民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

斎藤成也著『日本人の源流』を読む

2017-12-28 14:40:40 | 歴史

遺伝学、統計学から日本人の源流を探った、最新の成果です。

ヤポネシアへの三段階渡来モデル
第一段階 約4万年前~約4400年前 第一波の渡来民が、ユーラシアのいろいろな地域からさまざまな年代に、日本列島の南部、中央部、北部の全体にわたってやってきた。北から、千島列島、樺太島、朝鮮半島、東アジア中央部、台湾からというルートが考えられる。

第二段階 約4400年前~約3000年前 日本列島の中央部に、第二の渡来民の波があった。彼らの起源の地ははっきりしないが、朝鮮半島、遼東半島、山東半島にかこまれた沿岸域およびその周辺の「海の民」だった可能性がある。彼らは漁労を主とした採集狩猟民だったのか、あるいは後述する園耕民だったかもしれない。以下に登場する第三段階の、農耕民である渡来人とは、第一段階の渡来人に比べると、ずっと遺伝的に近縁だった。第二波渡来民の子孫は、日本列島の中央部の南部において、第一波渡来民の子孫と混血しながら、すこしずつ人口が増えていった。一方、日本列島中央部の北側地域と日本列島の北部および南部では、第二波の渡来民の影響はほとんどなかった。

第三段階前半 約3000年前~約1700年前 弥生時代にはいると、朝鮮半島を中心としたユーラシア大陸から、第二波渡来民と遺伝的に近いがすこし異なる第三波の渡来民が日本列島に到来し、水田稲作などの技術を導入した。彼らとその子孫は、日本列島中央部の中心軸にもっぱら沿って東に居住域を拡大し、急速に人口が増えていった。日本列島中央部中心軸の周辺では、第三波の渡来民およびその子孫との混血の程度がすくなく、第二波の渡来民のDNAがより濃く残っていった。日本列島の南部(南西諸島)と北部(北海道以北)および中央部の北部では、第三波渡来民の影響はほとんどなかった。

第三段階後半 約1700年前~現在 第三波の渡来民が、ひきつづき朝鮮半島を中心としたユーラシア大陸から移住した。それまで東北地方に居住していた第一波の渡来民の子孫は、古墳時代に大部分が北海道に移っていった。その空白を埋めるようにして、第二波渡来民の子孫を中心とする人々が北上して東北地方に居住した。日本列島南部では、グスク時代の前後に、おもに九州南部から、第二波渡来民のゲノムをおもに受け継いだヤマト人の集団が多数移住し、さらに江戸時代以降には第三波の渡民系の人々もくっわって、現在のオキナワ人が形成された。

従来の説では、縄文人の居住する列島に弥生人が移住したが、北と南には縄文人の血を引く人々が残ったとするものでしたが、弥生人が渡来する前に、もう1回渡来人の移住を想定した点が新しいところで、根拠は母から代々受け継ぐDNAの分析によって遺伝的に近いか遠いかを統計的に処理して得た結果だというのです。DNAの分析方法や統計処理の仕方は専門的で、すぐには理解できないものですが、結果だけを利用して文化論的な考察を加えれば、面白いものになると思いました。出雲人が関東人よりも縄文的遺伝子が濃いというのは、面白い。出雲は国つ神の国だと遺伝子からもいえるのです。

 


google home

2017-12-23 09:10:32 | その他

AiスピーカーのGoogle Homeを購入しました。新しもの好きとしては、日本で発売が始まったら評判を少し聞いてから購入しようと思っていましたが、発売されたのにあまり話題になりません。やめとけばいいのに、買ってしまいました。Googleの他にアマゾン、ライン、ソニーもあるというのにgoogleにしたのは、データの使いまわしがいいかなと思ったのですが、連絡先データを聞いたりいじったりできるわけではないので、音がいいというアマゾンでも良かったかと思います。でも、店の端末を家に置いたるみたいで、少しいやですね。

で、その使い方ですが、購入して1週間ばかりですが、まだよくわかっていません。そもそも印刷された取説書がないので、その都度ネットで調べないといけません。そもそも何をどう話すかが、まだ手探りです。それで、googleに聞かれないようにコソコソと女房と相談して、「OKグーグル、~」と言ってみている有様です。まるで機械に隠れて、人間が何かしているみたいで、おかしな話です。「申し訳ありません。お答えできません。もっと勉強します」の連発で、バカモノメ と悪態をつき、これを繰り返せば学習してグーグルの頭がよくなる、なんて馬鹿な人間は思っていましたが、間違いでした。まず、聴きたい音楽は他のソフトとリンクしなければいけなかったこと、レシピを聞くにはまずレシピソフトを呼び出さないといけないこと、飲食店を探すにも、まずはそのサイトを呼び出さないといけないことなどが、ようやく今朝わかりました。機械を教育するつもりで、人間が教育されています。まだまだ何かできそうですが、私がもっと勉強しなければなりません。


