民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

蔵書をいただく

2013-07-30 20:53:36 | その他

旧知の倉石先生に、別荘に送った、大学の研究室に置いてあった蔵書を整理するので、ほしい本があればあげるからおいでとお誘いをうけ、本日参上しました。自分の蔵書を処分しながらまた本をいただく、増やすのはどうかとも思いましたが、持っていない専門書はほしくなります。それにしても、この時期皆さん蔵書を整理しているのが重なっているのが妙です。よもや話の後、本を見せていただきました。できるなら、私の持っている本を除いて全てをいただいて帰りたかったのですが、自分の所蔵スペースもあります。自分の今の関心と、書名だけ聞いていながら買ってなかった本を中心に、選ばせていただきました。民俗学関係で、こんなにも本があるのだと背表紙を見るだけで感心させられました。

研究者それぞれの蔵書は先々どうなるのでしょうか。あるいは、どうなっているのでしょうか。図書館などでまとめて引き取ってくれ、〇〇文庫などと一括保存活用を図ってもらえるのが最善なのですが、なかなか図書館の保存スペースがなくて断られる例が多いようです。そのくせ、図書館には専門書の類は少なく、研究しようと思ってもできる量ではありません。これから先自分も、処分方法を考えながら蔵書を増やすというのは難しいことです。

今日もそうでしたが、今月来月と、旧知の皆さんと顔を合わせて話ができる機会が続きます。これも退職がなせるご褒美のようなものかと思います。来月は、わが子たちがお世話になった保育園での講話や、初任で担任した生徒たちの(みんなおじさんおばさんです)同級会、そして自分の小学校の同窓会と続きます。


信州白樺に連なる人々

2013-07-29 17:17:27 | 歴史

30年も前に同僚であり、1年間下宿でご一緒したT先生を訪ねた。T先生は近代史、とりわけ教育史を専門とされて県教育史、県史の編纂に携わってきた。今回お会いしようと思ったのにはわけがある。私の実家の近くに住んでいて大変お世話になりながら、いつでも会って酒も飲むことができると安心し、日々にかまけてなかなかお会いしていなかった先生が、肝臓を悪くして数カ月で逝かれてしまった。病院に見舞ったときには、もう意識がなく話すこともできなくて、痛恨の極みであった。以来、会おうと思った人とは会っておかないと、自分も含めて明日のことはわからないと思うようになった。T先生に今回お訪ねすることを告げると、民俗学関係で私に譲る本を用意して待っていてくれるという。


T先生は大学時代、有賀喜左衛門の研究室に属していた。しかし、地主制度の研究にはさして面白みを感じなかったようだ。大学を卒業すると郷里に帰って教員になりたいと有賀に告げると、有賀の義兄弟の池上隆祐のつてでF高校への就職が決まったのだという。そこまではきいていたが、今回うかがったのは奥様が信州白樺に深くかかわった高津作吉の血縁に連なる方であるということだった。そして、結婚式に出席できないからと、やはり白樺に深くかかわった有賀がくれた温かな祝いの言葉も見せていただくことができた。有賀、池上、高津、おまけに二人の仲をとりもつのに小原福治の名前まででてきた。教育史を専門とするT先生の人生そのものが、信州の教育史を体現しているのではないかという気がしてくる。そんな話をしていると、赤羽王郎のガリ版刷り『南東日記』が出て来たり、菅江真澄遊覧記の和綴じ復刻本が出てきたり、話題になったものが次々と手元に登場する。談論風発でとどまるところがなく、こちらものせられてしゃべりまくる。中でも異彩を放ったのは、T先生の祖父 文太郎の逸話である。乞われて萩の小学校長に招かれ、教員になった維新の士族で膠着した人事を刷新するため、半年で職員の半分の首を切って信州に逃げ帰った話、豊科の小学校で校長派と教頭派に分かれた教員の首を切った話、酔っぱらって料亭で同席した校長をなぐりつけた話。それらが世間に語り伝えられていて、文太郎とはどういう関係かと教員になったT先生が問われた話。これらの関係者の皆さんはとうに亡くなってしまい、今となっては差しさわりもないだろうから、こうした伝説集を作れば面白いと思ったりもした。昔なら伝説、今同じことをしたら新聞ネタかもしれない。
夜中まで語り、1泊させてもらって翌日も朝食をいただきながら話し、帰りがけに本をいただく。それは、高津の蔵書印がある、昭和4年大岡山書店発行の『古代研究』3冊、昭和6年郷土研究社発行『東筑摩郡道神圖繪』 、そして新しいところでT先生が私の民俗学の話に触発されて買ったという、アウエハント『鯰絵』。

