岩手の中学2年生が自殺した事件で、学校内でのいじめによるものではないかと報道され、担任と学校の対応が問題になっています。この種の事件の報道でまず違和感を覚えるのは、何でも一括してイジメといわれることです。あきらかに傷害事件と思われる内容でも、イジメと報道されます。売春を援助交際といえば罪悪感をあまり感じないように、暴力事件であってもイジメといえば精神的圧力だけがあったかのように感じられます。暴力をともなう脅しが行われていたなら、これは傷害事件というべきです。今回の事件がどのようなものか、内容ははっきりしませんが、日常的な暴力が伴っていたら傷害事件と報道すべきではありませんか。
今回の事件で生活記録に本人からの多くの訴えがありながら、担任が適切な対応をしなかったことが問題になっています。はっきりはしませんが、報道される限り担任の対応には問題があったというべきです。一番は保護者に伝えなかったということです。ということを踏まえたうえで、マスコミだけから情報を得た人たちが注意しなければいけないのは、こうした事案はそう単純な図式ではないということです。加害者と被害者がはっきりしているイジメは、単純な事案でイジメた側にきつい指導をして反省させれば解決する問題なのに、学校は何でそんなことすらしないのかと思われがちです。また、イジメはやられた側がイジメだといえばイジメとして成立し、100%イジメた側が悪いとされています。確かに図式的にはそうですが、イジメられていた側がイジメる側に変わったり、イジメられていないのに皆がイジメルと訴える者がいたり、自分の子どもに暴力を振るわせるような態度をとる相手が悪いのだという親がいたり等と、水戸黄門で印籠を出すような解決にはいかないことが多いのです。かといって、担任は手をこまねいていればいいというわけではありませんが、今回の事件のもう少し背後に立ち入った事情を知らなければ、だれもが正義の味方となって悪を懲らしめるという論調では、真実はわからないし何も解決しないと思われます。父子の暮らしがどういうものであったのか。担任との間柄はどうだったか。日常的な家庭と学校とのコミュニケーションはどうだったか。担任を悪者にして幕を引くようなことは、同じ事件を繰り返すだけのことだと私には思えます。
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