民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

家族の形

2006-09-26 13:49:03 | その他
 小泉に妻がなく、安倍には子がない。だからといって、2人の人格を問題にするわけではなく、逆にそうした生き方を認め国の指導者として問題なく選出するほどに、この国の家族観も多様になったと喜んでいる。
 ところが、そうした多様性の上にのっかる人たちの家族観は、どうも多様性を認めない硬直したもののように思われるから、おかしいのである。例えてみれば、組合運動で賃金を上げてもらいながら、賃上げはそのまま懐に入れて、組合運動には否定的立場をとる輩のようなものである。硬直した家族観とはどういうことかといえば、老人介護が働かないで面倒を見れる家族が存在することを前提にしているからである。それはつまり、嫁が舅姑の介護をすることを当然視することであり、男女の雇用機会均等を否定し、ジェンダー論を後戻りさせるものだからだ。こんな人たちが、出生率の上昇を政策的に図ったところで、根本が間違っているのだから、女が信用するわけがない。
 レヴィストロースが、家族は人間にとって駅のようなものであり、そこで1時的に巡り合ってはまたそれぞれに分かれていくものである、といった意味のことを述べていたのが、今、全員がバラバラに暮らす我が家の中で、実感をこめて思い出されるのである。家族は駅だ。

戦時下精神史

2006-09-24 18:35:32 | 政治
 改憲を正面きって明らかにする総理大臣が選出された。ますます、今が戦前の感を強くする。若者なら何らかのムーヴメントをと考えられるが、この年をしたら、どうにかしてやり過ごすしかない、と思う。なんとも戦う前から情けない話だと自分でも思う。
 今が戦前とするなら、戦前の知識人の身の処し方に学ぶしかない。たまたま、本棚に昔かっておいた、鶴見俊輔の『戦時期日本の精神史』を見つける。1931~1945年の思想状況について、転向をキーワードに読み解いたものである。20年も昔に出版されたものであるが、今また読むと切実に胸に迫るものがある。カナダの大学で英語で講義したものだといい、外国人にもわかるように丁寧に書かれているので、今の若者が読んでも、理解しやすいだろう。
 いくつも心ひかれる部分があるが、中でも大東亜共栄圏会議に参加したビルマの首相、バー・モウが1968年に出版したという回想録からの引用が気にかかる。

 日本の軍国主義者たちはすべてを日本人の視野においてしか見ることができず、さらにまずいことには、すべての他国民が、彼らとともに何かをするに際しては、同じように考えなければならないと言い張った。彼らにとっては、ものごとをするには、ただ1つの道しかなかった。それが、日本流にということだった。ただ1つの目的と関心しかなかった。日本国民の利害、利益と言うことである。東アジアの国々にとって、ただ1つの使命しかなかった。それは、日本国と永遠に結び付けられた、いくつもの満州国や朝鮮となることである。日本人種の立場の押し付け、彼らのしたことはそういうことだった。それが、日本の軍国主義者たちとわれらの地域の住民とのあいだに本当の理解が生まれることを、結果としては、不可能にした

 この軍国主義者を、日本政府と読み替えたとき、あまりに今の東アジアにおける日本の政治状況と酷似していまいか。国内の論理を押し付けるばかりで、アジアのそしてユーラシアで起こりつつある協調外交に背を向け、孤立の方向に向かいつつあるアメリカの後追いばかりしているこの国。しかも、後追いに熱心の人々こそが戦勝国アメリカが押し付けた憲法を改正しなければいけないと、敵対的立場をとる。あんなに大好きなアメリカなのだから、たとえ押し付けたとしても、喜んでイラクに兵を出したように、喜んで憲法も受け入れるのがあなたがたの流儀ではないのか。目くじらをたてるのは矛盾していることに気がつかないのか。前回の戦で敗れ、彼らのいいかたをすれば、心ならずも戦犯とされた人々を処刑したのは他ならぬアメリカではなかったか。
 鶴見は結論として、こうした時代をやり過ごす生き方として、次のように述べる。
普遍的原理を無理に定立しないという流儀が、日本の村に、少なくとも村の中の住民の一人であるならばその人を彼の思想のゆえに抹殺するなどということをしないという伝統を育ててきました。目前の具体的な問題に集中して取り組むことを通して、私たちは地球上のちがう民族のあいだの思想の受け渡しに向かって日本人らしい流儀で、日本の伝統に沿うたやり方で働くことができるでしょう。それは西洋諸国の知的伝統の基準においてはあまり尊敬されてこなかった、もう1つの知性のあり方です。
 「思想の科学」を主催した鶴見らしい結論であり、民俗学を学ぶ自分にとってもうれしい結論だが、日本の村に思想のゆえに抹殺しないという伝統があるのだろうか。むしろ、抹殺されるような思想を持ち得なかった、といった方がよくないか。日々実直に生きることが思想だったのだから。

