民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

口頭伝承と文字伝承

2015-10-29 18:25:01 | 民俗学

 朝日村芦之久保の神明宮が祀られる山裾に建つ道祖神の裏面には、以下のような文字が刻まれています。

  正徳5年の10月にこれを建てた。寛政7年8月のある夜小坂村山口に御縁想した。(ほれて結婚した。つまり盗んだ)その歳11月13日に再建した。天保13年2月7日の夜本洗馬村上町に御縁想した。(盗まれた)天保14年4月15日 古見芦野窪講 

 これに加えて旧庄屋家に伝わる『御用書留帳』には、かかれたのがいつかは不明ですが、以下のような文書が伝わっています。

  8月6日夜芦野久保の道祖神が小坂山口にとられ、祝儀の為に酒を3升道祖神の跡に置いてあった7月19日に酒を整え村中でお祭りをして隠しておいたのに、盗られてしまった。杯だといってお土産を持参し、山口村へ行ってご馳走になり祝儀帯代として2朱取ってきた。
  (中略)
  この道祖神は正徳5年に切り立てる10月卯の日古見村芦野久保講中14人と書きつけてあったが、小坂村山口という所へ勧請されて行った。90年以上昔にも同様なことがあったと伝わっている。11月13日に新しい道祖神を建てたが年号は前の道祖神と同じにした。
 (以下略) 

道祖神碑の刻字と文書をつきあわせると、次のことがわかります。
1正徳5年に芦之久保で道祖神を建立した。
2寛政7年に小坂村山口でこれを盗み自分の村に勧請した。
3芦之久保ではこれを結婚になぞらえてご祝儀だとして山口を訪ね宴会をして帯代をとってきた。
4芦之久保ではその歳の11月13日に正徳5年と刻んだ道祖神を再建立した。
5天保13年2月7日、再建立した道祖神を本洗馬村上町にとられた。
6天保14年4月15日にこの道祖神を再々建立した。

 ところが、昭和61年の芦之窪(芦之窪の表記は各種あり時代によって異なります)神明宮250年祭に合わせて行われた道祖神の整備の際に行った式典で配布された資料には、先の文書と刻字にはなかったことがいくつか書かれていました。
・小坂山口の道祖神盗みの時は、通常の道である横出ケ崎へはまわらず、ウザンザ乗り越え(裏山越え)で背負いあげ、そこに待ち受けていた村人と小坂へ運んだ。
・2度目に洗馬上町に盗まれたときは、本洗馬の大庄屋が芦之久保の庄屋の家へきて泊まり、村中の男衆が集まり歓待しているすきに、2月の凍みた夜、ソリに乗せて運んだ。

それは旧庄屋の当主からの聞き取りだそうです。庄屋の家では伝承されていたのか、文書が残っていたのかは不明ですが、盗難時の細かな様子が伝えられていたのです。では、地元の普通の人々には道祖神盗みについて伝承されていたかといえば、そんな事があったとは知らず、道祖神碑の整備の際に作られた案内板を読んで知るという状態で、そんなことがあったとは知らなかったようです。おまけに、「道祖神盗み」あるいは、それを表す用語もないといいます。 これらのことから、いくつか考えさせられます。まず、「道祖神盗み」という用語は、最近になってそうした事実を知った知識人・もしくは研究者の作った用語で、同時代を生きた人々は現象としては盗みなのだが、「盗み」という意識を強くもってはいなかったことがわかります。近年のことですが、地元の飲み会で道祖神盗みが話題となり、教員でこの地に婿入りした人が刑事事件だといきりたったが、そんなことをしたら笑われると皆がいさめたことがあったといいます。民俗社会における「盗み」の意味を、もっと追求してみないといけません。

 また、民俗社会のある事件は年とともに忘れられていくものですが、それが文字に記録されることで、文字を手掛かりとして記憶が喚起されるか記憶が再生産されているのではないかと想像されます。地域の人々に忘れられていた200年以上も前の記憶が、文書や特定の家の伝承から案内板を作ることでよみがえり、新たに地域に伝承されていくということがあります。かつては今よりも文字が読める人が少なかったのですから、文字の読める家筋の記録や記憶が、ムラの伝承を補強したり再創造したりしていくようなことが、いくつもあったのではないかと想像されます。これはもっと調査しつぶさに考察しなければならない問題です。

