日本版NSC、秘密保護法、集団的自衛権と、いくつもの問題が出され個別にみているとわからなくなってしまいますが、収斂するところは日米安保条約ではないでしょうか。冷戦下における日米同盟のありかたと現在とは大きく意味を異にしますし、表に報じられる意味と国際政治の裏舞台での意味も、また大きく異なるような気がします。『永続敗戦論』に導かれて読んだ本ですが(岩波新書)、そうではないかと思っていた恐ろしい内容が書いてありました。
1945年 沖縄が陥落した後も、何か戦果をあげた後にと、早急にアメリカとの講和を進めることに難色を示した昭和天皇は、国体護持、ありていにいえば天皇としての自分の地位が存続することにこだわっていたのです。 そんな昭和天皇が、人間宣言し日本国憲法が発布して象徴となったからといって、元首として育った思考方法から離脱したか、つまりこの国の政治を左右する立場からあっさりと身を引いたかは、人の生き方として疑問ではありました。とはいえ、大政奉還、江戸城明け渡し後の徳川慶喜は一切政治とはかかわらず関係者にも会わず、自分の趣味に没頭して生きましたので、昨日までの為政者がただの人として生きることがないわけではありません。しかし、国民の象徴となった天皇は、一人の人として生きることは許されず、国民全体を体現するものとして生きなければなりません。人間宣言はしたものの、個性をもった人ではありません。
そんな昭和天皇が厳しい冷戦下で天皇制を存続させるため、アメリカの占領を望み実際にアメリカとの政治交渉に動き、時の首相である吉田茂がそれに押し切られて、日本が米軍の駐留を希望しアメリカがそれに応える形で結ばざるを得なかったのが、日米安保条約だというのです。そればかりか、アメリカの歓心をかうために喜んで切り捨てさしだしたのが沖縄だったともいうのです。以来今に至るまで安保ただ乗り論が横行し、アメリカの顔色をみては国内政治は動いてきたのです。あのとき、朝鮮での戦争のためにアメリカはどうしても日本に基地がほしかった。日本に頼まれたから基地を置いてやったのではなく、日本に無理を言ってかなりな譲歩をしても軍の駐留をアメリカは認めてほしかったという力関係にあった。にもかかわらず、当時の政府は何のカードを切ることもなく、要求を出すこともなくあっさりと米軍の駐留を認めるどころか、駐留をお願いした。それは、革命を恐れた天皇の意志だったというのです。
今も複雑な力関係の中で、さまざまな外交交渉が行われていますが、TPPや秘密保護法、領土問題などにしても、表の理由はうまいことをいい筋論で話しが進んでいるかに見えますが、実は本当の外交関係は裏の目に見えない力学で左右されているように思われてならないのです。確証のないことはマスコミは報じませんが、報じていることの裏にも何らかの意図があるのではないかと疑ってみたくもなります。公開されてる資料からでも、本書のような深い読みができると知らされた恐ろしい本でした。