Q「すべて空と見よというのが仏教の教えであるが、それに従って一切衆生も幻であるとするならなぜ慈悲が生じるのか?」
A「衆生も本来仏と同じで生死を超えた存在であるが、迷って生死の苦しみがあるように思っている。これを菩薩は憐んで慈悲心を起こすのである。」
以下、華厳経・明難品・教化甚深の項の和訳と原文。
文殊菩薩が財首菩薩に問うていうに、
「仏子よ、衆生は存在しないのになぜ如来は、衆生の時間・寿命・身体・行為・欲願・意識・方便・思惟・考え・見方などに随って教化したまうのであろうか。」
そのとき、財首菩薩はつぎのように答える。
「無明を離れた智慧の心の境涯は常に寂滅の行を求めている。わたしは、真実をあなたに説こう。よくおききなさい。
子細に自身を観察してみるに、いったい、わが身のどこに我とするものがあろうか。このように、洞察した者には、我がないことがわかる。 身体のあらゆる部分を観察してみるに、どこにも体が實存在しているという根拠はない。このように身体の状態を覚るものは、からだのどこにも執著することがないであろう。
身体の実相をさとり、一切の法に達すればすべての存在要素は虚妄であると知り、さらにそれを知った心そのものにも執著しないであろう。
身体と精神が、たがいに関係しあいつながりあって活動しているさまは、あたかも旋火輪のようでいずれが先か識別することができない。
智者はあらゆるものは無常、すべては空・無我と洞察してすべての現象面から離れる。
因縁によっておこるところの業は、実体はなくたとえば夢のようなものである。したがってその結果としての実態もまた無い。業を惹起しているとされる前後の因縁もまたないのである。
すべての世間の現象はただ心に依っているのである。欲望によって判断をくだすものは、その判断はすべて倒錯しているといってよい。
衆生は世間のあらゆるものが虚妄であり、真実は一つということが理解できていないので相手に応じて救ってやるのである。
生滅流転する一切の現象世界は、ことごとく縁から成り立っており、刹那に消滅して変わることがない、従って衆生も縁から成り立っていて刹那生滅しているのであるが、その中で迷い苦しんでいるので救ってやるのである。」
(原文、華厳経明難品の第二段落「教化甚深」の部分)
爾時文殊師利菩薩、財首菩薩に問うて言く「佛子よ、
一切衆生は衆生にあらざるに、如來は、云何が衆生の時に隨ひ、命に隨ひ、身に隨ひ、行に隨ひ、欲樂に隨ひ、願に隨ひ、意に隨ひ、方便に隨ひ、思惟に隨ひ、籌量に隨ひ、衆生見に隨ひて而も之を教化したまふや。」
爾時、財首菩薩は偈を以て答て曰く「明智心の境界は 常に寂滅行を樂ふ。 我今如實に説ん。 仁者、善く諦聴せよ。分別して内身を觀ずるに 我身は何の所有ぞ、
若し能く如是に觀ぜば、 彼は我の有無達す。
身の一切分を觀るに 無所依にして止住す。
諦に是身を了する者は 身に於て無所著なり。
能く身如實を解り一切法に明達すれば
法は悉く虚妄と知りて 其心は無所染なり。
身命相ひ隨順し 展轉して更に相因るは
猶し旋火輪の如し 前後不可知なり。
智者は能く一切有は無常、諸法は空無我と觀察し、 則ち一切相を離る。
因縁所起の業は 無我なること猶ほ夢の如し
果報の性は寂滅して 前後異相無し。
一切世間法は 唯心を以て主となす。
樂に隨て相を取る者は 皆悉く是れ顛倒なり。
世間の所有る法は 一切悉く虚妄にして
諸法は眞實に二あることなしと解すること能ず。
一切生滅法は 皆悉く縁より起り、
念念に速に歸滅して 始終無異相なり」
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