読むべき本、学ぶべきこと、面白きことは、まだまだ世の中にたくさんあることを知らされた訪問だった。


日本民俗学会談話会参加ー人と自然と科学とー

2013-07-22 11:36:12 | Weblog

今年の日本民俗学会年会は新潟大学で、「川-水をめぐる対立と融和-」をメインテーマとして開催される。その、プレシンポとして、談話会が新潟で開催されたので、参加してきた。開催趣旨には以下のようにある。

 近年、「現代人の川離れ」といわれ、川と人との親密な関係が失われつつある。一方で、河川の利用やダム建設をめぐる今日的な課題も存在している。このような中、川と人とのかかわりを問い直す必要があろう。
 川の流域では、人間が自然との葛藤の中でどのように対立し、あるいは融和しあってきたのだろうか。川の恵与的側面と阻害的側面という二面性の中で、流域の人々の川をめぐる対立と融和の諸相を考えようとするものである。

プレシンポでは2本の研究発表があった。まず、大熊孝氏から「川とは?-川と人との関係性の復活について-」と題して、土木工学・土木史の立場から、堤防やダムを作ることで人と川との関係性がどのように変化してきたか、その功罪について発表があった。話そのものは誠実な土木関係者がダムを作るについて、どう考えているのか。自然破壊と人間の日常生活の安全とをどのように調和するのかなど、学ぶことは多かったように思われる。しかし、市民運動ではなく民俗学としてどういう視点からそうした動きや葛藤を捉え、位置付けていくのかはそっくり課題として残った。それは、趣旨説明でもっと明確に示すべきものと思われた。次に、山崎進氏が「割地制度と川の民間信仰-信濃川流域を事例に-」という発表をされた。内容は、信濃川流域で繰り返される水害の被害を均等化するために、地租改正あるいは農地解放以前に行われていた「割地制度」と、風土病であるツツガムシを祀った「シマガミサマ」、水害除けの「蛇神様」「龍神様」などについての事例報告だった。これも初めて聞くことが多く勉強になったが、だから人と川との関係にどんなことがいえるのかという結論がなく、だからどうなんですかと問い返したくなる発表だった。

二人の発表を聞いて、対照的な話だと思った。大熊氏は、土木工学という科学の力で川という自然を制御しようとして生ずる様々な問題である。山崎氏は、自然が気まぐれに作り出す川の中州=シマにまで人の開発(桑の栽培だという)が及んだ結果、ツツガムシ、あるいは大規模な水害という制御できない自然からの逆襲を受け、人はそれを祀ることでしか管理できないと知っていたというものである。ありふれた言い方ながら、近代化は人が自然を科学的に管理できるという信念に基づいている。しかし、近代以前の人々は、自然とは統御できないものであるから、だましだまし何とか折り合いをつけていくしかないと思っていたのである。近代以前は、自然という大きな範疇の中に人と人為(科学)が入っていたが、近代以降は、人為(科学)という大きな範疇の中に、人と自然とが含まれると考えられるようになったのである。 そもそも、白河法皇がいうように、賀茂川の流れはどんな権力者でもどうにもならないもの、人智の及ばぬものと人々は考えてきたのである。だから、川にかかわる人々はアブナイ人々として畏れられ蔑みも受けてきた。川の中州の竹を切り、箕などを作って売り流浪する人たちがいた。また、彼岸と此岸に例えられる川の向こうとこちらを、船をあやつってつなぐ人たちがいた。いずれも、定住しないこと、所有地がないことで差別を受けていた。割地は負担の公平性もあるが、そもそもは人の所有を許さない土地であったのかもしれない。
これは自然についての哲学の問題である。人が自然を統御できるとするか、無理だとするか。出発点が違えば、その先の手筈も異なる。川もそうだが津波もそうである。政府の見解が減災へと転じたのであるから、われわれも伝統的な自然とのお付き合いの仕方から、もっと学ばなければいけないと思う。 


草との戦い

2013-07-20 20:27:14 | その他

このところ週に2日は畑に出ている。管理機を動かしての草取りが主ですが、うんざりします。畑の半分は何も作ってありませんから、定期的にというか草がはえてきたら、ロータリーを回しています。昔の本職のお百姓さんは、この草との戦いをどうやってクリアーしていたのでしょう。草のもつ繁殖力と根の深さはすごいものです。病的にも思えるほど畑の草を取る百姓仕事は農家の美意識だと思っていましたが、昨年は忙しくてほとんど休日がないため、そんな思いもあって草を全くとらずにいました。そしたら、ネギの苗は絶えてしまいましたし、メロンは果実をさがすのに一苦労しました。そして、アキジマイの草の始末が大変でした。そこで、時間もありますし、今年はあんなことはしたくないと、草の始末も始めたのです。