戦後の終わりと戦前の始まり

2006-09-04 08:23:38 | 政治
 8月1日に矢沢玲(レイ:本当は女偏だが作字では表示できないのでこの字とする)さんが、97歳で亡くなられた。ご遺族の方からの後のお知らせで知った。ご遺族の了解もなくここに矢沢さんのことを書かせていただくのは、ライフヒストリーのようなものを県史に掲載することを、ご本人が同意して、書かせていただいていることによる。おばあちゃんも、きっといいというに違いないという、私のあまえである。
 矢沢さんは、私が出会った中では長野県1の昔話の伝承者であった。そして、目に一丁字ない貧しく誠実な農民とイメージされる伝承者とは対極の、豊かな家に生まれ高度な教育を受け、封建遺制に憤り、国の施策に翻弄されながらも、女性の自立と地域の活性化のために、生涯心を砕かれた方であった。こんなにも、今ある自分が何をなすべきか時代の中で考え、実行した人が昔話を語れるというのは、奇跡的だが、逆にそうした人だからこそ、現代にあって誇りをもって昔話を語ることができたのである。ここで勘違いしてもらったら困るのは、戦前にあって大妻女子大を卒業した矢沢さんの昔話は、書承ではなくまぎれもない伝承だということである。それは、矢沢さんの語りを少しきいてもらえば、すぐわかることである。ご遺族から、母の記念にと送っていただいたのは、クラウンレコードからでている、全国の昔話シリーズの長野県の部のCDで、すべて矢沢さんの語りであった。それは、矢沢さんの語れる話の中から、飯田にちなんだ伝説を選んで語ってもらったものと思われる。もちろん本格昔話もたくさんお話できる方である。
 やはりこれも送っていただいた年譜と、うろ覚えながら過去の私の聞き書きから、矢沢さんを紹介しよう。矢沢さんは、1908年(明治41)長野県下伊那郡下久堅村の、当時でいえば中世以来のオヤカタの家に生まれた。チイヤヤ様と呼ばれ多くの使用人と、快く旅人をもてなす家族の家風の中で育った。1931年に結婚し、このままならきっと良き妻の1人として終わっていたかと思われるが、時代の嵐は大きく矢沢さんに吹き寄せてきた。次兄の平沢清人が東京で治安維持法により逮捕・拘置されたのである。これを理由に矢沢さんは婚家を出される。並みの人なら、涙でくれるところだが、ここからが違っていた。よし、それじゃあ私が兄の面倒をみなけらばと、矢沢さんは一念発起するのである。上京し住み込みの見習い看護婦をしながら大妻女子大で学び、拘置所に兄を訪ねる生活を始める。平沢清人はこの時の拘置が原因で下半身不随となり、昭和9年に拘置所を出て帰郷してからは、自家の文書を中心に地方史の研究に没頭してゆくことになる。
 昭和11年に下伊那に帰った矢沢さんは、教員としての生活を始める。昭和14年に矢沢明人と結婚し、開拓民として満州に渡りかの地で教員を務める。敗戦により昭和21年に帰国するが、長男を除き幼児、そして先妻の子もすべて失う。(満州でのことは『広野に夢はせて』という矢沢さん自身の著書を読まれたい。)
 大変な経験の中で押しつぶされ、引揚者としての差別も重なり、シュンとしてしまいそうなところ、矢沢さんは違った。1時教員を務めたが、以後女性の社会参加のために保育所設置運動を起こし、自らも保母として働き、さらに障害児のケア施設の設置、老人福祉、日中友好と活動は衰えることなく、体の動く限り拡大していくのである。
 矢沢さんの一生は、国によって翻弄される庶民が、いかにそれに抗して生き生きと人生を切り開けるかというお手本だと私には思われる。治安維持法、満州移民という誤った国策を身をもって体験しながら、押しつぶされず明るく未来を信じて生きる。戦前から戦後の歴史が矢沢さんの生涯に凝縮されていたと思われる。その矢沢さんが亡くなった今年、憲法改正・教育基本法改正を正面きって堂々と唱える総理大臣が、もうすぐ選出されようとしている。ああ、また戦前の始まりだと、今までは理念で思っていたことを、現実として実感する今日である。
 矢沢さん、本当にご苦労様でした。まだまだ、この世の中を見つめ続けてください。合掌。