民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

豊下楢彦著『安保条約の成立―吉田外交と天皇外交ー』を読む

2013-10-29 09:51:33 | 歴史

日本版NSC、秘密保護法、集団的自衛権と、いくつもの問題が出され個別にみているとわからなくなってしまいますが、収斂するところは日米安保条約ではないでしょうか。冷戦下における日米同盟のありかたと現在とは大きく意味を異にしますし、表に報じられる意味と国際政治の裏舞台での意味も、また大きく異なるような気がします。『永続敗戦論』に導かれて読んだ本ですが(岩波新書)、そうではないかと思っていた恐ろしい内容が書いてありました。
1945年 沖縄が陥落した後も、何か戦果をあげた後にと、早急にアメリカとの講和を進めることに難色を示した昭和天皇は、国体護持、ありていにいえば天皇としての自分の地位が存続することにこだわっていたのです。 そんな昭和天皇が、人間宣言し日本国憲法が発布して象徴となったからといって、元首として育った思考方法から離脱したか、つまりこの国の政治を左右する立場からあっさりと身を引いたかは、人の生き方として疑問ではありました。とはいえ、大政奉還、江戸城明け渡し後の徳川慶喜は一切政治とはかかわらず関係者にも会わず、自分の趣味に没頭して生きましたので、昨日までの為政者がただの人として生きることがないわけではありません。しかし、国民の象徴となった天皇は、一人の人として生きることは許されず、国民全体を体現するものとして生きなければなりません。人間宣言はしたものの、個性をもった人ではありません。
そんな昭和天皇が厳しい冷戦下で天皇制を存続させるため、アメリカの占領を望み実際にアメリカとの政治交渉に動き、時の首相である吉田茂がそれに押し切られて、日本が米軍の駐留を希望しアメリカがそれに応える形で結ばざるを得なかったのが、日米安保条約だというのです。そればかりか、アメリカの歓心をかうために喜んで切り捨てさしだしたのが沖縄だったともいうのです。以来今に至るまで安保ただ乗り論が横行し、アメリカの顔色をみては国内政治は動いてきたのです。あのとき、朝鮮での戦争のためにアメリカはどうしても日本に基地がほしかった。日本に頼まれたから基地を置いてやったのではなく、日本に無理を言ってかなりな譲歩をしても軍の駐留をアメリカは認めてほしかったという力関係にあった。にもかかわらず、当時の政府は何のカードを切ることもなく、要求を出すこともなくあっさりと米軍の駐留を認めるどころか、駐留をお願いした。それは、革命を恐れた天皇の意志だったというのです。

今も複雑な力関係の中で、さまざまな外交交渉が行われていますが、TPPや秘密保護法、領土問題などにしても、表の理由はうまいことをいい筋論で話しが進んでいるかに見えますが、実は本当の外交関係は裏の目に見えない力学で左右されているように思われてならないのです。確証のないことはマスコミは報じませんが、報じていることの裏にも何らかの意図があるのではないかと疑ってみたくもなります。公開されてる資料からでも、本書のような深い読みができると知らされた恐ろしい本でした。


秘密保護法

2013-10-26 11:06:13 | 政治

いよいよ安倍政権が数を頼んで、やりたいことに打って出てきました。国民には知らせない「秘密」とは何でしょう。そうしてまで守らなければいけない「国」とは何でしょう。家族がいて国民がいて、国があります。まちがっても、国があって国民があるのではないのです。健康のためには死んでもいい、といえば笑われますが、国のためなら死んでもいいといえば、ほめられるのでしょうか。人々が皆死んで「国」だけ残るなどというのは幻想で、人がいてこそ国があるのです。戦前の治安維持法第七条には以下のような定めがあります。

第七条 国体ヲ否定シ又ハ神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒涜スベキ事項ヲ流布スル事ヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ無期又ハ四年以上ノ懲役ニ処シ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ一年以上ノ有期懲役ニ処ス

国の元首は天皇だと憲法で定め、天皇制を否定したら最高無期懲役となるという規定です。戦争に反対する考えをもっていた人々は、皆これでひっぱられ拷問を受けて死んだ人も多くいます。1つの法が国民をあらぬ方向へ導いていく事を、私たちは過去の経験から知っているはずです。今また、どうしたことでしょうか。そうした批判に対して今度の法案では、第六章 雑則 第二一条を定めたといいます。そこにはこうあります。

