民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

コロナの前と後

2020-04-27 11:51:12 | 歴史

コロナの流行であぶり出された幾つもの事があります。また、有識者はコロナ後にあの時が転換の始まりだったといわれるような、社会の転換点だといったりもします。確かに、これが社会の大きな転換点だとしたら、今の自粛も耐えようがあります。しかし、そんな風に意識付けられるような社会・政治の変化が見込まれるでしょうか。あの、3.11がこの国の大きな転換点になると人々は思いましたし、私も思いました。ところがどうでしょう。何がかわったというのでしょうか。時間が経過すれば、全てはまた元通りで、思考の転換など何もありません。私はといえば、電気を再生エネルギーのものに契約をかえたぐらいで、やっぱり変化といえるほどのものはありません。同じように、コロナの災厄ものど元過ぎれば、また忘れ去られてしまうのでしょうか。

今日の朝日新聞に、県立歴史館の村石さんが書いた、スペイン風邪についてのブログが紹介されていました。ここでも、歴史人口学者の著書で、過去の感染症の流行に学ばなければならないと書かれているそうです。つまりは、過去から学んでいないということなのですね。この国はいつもそうです。あの敗戦からだって何も学んでいないし、原発事故からも、感染症の流行からも学ぶところがないのです。すべてが不可抗力な災害になってしまい、過去を分析して事前に備えるという思考にならない。人智の及ばない出来事には対処のしようがないことになってしまいます。これで一番救われるのは、政治家・為政者です。国民の生命と財産を守るのが一番の仕事の人たちが、災害だから仕方ないと責任を問われません。


平城宮から京都御所へ

2018-11-13 15:57:16 | 歴史

奈良、京都から帰ってきて、少しはましな事を書こうと思っていたのに、雑誌『信濃』1月号の原稿が出そろい、割り付けや原稿の修正などをしているうちに時間が過ぎていきます。それでも気になることがあります。それは、奈良の平城宮跡に復元された大極殿と、京都で事前申し込みが必要なくなった御所で紫宸殿を見たことです。

いずれも臣下の位置から天皇を見上げる形でとったものですが、目線を逆に転じて天皇の目から見たらどうでしょう。大極殿の前には広い庭が広がっていました。高御座から歳の初めに暦を与えて百官を見渡した天皇は、神そのものになっていたのでしょうか。ちなみに写真の高御座はレプリカですし、紫宸殿にある高御座は来年の即位に備えて、修復のために東京に運ばれているのだそうです。大極殿の高御座は想像して造られたものですので、レプリカといっていいのかわかりませんが、紫宸殿にある、つまり今度の即位の礼に実際に使われる高御座も、大正天皇の即位から使われるようになったものですから、こいつもレプリカといっていいものでしょう。本物なんてないというのが、「天皇制」の実態でしょう。

それで、紫宸殿の前庭と大極殿の前庭を比較したら比較になりません。紫宸殿のまえに百官が並んで天皇を拝するなんてことはなかったのですから、当然といえば当然です。大極殿は中国の有り方をそのまま再現しようとしたもので、紫宸殿になると白木の建築で和風となってきたことがわかります。ただ、壁には中国の賢人が描かれ、それにならった政治をおこなうように設定されているといいますので、中国文化が大きなバックボーンとなっていたこともわかります。中国の指導者層には強固な中華思想があって当然です。

 


川村カ子トアイヌ記念館

2018-07-11 16:26:50 | 歴史
昨日から旭川にいました。昨日はあの動物園を見学し、今日は旭川市博物館、三浦綾子記念文学館、川村カ子トアイヌ記念館を見学しました。三浦綾子記念文学館はパーキンソン病の作家ということで妻の希望、後はアイヌについてもっと知りたかった私の希望です。博物館では、アイヌの生活を丁寧に説明し、北方文化に占める北海道の位置がよくわかりました。また、アイヌが元と戦っていたことを初めて知りました。
そして、川村カ子トです。何か気になり、交通の便は良くないのですが、訪ねてみました。そしてびっくりしました。川村カ子トという名前に引っ掛かるのは、多分どこかで見ていたのです。それは難所を克服して飯田線の測量をしたアイヌの測量士でした。彼がアイヌ文化が失われることを恐れて、故郷に自費で建設した資料館だったのです。

