華厳経巻五菩薩明難品第六「仏子よ心性はこれ一なるに、云何んぞ能く種々の果報を生ずるや。或は善趣(人間界・天界のこと)に至り或は悪趣(地獄・餓鬼・畜生)に至り、・・或は善処に生じ、或は悪処に生じ正・醜陋・苦楽の不同ありや。業は心を知らず、心は業を知らず、受は報を知らず、報は受をしらず。・・因は縁を知らず、縁は因を知らず、・・諸法は自在ならず、実を求めるに得べからず、是のゆえに一切の法は二俱に相知らず、譬えば駛水(急流水)の流れは流れ流れて絶えて已むことなけれども、二俱に相知らざるが如く、諸法もまた是のごとし。・・爾時文殊師利、寶首菩薩に問うて言く、「佛子よ。一切衆生は四大にして、悉く非我非我所なるに、云何んぞ衆生は或は苦を受け樂を受け、或は惡を作し善を作し、或は内端正なるあり或は外端正なるあり、或は少報を受け或は多報を受く。或は現報あり或は後報あるや。然も諸法の性には善も無く惡も無し。」
爾時寶首菩薩。偈を以て答へて言はく
「 所行の諸業に随ひて 果報を受けることも亦た然なり。
造者は所有無し、 諸佛は是の如く説きたまふ。
猶ほ明淨なる鏡の 其面に随ひて像現ずるも
内外所有無きがごとく 業性も亦た是の如し。
亦た田の種子は 各各相知らずして
自然に能く因となるごとく 業性もまた是の如し。・・
亦た、衆の鳥類の声を出しても音不同にして
能く種種の聲を作す如く 業性もまた是の如し、
大地獄の中の 衆生苦惱を受けるも、
苦惱來る處無きが如く 業性も亦た是の如し。・・」(業苦の来るところを求めて も不可得である。)
爾時寶首菩薩。偈を以て答へて言はく
「 所行の諸業に随ひて 果報を受けることも亦た然なり。
造者は所有無し、 諸佛は是の如く説きたまふ。
猶ほ明淨なる鏡の 其面に随ひて像現ずるも
内外所有無きがごとく 業性も亦た是の如し。
亦た田の種子は 各各相知らずして
自然に能く因となるごとく 業性もまた是の如し。・・
亦た、衆の鳥類の声を出しても音不同にして
能く種種の聲を作す如く 業性もまた是の如し、
大地獄の中の 衆生苦惱を受けるも、
苦惱來る處無きが如く 業性も亦た是の如し。・・」(業苦の来るところを求めて も不可得である。)