民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

J君に会う-last-

2015-06-29 10:25:23 | 教育

 僕今の会社で3つ目です。大学出てからまだそんなにならないのに3つ目の会社だなんていうと、日本なら何やってんだといわれますが、アメリカでは当たり前です。ずっと勤めていたら給料は7パーセントくらいしか上がらないけど、会社をかえると30パーセントくらい上がります。そうやってステップアップしていきます。大学卒業して就職するときに、いくつもの会社にレジュメ(?)を送りました。その中で、すぐ反応してきたのは日系企業でした。就職できなかったら困りますから、それに応じました。今は日本国籍で労働ビザで働いていますから、今後転職しようと思っても日系企業にしか行けません。だから、もっと選択肢を広げるためにアメリカの永住権を取ろうと考えています。一時はアルゼンチンに就職しようかと思いましたが、日本人が南米で管理職しようとすると、働く感覚が違うから苦労するのでやめたほうがいいと知り合いに助言してもらってやめました。

 私たちは、排他的な日本には帰ってこないほうがいいから、アメリカの永住権をとるのは大賛成だといいました。そして、アメリカで家を買ってお父さんとお母さんを呼び寄せればいいよ、とも伝えました。今のJ君ならきっとそれは可能だと思われました。

 別れ際にアドレスを教えてさよならをしました。翌日彼から次のメールが届きました。

今日はごちそうさまでした。
久しぶりに面会できて、本当に良かったです。
21年ぶりでしたので、どんな話したをしたら良いのか心配でしたが、色んな思い出をお2人とと共有できて嬉しく思いました
また、機会があったらお会いすることを期待してます。

 様々な思い出を胸にJ君は奥さんと北米に帰ってゆきました。


J君に会う3

2015-06-28 20:11:44 | 教育

 さっき言いかけたんですけど、先生に教わった一番のことはコッカです。先生は卒業式の前に、日本は戦争でまわりの国々をひどい目に合わせた。その時聞いた君が代を今聞くと、いやな思いをする人々がいる。だから、歌いたくないと思った人は歌わなくてもいい。起立したくないと思ったら起立しなくてもいい、といいました、こんなことを(今いる)アメリカや(生まれた)アルゼンチンでいったら、なんてやつだと思われてしまいます。でも、その時先生の言葉を聞いて、自分がしっかりした考えをもてば周りに流されなくていいんだと思いました。これは、今でも思い出して励まされる、教えられる言葉です。

 J君たちのクラスは自分の最後の担任するクラスかもしれないと思っていました。3年間社会科を教える中で、私の考えもわかってもらえるのではないかという予想もありました。そして、当時法で罰せられる人がいたかどうかは不明ですが、「日の丸」「君が代」問題というのは、ずっと私の心にひっかかっていました。初任で教師となって以来ずっと思っていたのは、クラスという同調圧力をできるだけかけたくないということでした。一人一人が大事で、人まねはできるだけしてほしくないということです。それは、クラス至上主義といったものから一歩ひいていた自分の中学・高校時代の生き方でもありました。例えば、給食は無理に食べさせないとか、一斉に給食を終わりにしないで、個人ごとに食べ終わったら昼休みにするなどといった、まとまりのないクラスだといわれるような規律に現れていました。だから、何が何でも「君が代」を歌えとは生徒に言えませんでした。もちろんJ君というマイノリティーがクラスにいるということも、歌っても歌わなくてもいいといった私の生徒への話にはありました。もちろん、本当に起立せず歌わない生徒がいたら、大きな問題となって自分は処分されるかもしれないという幾分かの怖れとそれでも自分に嘘はつけないという思いもありました。そして、当日は起立しない生徒はいませんでした。(そんな話は一切しなかった我が娘は、このクラスの前後の年に中学を卒業したのですが、一人だけ起立しなかったらしい)
 この件は私の自己満足のようなものだったろうと思い、ずっとそんな話を卒業する生徒たちにしたなどとは忘れていました。ところが、卒業以来にあったJ君が3年間でたった1度だけ話したことを、20何年たっても覚えていてくれて、今でも生きる支えになっていると話してくれたことは、本当にうれしいことでした。あのころはまだ、隠れもしないでおおっぴらに生徒にそんなことを話しても許されたのですが、これからはどうなるのでしょうか。既に、東京都では処分された先生方が随分前からいます。