畑に作物を植えてみて、思うところがたくさんありました。詳しくは後日書くとして、土をどう作るのかということと、肥料をやるのかどうかということが、大きな問題だと感じました。やたらと肥料を施して収量を多くすればいいということはありません。病気になったり虫が着きやすくなったり、ですね。 


地方から

2013-07-17 17:15:52 | 政治

東京で考えたことです。
東京駅は多数の人でごったがえし、地下で昼食の弁当を買いましたが、たくさんあるどの店も、これまたとぶように売れていました。選ぶのに困るほどの店があるにも関わらずです。翌日行った江戸東京博物館でも、外で店を探すのも面倒だから、館内の飲食店で食べようとしたら、2時になんなんとするにもかかわらず、複数の店で人々は並んで順番待ちをしていました。待ってまで食べたくないので、結局また東京駅の地下街で弁当を買って列車のなかで食べました。全国的には人口が減少し、シャッター通りが普通に見られるというのに、東京にいる限りはそんなことはみじんも感じられません。国会議員も官僚も、この東京に住んでいるのです。こんな所にいては、この国で静かに進行している生活の変化について、実感として知ることなど不可能に近いです。また、多数決で多数の納税者の生活と意見に従うのが政治だとするならば、大都市圏でのみ政治は機能することになります。広い地域に散在する有権者など、何の力にもならず、政治への期待などわいてきようもありません。いったいこの国は、どこの方向を向いて進んでいけばよいのでしょうか。

まずは、国会議員の住所を東京から地方のできるだけ辺鄙な場所に移さなければなりません。 


家族と駅

2013-07-16 12:30:18 | その他

子どもたちが、退職祝いをするがどこがいいかというので、海の見える温泉がいいというと、千葉の海辺の温泉をとってくれました。香港に出張の長男を除いて、東京駅で家族が集合してホテルへと向かいました。夕方、羽田から長男が直行し、宴会をしたという次第でした。ついこの間までは、親がセッティングして子どもたちを連れて旅行に行っていたことを思い出すと、月日のたつのは早いものです。翌日は、また皆で東京まで一緒に帰り、そこで解散して私と妻は江戸東京博物館へ向かったのでした。
家族が駅で集合して共通の体験を過ごし、また駅に戻ってそれぞれに分かれる。このことは、レヴィストロースの隠喩をそのまま目に見える形にしていると、感じました。『親族の基本構造』で 世界中の家族の構造を分析した人類学者のレヴィストロースは、家族とは人類史の中での駅のようなものだ、そこで一旦とどまったり乗降客を迎える場所だ、というようなことをいっていた記憶があります。学生のころにこれを読んだ時は、そうなんだと頭で理解していたのですが、この年になり子どもたちも自立すると、確かに家族皆で暮らした時間は駅でのひと時で、それぞれがまた自分の路線に乗って旅立っていくのだと、子どもたちが計画してくれたこの旅を通して実感したのです。


善光寺道を歩く4 -立峠越ー

2013-07-09 11:32:27 | Weblog

いよいよ、念願の立峠越えです。立峠(たちとうげ)は会田宿から乱橋(みだれはし)へと越える、善光寺道では1番の難所といわれるところです。過去には会田の登り口までは行き、何だか道があるのかないのかわからないような景色に、たじろいでいました。本来なら、善光寺に向かうのですから会田から乱橋・西条へと越えてゆくべきですが、そこまでのアクセスの関係から西条まで電車で行き、逆コースで会田に下りてくるコースをとりました。天気は、本格的な梅雨明けとなり、蒸し暑さこのうえない日でしたが、山の中はそれほどでもありませんでした。

   

西条の駅でおりて、中の峠に上り始めると、何やら前方に動く物がいます。タヌキの親子でした。母タヌキに3匹の子タヌキ。あんまり人を恐れる風もありません。それでも近ずくと、溝の中に隠れました。乱橋の集落におりる山に、綿の実道祖神がありました。双体像が握っているのが綿の実だというのです。ここでは、江戸時代から綿の実が多く栽培されたといいます。蚕神様ならぬ綿神様に道祖神がなっているのです。少し下がった所から、善光寺街道が乱橋の集落を横切って立峠に向かう様子がよくわかりました。乱橋はちょっとした隠れ里のようなのどかな小宇宙に見えました。谷のどん詰まりですので、今から調査しても何かありそうです。
  