信州安保法制違憲訴訟第4回口頭弁論参加

2017-12-22 15:21:53 | 政治

本日、長野地方裁判所で信州安保法制違憲訴訟の第4回弁論があり、原告団の一人として参加しました。今回は生まれて初めて裁判所の傍聴席ではなく柵の中に入り、原告席に座りました。誰でもが経験することではありませんから、この経験について書いてみます。

そもそも今回の裁判では、新安保法制が違憲であり、その違憲の立法によって、原告の平和的生存権、人格権、憲法改正・決定権、安定した立憲民主政のもとで生きる権利が侵害され、精神的苦痛を負ったとして、慰謝料各10万円の支払いを求めたものの、第4回の裁判です。10:30~11:00の開催で、参加者は9:40に弁護士会館に集合でした。参加者の数は、法廷内の原告席に20名、傍聴席の原告席に20名、一般の傍聴席に30名が可能でした。参加者が少なくなることが予想されるからできるだけ参加してほしいということで、事前に参加者を募りました。で、私は申し込みが早かったため、法廷内の原告席に座ることになりました。裁判の傍聴は29人とされ希望者がそれより多かった場合は抽選とするようでした。今回は傍聴者は29人以内と踏んだので、そして事実傍聴希望の時刻10:05までには29名だったので、抽選なしで入れたのですが、10:05以後に来た人があり、その方々は抽選すらできずに傍聴から除外されてしまう、というできごともありました。

さて、原告側に3列で座りましたが20人が座るには狭くてぎゅう詰めでした。私は、3列目で原告代理人弁護士さんの後ろの席でした。被告側の国は7名で女性が1名で向こう側に座っています。役割分担の役所を代表してきているようです。向こうがこちらの名前を知らないように、こちらも国側の人の名前はわかりません。正面には裁判官が3名座りました。法廷が整ってから、廷吏が内線電話で連絡して裁判官が入廷します。すると、法廷内の全員が立ってあいさつします。裁判官は一段高い場所にいて参加者を見下ろし、言葉遣いも高飛車です。真ん中に40~50くらいとおぼしき男性の裁判官が座り、両脇に若い女性の裁判官が座りました。女性の裁判官は全くしゃべりませんでした。

裁判官が入廷すると、今回原告側が提出した書面を確認し、被告側もかくにんしました。次に今後の裁判の進め方、論点について原告側(我々)に意見を求めました。そして、次回の日程を協議しました。こんなことは、何も開廷してからやらなくても、単なる事務のすりあわせなのに、貴重な30分という短い法廷でやらなければいいのにと感じたしだいです。そして、ようやく原告側から2名の意見陳述をして終わりという流れでした。

意見陳述は、藤本さんが父親の従軍体験に触れながら、平和な社会に生きる権利を奪う安保法制が違憲であることを訴え、竹内さんは戦争を実感として高校生に教え、高校生が戦争をあるかもしれないものとして自分の将来を語らなければならない世の中でいいのかと訴えました。

まだ長く続く違憲訴訟です。


宮澤佳廣『靖国神社が消える日』を読む

2017-12-19 10:55:00 | 読書

昨日、信濃1月号の初校ゲラを印刷所に戻し、長野県民俗の会『通信』1月号の原稿を集めて担当編集者に送り、ほぼ今年1年の仕事は終わりました。『道祖神碑一覧』の編集作業はまだ来年も続きますが、一段落したのは間違いないです。

そこで、友人に紹介してもらった標記の本について書きます。著者は安曇野生まれ(穂高神社の神官かな)で、靖国神社の元禰宜だといいます。著者は、このままでは将来、靖国神社が消滅してしまうことに強い危機感をもって、本書を執筆しています。私は消滅した方がいいと思っていますから、出発点からして違います。靖国神社はかつて1回参拝しました。遊就館の展示には東京裁判は認めないという強い意志を感じたものでした。そんな私ですが、この本を読むのは、正直苦痛でした。共産党と朝日新聞に敵愾心を持っている著者とは、たとえ話してみても折り合いがつかない気がします。

靖国神社は「国家防衛」という”公務”のために死没した人々の神霊を祀るために、明治天皇の思し召しにより国家によって創建されました。こうした由来、神社の理念と目的は、どれだけ時が経ようとも、後世のいかなる力をもってしても変わりようがない。厳然とした歴史的事実なのです。