 私はイデオロギーで君が代に対処しているわけではありません。何でも一律にこうやりなさいと教える事、そして自分がやることがいやなだけです。今の世の中です。一人一人の生き方の自由くらい尊重されて当たり前ではないでしょうか。 自由に生きることで、人は自分の力を発揮することができる。それを、J君のこれまでの人生が証明していると思います。


J君に会う2

2015-06-27 08:13:49 | 教育

 今も歴史の教科書だけは捨てられなくて持っています。先生の授業でよく覚えているのは、学校で処刑されたって話

 江戸時代の農民統制の授業では、松本藩を揺るがした加助騒動を題材にした単元をしくみました。というのは、その学校を建設しようという造成中に人骨が多数出土し、それが加助騒動で処刑された人々の者であったからでした。処刑の仕方とか先生詳しく話してくれたね、とJ君はいう。中学生には、ましてアルゼンチンで育ってきたJ君にはショッキングな話で印象深かったのかもしれません。江戸時代は中2の終わりころに学んだはずですから、その頃には彼は授業での日本語がかなり理解できるようになっていたことを意味しています。でもその先の彼の話は、しっかりはわかっていなかったのかと思わせるものでした。

 嫁さんを案内して松本城へ行きました。そこで英語の説明を聞きました。そして、中学の時の聞いた先生の話(処刑の話)とつながって、ああそうだったのかとわかりました。

松本城でどんな英語の説明がなされているのかわかりませんが、20年間も私のいったことを覚えていてくれたのもすごいですが、しっかり理解できないままだったとしたら、申し訳ないことでした。申し訳ないといえば、いくつか彼に聞いてみたい事、今どう思っているのか知りたいことがありましたので尋ねました。

 J君が卒業して高校に行くとき、君とお父さんはサッカーの盛んな私立のM高校への進学を望んだけど、担任としてはあまり賛成できなかった。たまたまM高校への進学はうまくいかなくて、公立のA高校へ入学したけど、私はそれで良かったと思ったけど、自分ではどうだったの?

 そうですね。あのころは若かったから周りが良く見えなかったのです。自分も良かったと思います。

 中学校を卒業したら前だけを向いて進めばいいのだからと思って、卒業生に対してはいつもそうだけど私からは連絡をとらなかった。多分そのことはわかっていてくれて、J君は高校生になってからT先生には会ったようですが、私とは会いませんでした。だから、進学後のことは初めて聞いたのですが、A高校から大阪外国語大学を受験したが失敗し、浪人するならアメリカで語学研修をとアメリカにわたり、そのままアメリカの大学に進学したのだという。高校時代は商社にでも就職したいと思っていたから、今のようにアメリカの大学で情報工学を学んで就職するなどとは、まったく想像していなかったといいます。もう一つ聞きたかったのは、あの文化祭事件でした。あのときどう思っていたのかとききますと、すぐ見せてくれたのが右手の拳。骨が折れた所が、変形したまま少し盛り上がっていました。ああ、なんということでしょう。彼は笑顔で見せてくれたのですが、そしていったのは、

 あの時、クラス展示をよくしようと頑張ってるのに、何で先生に怒られたのか全くわかりませんでした。

 そうだったのか、それで腹をたてて壁を殴ったんだ。丁寧に説明しなくて申し訳なかった。あの時は、学校全体で、学年全体で余分な教室の飾りつけはやめようと申し合わせてあったんだ。そのことを話したのに、J君は何度もクラスを飾ろうとした。だから怒ったんだ。十分に説明しなくて悪かったね。

そうだったんですか。初めてわかりました。このことは嫁(彼はどうしてか最近の日本の風潮を心得ていて妻を嫁と呼んでいました)にも何度も話しました。

 別に恨んでいたというではなく、本当に理解できなかったことが20数年後に解決したというふうで、爽やかな笑顔での彼の対応でした。その次に、彼から「先生に教えてもらった1番のことは」と話してくれた内容は、自分の教員人生も無駄ではなかったと思わせてくれるものでした。それは次回。

 


J君に会う1

2015-06-26 21:02:34 | 教育

20数年ぶりの出会いです。いったい何から話したものかと、少しドキドキしていました。ところが、だんだん話してみるとJ君も同じ思いだったようです。2時間ばかりビールを飲みながら、家庭教師をお願いしていたT先生と一緒に話をしたのですが、それはよくできた小説のような話でした。私にもっと文才があればと思うのですが、ともかくありのままに書いてみます。