第二一条 この法律の適用に当たっては、これを拡張して解釈して、国民の基本的人権を不当に侵害するようなことがあってはならず、国民の知る権利の保障に資する報道又は取材の自由に十分に配慮しなければならない
2 出版又は報道の業務に従事する者の取材行為については、専ら公益を図る目的を有し、かつ、法令違反又は著しく不当な方法によるものと認められない限りは、これを正当な業務による行為とするものとする。

これを読みますと、 大日本帝国憲法の以下の条文が思われます。
第二十九条 日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於(おい)テ言論著作印行(いんこう)集会及結社ノ自由ヲ有(ゆう)ス

国民の知る権利、報道の取材の自由は、行政によって「配慮していただく」ものなのでしょうか。配慮とはどの程度のもので、配慮しなかったらどうなるのですか。取材行為を誰が著しく不当なものと認めるのですか。法律でありながら、あまりにもアバウトで時の政権にとって都合の良い解釈が無限に可能になっています。こんなのを法律の専門家である官僚がよくも作ったものです。どう考えても、21世紀の先進国の法とは思えないものです。現政権は数を頼みに、こんな法をごり押しでも認めてしまうのでしょうか。次にやってくるのは、更なる日米密約か、憲法改正への水面下の動きか。全て秘密裏に行い、気が付いたら国民は何も知らなかったという事になるのでしょうか。 

民がいて国がある 政治家にはこのことを忘れてほしくありません。


誰が墓を守るのか

2013-10-22 15:43:40 | 民俗学

葬式の変化について考えてきて、現時点でたどりついた結論は、以下のようなものです。あの世や浄土といった死後の世界が想定されなくなって、継続的に死者が向かうべき場所が消滅した。また核家族が一般的となり、先祖の系譜をたどるという考えもなくなった。その結果、祖先祭祀という考え方がなくなって葬式は故人と遺族とのお別れ会となり、遺族の記憶の消滅と共に死者も存在しなくなる。このようになると、今回まとめた論文では言及できなかったのですが、墓の意味付けともリンクして変わってきます。核家族の墓と現行の「家墓」とは合致しません。家墓から夫婦墓か個人墓にかわっていくことが想定できます。もっとも、現行の家墓はけっこう新しい、もしかしたら戦後に考案されたもので、江戸時代の石塔は夫婦ないし故人で1基ですし、貧しい庶民は木の塔婆でしたか朽ちてしまえば場所もわからなくなってしまいました。家族ごとに墓域が同じであったかどうかは不明ですが、少なくとも今のように石塔の下に蔵骨器があって納めるカロートーの形式ではありませんでした。核家族が徹底した先、つまり結婚した夫婦と結婚したその夫婦の子は一緒に住まないという家族が一般化すれば、世代の異なる夫婦の墓は同じ場所にはならないでしょう。そこから、永代供養墓とか散骨とか樹木葬とかが生まれてきます。
そこで気になるのは、早くから核家族があたりまえのアメリカでは、墓の事情はどうなっていて、誰が継承し守っているのかです。少しネットで調べた程度ですが、アメリカでは家族で同じ場所という例もないわけではないが、基本は個人ごとの墓だそうです。兄弟や親子で州が異なるほど離れていたり、夫婦で同じ墓所でも南の端と北の端といった具合に離れていたりするようなのです。これでは墓参りは大変なのですが、お盆やお彼岸はありませんから心配しなくていいようです。墓地は生前に個人で購入するのだそうです。ここまではわかったのですが、個人で墓地を購入するとなると、人口の数だけお墓が必要ですから、アメリカはお墓だらけになりはしないか。だんだん忘れられた墓地は、その後どうなってしまうのかなんてことが気になります。同じようなことが世界の国々でもありますから、どうなっているのか気になって仕方ありません。家族の形態だけ墓地の形態、継承の形態もあるでしょうから、文科省に科研の申請をして海外調査に出かけたいくらいです。 


