民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

治安維持法と共謀罪と二・四事件

2017-02-27 10:08:23 | 政治

 昨日「二・四事件」に学ぶ長野・上水内集会が長野であり、参加してきました。午前に「二・四事件」のドキュメンタリー映画「草の実」を観て、午後は長野方面で検挙された先生を幾人か取り上げて、その生涯、生き方について発表がありました。私は、「二・四事件」は長野県そして全国の近代史の上で、戦争へと人々を駆り立てる分水嶺になった出来事で、今を考える上で忘れてはならない事件だと思います。そもそも、「二・四事件」とは何かをいわなければなりません。1933年(昭和8)年2月4日から、長野県の教員を治安維持法違反で多数検挙し、共産主義運動はもちろん自由主義、あるいは戦争反対の運動を壊滅させ、以後戦争への道をまっしぐらにたどらせることとなった事件です。わずかの非教員を含めて、検挙者は230名、このうち共産党員は1名もおらず、党関係の活動家が執行猶予のついた刑であったにもかかわらず、教員だけは13名が懲役2~3年の実刑判決を受けました。また、この時の検挙を理由に、免職や休退職に追い込まれた先生も多かったのです。時代は不景気の真っただ中です。昼食を持参できない欠食児童(私の父も昼を持って行けず、昼食時は校庭で遊んで時間を過ごしたそうです)や、女子の身売りなど数多く、まじめな先生方ほど子供たちを救いたいと苦しんでいました。子どもの貧困が叫ばれる現在と重なるものがあります。子どもを救いたい、世の中を変えたいと思う先生をすべて共産主義者、国の転覆を狙う者として、治安維持法で検挙したのです。実際に何かをしたのではなく、仲間と集まって子どもの窮状を話し合う、現状をどうとらえたらよいか本を読む、そんなことをしただけで捕まえる。以後、治安維持法はどんどん拡大解釈され、政府批判をする者を検挙していくのです。午後の部の、検挙された先生の生涯の紹介では、どれだけ有能でまじめで子どものことを考える先生方であったかがよくわかりました。

 今「共謀罪」が問題になっています。この法がその他の法と大きく異なるのは、犯罪が実際に行われる前の段階で摘発・処罰される点です。行為に対して処罰されるのではなく、頭の中にあるもので処罰されるのです。頭の中にないものをあるといって処罰することができます。これは治安維持法と全く同じです。治安維持法も一般の人が検挙されることはないといって成立させたといいますうから、これもまた全く同じです。政府に都合の悪いことをいう人は、頭の中に世の中を転覆させるための計画が詰まっているといえば検挙できるのですから、「二・四事件」の悲劇をまた繰り返しかねません。


島薗進『国家神道と日本人』(岩波新書)読了

2017-02-25 13:44:28 | 民俗学

ようやくにして、『国家神道と日本人』を読み終えました。読み流すことができず、考え考えようやくにして最後までたどりつくといった感じでした。それだけ国家神道を定義し分析することが難しいということでしょう。あたりまえのようにある事柄が、実はある時期(近代)に創出され、私たちの意識に刷り込まれたものであることを実証するのは、大変な努力を必要とします。そこで、私なりの理解を少し書いてみます。

 長野県の南端に、天龍村があります。そこの1集落に、坂部(さかべ・さかんべ)があります。ここでは、村中のいたるところに神が祀られています。ムラビトはまさに神とともに暮らしているのです。私が調査した村で、一番印象深い所です。この坂部の祭りで特徴的なのは、家の祭りと村の祭りが対応していることです。家でまず神を祭り、同じ日に村の神を産土社で同じように祀るのです。なぜこんなことを書いたかといえば、『国家神道と日本人』で同じことが書いてあったからです。天皇家では宮中三殿に神を祀り、その祭りを天皇が行っていますが、同じ祭りを天皇家の氏神である伊勢神宮でも行っています。つまり、天皇家の家の祭りが伊勢神宮の祭りと対応しています。そして、伊勢神宮の祭りが明治以後、各村の産土社の祭りと対応させられました。つまり、日本中の神社の頂点に伊勢神宮があるように組織化され、年間の祭りも統一したものにされました。

戦後国家神道は解体されましたが、天皇家の家の祭りは私的なものだとしてそのまま残存して継続しました。ところが、天皇家の祭りと伊勢神宮の祭りは連動していますから、国家が管理する神社神道は組織として解体したかに見えて、実は天皇化の祭祀として継続したから、国家神道にかかわる人々の意識は継続しているし、機会さえあれば戦前のように表立って国家が神道にかかわるような組織を復活したいと考えているというわけです。