 勤め先に近い小学校にJ君のお母さんを訪ねたことから、この話が始まったというのは既に書きました。それでも実際に会うまではどんな風貌になっているのか、日本語はどれくらい理解できるのか、幾分かの惧れをいだきながら迎えに行って車に同乗してもらって駅前まで来てもらったT先生と、J君が現れるのを待ちました。駅前では、うまく落ち合えるか心配して来ていたJ君のお母さんとまず会いました。彼は今日はフランス人の奥さんと二人で、上高地の散策に出かけて待ち合わせの時間までに帰ってくるというのです。どこから現れるかわからないままに別の方を見ている間に、二人はお母さんと話していました。風貌は中学生のころと変わりません。後から聞いたところによると、一時すごく太ってしまい、食事制限と運動で17キロもやせたのだそうです。そして、顔つきは随分と柔和な落ち着きをたたえていました。それを自信といってもいいかもしれません。言葉づかいも丁寧です。とても長くアメリカで暮らしているとは思えません。日系企業に勤めているから、日本語は使っているのだそうです。おまけに、後で話してくれたのですが、国語を中心に個人指導をしてもらったT先生に教えてもらって今も覚えているのは、日本語には同じことを伝えるにも幾つもの言い方があるから、それでいいのか考えなさいというもので、今も仕事でレポート書いていていやになったりしたとき、この言い方でいいかどうか、じっくりと考え直すというのです。それで慎重な言葉づかいになったんだなと思いました。

どんな奥さんかなと思っていましたが、質素で落ち着いた人でした。雰囲気は日本人のようなフランス人なのです。フランス人の知り合いなどいないのにおかしな表現ですが、そんな風に感じたということです。「こんにちは」などと、私は間抜けなことをいいました。後で、英語でせめて挨拶くらいはすれば、日本の学校の先生も教養がないなどと思われないのになどと反省しました。

J君はお母さんとはスペイン語で、奥さんとは英語で何か話し奥さんはお母さんと行動するということで、J君と私とT先生の3人は近くの居酒屋へ移動したのです。J君は奥さんの実家をフランスに訪ね、義理のお父さんと英語で話したが、英語で話すのは疲れるからいつになったらフランス語で話してくれるかといわれ、フランス語の勉強を始めたけれど3か月で挫折したといいます。今だってJ君は、スペイン語、英語、日本語が話せるのですから、必要になればきっとフランス語だってじきに話せるのでしょう。


人文科学の軽視と近代の終焉

2015-06-23 12:05:08 | 政治

 先日久しぶりに会った友人と杯を傾けました。酔いがまわって座がうちとけたころ、あなたは窪田空穂についてどう思うかと質問されました。そこで、時流に迎合しないリベラルな歌人だというようなことをいいました。すると、らしくもない、すっかり取り込まれてしまいましたね。空穂は郷土のために何をやってくれたのですか、何もしなかったじゃりませんか。地方で地方人が民俗学することの意義を唱えてきたあなたが、どうしてそんな評価をするのか。といった批判を受けました。確かにそうですが、空穂は明治10年の生まれです。もっとも柳田も同じような世代でありますが。当時の文学者の大きな課題は、家を中心とした封建遺制(なつかしい言葉ですね)と戦いながら、どうやって自我を確立するか、自己実現するかといったことであったはずです。島崎藤村も田山花袋も窪田空穂もそうだと思います。当時のイエ、地域社会は個人に優先する物としてあり続けました。イエを継ぐ、ムラを存続させるためなら個人を犠牲にすることなど何とも思いませんでした。戦前に教育を受けた人々は、しっかりそうした思いを埋め込まれています。93歳になる母と話していていつもうんざりし、声を荒げるのはそうした感覚をあたりまえのこととして口にするときです。世間では全く意味をなさなくなった、イエとかムラとかが頭の中、心の中には強硬に生き続けているのです。父と母が無から獲得し作り上げたイエに私が帰らない、帰らなかったことへの恨みはずっとあるようです。しかし、ムラで生活しようとは自分は思えません。

