民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

新安保法施行

2016-03-29 16:00:22 | 政治

ついに新安保法が本日から効力をもった。昨夕は集会に参加し、市内をデモ行進した。思った以上の市民が集まったし、来るべき参議院選挙に向けて野党統一候補の応援にも熱がこもりました。反安保、反自民、何より反安倍です。危険な総理大臣を引きずりおろすことで一致しています。

集会に来た共産党の代表の方の話や、共産党とは別の考えを持っている者だが、この閣議決定は治安維持法並みだといって話した市民連合の方の話から以下のことを初めて知りました。

政府は22日の閣議で、共産党について「現在においても破壊活動防止法(破防法)に基づく調査対象団体である」との答弁書を決定した。破防法は、暴力主義的破壊活動をした団体の活動制限などを定めているが、政府が調査対象の団体を明示するのは異例。答弁書では、共産党が「暴力革命の方針」を継続しているとの認識も示した。

新聞を探しても出ていない情報でした。ネットで探してやっとたどり着きましたが、この閣議決定は参議院選挙前の野党共闘に水をさそうとするタイミングを見計らってひけらかそうとするのでしょう。戦後すぐのころの共産党の暴力革命路線を今になってひきだすなら、国民を満洲へと追いやり大儲けした岸信介の所業も明るみに出してほしいものです。こんな閣議決定で公安の調査対象にできるなら、安倍に反対する勢力は、そのうち全て取り締まられてしまいます。共産主義者を取り締まるとして制定された治安維持法は、戦争に反対する全ての人をとりしまったじゃありませんか。どうしてこんな理不尽なことを、マスコミは報じないのでしょうか。報ずることで自分たちは共産党の新派だと思われたら困ると自粛しているのでしょうか。だったら全く戦前と同じことです。何としても参議院選挙には自民党を追い込み、国民主権を取り戻さなくてはなりません。気が付いたら独裁政治のなかに居たというのはまっぴらです。


お布施

2016-03-26 22:10:55 | 民俗学

松本市浅間温泉にある神宮寺住職高橋卓志さんが責任編集する雑誌、『未来への遊行帳』№6が届きました。葬儀の変化に関して、神宮寺の葬儀を調べさせていただいた縁です。今回のテーマはズバリ「お布施」です。高橋さんは、岩波新書『寺よ変われ』で仏教界に苦言を呈され、業者丸投げの葬式の片棒を担ぐような仏教のありかたに警鐘をならし、業者任せにしない葬儀を実践している稀有な住職です。

最近も、アマゾンの坊さん宅配便への仏教界の講義が物議をかもしました。何年か前にイオンが定価を明確にした葬儀を売り出した時も、仏教界は猛烈に反対しました。当たり前です、座っていればお客さんは頼んでやってくるという、ウマミを奪われるかもしれないという、坊主・寺にとっては死活問題だからです。確かに、葬儀社の費用は明朗会計ではありませんし、数日の間に葬式にかかわるすべての発注をしなければならない時に、見積もりもへったくれもありませんから、提案されるままに必要な発注をせざるをえないことになります。ところが、もっと不可解なのはお寺への支払いです。「支払い」などといったらしかられるかもしれません。お布施です。いったいいくら包めばいいのかわかりません。坊さんに直接聞くわあけにもいかず、地区の寺の役員に教えてもらいました。ところが、前にも書いた気がしますが、父の葬儀のとき、戒名を1ランク上げておいたからというような話が、周囲からやんわりと伝わってきたりしました。要はお布施に色をつけなさいとのことです。頼みもしないのにと腹がたちましたが、寺と面倒は起こしたくありませんし、自分の葬式ならともかく親の葬式ですから(自分の葬式に自分が口を挟むことはできないのではありますが)、10万ほどお布施の上乗せをしたのです。これって理不尽ですよね。戒名によって死者があの世で安楽に暮らせるわけではありません。戒名によって世間に家格を示したいなどと、これっぽちも思っていないのに時代錯誤なお寺にのせられてしまうのです。