小樽にて

2018-07-10 10:04:16 | 歴史

泊まったホテルの窓から、運河の向こうに見えるのは渋沢倉庫。渋沢栄一が小樽で始めた倉庫会社だそうです。小樽では最盛期には沢山の銀行があり、北のウヲール街と呼ばれたとか。それらは今、保存されて土産物屋になっています。昭和前期で時間が止まっているような町並みです。観光客の多いこと。次の写真は旧日銀。
ニシンで栄えた商都の一時の夢か。アイヌの果たした役割は一切説明無しで、街の歴史は語られています。

教育への政治の介入

2018-03-21 17:25:08 | 歴史

長野県は満蒙開拓団、満蒙義勇軍の人々を全国一送出した県として知られています。これについては何度か書きましたが、その理由として、長野県が山間地で耕地に乏しく、満州に行けば広大な土地がもらえるという宣伝文句に安易にまず数人々が飛びついたといわれるが、ならば同じくらい耕地に乏しい岩手県などで長野県ほど送出していないのはなぜか説明できないとして、それだけでは説明できないといわれました。もう一つは、教職員の団体である信濃教育会が熱心に勧誘したからだというのが挙げられます。そんなに一生懸命教え子をソ連との最前線の危ない場所に送ったのかが問われます。それは、露骨な教育への政治の介入で追い詰められた信濃教育会が、政府のお先棒を率先して担ぐようになったからなのです。

1919年の戸倉事件では赤羽王朗などの白樺派の教員を排除し、1924年の川井訓導事件では修身の時間に国定教科書を使わなかったとして自由教育運動を弾圧し、1933年の2・4事件では治安維持法違反で社会主義・自由主義教員を根こそぎ検挙しました。今度の前川さんの件でもそうですが、国が弾圧し捕まえようと思えば、理由はどうとでもつけられます。今回の場合知事や教育長の毅然とした対応で、文科省側の不当性が際立ち、事なきを得ましたが、歴史を振り返れば、こうした介入はだんだん露骨になっていくことが考えられます。露骨になるほどに戦争に近づいているといってもよいでしょう。日の丸・君が代では文句を言わなくなったから、今度はハードルをあげた踏み絵を用意して教育の国家統制を図ってくるように思われます。

同じ政権が長く続き、官僚と政権が当然のように結びつき、官僚が政治家の顔色ばかり見て実務を行うようになって、様々な問題が露出してきたように思います。政治というのは、全ての納税者に対して公平でなければなりません。


西南戦争

2018-01-31 08:13:08 | 歴史

西郷が最後に潜んでいた洞窟と、終焉の地を見て、西南戦争とは何だったのか考えてしまいました。
隼人の乱、シャクシャインの乱、島津の琉球侵攻、五稜郭の戦い、西南戦争、琉球処分、沖縄占領と並べると何か見えてくる物がありはしないか。中央と辺境という枠組みの中で、いつもはみ出してくる我慢の限界。沖縄は反乱の一歩手前でしょうか。

斎藤成也著『日本人の源流』を読む

2017-12-28 14:40:40 | 歴史

遺伝学、統計学から日本人の源流を探った、最新の成果です。

ヤポネシアへの三段階渡来モデル
第一段階 約4万年前~約4400年前 第一波の渡来民が、ユーラシアのいろいろな地域からさまざまな年代に、日本列島の南部、中央部、北部の全体にわたってやってきた。北から、千島列島、樺太島、朝鮮半島、東アジア中央部、台湾からというルートが考えられる。

第二段階 約4400年前~約3000年前 日本列島の中央部に、第二の渡来民の波があった。彼らの起源の地ははっきりしないが、朝鮮半島、遼東半島、山東半島にかこまれた沿岸域およびその周辺の「海の民」だった可能性がある。彼らは漁労を主とした採集狩猟民だったのか、あるいは後述する園耕民だったかもしれない。以下に登場する第三段階の、農耕民である渡来人とは、第一段階の渡来人に比べると、ずっと遺伝的に近縁だった。第二波渡来民の子孫は、日本列島の中央部の南部において、第一波渡来民の子孫と混血しながら、すこしずつ人口が増えていった。一方、日本列島中央部の北側地域と日本列島の北部および南部では、第二波の渡来民の影響はほとんどなかった。

第三段階前半 約3000年前~約1700年前 弥生時代にはいると、朝鮮半島を中心としたユーラシア大陸から、第二波渡来民と遺伝的に近いがすこし異なる第三波の渡来民が日本列島に到来し、水田稲作などの技術を導入した。彼らとその子孫は、日本列島中央部の中心軸にもっぱら沿って東に居住域を拡大し、急速に人口が増えていった。日本列島中央部中心軸の周辺では、第三波の渡来民およびその子孫との混血の程度がすくなく、第二波の渡来民のDNAがより濃く残っていった。日本列島の南部(南西諸島)と北部(北海道以北)および中央部の北部では、第三波渡来民の影響はほとんどなかった。