 もっと政治的意味があるといわれればそうでしょうが、個の確立のために前代の制度を破壊する道具として、あるいは希望としてマルクス主義はあったと思います。今時マルクスなどといえば、何と時代遅れの頭かと言われるでしょうが。大きな歴史を指し示す思考の枠組みを提案できる学問として、マルクス主義はありました。しかし、連合赤軍事件、ソ連の崩壊などでマルクス主義は全く信頼を失い、大きな歴史を唱える枠組みはなくなったきり展望がありません。一方、封建遺制といわれた「イエ」や「ムラ」は、戦わずして崩れてしまいました。戦ったわけではありませんから勝利宣言もなく、気が付いたら無くなってしまっていたといったありさまです。イエがあることが当たり前として育った戦前生まれの庶民と、そんなものに捉われることすら考えられずに育った現代人との間には、埋めようのないギャップがあります。イエやムラは意図して壊したのでなく、知らないうちに無くなってしまっていて、かといって強固な自我も獲得できず、新しい価値観も歴史の枠組みも提案できず、私たちは宙ずりのままでいます。近代は終わってしまったのに、現代が見えないのです。本来は人文科学が何か示さなければいけないのに、何も見せることができないでいるのです。

 そこに人文科学が軽視され、予算を配分しないと政治家に恫喝されたり、一昔前の価値観にオブラートをかけて持ち出してくる胸糞の悪い言葉をはっきり拒否できない原因があるような気がします。母親と話していてどうしてこんなに腹が立つのか、うまく説明できませんが、自分の苛立ちは単にうまくいかない母子関係という個別の問題でなく、説明を困難にしている時代状況があるように思われるのです。


霊感の強い人

2015-06-08 15:10:11 | 民俗学

今も昔も、床屋(これはなぜか差別語らしく理容院というのだそだが)には世間の面白い話が集まるようです。行きつけの店では、話し好きな店主がお客さんから聞いたという噂話など、本当ですかと聞き返したくなるような話をしてくれます。たまたま今は、結構昔の出版ではあるが、小松和彦『妖怪学新考』(小学館)を読んでいたら、本に引き寄せられたような話を聞いたのです。その前に、関連しそうな記述の部分を先にあげておきます。

 都市の「闇」空間は、都市の住民にとって恐怖を感じさせる空間であるが、そうした恐怖・不安空間には都市民の多くが抽象的なレベルで共有する空間がある。ここで「抽象的」といったのは、私が具体的にイメージする場所と、読者がそれぞれ思い浮かべる具体的な場所が違っているからである。
 その一つは、「死」に結びついた空間である。墓場、病院、廃屋、交通事故などのあった場所がそうした場所である。もっとも、交通事故のあった場所はそれを知らされるまではそのような場所と思わない所であるので、その他とは少し異なるといえるかもしれない。そこが死と結びついた場所となるためには、それを伝える伝承の共有が必要である。それを共有しない人にとっては、特別の場所、恐怖を喚起する場所ではない。

 霊感の強い人っているんですね。女房の知り合いの子どもが、高校生なんだけど、見えないものが見えちゃうだって
事例1 市の南部に鯉屋さんあるの知ってます。その近くの家の前を通ると、いつも小さい子どもが遊んでいるのをみるんだそうです。それで不思議に思って聞いてみると、確かにそのうちの前で交通事故にあって、小さなこどもが死んでしまったそうです。その時の着ていた服が見える通りなだってせ。
事例2 国道ばたのK中から西の方へ行く道ありますね。そこを少し行ったところに、産婦人科の病院があります。あそこは、どういうわけか一度開業したけどつぶれてしまって、長い間空き家になっていたけど、そこがまた開業した。そこの2階にね、通るたびに黒い服を着た女の人が外を見ているのが見えるんだって。それで聞いてみると、確かにつぶれる前にそこの2階には精神的におかしくなっちゃった人がいて、いつも黒い服をきて外を見ていたってせ。
事例3 S病院の前の道を東へくると、橋がありますね。その橋のたもとに、上の道から川端に降りていく階段があります。そのあたりには、いっぱい座っている人が見えるんだってせ。大勢見えていやだから、その子はその道はいやがって通らないっていいます。

 事例1は交通事故の場所につく霊、事例2は空き家だった家につく霊、事例3は病院近くの橋につく霊と説明できるが、多くの人がその場所を共有するような伝承性はないのです。また、見えてしまう高校生の子は、そのことをいやがっている、つまり自分にだけ見えてしまうことに違和感を感じているというのです。しかも、伝聞の伝聞ではなく、床屋さんに聞けばその子は特定できるでしょう。恐がりの自分としては随分怖い話ですが、3事例とも説明はつく徴つきの場所ですね。私の住むような地方都市の都市伝説です。 