神宮寺では、亡くなったら即寺に連絡しなさいといいます。一切を寺が取り仕切ってくれるのです。詳しくは神宮寺にお願いしてこの冊子をおくってもらい、読むことをお勧めします。これまでの葬儀に違和感を感じている人には、高橋さんが明確に答えていて目から鱗が落ちるようです。

母を送ったら、自分は高橋さんの寺に眠りたいと思います。そのためにはどうしたらよいか。まだ相談してないのですが、今の寺と縁を切るのはめんどくさそうです。


卒園式

2016-03-25 04:45:10 | 教育

近隣の保育園に役職で招かれて、来賓として出席しました。小学校長として初めて招かれて参加し始めた卒園式ですが、今回で最後です。これで最後という思いもあってか、5年ほど前と比べて思う所がありました。それは、園によって違うかもしれませんが、式が長くなったということです。できるだけ短くしないと、子どもたちが我慢できないのです。途中でガサガサしてきて、挨拶する方も短くわかりやすくと思わざるを得ませんでした。ところが、最近はそんなことを感じさせないほど長いのです。そのためか、今日は年少と未満児は最初から参加せず、途中から合流しました。そのせいもあったかもしれませんが、子どもたちがチャンと座っていられて、勝手なおしゃべりもしないのです。1時間以上でしたから、驚異的です。年中さんをこのまま小学校の教室に連れて行っても、座っていられそうです。これはいいことなのでしょうか。小学校としては、教室でのしつけから入らなくていいからありがたいのですが、子どもの発達からみたら、こんなに静かでいいのだろうかと、逆に心配になってしまいます。こんなに静かだと、発達障害の子どもは、益々周囲になじめなくなってしまうのではないかと思います。


巡りくる春

2016-03-21 09:13:48 | その他

また春が巡ってきます。きましたと書きたいところですが、信州はまだまだ寒く春はまだ未来形でないと語ることができません。しかし、時間は確実に経過し、あと10日もすれば、4月がやってきます。そして、ようやくまたフリーとなれます。いろんな事情があり、勤務をしていましたがようやく解放されます。3年前の退職時も退職後の仕事を抱えながらでしたが、今回も5月末締め切りの原稿を1本抱え、年度末までの執筆・編集作業を一つ負っています。

それよりもです、この2年間ほっておいた実家の畑を何とかしないと、原野に戻ってしまいます。百姓仕事が好きなわけではありません。特に暑くなってからの草むしりなど、大嫌いです。むしってもむしってもエンドレスに生え伸びて来る雑草の始末は、気が遠くなります。成果が積みあがっていかないことに、ウンザリしてしまうのです。農業とは誠に忍耐強くないとできない仕事だと思います。でその畑ですが、あと1カ月ごには耕して何か植えられるようにしないといけません。小さな畑1枚ですが、その半分くらいに何かを作らなくてはなりません。楽しみに作れればいいのですが、畑に作らされるのは苦痛です。

依頼されている原稿は年中行事関連です。民間暦のサンプルとして、立科町塩沢の、この桜が咲けば苗代を作る(作った)という苗代桜を見に行きたいと思っています。今も枯れないであるのかな。


中学校卒業式

2016-03-16 19:58:03 | 教育

 勤め先の近隣の中学校から招かれて、卒業式に出席しました。中学校の卒業式は久しぶりです。おまけにこちらは招待者ですから、第三者の目で見ることができました。その中学校は卒業生は3クラス100余名でしたから、じっくり見ることができます。

 卒業式のメインは証書授与です。昔は総代が代表して受け取ったようですが、今はそんなことをする中学校はないでしょう。担任が名前を呼び教頭が介添えをして校長が証書を渡すという流れです。人数がそんなに多くないので、手早く簡潔にというプレッシャーはないにたいで、今もらった生徒と次にもらう生徒とが、同時に礼をする場面がスムーズにそろわないという点を除けば、単純に流れていきそうな儀式でしたが、時々途中でギクシャクすることがありました。それは、不登校生の名前が呼ばれたときです。このときは、次の順番の生徒といっても姿はありませんから、一人だけで校長に対して頭を下げ、不登校の生徒の次の順番の生徒が名前を呼ばれて、改めて校長の前に出て礼をしました。時の流れが、あたかもそこで切断されたかのような印象をうけたのです。そこで不協和音を出すことで、不登校の生徒が自己主張しているのです。