 


作られる伝承・記録される伝承

2015-10-26 09:28:48 | 民俗学

 岩田書院から送られてきた最近の新刊ニュースに、驚きました。先に、諏訪大社上社前宮の洩矢諏訪子なるゲームキャラクターの絵馬が掲げられているという、珍しいとおもった風景を紹介しました。ところが、私が知らないだけで珍しくはなかったのです。シンカンと打てば神官とまず表示されるのも面白いのですが、そうではなく新刊ニュースに、『サブカルチャー聖地巡礼 アニメ聖地と戦国史蹟』 由谷裕哉・佐藤喜久一郎著 という本が出ているではありませんか。本の紹介には「本書は、サブカルチャー作品で描かれた場所やそのモデル、ないしは作品と密接に関連するばしょが、その作品のファンによって「聖地」と認識され、彼らが「巡礼」と称してその地を訪れるという文化現象に取り組むものである。」とあります。正直、何でも学問らしくなるものです。誰も研究していないから、何を書いても自由です。現代文化研究というのでしょうが、民俗として研究するならば、こうした現象を伝承の中に落とし込めるかが問題となります。

 アニメやゲームのキャラクター設定あるいは物語の場面設定で、過去の記録あるいは場所のイメージなどが、現代を生きる人々によみがえってくるとすれば、伝承を利用したビジネスだといえるかもしれません。しかし、よみがえった伝承が未来に向けて伝えられていくかと言えば、まずないでしょう。そこが、サブカルチャーたるところかもしれません。過去の遺産を食べる生き物です。

 諏訪信仰を書き綴っている途中の10月上旬に、「道祖神盗み」をテーマにした研究会を催しました。「道祖神盗み」とは江戸時代の後半から明治にかけて、松本・安曇あたりを中心に流行った習俗です。余所のムラで祀っている道祖神を盗んできて自分のムラに祀ってしまうというものです。それは、盗難予防のため「帯代〇両」(盗みを嫁入りになぞらた結納金の額)と刻まれた道祖神が数多くみられること、祀っているムラとは違う名前を刻んだ道祖神がいくつも現存すること、道祖神を盗られた、盗ってきたという伝承があることなどからわかるのです。中でも、朝日村芦ノ久保の道祖神は、道祖神碑の裏面に2度も盗まれたいきさつが刻まれていること、庄屋文書に記録されていること、該当地域に伝承があることなどから、確実に道祖神盗みがあったことがわかり、研究の対象としては最適なものです。そこで、道祖神碑の見学と地元の人にも加わってもらった研究会を開きました。目的は、道祖神を盗んだ理由を明らかにしたい事でしたが、自分がそこで考えさせられたのは、口頭での伝承と記録文書との関わりについてでした。それについては、次回に。


都会の本屋

2015-10-23 21:09:04 | 読書

1年に数回あるかないかの出張で、東京にでかけました。その空いている時間に紀伊国屋で本を見ました。まずは新宿からどうやって紀伊国屋まで行き着くかです。改札を出たら左側にどんどん歩いて、信号を渡ると目につくはずだとねらいを定めました。ところが、電車を降りて登った所の改札口が、中央東口をめざそうにも、そんな案内表示がありません。手じかな所で改札を出たのはいいですが、左手に歩いて行ってもそれらしき建物はみつかりません。あちこちウロウロして結局また駅のインフォメーションまで戻り、道を聞くとここは南東口?なので坂を下りたら左へ曲がれという。そうして、やっと紀伊国屋にたどりつきました。田舎者には本当に西も東もわかりません。