ニュースの見方聞き方

2015-06-08 10:30:55 | 政治

テレビやラジオでニュースを聞こうとすると、どうしてもNHKとなってしまう。こちらが聞きたいという時間とマッチしているのが、NHKだということです。そうすると、漫然と聞きながらも、ニュースを報道しようと選んだ意図や報道の仕方を詮索しているのです。大本営発表だけ聞いて、私たちは知らなかったとうそぶくことはできませんから、もう少し広い視野からニュースも取捨する必要があると考えるからです。それは人のいいなりになるよりも、ずっと良いことだと思いますが、正直疲れます。そんなNHKのニュースの聞き方をしていて、最近気になるのはアナウンサーの読み上げるニュースの文言に、「安倍総理大臣は~」という主語が、必要以上に頻繁に現れることです。正確には数えていませんが、一つの文脈に10回以上あると思います。「安倍総理大臣は」「安倍総理大臣は」と、何度も何度も聞かされると、総理大臣は「安倍」だと刷り込まれていきます。それから、必要以上に安倍の肉声が流されます。こうやって総理大臣は安倍であることが普通だという感覚を、知らず知らずに作り出しています。それも、国民から有無を言わさずに集めた視聴料というお金を使ってです。NHKの会長に不満をもつ人は多いが、NHKそのもには目立って不満をもたず、聴取料の不払いも起きていないというのはどうしてなのでしょうか。かくいう私も、口座引き落としで、自動的に払ってしまっているのですが。あまりに民法の番組がつまらない、安上がりなバラエティーばかりだというのも、NHKを見る理由ではあります。

洗脳されないように用心しつつ、仕方なくNHKを見る・聞くというのがこれからも続きます。


選挙年齢の引き下げ

2015-06-05 18:20:12 | 政治

 選挙年齢が18歳以上に引きさげられます。こいつをどう評価すればいいのでしょうか。つまり、民意を政治に反映させる上で喜ばしいことだなどとは、単純に喜べないからです。なぜなら、現政権は民意をきき、それに従おうなどという考えは全くないように思われるからです。民意に従うどころか、自分の考えに民意を従わせる、「総理大臣の私が言うのだから間違いはない」といった発想です。

では、なぜこの時期に選挙年齢を引き下げるのか。今までのやり口を見ていると、最終目標である憲法改正にとって有利だとの判断が働いているのでしょう。ここからが難しいところで、なぜ有利になるか、有利にさせないために私たちはよく考えなければなりません。

 18歳といえば高校3年生です。高校生が投票するから、政治教育が大切だと一部マスコミではいっています。確かに政治教育は必要ですが、これまでは偏向教育だと、わずかな隙をついて攻撃されそうで、政治教育を避けてきたのが大方の先生方の実情ではないでしょうか。政治教育が必要だからと、一票の格差、平和主義と集団的自衛権、基地問題、各政党の現憲法への評価などを授業で扱うとして、現憲法を遵守すべき公務員として落としどころは現政権とは異なってきても当然です。そうしたとき、先生方の地位はきちんと保全されるのでしょうか。それとも、はっきりと立場を表明させて、教員の色分けをして処分しようとするのでしょうか。これは、もう一つの日の丸・君が代問題で、一石二鳥の踏み絵になると自分には思えます。きっと処分される先生がでて、多くの先生たちの腰がひけて現状容認の政治教育となり、政権にとっては羊を手に入れたようなものとなってしまうのではないでしょうか。

大学の立て看板が林立していたら、絶対選挙年齢の引き下げなどといった発想はなかったでしょう。


フィールドと書物

2015-06-05 18:17:56 | 民俗学

フィールドと書斎との往還によって民俗学は構築される」といったことを、何度か書いてきました。そんな思いをまた実感したので書きます。

 大岡へ行って、山の中には山の中独自の文化があるのではないかと思いましたが、そんな思いで読みかけの、宮本常一『山に生きる人びと』を読み進めると、こんな記述に心が動きました。

 野では早くから電灯が煌々としてついているのに山間ではランプのままであるということは山間に住む人の心を暗くした。それよりも何よりも、山にいては子供たちを学校へ十分に通わせることができない。小中学校の永欠児童のうち、親の職業を見ると林業とある者がもっとも多かった。その大半は杣と炭焼にしたがっているのであろう。そういうところには分教場もない。かりに学校へ通わせるにしても、二里三里の細道を歩かせなければならない。山中にはそういうところが多い。

