び、地は目の前に畠となる。」の一節を思い出して昔も変わらなかったんだなと変に納得したことがあります。
また、「安元の大火」「治承の竜巻」「養和の異常気象・飢饉・疫病」「元暦の地震」と現代にもそのまま通じる大災害を記録しています。たとえば「養和の異常気象・飢饉・疫病」では「又養和のころかとよ、久しくなりてたしかにも覺えず、二年が間、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき。或は春夏日でり、或は秋冬大風、大水などよからぬ事どもうちつゞきて、五穀ことごとくみのらず。むなしく春耕し、夏植うるいとなみありて、秋かり冬收むるぞめきはなし。これによりて、國々の民、或は地を捨てゝ堺を出で、或は家をわすれて山にすむ。・・明くる年は立ちなほるべきかと思ふに、あまさへえやみ(疫病)うちそひて、まさるやうにあとかたなし。世の人みな飢ゑ死にければ、日を經つゝきはまり行くさま、少水の魚のたとへに叶へり。はてには笠うちき、足ひきつゝみ、よろしき姿したるもの、ひたすら家ごとに乞ひありく。かくわびしれたるものどもありくかと見れば則ち斃れふしぬ。ついひぢのつら、路頭に飢ゑ死ぬるたぐひは數もしらず。取り捨つるわざもなければ、くさき香世界にみちみちてかはり行くかたちありさま、目もあてられぬこと多かり。・・されば父子あるものはさだまれる事にて、親ぞさきだちて死にける。又母が命つきて臥せるをもしらずして、いとけなき子のその乳房に吸ひつきつゝ、ふせるなどもありけり。仁和寺に、慈尊院の大藏卿隆曉法印といふ人、かくしつゝ、かずしらず死ぬることをかなしみて、ひじりをあまたかたらひつゝ、その死首の見ゆるごとに、額に阿字を書きて、縁をむすばしむるわざをなむせられける。その人數を知らむとて、四五兩月がほどかぞへたりければ、京の中、一條より南、九條より北、京極より西、朱雀より東、道のほとりにある頭、すべて四萬二千三百あまりなむありける。・・」とあり、いかに飢饉と疫病が凄まじいものであったかが分かります。そして最後は「それ三界は、たゞ心一つなり。心もし安からずば、牛馬七珍もよしなく、宮殿樓閣も望なし。」としています。大災害をただ「三界一心」に集約するのは現代人からみれば飛躍もありますが鴨長明のそれまでの不如意の人生から紡ぎだした人生観・死生観であることはたしかです。災害多き現代に参考にすべき文献です。
「石川や瀬見の小川の清ければ月もながれをたづねてぞすむ(新古今)」
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