市町村合併と文化財の管理

2013-10-20 08:43:00 | 民俗学

長野市に合併した信州新町にある、民具の収蔵庫を見学してきました。収蔵庫とはいえ、廃校になった小学校の教室と体育館に、地域から収集した民具を入れてあるだけのものです。格別保存処置をほどこしたわけでもなく、受け入れ台帳も作ってありません。合併の際に長野市に丸投げとなり、受け入れた側も博物館の収蔵庫は満杯状態でもちこめず、処分するわけにもいかずそのままにしてあるのが実情のようです。これらの民具を今後どうしたらよいのか、しばし参加者で討議したしだいです。
私も一時県立民俗系博物館の建設を働きかけましたが、県には全くその気はなく、民俗文化財は在地で保存するのが望ましく、幸い長野県は全国1ともいえるほど、市町村立博物館(相当施設9の多い県だから、市町村に管理は任せる、というような回答をそのときもらいました、歴史館ができるときも、せめて民具の収蔵庫だけでもほしいと訴えましたが、こいつも却下でした。民具などという物は考古資料に比べれば価値のないいわばガラクタに近いというのが、大方の役人の見方なのでしょう。ところが、たくさんある歴民館の中心展示は民具であるにもかかわらず、役所などに民俗を専門とする担当者はほとんどいません。民俗学会が考古学会などと違い、文化財保護の圧力団体となれなかった、ならなかったことがこうした立場の遠因となっているのですが、民俗文化財が考古資料のようにある時点をピン止めして、資料化することには問題がある、もっと簡単に言えば民俗学者がある民俗についてお墨付きを与えてしまう、もっと極端に言えば民俗理論にあったような民俗だけを選別して作り上げてしまうことがよいのかという、とまどいもありました。たとえば、新野の盆踊り唄などは、柳田だったか折口だったかが選別したものが、今は正当な唄として歌い継がれています。 
専門の担当者がいない中でやみくもに集められた(やみくもに集めるにしても集めないよりもはるかにましなのですが)民具は、名付けて何らかの展示物にされたらそのまま顧みられることはありません。市町村合併により、そうして展示放置された民具があちらこちらにあるのです。どうしたらよいのか。本当に保存を考えるなら、選別が必要です。選別の視点は2つあります。1その地域の民俗的特質を表すもの。たとえば、雪の多い地域ならば雪と暮らしをあらわすもの。山仕事で生きた村なら、山仕事の道具。2全県ないしは全日本的視点からみて、文化圏をあらわしている指標になる物。このような物を残し、あとは同じ物がいくつかあったら処分させてもらうしかしょうがないと思います。

もう1つ感じているのは、新しく合併した地区の生活文化が総じて軽んじられてはいまいかということです。平成の合併で市に加わったのは、周辺部が多いはずです。そうした地区は、見た目のよい文化財がある可能性は低いのですが、そこでも営々とした人々の暮らしがあったことは事実です。そうした何でもない人々の暮らしが忘れられ、捨て去られていくのは、全ての財と文化が東京へと一極集中していくのとパラレルな関係にあります。東京の地方都市版が目の前にあるのに、地方都市がすたれていくことを嘆いて、自らが周辺部を切り捨てていることに気が付かないのです。行政の効率化のために合併はありましたが、単にそれが周辺部を見捨てることになってはいないかと危惧します。

  