 本は売れないといいますが、紀伊国屋には新刊書が山をついていました。歴史コーナーを見ると近現代のスペースが広いように思いました。ラジオなどでは、いわゆるヘイト本置き場が繁殖しているといっていましたが、見方が悪いのかそうした本がどこにあるのかわかりませんでした。民俗関連書は書架1つ分で、しかも店の隅、倉庫みたいな店員が頻繁に出入りするドアの隣という、かなり落ち着かない場所にありました。売れないだろうなという予測は容易にできました。それに比べ歴史書コーナーと背中合わせで大きなスペースを占めていたのは、スピリチュアル関連本と新新宗教本コーナーでした。スピリチュアル本コーナーの背表紙に踊っていたのは、「引き寄せ」という文字でした。疲れた都会人は、こんな所に癒しや一縷の望みを託しているのでしょうか。予想以上に占いや、祈祷などが知らない所ではびこっているのかもしれません。巫女などは目にすることがなくなったのに、それに反比例して人々の求める心は強くなっているのかな。安藤礼二の『折口信夫』を発見したのですが、まるでエロ本みたいにビニールカバーがかかっているではありませんか。そんなに見せたくない危険な本なのでしょうか。裏に目次は出ていましたが、あまりの厳重な扱いに買うのをやめました。

2時間ばかり背表紙を見て歩き、結局買ったのは、満州本1冊と、平積みしてあった岩波新書数冊、現代思想でした。そうだ、鶴見駿介のコーナーができているのが気になりました。


言霊の国にいて

2015-10-20 10:07:24 | 民俗学

 一度音として口から発した「言葉」は力をもち、実態に対して働き掛ける。もっといえば、言葉で表現するように実態が成る、と信じていたのが私たちの祖先です。神の言葉、もしくは神に働きかける言葉は大いなる力をもつ。そう信じてきました。それは、神のかわりに法を間に置いた今も、いいえ今だからこそ為政者は肝に銘じなければなりません。一度口に出した「言葉」は、大いなる力を持つのだと。

 ところが、先週でしたかあのどさくさまぎれの強行採決だった参議院の会議録が、議場騒然として聞き取れずではなく、何事もなく議事が進行されたがごとく改ざんされていたことが明らかになりました。言わないことを言ったとし、聞こえないことが聞こえたとしたのです。その場に実際にいた人は自分の経験があるから嘘だとわかります。テレビなどで中継を見た人も、間接的に経験して嘘だとわかります。ところが、記録というものは後世になってその場を見ていない人が、事実を確認するために繙くものです。記録された「言葉」こそが真実となります。その言葉を簡単に書き換えるという倫理観のなさは、もっと強烈に糾弾さるべきものであるし、議員辞職に値する法治国家に対する背信行為だと思います。平気で嘘が通るようになったら、民主主義などありえません。言葉に対するデリカシーのなさは、集団的自衛権の審議過程の随所にありました。私たちが一般的に認識している、「意味するもの」と「意味されるもの」との対応を、わざとずらしてはぐらかしたのです。平和のための戦争とか、軍備を強化することが戦争を防ぐのだ等。結果、私たちの主張には目もくれず、というか言っていることがわからないといった風を見せての強行採決でした。正しいことをしていると、安倍をはじめとするあの人たちは頑なに信じているのだなと思っていたら、実は悪いことをしているとはわかっていたのですね。議事録を改ざんするような姑息な手段で、自分たちが行ったことを後世に指弾されまいとするなどをみると。

 大学の人文系つぶし、学者の議論より政治家の発言が上だとする物言い、そしてわざとかみ合わせない議論、議事録の改ざん、とつなげてみると「言葉」と「文字」がいかに軽んじられているかを痛切に思います。また、政治家がいかに言葉をないがしろにする生き物かもはっきりわかります。

『現代思想』43-12の戦後70年をめぐる上野千鶴子と高橋源一郎の対談にこんな部分があります。

高橋 僕たちはこれまでにいろいろなものを渡していただいた。それはたとえば個人的に誰かの影響を受けたということでもあるでしょう。たとえば、僕は吉本隆明さんの影響を受けていますが、それは決して吉本さんの思想が正しいからという理由ではなく、詩人としての彼から影響を受けてきたのです。つまり、彼の言葉への態度が、僕にとって規範になっていると思います。
上野  今の言い方はすばらしいですね。言葉に影響をうけたのではなく、言葉への態度に影響を受けた。私にとっての鶴見さんがそうですね。鶴見さんの思想がどうというより、鶴見さんの姿勢から学びました。

