朝日村芦之久保の神明宮が祀られる山裾に建つ道祖神の裏面には、以下のような文字が刻まれています。
正徳5年の10月にこれを建てた。寛政7年8月のある夜小坂村山口に御縁想した。(ほれて結婚した。つまり盗んだ)その歳11月13日に再建した。天保13年2月7日の夜本洗馬村上町に御縁想した。(盗まれた)天保14年4月15日 古見芦野窪講
これに加えて旧庄屋家に伝わる『御用書留帳』には、かかれたのがいつかは不明ですが、以下のような文書が伝わっています。
8月6日夜芦野久保の道祖神が小坂山口にとられ、祝儀の為に酒を3升道祖神の跡に置いてあった7月19日に酒を整え村中でお祭りをして隠しておいたのに、盗られてしまった。杯だといってお土産を持参し、山口村へ行ってご馳走になり祝儀帯代として2朱取ってきた。
(中略)
この道祖神は正徳5年に切り立てる10月卯の日古見村芦野久保講中14人と書きつけてあったが、小坂村山口という所へ勧請されて行った。90年以上昔にも同様なことがあったと伝わっている。11月13日に新しい道祖神を建てたが年号は前の道祖神と同じにした。
(以下略)
道祖神碑の刻字と文書をつきあわせると、次のことがわかります。
1正徳5年に芦之久保で道祖神を建立した。
2寛政7年に小坂村山口でこれを盗み自分の村に勧請した。
3芦之久保ではこれを結婚になぞらえてご祝儀だとして山口を訪ね宴会をして帯代をとってきた。
4芦之久保ではその歳の11月13日に正徳5年と刻んだ道祖神を再建立した。
5天保13年2月7日、再建立した道祖神を本洗馬村上町にとられた。
6天保14年4月15日にこの道祖神を再々建立した。
ところが、昭和61年の芦之窪(芦之窪の表記は各種あり時代によって異なります)神明宮250年祭に合わせて行われた道祖神の整備の際に行った式典で配布された資料には、先の文書と刻字にはなかったことがいくつか書かれていました。
・小坂山口の道祖神盗みの時は、通常の道である横出ケ崎へはまわらず、ウザンザ乗り越え(裏山越え)で背負いあげ、そこに待ち受けていた村人と小坂へ運んだ。
・2度目に洗馬上町に盗まれたときは、本洗馬の大庄屋が芦之久保の庄屋の家へきて泊まり、村中の男衆が集まり歓待しているすきに、2月の凍みた夜、ソリに乗せて運んだ。
それは旧庄屋の当主からの聞き取りだそうです。庄屋の家では伝承されていたのか、文書が残っていたのかは不明ですが、盗難時の細かな様子が伝えられていたのです。では、地元の普通の人々には道祖神盗みについて伝承されていたかといえば、そんな事があったとは知らず、道祖神碑の整備の際に作られた案内板を読んで知るという状態で、そんなことがあったとは知らなかったようです。おまけに、「道祖神盗み」あるいは、それを表す用語もないといいます。 これらのことから、いくつか考えさせられます。まず、「道祖神盗み」という用語は、最近になってそうした事実を知った知識人・もしくは研究者の作った用語で、同時代を生きた人々は現象としては盗みなのだが、「盗み」という意識を強くもってはいなかったことがわかります。近年のことですが、地元の飲み会で道祖神盗みが話題となり、教員でこの地に婿入りした人が刑事事件だといきりたったが、そんなことをしたら笑われると皆がいさめたことがあったといいます。民俗社会における「盗み」の意味を、もっと追求してみないといけません。
また、民俗社会のある事件は年とともに忘れられていくものですが、それが文字に記録されることで、文字を手掛かりとして記憶が喚起されるか記憶が再生産されているのではないかと想像されます。地域の人々に忘れられていた200年以上も前の記憶が、文書や特定の家の伝承から案内板を作ることでよみがえり、新たに地域に伝承されていくということがあります。かつては今よりも文字が読める人が少なかったのですから、文字の読める家筋の記録や記憶が、ムラの伝承を補強したり再創造したりしていくようなことが、いくつもあったのではないかと想像されます。これはもっと調査しつぶさに考察しなければならない問題です。