第三段階後半 約1700年前~現在 第三波の渡来民が、ひきつづき朝鮮半島を中心としたユーラシア大陸から移住した。それまで東北地方に居住していた第一波の渡来民の子孫は、古墳時代に大部分が北海道に移っていった。その空白を埋めるようにして、第二波渡来民の子孫を中心とする人々が北上して東北地方に居住した。日本列島南部では、グスク時代の前後に、おもに九州南部から、第二波渡来民のゲノムをおもに受け継いだヤマト人の集団が多数移住し、さらに江戸時代以降には第三波の渡民系の人々もくっわって、現在のオキナワ人が形成された。

従来の説では、縄文人の居住する列島に弥生人が移住したが、北と南には縄文人の血を引く人々が残ったとするものでしたが、弥生人が渡来する前に、もう1回渡来人の移住を想定した点が新しいところで、根拠は母から代々受け継ぐDNAの分析によって遺伝的に近いか遠いかを統計的に処理して得た結果だというのです。DNAの分析方法や統計処理の仕方は専門的で、すぐには理解できないものですが、結果だけを利用して文化論的な考察を加えれば、面白いものになると思いました。出雲人が関東人よりも縄文的遺伝子が濃いというのは、面白い。出雲は国つ神の国だと遺伝子からもいえるのです。

 


古文書を読むー国司塚

2017-06-12 08:27:24 | 歴史

先日の古文書教室で読んだ古文書のことについて書きます。前にも書きましたが、この教室は公民館で、古文書に興味のある地域の人々(多くが高齢者で参加者同士は顔見知りみたいです)が、講師の先生が用意してくれた古文書の読み合わせをするものです。参加は自由で参加費もとりません。講師の先生は全くのボランティアで、参加者は皆一般の人で、何か研究しようとする人は、見た感じではいません。そこで、何より崩した文字を読めるようになることが目的で、読んだ史料の内容には、あまり興味がわかないようなのです。というか、現代人の自分の感覚で近世文書を読んでいるといえばいいでしょうか。なぜこんなことを書くかといえば、先日読んだ文書は、自分はその内容に興味をひかれたからなのです。

文書の題名は、「一札之事」という何の変哲もないもの。差出人は「大村」という集落の庄屋など主だった住人、あて先は隣接する横田村と惣社(そうざ)村の庄屋です。問題はその内容です。東河原兼七なる者が大村にある「国司塚」と呼ばれる場所に家を建てたいといってきたので、大村の庄屋はそれを許した。ところが村人は承知しないでいろいろ申し立てたので、えらい人に入ってもらって話したところ一同納得し、5年間兼七の心得を見届けて本当に言うとおりならば家を作ることを許すと証文を取り交わした。このことを承知しておいてほしい。私の怪しい古文書の読みでは、こんな内容です。私が気になったのは、「国司塚」という塚に家をたてたいという希望はどういうことなのか、そして東河原兼七とはいかなる人かということです。まず、東川原とは松本町の地名で差別地だった河原の荒れ地だそうです。河原町と同じ河原でしょう。「国司塚」とは、今は正確な場所を比定できていませんが、一時信濃の国の国府が松本の東側に置かれたことがありまして、国府に派遣された国司の墓だと伝承されていたのが、「国司塚」です。明治初期に編まれた『長野県町村誌』の岡本村の項では、国司塚として以下のような記述がみられます。「村の巳の方十九町にあり。東西三間、南北三間、平坦より一等高く塚をなせり。宝亀年間信濃国司、菅生王と云ふ人の塚なりと云伝ふ。光仁天皇宝亀三年二月丁卯、信濃国司菅生の王、従五位上為中務大輔少納言、信濃守如故任日不詳と、続日本紀に見えたり。」随分大きな塚です。水害で流され今は平らになっているそうですが、「国司塚」は今もあるそうです。そして、講師の先生も参加者も近辺の人々ですから、本当に国司が葬られた墓がわが村にあるのだと信じて話しています。本当に国司、菅生の王の墓なのでしょうか。そこで、『長野県歴史人物大事典』で菅生王を見ますと、次の記述がありました。「奈良時代の貴族、信濃国の遥任国司。生没年は不詳。従五位上の官位をもち、771年(宝亀2)兼帯少納言信濃守、翌年2月には中務大輔をも兼ねている。信濃守はもちろん遥任である。同年10月、小家内親王を奸する罪で除名されてしまっている。(以下略)」ここで注目するのは、「遥任」です。国司はこんな山の中には赴任してこないわけです。冷静に考えれば当たり前ですが、現地の人々にすれば国司がやってきてここで死んだので葬った、それが国司塚だと信じていた(る)のです。将軍塚というほどには大きな古墳ではないので、国司塚と名付けて伝承したのでしょう。