 宮中祭祀はとぎれることなく続いています。それはわかっていましたが、天皇家の氏神を祀る行為だからやってもやらなくても自由だくらいに思っていましたが、それこそが天皇の存在意義だ、それは必然的にこの国は天皇主権の国だと考えることですが、と思う人々がコアな保守層にはいて、そんな人々が今力をもって表面に出つつあるというわけです。恐ろしいことです。


魚が届いた

2017-02-24 10:10:25 | その他

富山に嫁に行っている妹から、お見舞いに魚が届きました。朝獲れたものを漁港から送ってくれたのです。

カワハギとイカ、この長い魚はなんでしょうか。さばいていくうちに、サワラだとわかりました。さて、問題はどうやって料理するかです。一番わかりやすいイカは、刺身にすることにし、小さいのは煮つけました。イカの皮をむくのは苦労することもありますが、さすがに新鮮で簡単にするりとむけました。全部食べるには多すぎましたから、半分は皮をむいて切らずに冷凍にしました。次はカワハギです。いったいどうしたものかと思いましたが、腹を出してから少し包丁を入れて塩を振り、塩焼きにすることにしました。全部そうしてしまってから妹からメールがあり、カワハギは刺身でうまいとのこと。塩は振りましたが、そんなに時間はたっていませんから、ためしに1尾刺身にしてみました。3枚におろして、皮がむけるかと心配しましたが、これが以外にきれいにスルッとむけ、ピンク色の身が登場しました。塩をふるために皮に傷をつけてありますから、少しやりにくい所はありましたが、硬い皮が簡単にむけました。それでようやくわかりました。この魚の硬い皮はすぐにむいてから食べるので、「カワハギ」と名付けられたのでしょう。サワラは3枚におろして刺身にと思いましたが、身が柔らかくて皮がうまくとれません。私の技術では無理だと判断し、煮つけと塩コウジ漬けにしました。しばらくは、いただいた魚を食べ続けます。


臭いの民俗

2017-02-22 11:05:11 | 民俗学

街の中の住宅街を歩いていると、薪が燃えた煙のにおいがする時があります。そんな時、改めて周囲の屋根を見回すと、屋根から突き出た煙突から煙が出ているのを発見します。薪ストーブがある種のブームのように広がり、新築の住宅に煙突を見たり、庭の片隅に薪を積み重ねてあるのを見たりします。震災で電気が来なくなった時の暖房や、省エネ、そして家の中で火をたくという楽しみで、かなり見るようになりました。

煙の臭いをかぐと、様々なイメージが頭の中に浮かんできます。子どもたちを連れてよく行ったキャンプでの火のにおい。子どものころ、台所でたいたかまどの火のにおい。風呂をたいた火のにおい。いったいどのニオイだろうと、意識は記憶の中をさまよいます。そして、何十年も前の記憶がかなり鮮明によみがえります。においとは、不思議なものです。タイムマシンのような効果で、一瞬にして時空をこえて記憶がよみがえってきます。他にももしかしたら印象的なにおいがあるのかもしれませんが、これほど鮮明にいくつもの記憶が呼び覚まされるのは、煙のにおいです。

他にも、ご飯のたけるにおいやみそ汁のにおいとかあるはずなのに、煙のような効果は生みません。それはきっと、かつては恒常的にかいでいたニオイなのに、その後長くかがないで、今また久しぶりにかいでいるということで、記憶を喚起するのではないかと思います。このような種類のにおいを探してみるのも面白いかなと思います。


確定申告

2017-02-17 17:13:51 | その他

退職してから所得税の確定申告を毎年行っていますが、今年もその時期がきました。源泉徴収票、領収書や保険会社の証明書などを用意しておいて、ぜんぶ持って税務署へでかけ、税務署の人(大体はアルバイトの学生)の指導に従って、パソコンに数字を打ち込み、申告書を作成していました。いついってもすごい列ができていて、自分の番になるまで1時間、時によればそれ以上待ってから、ようやく作成するといった状態でした。今年は妻はとても立って待っているなんてことには体力が持ちませんし、自分もただ立って待つことが苦痛に感じられてきました。