立峠に上る道から乱橋集落を振り返ると、尾根の向こうの山の中腹に集落が見えます。スキー場や別荘でしょうか。石畳の道などを歩いて、立峠頂上へ。茶屋後の表示はあっても、頂上の表示はありません。かなり広い草原ですが、ベンチもなく休める雰囲気ではないので、そのまま下りました。ここからが、大変な道でした。人ひとり歩けるだけの山道です。獣道といってもよいくらい、細くて急な道です。足跡があり、人かと思ってよくみると、どうも獣のようです。鹿か猪か熊か。道の案内表示もありませんので、道らしきところをカンでくだりました。途中で獣にでくわすといやだなと思いましたが、そんなこともなく会田側の登り口へ到着しました。頂上の表示も不親切でしたが、ここの道路標識は根元が腐って横倒しです。同じ木の標識が、何箇所かで腐って倒れていました。自然遊歩道に指定されたときに補助金で立てたもののようですが、そのメンテナンスがないままに朽ちています。古道を歩くブームであったり、健康づくりに歩くことが推奨されているにもかかわらず、こんなことでいいんでしょうか。周辺部の文化行政の行き届かなさを見る思いです。

   

会田宿に下る途中の、岩井堂で見た磨崖仏の大黒様。岩井堂には磨崖仏のほかにも、幾つもの石造物があちこちに並んでいます。この磨崖仏だけをとっても、この地方では貴重な文化財です。きちんと整備して、保存も図りたいものですが、行政の手はほとんどはいっていません。そんななか、観音堂は多分本山にあたるのか、神宮寺さんによって修復されている最中でした。丁寧な断り書き、神宮寺の高橋さんの人柄を見る思いがしました。そして、会田の宿のはずれにある優美な常夜灯です。


藤森栄一『信州教育の墓標 三沢勝衛の教育と生涯』を読む

2013-07-06 20:20:33 | 教育

終活の1つとして、蔵書の整理をしています。本日、B OFF に持って行ってわかりました。古本の価値はいかに新しく見えるかでした。カバーが破れているものは、売れないとのことです。新しく(若く)見える本を、重さで買っているんでしょう。中味の価値を、店員はどうやって測るのか不思議に思っていたのです。良く考えれば、著者によって値段をかえる、何が価値ある本かなんて、若い店員にはわかるわけがないのです。カバーが破れていて買い取れないと言われた、梅原猛の『隠された十字架』など、それなら持ち帰りますといいかけたけど、持ち帰ったところで書庫の重しになるだけだと判断し、「処分してください」といったのでした。

そんな苦渋な選択の中、発見した本の1つに、藤森栄一著『信州教育の墓標』があります。これは、藤森栄一が三沢勝衛の生涯につて書いたものです。たった1年でしたが、三沢は藤森の担任でしたし、クラブ活動の顧問でもあったのです。三沢勝衛はかねてより関心を寄せていたのですが、藤森栄一と三沢とが、そんな縁で結ばれているとは知りませんでした。というか、自分の蔵書の中にありながら、多分読んではなく、あたかも初めて目にする活字のようでした。藤森栄一について少し書かないといけないかもしれません。藤森は、諏訪中学校を出ただけで大学へはすすめず、アマチュアの考古学者として生涯をおくるも、学界よりも早く縄文農耕をとなえた在野の真の学者です。
藤森は、信州教育盛んなりしころの教員に対する破格の待遇と、それにこたえんとする教員の気概、そうした待遇が崩れて後の教育の崩壊を何度も述べています。そのとうりだと、今の世に思います。全国でも下から数えれれるまでに落ちた長野県の教員の待遇、にもかかわらず信州教育はどこへいったのかという叱咤激励、そして綱紀粛正をお題目にした、誇りの剥奪、これではサラリーマンとしての教員に何がなんでもなりなさい、してやるといわれているのですから、信州教育などといわれたものは、どこにもありません。
もう1つ初めて知ったのは、三沢の臨終まじかの枕元に向山雅重がいって、何やら後事を託されているのです。向山先生は、こうしたことはご自身では語られていないと思います。いったい何を聞き、何をされたのでしょうか。民俗学者 向山雅重の知られざる面があるのではないかと感じました。

三沢勝衛は大学に行かず、検定試験で旧制中学校の教員にまでなった人です。藤森も個性が強い人ですから、先生と生徒の間柄としては親密なものにはなりえませんでしたが、藤森は在野にあってアカデミズムとわたりあった自分の生涯を想ったとき、改めて三沢の影響を感じたのではないかと思います。三沢よりももっと強烈に自分を生きたのが藤森栄一でした。その藤森が、信州教育の墓標を打ち立てたのです。