 一度も結婚したことがなく、それを売りにする女と何度も結婚した男の対談、人はもっと真面目にいうかもしれませんが、は大変面白いものですが、ここでいう言葉への態度という言葉が好きです。それからもう1点、上野千鶴子がこんなことを言ってます。

上野 私は作家は「炭鉱のカナリア」だと思っています。時代が変化するのをみんなが感じる前にピーと鳴くということをやってきた人たちだと思うので、同時代感覚抜きに作家ってなりたつのかなと思うのですが。

 せっかく安倍政権が喚起してくれた、本当の民主主義とは何かという事、言霊を信じなくなった現代でも「言葉」と「文字」とがいかに大切かということです。私は、「言葉」と「文字」の問題を民俗学からアプローチしてみたくなりました。


ブログを書く

2015-10-19 20:13:14 | その他

 このブログを見ていただいている皆さんには、全く怠惰なブログの更新で申し訳ありません。現役のころは、我慢ならないことがあっても腹の中にためておかざるを得ず、どうにもやりきれなくて書いていました。今も二度目の勤めをしているのですが、面白くないことはありますが、それほどではありません。ですが、集中力に欠けるのです。何としても書きたい思いが、まあいいかという思いに負けてしまうのです。老化ということでしょう。

 自分は、自分の関心は分散しほうだいで、何をやっているのかと途方にくれていましたが、だんだん自分の追求すべき課題が定まってきたような気がします。どうもそれは、安倍政権の言葉をないがしろにしたふるまいにあるように思います。それについては、次回に書きます。


諏訪信仰7-春宮外伝

2015-10-13 14:23:39 | 民俗学

ケロちゃん風雨に負けず 

上の画像洩矢諏訪子というゲームキャラ、その右は上社前宮に供えてあった諏訪子の絵馬です。最近、前宮には強力なパワースポットだということで参拝者が増えているそうです。それにこの、ゲームキャラです。確かに前宮の場所は、2つの断層が交錯する不思議な場所なのだそうです。そうした場所を古代の人々は感じ取ったのでしょうか。この主人公が登場するゲームのストーリーは確かに諏訪の地の特異な伝承を上手に取り込んであります。といっても、ゲームの概要を読んだだけで詳しくはしりませんが。そして、パワースポット。私たちが見学しているときも、およそこんな田舎の野原には似つかわしくない女性たちが何人か、前宮にお参りしていました。そのうちここも名所化してグッズなんかを売り始めるでしょうか。清水の境内の縁結びの神が、あたかも古くからあったような顔をして鎮座しているみたいに。


諏訪信仰6-十間廊と下社

2015-10-13 14:12:04 | 民俗学

   内御玉殿に並ぶように建つのは、十間廊です。間口3間奥行10間あるところから名づけられたといいます。板敷の床は3段になり最上段には大祝、まんなかに神職、下段に雅楽隊が座るのだといいます。ここでは祭事と神政一致のころには政治もなされたといいますが、最もおおきなものは、3月酉の日の神事大頭祭でした。当日は鹿の頭75頭をはじめ、鳥獣魚といった狩りの獲物をお供えし、諸郷の役人が参列したといいます。一般的には禁じられている獣肉を供え神人供食することから、諏訪の神は肉食を許してくれるとされ、本宮では今も鹿食免の箸が売られています。面白いことに、箸を求めて付随するパンフには、諏訪周辺のいわゆるジビエ料理店で鹿肉が食べられるところの地図がのっていました。今こそ御頭祭を復活して、鹿狩りをしなければいけないかもしれません。しかし、75頭も鹿の頭が並ぶと圧巻だったと思われます。この御頭祭は、明治以降は4月15日に行われ、本宮で例大祭をすませてから行列を整えて御神輿を渡御し、十間廊上段の間に安置して神事を行っているといいます。

前宮の説明はこれで終わりにして、下社も見なければなりません。しかし、下社の大祝だった金刺氏が滅んでしまったことから、こちらには古い伝承は残っていないのです。とはいえ、農耕神としてはまるで民俗学の教科書のような祭りを行っているのが、下社なのです。下社の例大祭は8月1日に秋宮で遷座祭とともにおこなわれます。遷座祭は2月1日にその年の農耕のために秋宮から春宮に迎えた神を、(これを神は七島八島のある御射山から流れて春宮にくるともいいます)秋宮にお返しする祭りです。お舟祭りといわれ、遷座の行列に次いで芝で作った大きな船に翁と媼の人形を載せてひきます。秋宮に神(翁と媼)は戻ったといいますが、秋宮でのオタキアゲで山へ帰ったといいます。つまり、山から下った山の神が春宮で稲の神となり、秋宮にやってきた神は山の神となってやまへ戻るというのです。少しできすぎています。