大量死と供養

2013-10-17 08:49:48 | 民俗学

病院の火災で多くの人が亡くなったと思ったら、今度は土石流で多くの人が亡くなり行方不明者もまだ多数いる。長く戦争がなく、一度に多数の人命が奪われるというできごとを忘れていたこの国は、3.11以後災害による大量死の時代を迎えたのかもしれない。福島のような晩発性の死については、今回は置いておくとして、「一度に」「多数の人命」が失われると何が起こるだろうか。
伊豆大島の被災後の写真を見ると、根こそぎなぎ倒された津波後の被災地を思わせられる。きっと家族全員がなくなってしまった方々もいるだろう。いったい、誰が供養をしてくれるのだろうか。戦後無縁仏がでることを心配した柳田ではないが、津波の被災地でも今回の土石流でも、家族丸ごと持っていかれてしまったら、後に残る人がいない。 新盆・一周忌・彼岸などと亡くなった当初は、供養のための儀礼がいくつもあるが、担い手がなければ行うことはできない。大川小学校裏にあった、地域で亡くなった方の名前を全て刻んだ石、仙台市荒浜の同様の供養塔、古くは日清戦争、日露戦争、太平洋戦争での戦没者の忠魂碑などが思い起こされる。死者を供養するというのは、生きているものの務めであり、個別に供養できない場合は、集団で供養する。中世以来この国の人々は、そうやって死者を弔ってきた。今また、大量死の時代を迎えたと書いたが、そうでなくとも個別の供養が難しい時代である。どういうことかというと、妻方夫方の2軒の家が合体して1軒になっていく人口減少社会である。2軒が1軒になるならよいが、1軒が0にもなっているのである。無縁仏が続出する世の中で、供養が人として誰もがなすべきことだとしたら、集団としての供養しかないだろうし、供養などある時代相にみられる現象で普遍的な人としての行為ではないとするなら、全てが火葬するだけ、つまり直葬の一般化が進むことになるだろう。悩み多いのは、被災地の当事者である。


ホテルでのパニック

2013-10-14 16:28:04 | 民俗学

昨日一昨日tp新潟大学で開催された、日本民俗学会第65回年会に参加してきました。1日目のシンポジウムや2日目の研究発表の内容の紹介やコメントは、もう少し時間をかけて整理させていただき、きちんとまとめたいと思っています。近年特に、年会の研究内容について一括りで語ることが難しい学会の状況となっています。大学の民俗学の講座では、何を扱っているのだろうかと考えさせられる2日間でした。で、書くのは泊まったホテルでの出来事です。

4時ころ目が覚め、何だか雨の音がすると思いながら、まだ早いと思って寝ました。次に目が覚めた時には、外は明るくなっていました。ベッドサイドのデジタル時計を見ますが、何だか暗くてよく見えません、仕方ないので自分の腕時計を良く見ると、6時40分ころでしょうか。部屋を明るくしてしっかり確認しようと、ライトのスイッチを押してみますが、部屋のライトがつきません。えーこれどういうこと。ラジオもテレビもつきません。何これと思い始めました。何か、廊下か隣の部屋では話している声が聞こえましたが、そのうち静かになりました。どういうことだ、とりあえず内線でフロントに電話してみなくてはと思い、フロントの番号を探すのですが、どこに書いてあるのかさっぱりわかりません。仕方ないので、ケータイでホテルに電話してみますが、全くつながりません。そこで、一緒に泊まった仲間に電話してみると、何と「全館停電していてエレベーターも動いていません」というではありませんか。エレベーターの所へ行ってみたら、宿泊客が話していたというのです。ホテルで停電てどういうこと。動揺しつつも、ようやくホテルの館内案内のフォルダを探し出し、フロントの番号を見て内線してみると、原因不明の停電で今業者に来てもらって点検中で、いつ復旧するかわからないという。ただ、朝食は用意できているので非常階段を使って2階まで降りてくれば(私たちは7階と8階に部屋がありました)、暗いけれども食事はとれるとのこと。どうするか、仲間と話しているうちにようやく全館放送が7時ころはいり、停電を点検中と食事はとれるので非常口を使ってほしいと、私が内線で聞いたのと同じアナウンスがありました。また上がってくるのは大変なので、荷物の用意をしてそのままチェックアウトできるように全部持って、非常口を使って2階食堂に降りました。食堂には、暗い中で20人くらいが既に食事をしていました。私たちも、バイキングの料理を何とかとってきて食事を始めよく考えました。火事ではなくてよかったのですが、停電があったのは6:30からで、全館放送で宿泊客全員が事態を把握できたのは7時過ぎでした。その間、こちらから問い合わせをフロントにしなければ何もわからなかったのです。火事なら、知らないで寝ていると逃げ遅れています。たまたま非常口は部屋のすぐ近くにありましたから探さないで良かったんですが、そうでなければ、同じ階を探索しないとわかりませんでした。これでも火事でなくてよかったと安堵したものです。

