今も歴史の教科書だけは捨てられなくて持っています。先生の授業でよく覚えているのは、学校で処刑されたって話
江戸時代の農民統制の授業では、松本藩を揺るがした加助騒動を題材にした単元をしくみました。というのは、その学校を建設しようという造成中に人骨が多数出土し、それが加助騒動で処刑された人々の者であったからでした。処刑の仕方とか先生詳しく話してくれたね、とJ君はいう。中学生には、ましてアルゼンチンで育ってきたJ君にはショッキングな話で印象深かったのかもしれません。江戸時代は中2の終わりころに学んだはずですから、その頃には彼は授業での日本語がかなり理解できるようになっていたことを意味しています。でもその先の彼の話は、しっかりはわかっていなかったのかと思わせるものでした。
嫁さんを案内して松本城へ行きました。そこで英語の説明を聞きました。そして、中学の時の聞いた先生の話(処刑の話)とつながって、ああそうだったのかとわかりました。
松本城でどんな英語の説明がなされているのかわかりませんが、20年間も私のいったことを覚えていてくれたのもすごいですが、しっかり理解できないままだったとしたら、申し訳ないことでした。申し訳ないといえば、いくつか彼に聞いてみたい事、今どう思っているのか知りたいことがありましたので尋ねました。
J君が卒業して高校に行くとき、君とお父さんはサッカーの盛んな私立のM高校への進学を望んだけど、担任としてはあまり賛成できなかった。たまたまM高校への進学はうまくいかなくて、公立のA高校へ入学したけど、私はそれで良かったと思ったけど、自分ではどうだったの?
そうですね。あのころは若かったから周りが良く見えなかったのです。自分も良かったと思います。
中学校を卒業したら前だけを向いて進めばいいのだからと思って、卒業生に対してはいつもそうだけど私からは連絡をとらなかった。多分そのことはわかっていてくれて、J君は高校生になってからT先生には会ったようですが、私とは会いませんでした。だから、進学後のことは初めて聞いたのですが、A高校から大阪外国語大学を受験したが失敗し、浪人するならアメリカで語学研修をとアメリカにわたり、そのままアメリカの大学に進学したのだという。高校時代は商社にでも就職したいと思っていたから、今のようにアメリカの大学で情報工学を学んで就職するなどとは、まったく想像していなかったといいます。もう一つ聞きたかったのは、あの文化祭事件でした。あのときどう思っていたのかとききますと、すぐ見せてくれたのが右手の拳。骨が折れた所が、変形したまま少し盛り上がっていました。ああ、なんということでしょう。彼は笑顔で見せてくれたのですが、そしていったのは、
あの時、クラス展示をよくしようと頑張ってるのに、何で先生に怒られたのか全くわかりませんでした。
そうだったのか、それで腹をたてて壁を殴ったんだ。丁寧に説明しなくて申し訳なかった。あの時は、学校全体で、学年全体で余分な教室の飾りつけはやめようと申し合わせてあったんだ。そのことを話したのに、J君は何度もクラスを飾ろうとした。だから怒ったんだ。十分に説明しなくて悪かったね。
そうだったんですか。初めてわかりました。このことは嫁(彼はどうしてか最近の日本の風潮を心得ていて妻を嫁と呼んでいました)にも何度も話しました。
別に恨んでいたというではなく、本当に理解できなかったことが20数年後に解決したというふうで、爽やかな笑顔での彼の対応でした。その次に、彼から「先生に教えてもらった1番のことは」と話してくれた内容は、自分の教員人生も無駄ではなかったと思わせてくれるものでした。それは次回。