小熊英二のオーラルヒストリーに関わるいくつかの仕事を読むうち、かつて気になっていたライフヒストリーという手法が、また気になり始めました。一人一人の生き様が丸ごと生きられた哲学として学問になるべきではないかと考えていました。尋常小学校卒業で手に職をつけ、裸一貫から地域に根付いて信頼され、一生を終えた父親のような生き方をそのまま学問にはできないものか。そうしたことができるのは民俗学しかないとも思われました。
ところが、社会学では個人の人生をいかに学問の俎上に乗せるか、研究の積み重ねがあるみたいです。ちょうど手もとにあった『ライフヒストリーの社会学』 中野卓・桜井厚編 弘文堂 平成7年 から社会学の考えるライフヒストリーをあぶり出してみたいと思います。古いものですが、民俗学では成果(有名なところでは宮本常一の土佐源氏)はいくつかありますが方法的研究はほとんどなされていませんから、とりあげるだけの価値はあると思います。
まず巻頭論文で佐藤健二が、ライフヒストリー研究の問題点を整理しています。佐藤によれば社会学でライフヒストリーという方法が論議されるようになったのは、中野卓編著の『口述の生活史』以後だという。そしてライフヒストリーはまだ確かな方法とはなっておらず、ライフヒストリーが社会学の依るべき方法なのかという問いかけが必要だとして、考察をはじめる。佐藤は「口述」の方法的特質として3点をあげる。第一に口述の現在性。口述は話し手にも記録する研究者にも、現在が刻印される等身大の現代史だという。第2に口述の主体性。質問紙に書かれた型どおりの質問に答えるのではなく、何を語るかは話し手の自由に任されているという、言い間違いを含めた主体性です。第3に口述の現場性。話してと聞き手で構成する現場の相互作用の意味です。この相互作用について、小林多寿子が次の論文で考察しています。
小林によれば、「インタビューとは相互作用である。この相互作用は、聞き手と語り手との対面的なコミュニケーション状況といいかえられる。ライフヒストリーは、この相互作用の場を経て生まれるものである。したがってライフヒストリーを考えることは、語り手と聞き手との相互作用の中で共同制作される「人生」を考えることになる。」のだといいます。
ライフヒストリーとは調査現場での相互作用だとして、ではどうやって成果を作品(論文)として定着させるかが問題になります。このことについて、井腰圭介が「記述のレトリック―感動を伴う知識はいかにしてうまれるか」と題して述べています。ライフヒストリー研究では、語りの記述の仕方とその資料化に多大な労力と注意を払っているが、それは「語られたことを「要約」によってではなく「語られたまま」に記述することによってこそ、また、その構成過程で研究者が編集という徹底した「黒子」の立場に止まることによってこそ、より適切に研究課題に答えられるとする意識があるから」だといいます。そして、研究者おこなう「編集」という作業は、「聞き手が話者の語りを通して了解した「話者によって経験された世界」を読者という一般的な他者に了解可能な世界へと表現しなおす変換作業だといいます。変換作業とは具体的には、語りを話者の加齢にそった時系列に並べなおすことを意味しています。
民俗学で語りの場をそのまま再現しようという聞き取りの方法は、主として口頭伝承の記録、研究に際して用いられてきたと思います。調査者の聞き方、対応の仕方によって話者の話が変わってくるのは経験的にあったことです。聞き手が男性か女性化で、話者の選ぶ話柄が変わるのもよくあったことです。ですが、通常の民俗調査ではそこまで現場の状況にこだわってはきませんでした。また、3人いれば3人5人いれば5人のライフヒストリーは全く異なって当然ですが、民俗調査だとして聞き取る場合、複数の話者に共通する最大公約数的な事象をいつの間にか探しているか、心のどこかに話者の個人的な特異な体験かどうか吟味するような構えがあることも事実です。そこは、社会学の調査と民俗学の調査とが異なる点だと思います。社会学だと全くの個人的経験が、どんな当時の社会状況をバックボーンとして得られたものかを明らかにするのでしょう。
神は細部に宿り給うといいますが、はてさて民俗学ではライフヒストリーをどうやって位置づけたらよいのでしょうか。