 私も大きな学校に勤めたときには、午後別室で午前の卒業式に出席できなかった生徒の卒業式をしました。10人以上の子どもがいるときもあったように記憶します。それすら出席できず、個別に渡した生徒もいました。今日の卒業式に出席できなかった生徒と保護者の方は、どんな風に感じられたことでしょう。それぞれに事情はあるでしょうが、1クラス3人以上いたような気がしますから、ちょっと多いんじゃないかと思った次第です。


社会学にとってのライフヒストリー

2016-03-15 18:36:07 | 民俗学

 小熊英二のオーラルヒストリーに関わるいくつかの仕事を読むうち、かつて気になっていたライフヒストリーという手法が、また気になり始めました。一人一人の生き様が丸ごと生きられた哲学として学問になるべきではないかと考えていました。尋常小学校卒業で手に職をつけ、裸一貫から地域に根付いて信頼され、一生を終えた父親のような生き方をそのまま学問にはできないものか。そうしたことができるのは民俗学しかないとも思われました。

 ところが、社会学では個人の人生をいかに学問の俎上に乗せるか、研究の積み重ねがあるみたいです。ちょうど手もとにあった『ライフヒストリーの社会学』 中野卓・桜井厚編 弘文堂 平成7年 から社会学の考えるライフヒストリーをあぶり出してみたいと思います。古いものですが、民俗学では成果(有名なところでは宮本常一の土佐源氏)はいくつかありますが方法的研究はほとんどなされていませんから、とりあげるだけの価値はあると思います。

 まず巻頭論文で佐藤健二が、ライフヒストリー研究の問題点を整理しています。佐藤によれば社会学でライフヒストリーという方法が論議されるようになったのは、中野卓編著の『口述の生活史』以後だという。そしてライフヒストリーはまだ確かな方法とはなっておらず、ライフヒストリーが社会学の依るべき方法なのかという問いかけが必要だとして、考察をはじめる。佐藤は「口述」の方法的特質として3点をあげる。第一に口述の現在性。口述は話し手にも記録する研究者にも、現在が刻印される等身大の現代史だという。第2に口述の主体性。質問紙に書かれた型どおりの質問に答えるのではなく、何を語るかは話し手の自由に任されているという、言い間違いを含めた主体性です。第3に口述の現場性。話してと聞き手で構成する現場の相互作用の意味です。この相互作用について、小林多寿子が次の論文で考察しています。

 小林によれば、「インタビューとは相互作用である。この相互作用は、聞き手と語り手との対面的なコミュニケーション状況といいかえられる。ライフヒストリーは、この相互作用の場を経て生まれるものである。したがってライフヒストリーを考えることは、語り手と聞き手との相互作用の中で共同制作される「人生」を考えることになる。」のだといいます。

 ライフヒストリーとは調査現場での相互作用だとして、ではどうやって成果を作品(論文)として定着させるかが問題になります。このことについて、井腰圭介が「記述のレトリック―感動を伴う知識はいかにしてうまれるか」と題して述べています。ライフヒストリー研究では、語りの記述の仕方とその資料化に多大な労力と注意を払っているが、それは「語られたことを「要約」によってではなく「語られたまま」に記述することによってこそ、また、その構成過程で研究者が編集という徹底した「黒子」の立場に止まることによってこそ、より適切に研究課題に答えられるとする意識があるから」だといいます。そして、研究者おこなう「編集」という作業は、「聞き手が話者の語りを通して了解した「話者によって経験された世界」を読者という一般的な他者に了解可能な世界へと表現しなおす変換作業だといいます。変換作業とは具体的には、語りを話者の加齢にそった時系列に並べなおすことを意味しています。

