小泉に妻がなく、安倍には子がない。だからといって、2人の人格を問題にするわけではなく、逆にそうした生き方を認め国の指導者として問題なく選出するほどに、この国の家族観も多様になったと喜んでいる。
ところが、そうした多様性の上にのっかる人たちの家族観は、どうも多様性を認めない硬直したもののように思われるから、おかしいのである。例えてみれば、組合運動で賃金を上げてもらいながら、賃上げはそのまま懐に入れて、組合運動には否定的立場をとる輩のようなものである。硬直した家族観とはどういうことかといえば、老人介護が働かないで面倒を見れる家族が存在することを前提にしているからである。それはつまり、嫁が舅姑の介護をすることを当然視することであり、男女の雇用機会均等を否定し、ジェンダー論を後戻りさせるものだからだ。こんな人たちが、出生率の上昇を政策的に図ったところで、根本が間違っているのだから、女が信用するわけがない。
レヴィストロースが、家族は人間にとって駅のようなものであり、そこで1時的に巡り合ってはまたそれぞれに分かれていくものである、といった意味のことを述べていたのが、今、全員がバラバラに暮らす我が家の中で、実感をこめて思い出されるのである。家族は駅だ。
ところが、そうした多様性の上にのっかる人たちの家族観は、どうも多様性を認めない硬直したもののように思われるから、おかしいのである。例えてみれば、組合運動で賃金を上げてもらいながら、賃上げはそのまま懐に入れて、組合運動には否定的立場をとる輩のようなものである。硬直した家族観とはどういうことかといえば、老人介護が働かないで面倒を見れる家族が存在することを前提にしているからである。それはつまり、嫁が舅姑の介護をすることを当然視することであり、男女の雇用機会均等を否定し、ジェンダー論を後戻りさせるものだからだ。こんな人たちが、出生率の上昇を政策的に図ったところで、根本が間違っているのだから、女が信用するわけがない。
レヴィストロースが、家族は人間にとって駅のようなものであり、そこで1時的に巡り合ってはまたそれぞれに分かれていくものである、といった意味のことを述べていたのが、今、全員がバラバラに暮らす我が家の中で、実感をこめて思い出されるのである。家族は駅だ。