まさに著者の言う通りです。だからこそ、あたかもそれをこの国の伝統と定めることに同意できません。人を神として祀ることは、この国になかったわけではありません。人を祀った代表といえば、菅原道真でしょう。この世に恨みをもって死んだ人の魂は仇をなすので、祭り上げなくてはならないと考えたのです。平の将門もそうですね。それから、偉大な業績のある人も神になりました。豊臣秀吉、徳川家康などですね。ところが、無名の市井の人が神に祀られ不特定多数の人々に礼拝されるというのは、靖国神社以外にはないと思います。神式の葬儀で、人は死ぬと神になりますが、それは身内にとっての先祖としての神であり、見ず知らずの人にとっての神ではありません。天皇のために死んだ人々を祀るため(そこには怨霊となることを防ぐという意味もあったかもしれません)、天皇が作った神社なのです。また著者はこうもいいます。

 繰り返し述べるように、靖国神社は、国家防衛という公務のために死没した246万6000余の神霊を祀る国の施設「official」であり、国民「common」が国家の平安を祈るために設けられた施設です。
 それは靖国に祀られている個々の神霊が、それぞれの家で子孫によって祀られる御霊であると同時に、国家国民によって祀られる御霊であることを意味しています。そして、それぞれの家を守る家の守り神(祖霊)であると同時に、国家国民を守る守り神(神霊)であることをも意味しています。だからこそ、戦死者及び遺族にとっては、靖国を身近に感じ、合祀されること自体が精神的慰籍になったのです。

あまりにも戦前の家族国家観そのままの記述であり、これで皆が納得すると考えているとすれば、あまりにも惨いです。家を守る祖霊が靖国の神霊でもあるという論理は無理です。戦死のために家が絶えることを無視して、天皇のために死ぬことを強い美化したことを無視して、祖霊と神霊を同一視するのは誤りです。家族のことを考えれば死んではいけなかったのです。さらに、「国家防衛のために」という前提が誤りです。他国の侵略のために戦に出かけたのです。たとえ本人にそうした意識がなかったとしても、今となっては侵略であったことは明らかですから、祖国防衛のために命をかけたと一方的に美化することはできません。

 遺族が亡くなり、靖国にお参りする人がなくなって靖国が消滅したとしても、人為的に作られたものですから、目的がなくなれば消滅して当然だと私は思います。 


鶴見和子「われらのうちなる原始人」を読む

2017-12-05 14:59:32 | 読書

明治以後の日本の社会科学が、ヘテロロジカルであったのに対して、柳田学は、ホモロジカルな社会科学の創造をめざした。ヘテロロジカルとは、第一に、研究の対象とされる社会の外でつくられた方法論によって、一つの社会を研究することである。研究方法は研究対象と異なる論理構造をもつといういみである。第二には、研究者は研究対象の外側にあって、研究者と研究対象とは、異なる集団に属することを前提とする。これに対して、ホモロジカルとは、研究方法が研究対象とされる社会から生まれ、したがって、研究方法と研究対象とが同一の論理構造をもつということである。また、研究者は、研究対象とおなじ集団に属するものとして自己および研究対象を扱うことである。

民俗学研究者が、常に自分と民俗学あるいは研究対象との関係を問い続けなければならない理由も、上記鶴見の定義によると私は考えます。先日の長野県民俗の会総会の島村さんの記念講演の後で、自分にとっての民俗学というテーマで討議をしました。それは、まさに上記の鶴見さんが明確に説明してくれたように、民俗学とは同一文化に属する者が同一文化について考えるという、極めて自覚的な意思を必要とする学問だと考えるからです。このあたりを、同時代に民俗を学ぶ学生がどう考えているのか。じっくりと話してみたいものです。


完全なる伝承の消滅

2017-12-05 14:00:05 | 民俗学

母の妹、私にとってオバが施設に入っていて、一ヵ月ほど前に亡くなりました。妹が先に亡くなったときけば、母のショックは大きいと考え、母には伝えてありません。葬儀は家族葬だということで、新聞にも掲載されなかったのは幸いでした。

オバの夫は木地師でした。明治になってから伊那谷から松本へ移り住んだのです。そして、川がお堀へ流れ落ちる場所を選んで水車を設け、水車の力で轆轤をひいたのです。のみを材にあてて加工していく姿を何度も見せてもらいました。その叔父は、もう何年も前に亡くなりました。