 民俗学で語りの場をそのまま再現しようという聞き取りの方法は、主として口頭伝承の記録、研究に際して用いられてきたと思います。調査者の聞き方、対応の仕方によって話者の話が変わってくるのは経験的にあったことです。聞き手が男性か女性化で、話者の選ぶ話柄が変わるのもよくあったことです。ですが、通常の民俗調査ではそこまで現場の状況にこだわってはきませんでした。また、3人いれば3人5人いれば5人のライフヒストリーは全く異なって当然ですが、民俗調査だとして聞き取る場合、複数の話者に共通する最大公約数的な事象をいつの間にか探しているか、心のどこかに話者の個人的な特異な体験かどうか吟味するような構えがあることも事実です。そこは、社会学の調査と民俗学の調査とが異なる点だと思います。社会学だと全くの個人的経験が、どんな当時の社会状況をバックボーンとして得られたものかを明らかにするのでしょう。

 神は細部に宿り給うといいますが、はてさて民俗学ではライフヒストリーをどうやって位置づけたらよいのでしょうか。


進路指導の誤り

2016-03-14 11:43:09 | 教育

 誤った万引きの指摘のために中学3年生が自殺するという、痛ましい事件が起きました。完全なる学校のミスですが、このニュースが報道されて疑問に感じたことが2つありました。

1 進路指導を学年・学校体制で行わなかったのかということです。おそらく担任は学年ごとに代わったのでしょう。だから、以前の学年の時のことは記録に頼るか、当時同じ学年だった先生に聞く以外に確認のしようがありません。この生徒は、こういう理由でどこそこの学校に推薦する、推薦しないということを、学年全体で合意して進路指導委員会なりに発表して了解を得るのが、通常の進路指導のありかただと思います。そうでなければ、担任の恣意的な判断が介入してしまいます。1,2年次の万引きが問題になる(このことは教育的でないと思いますが、それは後で述べます)とすれば、それを事前に討議すれば、当時の学年のときの関係者が誰かはいるはずですから、そこで間違いに気づいたはずです。万引きしたかどうかを、本人に確認して判断するなどということは、一番確かそうで一番いいたくない人に確認をとるという配慮に欠ける方法です。今回はやっていなかったのですが、やっていたとしても聞かれたくない情報です。「お前はやったのか」といわれて、「やっていません」といっても、「うそをつくな。記録に残っているじゃないか」といわれれば、生徒とすれば反論のしようがありません。教員は強権を有していることを肝に銘じていなければならないのです。

2 1・2年次の触法行為を3年になっての進路指導に持ち出すことが、教育的なのでしょうか。おそらく生徒指導の困難な学校であることが予想されます。厳しく対応しないと生徒になめられてしまうなどと教員の側が考えたのかもしれません。該当の万引きと校内暴力が同時に起きて、万引きの指導の扱いが軽率になったというのはよくわかります。万引きは、店から学校への連絡か本人からの申し出がなければ、学校としては把握できない事案です。警察では個人情報だということで、学校へは連絡をよこしません。今回の事件はこのことは報道されていませんが、万引きというのはその程度の扱いのものなのです。1,2年次に万引きをしたら推薦の対象からはずすというなら、学校ヘは黙っていたものの勝ちです。万引きへの対応というのは、どうしても差がでてしまうものなのです。親が正直に担任に告げて、今後の指導について相談などしたらアウトです。それは、とってもおかしなことです。成長途上の子どもだということで、今後二度と繰り返さないようにと、学校も親も指導し、反省文を書かせたり生活の立て直しを図らせたりします。それで立ち直ったとしても、推薦しないということは認めないということです。自殺事件の後にこの規定は撤回したそうですが、学校のとるべき措置ではなかったと私は思います。いくら大変な生徒だって、変わりますしそう思わなければ教育などできません。よほど生徒指導に不慣れな役人のような校長であったと思います。


神への冒涜?