教訓 部屋に着いたらフロントの番号と非常口をまず絶対に確認することです。


核家族と先祖祭祀

2013-10-11 17:32:19 | 民俗学

松本市では、親族世帯の81%が核家族です。核家族というのは、父母と結婚していない子どもからなる家族です。以前は核家族といえば、両親と幼い子供からなる若い家族がイメージされましたが、良く考えてみれば結婚していない子どもといえば、高齢者でもいいんです。超高齢者の親と独身で高齢者の子どもでも、核家族です。そして次はどうなるかといえば、単独世帯となります。核家族のうちの33%は、既に単独世帯なのです。この状況を、政府もマスコミも何より当事者も本当のところ理解していません。というより、理解しようとしていないか、知っていても知らないふりをしている、まるで国の借金のようなものです。このところ葬式の変化についてずっと考えてきて、改めてこの数字に行き着きました。核家族が高齢者の葬式をする場合は、同居していない親か、独身で結構年とった子が親を送るという場合になります。このとき、先祖とはどれほどの意味をなすのでしょうか。
柳田は、人はなくなって33年もしくは50年経過すると個性をなくし、いわば先祖霊の集合体となって子孫を見守るのだといいました。だから、人生の目的は先祖になることで、家を興すのはそのためだともいいました。先祖になるとは、子孫が祀ってくれてこそ成立するものです。祀る子孫がいなければ、先祖になりようがありません。

ここで核家族を考えてみましょう。核家族は、親があっても同居せず新たに世帯を形成した物です。おそらく、核家族は核家族を生んでいきます。自ら家を離れて独立した者が、自分の家を継いでほしいとは思えないでしょう。すると、核家族の親は、常にその家族の先祖であります。親の親、さらにその前へと先祖を遡ることはありません。世代を遡らない系譜関係を、先祖とはいわないでしょう。そうなると、遠からずこの国から祖先祭祀はなくなります。そこで気になっているのが、アメリカの家族です。核家族を基本とするアメリカでは、祖先祭祀などというものはないでしょうから、基本的に土葬だという墓は将来的にはどうなってしまうのでしょうか。誰か教えてもらいたいものです。
核家族はこの国の制度やものの考え方を大きく変容させます。当面は墓地をどうするかが問題になります。その次は家です。この家は、施設としての家です。高齢者の単独世帯の家や、空き家となった家が松本市にも数多くあります。どうなるのでしょうか。墓地は所有権を買うのでなく使用権を買います。使用年数を契約に示す墓地もあるようです。無縁となった場合には、更地に戻して別の人が使うことになります。家も同じような考え方が出てくるかもしれません。不動産を取得するのでなく、生きている間の使用権を買い、死んだらいずれかに戻す。こうすれば、比較的安く家が手に入るし、空き家となって朽ちるに任せることはなくなると思います。いずれにしても、家族の形態はものすごい勢いで変わり、習俗などもそれに合わせて変わらざるをえなくなっているのに、政治家は特に保守的政治家は、男重視の保守的家族形態の心地よさにしがみつき、家族の変化を見ようとしません。 


善光寺道を歩く 5

2013-10-08 11:15:18 | 民俗学

酷暑が過ぎ去るのを待って、善光寺道歩きを再開しました。今回は、西条まで電車で行き、麻績まで歩いて電車で帰るというものです。宿場としては、間の宿の西条・青柳・麻績となります。西条では、富蔵山観音寺で境内に、馬と牛の銅像や畜魂碑などがあり、筑北地域の往時の馬産がいかに盛んであったかが偲ばれました。

  

近くにはあの山清の蔵元がありましたが、歩くのに重いことを考え今回は購入を断念したのは残念。そこからずっと歩いて、青柳の宿です。ここは青柳氏の居館と城下ということで、文字通りの小盆地、本当に小盆地ですが、で遠くにはアルプスも見渡せる美しい集落でした。街道沿いの家の前を流れる、石組み用水も風情のあるものでした。

  

