3日午後、羽田から那覇に12:50到着。ホテルでチェックインをすませてから、首里城に向かいました。首里城は国宝でありましたが、沖縄戦で日本軍の陣地が置かれたために徹底した攻撃を受け、建物は破壊しつくされてしまいました。それが、復元されて、といっても薩摩によって占領されて日本文化の影響を受けて造られた江戸期の姿に似せて作ったものです。本土の城の大手門にあたるのが、守礼の門ですが門に掲げられた扁額には「守礼之邦」と書かれていました。私たちは、守礼の邦に無礼をはたらいているのです。建物の中の展示に沖縄サミットが、ここで行われた際の会食の写真がありました。森元首相がごきげんで酒をつぐ写真もありました。復元された建物ですから中で宴会もできるのですが、本土防衛のためといって琉球のアイデンティティーともいえる文化財を粉々に破壊させ、それを税金で復元させたのは政治の力だ、(もしかしたら俺の力だ)と有頂天になっていたのだとしたら、何と恥知らずなおこないでしょう。
いくつもの門をくぐりたどりついた建物は、正面が政庁で左右は、日本の使節と清朝の使節とを迎えるための施設が別々に作られていました。大きな広場は、王の前で全ての役人が拝謁する場所です。規模は小さいですが、中国の王城と同じ作りです。琉球王は代替わりすると、清朝の皇帝からの任命書を受けたといいます。建物は、中国風ですが一部、破風の部分や室内の造りに和風も感じました。
上は玉座です。小さいながらも、王は王としての風格と威厳とを備えていたことでしょう。内部のいくつかの展示をみても、琉球国というものの存在を感じ、すくなくとも江戸時代までは薩摩の植民地にされたとはいえ独立国であったし、あえて宗主国というなら清がそうであったと感じました。琉球が古来よりの日本固有の領土などとは、軽々しく口に出せないと思いました。だとするなら、琉球国には琉球国の独自の歴史があります。翌日案内していただいたタクシーの運転手さんは、首里城なんてありますか?そんなものはありません、あれは中山城なのですと、嫌味をこめていわれました。観光に向けての耳触りの良さなのです。中学校の社会科教科書では、ほんの少し琉球王国に触れますが、本土の藩のような扱いです。そうではないとようやくわかりました。独立国が、明治政府によって占領され、滅んだのでした。沖縄では、琉球国史を正史として学ぶべきだと思いますが、本土と同じ教科書を使い、幕藩体制を学ぶばかりのようです。
首里城の見学を終えて行ったのは玉陵(たまうどぅん)で、1501年に作られた王家の代々の墓です。当時の宮殿を石で作ってあるということですが、何だか不思議な感じです。3室からなっていて、中央に遺体を納め、何年かしたら洗骨して壺に入れ、左右の室に置いたといいます。石造りの塀で囲まれています。こんなのを見ると、『ゲド戦記』の影との戦いの場面をイメージしてしまいます。