上記のような信仰的な側面よりも、下社はすばらしい神社建築として知られています。秋宮は江戸中期の名工立川和四郎の作品、春宮は柴宮長左衛門の作として知られています。

 


諏訪信仰5-上社前宮神原周辺

2015-10-11 17:57:50 | 民俗学

 大祝の即位に関する次のような記述があります。

 上社前宮の神殿の西方に柊がある。この宮を鶏冠大明神と呼ぶほか、トサカの宮、柊の宮、楓の宮とも呼び、木の下に平らな要石と呼ぶ石がある。石の上に葦ののござを敷き周囲には簾の垣をめぐらせ、大祝に即位する7,8歳の少年がここに入る。童児は紅、白粉、眉ずみ、おはぐろで化粧され、梶の葉紋の綿織の袴、山鳩色の束帯をつけ、冠をかぶり、神長に手を引かれて要石の上に着座する。
 そこで神長は雅楽吹奏のなかで、秘伝の呪印を結ぶ。このとき神長が柊の木に降ろしたミシャグジ神は石に宿って、それを少年に憑ける。この時少年は昏倒し神がかりする。『諏訪大明神画詞』にある「我において体をなし祝をもって体とす」によって大祝になるのである。この神長の行う神降ろしを「ミシャグジ降ろし」といい、「神長専らの役」とされ守矢神長一子口伝の秘法であった。(宮坂光昭「第二章 強大なる神の国-諏訪信仰の特質」『御柱祭と諏訪大社』 筑摩書房)

 鶏冠社での即位儀礼の様子が、ありありと眼に浮びますが、宮坂さんは出典を示していないので、記録なのか伝承なのか、はたまた想像なのかはっきりしません。さらに、それに続いてオドロオドロしい神事の記述があります。それは、今も跡地に表示がある御室入り行事です。

 十二月二十二日、上社前宮では御室入行事がある。御室入は所末戸社神事とも一ノ御祭ともいい、八日間続く冬の神事で、三月松の所末戸社神事に関係ある一連の神事と考えられる。
 御室入行事とは『画詞』によると「其儀式恐れあるにより是委しくせぬ」と神秘にしている。他の文献から考え合わせると、大よそつぎのようになる。
 前宮神原に大穴を掘り、その中に柱を立て棟を高めて屋根は萱で葺いて垂木が屋根を支えているとあり、縄文時代の竪穴住居址が思い浮かばれる。御室内には「第一の御体」を入れるとあるが、茅とか、わらで作った蛇体で、これをミシャグジとする文献もある。そして八日間の神事には擬祝神事、大巳祭、大夜明祭とあって、御室に小蛇と榛の木の枝で作った蛇体を入れる。いつしか蛇の家と呼ぶ人もいたと伝えられる。(同)

 これも同様に出典が明らかでないが、このまま受け取れば蛇が冬眠して冬を越してよみがえる様を人が演じるものだといえるでしょう。長いものの嫌いな私としては、こんな中で八日も過したら気が変になりそうです。諏訪の神のお使いは蛇だといっていいのではないでしょうか。

 


諏訪信仰4-上社前宮

2015-10-09 18:23:31 | 民俗学

 上社前宮は本宮から2キロほど東、行政区域では茅野市にある。室町時代までは大祝の館や大祝にまつわる建物やゆかりの地があり、荘厳な雰囲気が漂っています。ただ、本殿は昭和7年に伊勢神宮の払い下げ材で建てられたといい、一般的な神社建築の様式となってしまっています。在地の神が伊勢の神に屈服した形で、残念です。ただ、本殿左側の石の玉垣で囲まれた小高い場所は、いかな悪童でも罰が当たると決して中へ入らなかった、諏訪大神の陵だといいます。また、この地へ来た諏訪の神が最初に住みついた場所だともいいます。