2016-03-12 17:27:49 | 民俗学

甥の婚礼が石川県の結婚式場であり、列席しました。それが、式はキリスト教形式であげたのです。これまでもいくつかそうした婚礼には出席したのですが、身内がキリスト教で式をあげたことはありませんでした。牧師がとりしきり、讃美歌を歌い神に誓いをたてました。本人たちは荘厳な雰囲気を味わいたかったでしょうが、複雑なきもちになりました。讃美歌を一緒に歌ってください、アーメンと唱えて下さい。アーメンは私もそう思いますという意味です。と言われても、「ウッ」と引いてしまいます。神を信じてもいないものがここにいてもいいのか、神への冒涜ではないかと思ったりします。本人たちは至極もっともな顔をし、もちろんキリスト教徒ではありませんし、神などと考えたことは100パーセントまでとはいいませんが、ないはずです。おそらく列席した20人くらいの親族で、クリスチャンはいないと思いますが、讃美歌(聞いたことのある別の歌詞のメロディー)を歌っていました。私はどうしても歌えませんでした。それは、儀式でうたう君が代みたいでした。そう思っていないことは歌えません。

もともと大いなるものに結婚を誓うという形式は日本にはなかったものです。神前結婚などというものは、大正天皇の婚礼に際して、キリスト教形式に則って創作されたものなのです。人前結婚こそが旧来の伝統的この国の婚礼なのです。


原子力発電所と米軍基地

2016-03-09 19:35:34 | 政治

 新安保法制の撤回を求める信大人の会の学習会に久しぶりに参加しました。今回は、茅野恒秀先生の「エネルギー政策の経路依存と軍事利用の影」という講演がメインでした。話は、原発事故後のエネルギー政策、原発のある地域社会―青森県六ケ所村を例に の受け止め。なぜ破たんしたプルサーマルを必要とするか などをわかりやすく説明してくれました。原発立地自治体にいかに多くの補助金が投入されているか、それが議員の7割ほどが携わる土建業に流れていることが明らかにされました。そして、破たんした核燃料サイクルに大金をかけても形ばかりを維持しないと、核兵器の原料であるプルトニウムを持っていられない、つまり採算を度外視した「国防」という国策での事業であることがわかりました。

 この講演を聞きながら、私はまた別なことを考えていました。それは、原発と米軍基地とはパラレルな関係にあるということです。沖縄辺野古と青森六ケ所村、象徴的に取り上げられる土地がこの国の南と北の辺境であるのも似ています。補助金をジャブジャブ投入して現地の人々を自立できない依存症にし、国防(原発は陰に隠れていますが)を理由に有無をいわせない。こんなことを続けさせてよいものでしょうか。

 もう一つ、初めて知ったことがありました。小出裕章氏によれば、東芝の粉飾決算は原発輸出で三菱に勝つための技術導入を図るため、東芝がアメリカの原発メーカーを資産の何倍もの金で買収したのがそもそもの原因だといいます。報道されていない理不尽なことはたくさんありますね。


原子力発電所と米軍基地

2016-03-09 19:35:34 | 政治

 新安保法制の撤回を求める信大人の会の学習会に久しぶりに参加しました。今回は、茅野恒秀先生の「エネルギー政策の経路依存と軍事利用の影」という講演がメインでした。話は、原発事故後のエネルギー政策、原発のある地域社会―青森県六ケ所村を例に の受け止め。なぜ破たんしたプルサーマルを必要とするか などをわかりやすく説明してくれました。原発立地自治体にいかに多くの補助金が投入されているか、それが議員の7割ほどが携わる土建業に流れていることが明らかにされました。そして、破たんした核燃料サイクルに大金をかけても形ばかりを維持しないと、核兵器の原料であるプルトニウムを持っていられない、つまり採算を度外視した「国防」という国策での事業であることがわかりました。

 この講演を聞きながら、私はまた別なことを考えていました。それは、原発と米軍基地とはパラレルな関係にあるということです。沖縄辺野古と青森六ケ所村、象徴的に取り上げられる土地がこの国の南と北の辺境であるのも似ています。補助金をジャブジャブ投入して現地の人々を自立できない依存症にし、国防(原発は陰に隠れていますが)を理由に有無をいわせない。こんなことを続けさせてよいものでしょうか。

 もう一つ、初めて知ったことがありました。小出裕章氏によれば、東芝の粉飾決算は原発輸出で三菱に勝つための技術導入を図るため、東芝がアメリカの原発メーカーを資産の何倍もの金で買収したのがそもそもの原因だといいます。報道されていない理不尽なことはたくさんありますね。