 そこで、国税庁のHPの申告書作成アシストを利用して、自分で作ることにしました。収入は、昨年の3月までは嘱託勤務をしていましたのでその給与と年金、関係する市町村からの若干の支払いなどです。控除は保険と寄付など。どれをどこに記入するかで時間はかかりましたが、家のパソコン相手に好いた時間にできる仕事です。妻の分も作成し、郵送しようかと思ったのですが、間違いがあって出しなおせと言われてもいやですし、切手代ももったいないと思い、持参しました。ところが、行く途中でまずいことに気づきました。税務署から申告を知らせるハガキを持ってこなかったのです。確か、持参のこととか書いてあったような。取りに帰るのも面倒で、何とかなるだろうと足を速めました。税務署の正面には案内の人がいました。書いてきましたが、点検してもらって提出したいと告げると、「先生」というではありませんか。エーだれ。マスクをずり下げてくれた顔を見ると、初任地で担任したN君でした。税務署に勤務しているのは知っていましたが、まさか松本にいるなんて。通知のハガキ忘れてきたが、というと、いいですいいですと答えてくれました。その上「先生、よく自分で書けましたね」と、ほめてくれました。教え子に褒められてうれしいという、いいお爺さんに自分もなったなと実感したものです。

 相談しながらその場で申告書を作成する列は、たくさんの人が並んでいましたが、自分で書いて提出する列は、列がなく窓口で対応している人が終わるのを待って、すぐ対応されました。そして文書を点検し、ハンコをついてない箇所があり、郵送しなくてその場で捺印できて良かったですが、ものの10分ばかりで終わりました。最後にまたN君にあいさつすると、管理運営部門にいるからまたきてくださいといわれました。彼も管理職クラスとなり、退職も近くなっているんだと思いました。また来てくださいといわれても、そんなに税務署にお世話になることはないだろうし、お呼びがかかっても困るなと思いつつ、早く終わってよかったと、税務署を後にしたのでした。


TPPと難民問題と

2017-02-12 09:48:06 | 政治

安倍首相とトランプ大統領の会談、ゴルフなどが報じられています。私もトランプ氏の言動については、好ましいものとしては受け取れません。なんといっても、インテリジェンスが感じられません。とはいえ、大統領選以前はTPPは日本経済を破壊するといった論調が、アメリカがTPP破棄と伝えられると、自由貿易を守れ保護貿易反対と、マスコミの論調が微妙に変化したように思うのです。アメリカとの2国間交渉で押し切られるより、TPPの方がまだましだったというのでしょうか。

 私は自由貿易が必ずしも世界を豊かにするとは思いません。なぜなら、自由貿易の下では多国籍企業は税金の安い国、労働力の安い国を求めて世界を漂流していきます。多国籍企業にとっては、企業の利益が優先ですから自国とする国はありませんし、国の利益などは二の次です。だから、法人税の引き下げ合戦が起きますし、労働賃金をいかに安くするかで、先進国の格差の問題が拡大します。だから、必ずしも自由貿易が国民の利益につながるとは思えないのです。ならば、保護貿易が各国の利益につながるかといえば、それも簡単にはいえません。2国間交渉では、2国の力関係がそのまま貿易に反映し、対等な貿易を築くことが難しいからです。ようは、一方に偏るのはよくないということでしょうか。

もう一つ、入国審査・難民問題について、アメリカの記者の質問に安倍首相は内政問題なのでコメントは差し控えるといって、不快感を表明したイギリス首相との差をみせました。アメリカ追随で、トランプ氏のいやがることは言わないという、安倍首相の追随外交だと批判もされました。しかし、これはうかつに発言したら日本の難民受け入れはどうなっているのだと追及されかねない問題ですから、深入りを避けたのでしょう。

総体として、日米の同盟強化を世間に印象付けた会談でしたが、世界的に見た場合それが長期的に得策だったかはわかりません。というのは、トランプ政権が今後安定的に続くかはわからないからです。もしトランプ政権が途中で倒れた場合、世界中から日本は爪弾きされてしまうことがあるからです。2日も同行せず、安倍首相はそそくさと帰国しゆっくりと時間を稼ぐべきだったと私は思います。ゴルフの間も安倍首相はヨイショを続けたのでしょうか。なんだかせつないです。その分帰国したらグッと胸を反り返すのでしょうね。