畑で働くお年寄りに少し話をききました。青柳の集落の3か所の出入り口には、オジョロ様、サンペイ、ウタノスケという3匹の有名な狐が住んでいて、夜になると村の中心地に集まって踊りを踊ったりしていたとのことです。狐の伝承が色濃く、昔は2月今は3月に、村でまつる里坊稲荷の祭りをおこない、昔は素人芝居などもして盛んなものだったといいます。そして、7年に1度は狐の嫁入り行列をしているそうです。それを見に来ればよかったのにと、大変残念がられました。集落の出入り口、つまりは人界と自然界との境に名のある狐が住んでいたとの伝承は、人と自然との媒介者としての狐の役割をよく現わしています。狐に化かされたとか悪さをした、あるいは狐に助けられたとかの話はないか聞きましたが、ないねえとのことで、80を過ぎた話者の方でしたが、既にそうした伝承は失われていました。もう1つしみじみとしてしまったのは、村には清長寺という寺があるのですが、行ってみると無住で荒れていました。結構大きな寺なのにです。聞いてみると、無住になってから本尊は盗まれたとのこと。葬式には、本寺の碩水寺から坊さんがくるとのことでした。人口が減って年寄りばかりとなり、寺を支えきれないようです。ムラにある寺の多くは、近い将来こうなっていくという姿を見るようでした。

 

 

 


『あんぽんー孫正義伝ー』読了

2013-10-04 19:39:53 | その他

3.11後多額の寄付をし、自然エネルギー構想、それも東アジアをフィールドとしたエネルギー構想をぶちあげる、孫という経済人が気になっていました。それと、佐野真一がどうやって稀有な人物を料理するのか。東電OL殺人事件、旅する巨人、渋沢家3代、と読んできた佐野真一です。率直に言って、孫さんについては自分の構想が初めからあって、それに取材資料をあてはめていったという印象です。構想の根っこは「血と骨」です。確かに、在日の生き抜いてきたエネルギーはすざましいものですし、そうしなければ生きて来れなかったと思います。友人に在日外国人教育、とりわけ在日を公務員に雇うように運動しているやつがいますが、孫が日本の教育者になろうとして国籍条項であきらめ、アメリカ留学したことには心をうたれました。
この国の政治家も経済人も、孫ほど被災地とこの国の未来について考えてはいないと思います、豚小屋と闇焼酎の匂いの中で、そうした志の根はできたと繰り返し佐野は書きます。そして、孫の親族姻族の血の濃さと情の濃さ、破天荒な生き方。強烈な上昇志向が、起業家には必要でしょうが、在日の持つなにくそという負けじ魂が、ソフトバンクを大きくしたのでしょう。孫を書いた佐野が、次には橋下を書きたくなったという気持ちもわかる気がします。と同時に、本書にみられる佐野の筆致のある種の「鼻持ちならなさ」、取材を解釈する自分がいかに高みにいるのかをひけらかすような「危うさ」も感じたのです。つまり、その危うさが、橋下について書きすぎた、つまり解釈を書きすぎてしまった問題となったのでしょう。自分は、佐野の橋下について書いたルポは読んでないのですが。以来筆を折るような形となった佐野は、今どうしているのでしょうか。 


カミコウチのこと

2013-10-03 11:58:57 | その他

市民割引を使って、上高地で1泊し散策してきました。10月とは思えぬ暖かさというより、汗ばむ暑さでした。寒さ対策を考え、冬の下着など持って行ったのですが、全く必要なかったのです。夏が終わり紅葉には早いという端境期で、ホテルはすいていました。それでも、梓川畔を歩く人はけっこういました。端境期の平日でも、観光客はいるのです。日本人は中高年がほとんどで、あとは外国の人々、中国語を話す人が多かったように思います。

  

江戸時代に書かれた「信府統記」では、上河内となっておりますし、明神池のほとりにある穂高神社奥社では、神降地と表記してありました。この表記はあまりに我田引水なと思いましたが、池と明神岳を見ると神が下りる場所と思っても不思議ではないなと納得させられたりもしました。

  

行政では松本城ばかりクローズアップさせますが、グローバルな観光地としては上高地の方が上だと、今回は感じました。今回はというのは、これまでの上高地は引率という仕事でばかり行きましたので、ゆっくり自然を堪能するゆとりがなかったのです。