 宮本常一がこれを書いたころとは状況が大分変ってきているが、限界集落といわれ若い人が流失したムラの事情で、子どもの教育環境は大きなものだろう。集落の子どもの減少が更に子どもの減少に拍車をかけている。新小学校ができて数年の四賀地区では、保育所の子どもが数人の世代がでているという。小中はまだしも、高校へ通うのに莫大なバス代を払って数本のバスにするか、保護者の送迎が必要とあらば、親ならばもっと選択肢のある便利な土地へと考えて当然です。そこに暮らしもしない部外者のノスタルジーで、山の村の暮らしを守ってくださいなどとは言えません。リアリストで生活の改善とそこに住む人々の幸せを願っていた宮本常一は、ムラがなくなることも已む無しと思っていたことでしょう。

 また、私の修験者妄想を裏付ける、つぎのような記述もあります。

 おそらく、中世にあっては山伏が山間交通のためにつくした功績は大きいものがあったのではないかと思われる。東北地方の山中にのこる数多くの山伏神楽のごときも、山伏がこれをもたらしたというだけでなく、山伏もまたそこに住み、村人にとけあっていたからであり、さらにまたこの仲間の往来が頻繁で、単に近傍への荷持ちをしていたばかりでなく、羽黒・熊野への旅もくりかえしていたようである。秋田県檜木内には、今も法螺祭文がのこっているが、これは村の何某という者が熊野からならって持ってきたものであるという。何某が山伏であったという伝承はないが、術を使って稲架の棒杭のさきをピョンピョンととび歩いたという話があるから、山伏の仲間だったのであろう。村にあっては農業にしたがっていたが、そのかたわら大覚野峠をこえて、その北側の阿仁の谷との間の荷持ちをしていた。

 ここに私は山の村を結び文化を持ち運んだ宗教者の姿をみつけ、今や忘れ去られた地域名である嶺間(れいかん)の文化的結びつきを夢想するのです。

 といったことで、野で見て書物で見て、インスピレーションが深まるのです。

 


見える物と見えないモノ

2015-06-01 16:38:39 | 民俗学

土曜日に、長野県民俗の会の例会で旧大岡村(現長野市)へ行って、石造物を見てきました。大岡の石造物は数が多く、素朴な像様で素人が彫ったのかと思わされました。山や岩の上に祀られていたりして、さすが大岡だと思わされました。ところが、こころひかれたのは聖山が南北の分水嶺となっているということで、戸隠のような水分り信仰がみられたことです。正月に、聖山を水源とする村々の代表が高峯寺に参拝し、護摩をたいていぶした柳の小枝にはさんだお札をもらって帰り、田んぼの水口に供えるというのです。修験者が伝承したという仏像や仏器が歴史民俗資料館に保存されていました。また、大岡3000石といい、標高は800メートルと高いが水のあるところはみんな棚田として利用し、想像以上に人口も多かったようなのです。ここから、聖山から出て周辺の村ムラを仏像を納めた木箱を背負って白装束で跋扈する修験者の姿を夢想したのです。犀川と千曲川にはさまれた大岡、麻績、生坂、坂北、本城、青木、四賀などの旧村は現在は人口減少が続き、限界集落の連なりのように思ってしまいますが、鉄道が普及する以前は、尾根道を通じて意外に近く、高地としての一つの文化圏を形成していたのではないかと思われます。その指標の一つは、藁人形ではないかと思うのです。藁で作った人形に厄をくっつけて流す、あるいは焼くといった行為が、この辺りに点々とみられるのです。人形に厄を背負わせるという、何かオドロオドロしい考えは、修験が持ち歩いた考えではないかと想像するのです。大岡で藁で道祖神を飾るという習俗は、比較的新しく明治になって創作されたものではないかといいますが、そのバックボーンとして、藁で人形を作るという文化圏があったのではないかと思うのです。

私たちは平らで見渡せるとこばかりみて、そこに文化圏を設定しがちです。そして、その中心に都市・町を置く。もちろん文化は高い方から低い方に流れるといいますから、そうしてできた文化圏はありますが、そればかりではないと思うのです。いくつもの山の中の村が信仰の力で結ばれて、文化圏を形成することだってあるはずです。現代の交通の便利な場所ばかりが結びついていたと考えるのは、今見える物だけを見ているのであって、見えていないモノが他の場所に実はたくさんあるのです。見えないモノを見るのは、必ずしも行者だけに可能な仕事ではないはずです。本当の学問は一般の人には見えないモノを、見える物にすることだと思うのです。