三つ子の魂ですかね

2017-02-11 19:48:26 | その他

 私は高校生の時、地歴会というクラブに属して考古学を楽しんでいました。地歴会は高校生としては珍しいことに、独自に地点を定めて毎年発掘調査をし、遺物の整理をして報告書を出していました。発掘は毎年3月の春休みにしました。2年生の3月だったと思いますが、最後の発掘にエリ穴遺跡を掘りました。そして、ここからは縄文晩期の耳飾りが数多く発掘されました。それまでの常識を超えるような遺跡でした。秋に開催される文化祭までには遺物を洗って乾かし、一転ごとに細い筆でペンキを使って土器などに地点名などを書き込んで整理し、考察を加えて発表しなければなりません。何を発表するか。話し合いの結果、多量の耳飾りをどう解釈するか、班を作って班ごとに考察を加えて発表することにしました。当時は、縄文時代は狩猟採集で農耕は弥生時代になって始まったと教えられていた時代です。耳飾りばかり作っても、食料がないはずです。だとすれば、広範な交易、そして分業体制、農耕などを視野にいれなければなりません。僕たちは藤森栄一の縄文農耕を学んだり、顧問の先生に相談して勧められた、フレイザーの『金枝篇』を読んだりしました。拙いものでしたが、考古学だけでは縄文の社会を想像できないということだけははっきりわかりました。この時から、人類学や民俗学に興味を転じていきました。

 今年の正月、久しぶりにクラブのOB会に出席しました。そこで、たまたまやはり出席した1学年下のT君に会いました。T君もやはり一緒にエリ穴遺跡の考察をした仲間で、今はW大の文学部で考古学を教えています。久しぶりに会い、なつかしく話したものですから、最近の自分の書いたものをお送りしたところ、お返しに抜き刷りやら論文コピーやらをたくさん送ってくれました。T君が考古学でどんな分野をやっているのか知らなかったので、抜き刷りを読ませてもらうと、ニューギニアで人類学の調査をしつつその成果を生かして、縄文時代の社会構造を考えるという興味深い仕事をされていることがわかりました。これは、高校生のあのころ、先行研究などろくに知らないままに人類学の成果から、自分たちの発掘した遺跡の解釈をしようとしていたことと、規模は違うにしても同じことではありませんか。そのとき私と同学年で研究したM君は、高校教員退職後の今を、エリ穴遺跡の遺物の整理に費やしているのです。なんだ、皆、高校生の頃の学問への思いを、何十年もたった今も続けているだけじゃないか。ひるがえってみれば、自分はあの頃からどんだけ成長できたのか、と考えてしまいます。また、年齢を重ねても初々しい気持ちで取り組むことができる、「学問」というもののありがたさも思います。


国家神道とは何か

2017-02-10 08:15:40 | 民俗学

 高額医療費の申請、難病申請など、病院drの面会、そうじ洗濯、同居する息子の分も含めた食事の用意などをしていますと、なかなか忙しい日々です。昨日は保健所への難病申請で不足書類があり、市役所との間を雪の中を二往復したら、疲れました。

 さて『折口信夫』から派生して、島薗進『国家神道と日本人』を読んでおりますが、9日の朝日新聞で「揺らぐ政教分離」というテーマで、島薗さんのロングインタビューが掲載されました。今回はそれについて書きます。島薗さんの発言は、現政権と日本会議、神政連などがめざす復古的な日本の姿に危機感を感じてのものでしょう。同じ日に、「大阪の国有地 学校法人に売却」「金額非公表近隣の一割か」という記事も掲載されました。土地を買ったのは、安倍晋三の妻昭恵氏が名誉校長を務める森友学園で、日本で唯一の神道の小学校を建設するのだという。ちなみに教育理念は、「見本人としての礼節を尊び、愛国心と誇りを育てる」だという。私は、さらに恐ろしくなります。島薗さんの発言は、国民の祝日を天皇家の祝祭日と重ねることは、敗戦とともにリセットされたかに見えた、呼び方を変えながら温存され復活してきているなど、今回私がある本に書いたことと重なるものでした。(昨年8月に出版社(八千代出版)に送ってありますが、他の執筆者の原稿がなかなか間に合わないようで、まだ初校が出ません。まさか最近の情勢に鑑みて没となりましたなんてことはないと思いますが。もちろん出版のあかつきには、お知らせします。)記事の中で初めて知ることもありました。