私は、累々たる墓標の上を歩いてきたのです。 


引き算の人生

2013-07-04 20:27:38 | その他

梅雨空の雨です。いつ上がるともわかりませんので、今日は実家においてある蔵書の片づけをしました。学生の頃いらい、ただ保存してきた本が、そのまま書架につめこまれたままになっているのです。今ではほとんど使うことのない本が、半分近くあります。これまでは本に囲まれていることが誇りであり、安心でもありました。ところが、還暦になってよく考えてみれば、自分が死んだあとこれらの本の始末は、子どもたちにたくさなくてはなりません。仕事をもっているものに、そんな始末をお願いするのは、よけいな仕事です。今のうちに、最小限度とはいわないもでも、資料としても使えないような昔買った本は始末しておこうと思っています。むろん、1日で何とかなるものではありませんが、時間をかけて無駄な本は処理してしまおうと思っています。ところが、書架をひっくりかえすと、なつかしかったり、こんな本をもっていたのかと目次をみたりして思いでにひたってしまったりして、なかなか整理が進みませんでした。しかし、若いころは難しい本も読んでいたなと、自分に感心してしまったのです。
それにつけても、これまではあの本もほしい、この本も置いておきたいという、いわば足し算の人生でした。しかし、これからは、むろん新しい本も買いますが、買った本の中でこれは必要ない、これはいらないといった本をすぐ処分する、引き算の人生を考えなければならないと思ったのでした。 


拡大家族で暮らすこと

2013-07-03 09:53:49 | 民俗学

京都から大阪在住の従兄弟のH兄を訪ねました。H兄には、自分が大学在学中に月に1度はお邪魔して飯を食わせてもらっていました。まさに、栄養補給でしたから、改めて感謝を伝えに行ったのでした。自分とH兄との関係を細かく言葉にすると、誰も書いていない「拡大家族」で暮らすことの複雑な意味が見えてきます。

H兄の父(私にとっては伯父)は、私の父の2つ上の兄で長男です。父の1つ上の兄は戦死しました。私の父と父の妹たちは、実家を離れて勤めることなく同居していました。長男であるH兄の父が結婚し、H兄が生まれてからもそうでした。おじ、おば、甥が同居していたのです。私の父と母が結婚してからも同居していました。長男のH兄は、祖父の名前の1字をもらって名前がつけられています。長男である自分の1字も祖父の名前からとってあります。つまり、H兄と私は、名前の1字を共通にする間柄なのです。昔は隔世で名前を継ぐことがなされたようです。これによれば、私は自分の息子に私の父の名前の1字をとって命名すべきなのですが、そうはしませんでした。血縁のくびきに繋ぎ止めたくはなかったのです。
さて、H兄と祖父との間柄はあまりよいものではなかったようです。簡単にいえば、おじいちゃんが孫をかわいがらなかった。すると、H兄と父親との関係も連動して親密なものにはならなかったようです。ところが、同居していたおじである私の父は、H兄をよくかわいがりました。特に、母が私を生みに実家に帰った時は、毎晩父の布団で一緒に寝て昔話をしてもらったと今もなつかしそうにH兄は語ります。同居しているおじやおばが、幼いおいやめいのめんどうを親身になってみることは、昔はよくあったみたいです。おぼろげな記憶ですが、自分もおばに、お前にだけだから内緒だといって、うみたての鶏の卵をちょっと穴をあけて吸わせてもらったことがありました。父母との間柄がうまくいかなくても、同居している誰かとは波長があって面倒をみてもらうことで、家庭内暴力は起きなかったのです。H兄はそんなこともあったのでしょう、長男ながら都市へ就職しましたが、父が稼ぎ取り分家として独立し、H兄が成長しても、私の父との親密な関係は継続していました。H兄は結婚するときも、親ではなく私の父が相手の家にお願いに行きました。それで、私が親元を離れて大学に入ると、今度は実の兄のように私の面倒をみてくれました。私が大学を卒業するに際しては、私の父母を呼んで京都を案内してもくれました。本来私がやるべきことを、かわってやってくれたのです。

こうした従兄弟関係は今ではありませんし、人に話してもわからないと思います。だから大家族の絆が大切だといわれたら、それは違います。1つの家で複数の家族が暮らすとき、嫁入した女性の心理的負担は並大抵のものではなかったはずです。また、もう少しさかのぼれば、オジ・オバといわれて結婚しないで一生実家のために働き続ける人もいました。それはキズナではなくクビキです。自分で選択できる関係性は尊いものですが、有無を言わせず縛ってくるものは、ありがたくないです。