 先に書いた大祝とは何か説明しなくてはなりません。大祝(おおほうり)とは、建御名方神の後裔の現人神をいい諏訪氏もしくは諏方氏を名乗りました。大祝には五官が仕えました。そのトップは神長官(じんちょうがん)で、守矢氏が務めました。以下の職名と務めた氏をあげます。禰宜太夫-小出氏後に守屋氏 権祝(ごんほうり)-矢島氏 擬祝(まがいのほうり)-小出氏後に伊藤氏 副祝(そえのほうり)守矢氏後に長坂氏

 神長官は大祝に仕える者ですが、大祝を即位の儀式は神長官が取り仕切るので、大祝は現人神であっても実権は神長官が握っていたのです。

 さて、前宮や大祝が住んでいた神殿(こうどの)のあったあたりを、「神原(ごうばら)」といいます。神原の一帯が上社にとって由緒ある地であり、この世に神が住まう場所だったのです。しかし大祝の居館は今はなく、土塁だけが残されています。土塁だけとしても、天皇家以外で神として人が暮らしていたというのはすごいことです。現人神を目にしている諏訪人にとって、天皇家とはいかなるものだったか、ちょっと想像できません。神原といい神殿といい、神が本当に身近にいたことは確かです。

 さて、神殿から道を挟んだ西方100メートルばかりの所に、鶏冠社があります。今は石の小さな祠があるだけですが、ここで大祝の即位儀礼がおこなわれたといいます。大祝は8歳ほどの幼童がなり、成人すると退位したといいます。即位儀礼には、鶏冠社に今はありませんが、かつてあった大きな石の周りを幕でおおい、その中で幼童が神長官から梶の葉のついた紫の袴と山鳩色の狩衣を着せられて即位の儀式をあげたといいます。そして、即位した大祝は、内御玉殿という神宝を祀る社から、神宝の真澄の鏡を胸にかけ、八栄の鈴を鳴らして姿を現したのだといいます。この内御玉殿の横にあるのが十間廊(じゅっけんろう)です。ここで例大祭がおこなわれるのです。


諏訪信仰3-諏訪大社上社本宮

2015-10-08 06:30:48 | 民俗学

 

写真は上社境内の配置図なのですが、これを見るだけでいろいろ面白いことがわかります。まず、左拝殿・右拝殿はありますが、本殿がありません。そうなので、諏訪大社は背後の山が神なのです。ところが、神体山は拝殿の右手に在って拝殿に座って正対するのではないのです。つまり、人々は拝殿からあたかも神を遥拝するかのしぐさをするのですが、実際に神は右手の山、もしくは硯岩という磐座にいるのです。江戸幕府が諏訪信仰を統制するため、無理やり仏教を入れて拝殿の奥に仏教施設を作って、それに向かって拝ませるようにしたというのです。ですから、知っている人は拝殿に向かわずその右手を拝むのです。さらに。4本の御柱は通常は神域を囲んでいるはずなのに、ここではそうなっていません。ということは図に見える1と4の御柱より右手の施設は、本来のものではないということで、後から付け加わったものだそうです。

 神社の入り口は、東参道(図の左手)と北参道(図の正面)の2つがあります。北参道が図の正面にあるし1の御柱の近くにありますから、正式な物に思われますが、そうではなくて東参道が正式なものです。東参道は御手洗川を渡り御門から長廊に続きます。御手洗川では、古くは参詣者が禊をしたといいますし、今は元旦に蛙を川床から掘り出して神に供えることで知られる場所です。蛙狩りといいます。蛙を供えられる諏訪の神は蛇体だということを示しているのでしょう。長廊は大祝だけが通った道で、その時は布を敷いたといいます。この廊下から左に曲がって四脚門をくぐれば正面が神体山ですから、本来はこのルートで遥拝したものと思いますが、今はそこは通り過ぎて引き返すような形になっています。 

その他、境内にはいろいろ面白いものがありますが、関心がばらけてしまいますので、詳しくは自分で行ってみてください。ともかく、本宮には本殿がなく山が御神体であることと、拝殿で拝むのはおかしな方向になっていることだけ指摘しておきます。