-2013年の伊勢神宮の式年遷宮の際、安倍首相は「遷御の儀」に参列しました。現職首相の参列は、1929年の浜口雄幸首相以来でした。
 「神道で国家行事を行うようなもので、憲法が定める政教分離に照らして大きな疑問のある行為です。16年のG7サミットも伊勢志摩で行い、伊勢神宮で、通常は入れず正式な参拝の場である『御垣内』に各国の首脳を導いています。外交行事に特定宗教を持ち込んだという疑念がぬぐえません。」 

 サミットの直前に伊勢へ行ったのに、まさかそんな事が行われることになっているとはわからなかったです。現天皇家の氏神である伊勢神宮を国家(国民)でまつることによって、日本全国が天皇を崇敬する民であることを確認する。信教の自由などあったものではないです。それを当然のこととしていた成長の家の思想を叩き込まれた、稲田朋美が防衛大臣だというのは、驚くべきことです。「神武天皇の偉業に立ち戻り、日本のよき伝統を守りながら改革を進めるのが明治維新の精神だった。その精神を取り戻すべく、心を一つに頑張りたい」と述べる大臣です。きっと沖縄は、琉球処分に従わない魑魅魍魎の跋扈する蛮族の支配する土地だとおもっているでしょう。

 伊勢神宮と政治とのかかわりをみると、民間ではそんなに密接に結びついたものではなかったと思うのです。伊勢だといっても八百万の神のなかで特権的な位置をしめていたわけではなく、伊勢講は庚申講や秋葉講などと並ぶ講の一つだったと思うのです。お陰参りという幕末のブームで流行神として全国にはやったことはあるにしても、ムラに祀られる神の一つであったと思います。そこから気になるのは、明治の神社合祀です。小さな神社を合祀して村に一つとし、国が格付けを与えたものです。『日本民俗大辞典』では、次のように書いています。

神社合祀 神社を政策的に他の神社へ合併させ、祭神を合併した神社で合祀して祭祀すること。江戸時代にいくつかの藩で試みられたが、歴史的に注目されるのは、明治末期に内務省神社局が主導して全国的に実施された合祀政策である。その規模は1903年(明治36)から1914年(大正3)の十年間に限っても、府県郷村社が六千社余り減少し、無格社は六万五千社余り減少した。全国で約十九万社の神社が約十二万社になった。無格社は半減した。(中略)地方改良運動が内務省地方局の主導で始まると、神社は行政市町村の団結強化のための施設と位置づけられるようになる。「神社中心説」である。そのために神社は一町村一社への合祀と、さらに神社名の町村名への変更も試みられていく。行政イデオロギーによって強圧的に遂行されていった場合も少なからずみられた。神社が行政の一つの設備ととらえられていった。(後略)

要するに、村に一つの神社に合祀し、行政の末端を担わせたのですが、私が気になるのは、合祀に合わせて天照大御神が祭神ではなかった神社にも祭神として潜り込ませたのではないかということです。普段は自分が何を拝んでいるのか人々は考えませんが、裏では実は伊勢神宮を頂点とするヒエラルキーの末端に絡み取られている、という構図ができあがったのではないかと思うのです。明治国家を構築するために作られた神のヒエラルキーが、いつのまにか伝統のごとく語られてしまいます。おまけに、諏訪大社上社前宮が伊勢神宮の払い下げを受けて造られているように、伊勢の神に追われて諏訪に閉じこもった神を祀るのに、伊勢からの払い下げを受けてしまうような、卑屈な意識まで身に着けてしまったのです。

 明治に創作された国家神道なのに、その甘いにおいを知っている人々、甘い匂いに引き寄せられてしまった人々は、特に支配層に多いと思われ、こいつを払拭するのは簡単ではありません。


また出雲のこと

2017-02-06 09:23:47 | 民俗学

先日、原武史『〈出雲〉という思想』について書きました。すると昨日の朝日新聞の書評欄に、また出雲が登場するではありませんか。岡本雅享著『出雲を原郷とする人たち』(藤原書店)です。そして、書評をしているのが原武史です。書評の内容は、書評というより原武史の自説を書いたものではありましたが(得てして書評は特に自分の専門あるいは興味のある分野の本の書評は、該当の本の内容に触れずに自分のことを書いてしまいます。これは読者にはまずいです。自戒を込めてそう思います。ごめんなさい。これからの書評には十分注意します)

著者の岡本は、社会学者のようですし、書評している原は政治学者です。民俗学者も古代史学者も神話学者も、この本にからんでいないのです。それが今の学問の現状です。そういえば正月行事について、新聞で論評していたのが小泉八雲の血縁というととで読者の関心を引く、小泉凡でしたね。小泉氏が民俗学者でないというわけではありませんが、実績のある民俗学者が読者に飽きられ、いきのいい民俗学者がいないことをあらわしていますね。書評の最後にこうかいてありました。