木地師の本拠地とする場所は滋賀県の永源寺町で、そこから出て材にする木を求めて全国を漂泊したしたといいます。そして、そこにある神社が氏子狩りと称し、全国の木地屋のもとを訪ねて居所を確認し、氏子料を集め戸籍のようなものを作っていました。その記録をみれば、先祖の地を探すこともできるのです。叔父の先祖は木曽を経て伊那に移り、松本に定住したようです。江戸時代までは居所と定めた山の周辺に使える木がなくなれば、別の場所へと移ったのでした。山での暮らしの伝承や、かつての仕事ぶりなどは叔父からまだ聞くことができました。その生活伝承や技術伝承は、極端にいえば奈良時代までも遡るものだったでしょう。叔父もそのことはわかっていて、年をとってからは木曽や伊那の山中に、先祖の暮らしの痕跡を求めて分け入ったこともありました。叔父には子どもは二人いますが(私にとっては従妹)、いずれも女子で、木地師の仕事を継ぐことはありませんでした。先に叔父が亡くなり、わずかの伝承を受け継いでいたオバもなくなり、おそらく千年以上も続いた技術伝承は、これで完全に消滅したのです。

 

 


今年の庚申講

2017-12-05 13:21:36 | 民俗学

先週の水曜が今年最後の庚申の日だということで、実家の庚申講のお誘いがあり、近くのソバ屋でやる講に参加してきました。猿田彦の掛け軸をかけ、お供え物(塩・米・みかん・饅頭・酒)をして、まずは礼拝してから始めました。今年は講で所有する食器などを片付けて処分する予定でしたが、できなかったという報告が、昨年の当番からありました。食器は、お宮などから欲しいという希望があるとのことでした。猿田彦をなぜ祀るのかはわからないといいます。丸い物をお供えするのは、庚申様は丸い物が好きだからということでした。その後、食事をしながらの四方や話です。今年の当番の方は去年胃がんの手術をしたとのことで、お酒は飲まず、長距離トラックの運転手をしている方は、今晩岸和田まで運転しなければいけないということでお酒を飲まず、私を含めて3人だけ酒を飲みました。話は、まずは今年の作物のできについて。大根は丈が短く、菜っ葉も大きくならなかったそうです。自分が栽培した大根も丈が短くてがっかりしていましたので、どこの家もそうだと聞いて安心しました。その後は、葬式のやり方、近所の近況などでした。多分、昔も今も話題のテーマは似たようなものだろうと納得しました。


民俗の発見

2017-12-04 16:04:49 | 民俗学

民俗事象は、日常的に目にするものを新しい視点から見つめ直し、研究者が再発見していくものです。科学のように、新しい実験をした結果、初めて露見する発見とは性質を異にしています。民俗事象はいつも目にしているのですが、見ようとしないと見えないものなのです。

長野県民俗の会では、『長野県道祖神碑一覧』の編集を進めています。初校ゲラまで出ましたが、『会報』の編集を優先させたため、しばらくストップしていました。その編集を再開したのですが、今は口絵写真の収集を重点的に進めています。雪が降る前に写真撮影を済ませてしまいたいのです。写真を収集のために何を撮ったらいいかという視点で、ゲラをながめました。口絵は長野県の4地区(北信・東信・南信・中信)の各地区2ページで、合計8ページとしました。1ページ5~6枚といったところでしょうか。そうすると、10枚以上は写真が必要です。その地区での一般的な道祖神碑はもちろんですが、珍しい物、美しい物、分布の意味があるものなど、多様な道祖神碑を集めています。特に、多様な石碑をと思ってみると、これまでほとんど取り上げられなかった道祖神碑がみえてきます。まずは写真を。

いくつもあげましたが、いずれもただの石を加工しないで道祖神として祀るものです。以前にもた気がしますが、今回広く歩いてみて、それが限られた地域の特異な信仰ではなく、かなり広く当たり前のこととしてみられるものだと思われてきました。これまでは、本来は文字か双体像、もしくは石祠に加工すべきだが、加工賃がなかったからか、そのまま祀った、程度にしか研究者は認識してこなかったと思います。ところが、石を石のまま祀るという習俗が存在するのです。石のまま祀っても神の姿がわからないので、道祖神信仰が流行ってきたときに、ああ自分たちが祀ってきたのはこれだったと思いいたり、道祖神とその時に名付けたのではないかと思うのです。今まで、ずっとそこにある石を、道祖神のできそこない程度にしか研究者が見過ごした信仰を、改めて「発見」したような気がするのです。(自然石道祖神の写真は友人の小原氏が撮影したものが多いです。すべて東信地区のものです。)このことは、自然石を祀る地区の道祖神信仰の習俗とともに報告しなければいけないと考えています。

最後にあげるのは、単体で刻まれ2体で一組だといわれる道祖神と夫婦と子ども3体が刻まれた道祖神碑です。面白いことに、佐久市の隣り合った集落にあるのです。珍しいですが、双体像だけが道祖神碑ではないことを実物が教えてくれます。