今日は明遍僧都の示寂された日です。以下密教辞典等に依ります。
明遍は康治元年(1142年)に藤原通憲(信西)の子(解脱上人貞慶は叔父にあたる)として誕生、貞応3年6月16日(1224年7月4日)示寂されています。東大寺で三論宗を学び、高野山蓮華谷で修行、覚海に中院流・意教上人頼賢に醍醐流を受ける。源空に念仏義をうけて帰山、蓮華三昧院開基、高野山念仏門の祖とされる。
元亨釈書に「釋明遍、藤給事通憲之季子也。才氣貫諸哥。給事死已十三年。一家緇素欲相會修八講。蓋國俗逢亡者十三廻之歳、營追薦者十二支終而始、迎先支而寓追慕也。給事多子、皆英特也。緇林尤茂。所謂靜賢澄憲、勝覺覺憲、及遍也。諸子相議、以覺爲啓白師、充遍散導師。於時遍郷棲紀州高野山。蓋疾名緇之官榮也。諸兄使使告事。
遍對使者曰、我已逃世隱約此地。雖追孝不堪出也。使者復命。諸兄相語曰、遍才智被世。我等不若也。故胥議爲散師也。今言、逃世之人、不與法孝。豈遁世之士忘孝思乎。重使使者徴詰促歸。遍又曰、我非忘孝也。只怕入諸兄之隊耳。所以者何、夫遯世者、吾棄世世又棄吾。然而衆人不齒、是其遯之全者也。而世棄我我不棄世者、丐人也。我棄世世不棄我者、今之諸名徳也。二者未爲眞遯也。諸兄咸南北二都之高徳也。我廁其間、效薄伎慣狐鳴、已失隱約之素也。又朝廷聞吾出召我、我無地辭矣。我非忘孝思也。
便以友慧智代法事入京。諸兄相語曰、遍弟稚時議論屈我等。我等今又受屈耳。輦下相傳爲眞遯之美談焉。臨亡之時、祥瑞尤多。」
又「明遍は俊乗坊重源と共に東大寺僧形八幡神像 、来迎院阿弥陀如来立像等の造像、一心寺結縁経 等 に お い て 共 に 結 縁しており、また重源が高野山新別処に専修往生院を設けて不断念仏を行っていたが明遍も参加していた可能性が強い(蓮華谷明遍の浄土教思想・那須一雄)」とされ、続風土記高野山総論には「又聖僧あり。明遍上人の下部上人にしたがひて登山し念仏の業を勤む。又一遍上人智真この山に登りて念仏す。聖の輩、其の宗風に染み終に鉦鼓を叩き諸国を遍歴し高野聖と号す」とあります。
真別処は昔当方も四度加行をさせていただいたところです。高野山で唯一女人禁制の處で凛とした行場の雰囲気が残っていますが、ここが昔非僧非俗の高野聖の拠点となっていたというのも今の高野を思う時何とも言えない気持ちです。
明遍僧都は奥の院に読誦し、奥の院の無明橋袂で「二世の悉地を成就できるならばこの杖をに根をはやさせたまえ」と大師に祈願して杖を植えたところ、隆々たる杉の木になったとつたえられる明遍杉があります。臨終にも奇瑞多しと伝えられます。
(密教辞典等)
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