 柳田國男をはじめとする民俗学者も、本書で記されたような神道と民俗学の接点に当たる問題を正面から論じようとはしなかった。出雲出身の著者の執念が、初めてこの空白に大きな光を当てたのである。

 伊勢=天皇家に追われた出雲族は出雲に引き込もるばかりでなく、実は密かに全国へと拡散していたのだというのは、敗者の歴史として胸躍るものがあります。私はそこにもう一つ加えたい。伊勢の神によって出雲に閉じ込められた大国主、そして出雲からも追われて諏訪に閉じこもった諏訪神もあります。おまけに出雲も諏訪も、近世まではともに生き神様を継承してきていました。そこには、もう一つの王家という密かな誇りがあったかもしれません。そして、出雲と諏訪は反伊勢という点で実は結びついていたのだ、というのは私の夢想です。それにしても、非天皇家の王家の系譜があったことを知るのは、現天皇家を相対化する上で大事なことだと思います。


今になって知る父のこと

2017-02-05 21:01:45 | その他

妻が入院する朝、忙しく病院の待合室に荷物を運ぶと、車いすに乗ったおばあさんが何か話しかけてきます。忙しくて相手をしている暇はありませんから、誰か病院の人に聞いて下さいといって立ち去ろうとしましたが、更に話しかけてきます。よく見ると、実家の近くに住むTオバではありませんか。気が付かなかったことをわび、入院だと話すと白内障のレーザー治療に来たとのこと。こちらも妻のことでそれどころでなく、そそくさと別れたものでした。翌日施設の母に面会に行き、Tオバに病院で会ったと話すと、これまで聞いたことのない話をしてくれました。

父は7人兄弟の3番目。上3人は男で、下は女でした。父のすぐ上のおじは、戦病死しています。父は兄妹を大事にしたという話は聞いていました。戦争から帰ってくると、下の妹たちや家の面倒をよくみてくれたと、すぐ下の妹(私にとってはYオバ)を東京へ遊びに連れて行ってくれたそうです。その帰りに、塩尻止まりの汽車に乗り、夜に塩尻から家まで桔梗ケ原を抜けて帰ってきたのだそうです。ところが狐に化かされて、一晩中同じ所をグルグルと歩いていたという話は何回か聞きました。狐に化かされたというのも面白いですが、従軍中に苦労させたと妹を旅行に連れていくなど、めったにできることではありません。Yオバはその話をするときは、私の父はやさしかったし世話になったといいます。

父が亡くなって10年にもなります。亡くなる前近くに住むTオバは、まだ元気でどんどん動けましたが、父の好きなような物をよく作ってきてくれたようです。私は同居していなかったものですから、自分の家のように出入りしていたTオバを、少しうっとうしく思っていました。いつもすみませんと、会えばお礼をいうものの、頼んじゃいないなどと、心の狭い思いをしていたものでした。そんなふうになぜTオバが、父の面倒をみてくれたのか、今日やっとわかりました。

父は母と結婚して私が生まれてからも、実家で兄夫婦と父母と同居して実家の瓦屋で働いていました。当時の実家で働く次男は、下男のようなもので給料もありません。このままではうだつが上がらないと思った父は実家を出て、知り合いの方の馬屋の2階に居を定めて、実家に通って仕事を始めました。独立した財布を設けたのです。独立するについて何の援助もしてくれなかったと、母はいつも今もその時の対応をひどいと話します。そりゃあひどかったでしょうが、事実お金はなかったと思います。父の父という人は遊び人で、女に入れあげるような人でした。その、なけなしで独立した馬屋の2階の家に母親とTオバがきて、当時兄妹で一人だけ高校に通う末子のTオバの教材費を借りに来たといいます。自分は2歳くらいのことで、全く記憶にありません。母は、よくこんな所に金を借りにきたものだと思ったといいますが、父は決して断らず何とか工面して妹のために貸してやったといいます。母が、よくTオバは色々食べるものを作ってきてくれると父が亡くなる前にいうと、父はあん時のことを覚えているんだろうといったといいます。なかなかできることではありません。優しい人だとは思っていましたが、そんなこともあったのかと、今日はあらためてウルッとしてしまったのです。