民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

希望格差社会読了

2006-01-08 11:19:24 | 教育
 学習意欲をほとんどなくした生徒や、得点分布の上下2極化、夢は必ずかなうと意味もなくしがみつく風潮。気なる社会と学校の現象を、冷酷にデータをもとに手際よく処理したのが、この『希望格差社会』であった。グローバル化によって、勝組と負組がいやおうなく生じ、社会の各所に矛盾が生まれるという、読むほどに暗い話で、最後にあるという処方箋をたよりに読みきった。
 しかし、残念ながら処方箋というほどのものは示されていない。個人的対処には限界があるので、総合的な公共的取り組みが必要だという。そんなことは当たり前で、改めていうほどでもない。要は、今少子高齢化にばかり目がいっているマスコミや行政に対して、今を生きる若者への待ったなしの対応が求められていることを、どうやってもっとアピールするかではないだろうか。このままでは、意欲を失い義務教育を卒業しても、行き場のない若者が急増してゆく。勉強は不得意でも、手に職をつければ食べていかれる、という職業教育・職業観はできないものか。
 学校内部には、旧社会での教育の理想を説く論が幅をきかせ、社会の変化にまで目配りをした教育論は見られない。現場の教員は、古い教育観を持った上と、功利的要求の強い保護者、社会の変化に翻弄される子ども、この3者につきあげられ、心休まる日がない。

我が家の都市化高齢化

2006-01-04 18:17:54 | 民俗学
 妻の実家も私の実家も、父母二人暮らしのため、正月は両方の家で過ごすのが恒例となっている。正月準備は、それぞれの家で済ませたところへ私たちが訪れることになるが、今年は大きな変化があった。まず、私の実家では、今まで父が松をとってきて縄をない、正月飾りを作って飾っていたのだが、高齢となった父は、作るのが大変だと、近所の親戚に頼んで門松を買ってきてもらって飾ってあった。ところが、松本周辺ではカドマツという習俗はなく、景色ととしてどうも落ち着かない。本来なら、自分が伝承して作るべきものなのだが、縄をなえないものに、注連縄はできないのだ。まだわが子たちが小さかったころ、おじいちゃんに教わって注連縄を作りながら、お父さんは研究するだけで作れないからダメダと非難されたことが、ついに現実となってしまった。仕方ないので、松と注連縄を買ってきて玄関に飾ったのである。きっと、かつて近世や近代にも、町にでていった人たちが何代かするうち、歳の市でこんなふうに注連飾りを買うようになったのだろうと思う。父とは母は、門松を買ったのに加えて、餅をつくのもやめてしまった。何年も前から、せっかく餅をついても子供たちが食べなくなって、カビらせてしまうばかりだったから、お供えだけ搗くだけにしてほしいと私はいっていた。むろん、搗くといっても機械で搗いていたのだが。それが、急に買ったお供えに変わっていた。父母が本当に年をとったことを実感したのである。
 妻の実家では、歳神様は作って飾ってあったが、お供えはなかった。買ってきて飾ろうとしたが、買いに行くのが遅かったら、お供えは売り切れてなかったという。
 こんな正月を迎えながら、年末に少しはためておいた原稿も書かねばと、執筆を依頼された辞典の項目を確認すると、年中行事の正月行事の項目が「大歳」から始まってズラッと並んでいるではないか。注連縄を購入し、お飾りはないような正月をする一方で、自分は昔ながらの正月習俗を原稿に書く。読者の皆様ごめんなさい。