横道にそれましたが、国司塚と伝承される土地に家を建てたいと村の長に願い出た兼七は、おそらく人の死に関わり異界とのコミュニケーションができる人だろうと想像されるのです。おそらく国司塚は村の管理地となっていたのでしょう。だから庄屋に家を建てたいと願った。庄屋は許したが村人は承知しなかった。この理由がわかりません。また、5年何事もなかったら許すとした取り決めを、隣接の村の庄屋にも連絡したのはなぜなのか。これもわかりません。また、そもそもなぜ国司塚に家を建てようとしたのか。そんな場所に家を作って、生業はどうしたのか。1枚の古文書から疑問がふくらみます。


福島正則と一茶

2017-05-30 17:35:20 | 歴史

今日は高山村の一茶館と福島正則の居館跡を見て帰ってきました。まずは一茶です。一茶は信濃町の柏原で生まれた俳人です。なんで高山村で一茶なのかと思いましたが、高山村の豪農が一茶のパトロンで、離れを一茶のために用意して養い、一茶は1年の半分もそこで門人の指導をしながら暮らしたのだそうです。実は、先週の土曜に信濃史学会の総会があり、記念講演で高橋敏先生が百姓弥太郎としての一茶を取り上げ、ちょっとひねった話を聞かせてくれたので、興味をもって見ることができました。高橋先生の話は、皆一茶は芭蕉と並ぶ俳人として偉がるが、本当にそうか?柏原の地域社会の中で一茶を見たら、10年も江戸へ出て家のことは全く顧みないでおいて、いきなり帰ってきたと思ったら、勤勉に家を守り農地を増やして百姓を継いできた義弟から、何年も訴訟をして財産を奪い取るというひどいことを平気でできた人だ。人としてどこがそんなに偉いのか、といった話でした。句を読めば、いかにも弱弱しくいじめられて育ったかのように思われるが、本当は平気で弟から財産をぶんどれるような人なのだ。ということで、資料をまとうに読めば、一茶の違った姿が見えてくるというのです。一茶が足しげく高山村に通ったのも、生地では相手にされず飯を食うためにパトロンのところに食客として居候していたともいえます。一茶のいた離れを移築して保存してありましたが、なかなかしゃれた数寄屋風の家です。

福島正則屋敷跡は寺になっていました。石垣が残るのみですが、居館とはいえないほどの広さです。広島50万石から川中島2万石、越後魚沼に2万5千石の領地を得てといっても形ばかりの領地を与えられて、体よく流されたのでしょう。館跡は県史跡となり、高井寺(こうせいじ)がたつ。うろうろしているのに気付いた寺のお大黒が、戸を開けて本堂に上げてくれました。「(福島正則が)なくなったあと、一か月も見に来なかったんだそうですよ。はめられたんですね」問わず語りに、今も昔もひどいことをしますねと話してくれました。福島正則は病死ですが、幕府の検視が来る前に荼毘にふしてしまったとお咎めを受け、領地は全て没収されたとか。福島正則の嫡子は若くしてなくなっていますが、それも毒殺じゃないかといいます。寺のお大黒はそんな話もしてくれました。

 


鉢植え議員

2017-05-29 16:22:16 | 歴史


高山村の山田温泉に来ています。途中、福島正則の霊廟に寄ったり、滝を見たりして、緑の中に溶け込みそうな宿にいます。
福島正則は秀吉子飼いの大名ながら、関ヶ原で家康方についたものの、その後はいちゃもんをつけられて、山深い高井の僅かな所領に流され、5年ばかりして亡くなると、その所領すら奪われて廃絶となりました。領国支配していた戦国大名が、ただの大名、それも鉢植え大名に変わる過渡期といえるでしょう。そこで、これは小選挙区制になって、党に一元支配される国会議員と、まるで同じではないかと思ったわけです。自分の地盤から離されて、とんでもない所から立候補させられたり、刺客を立てられたり、江戸時代と同じではありませんか。福島正則を悲劇と思ったら、今の国会議員も、同じようなものです。それで民に対してはふんぞり返って、ストレスを解消することになります。