秋篠宮の大嘗祭に関する発言が、各所に波紋を投げかけている。しかも、その発言が国民目線で至極真っ当だと受け止められるから、政権にとっては始末が悪い。苦虫をかみつぶしたような菅の会見を見ても、余計なこといいやがってという腹の中が透けて見える。天皇を元首とする明治憲法の復活を願う安倍政権が、天皇そのものをいかに遇したいのかわからず、マスコミも有識者もまともな対応ができていない。いったい天皇制の本義はどこにあるのか。
天皇制の本義は、「永続性」につきる。天皇一族が最も恐れるのは、自分の代で天皇制が潰えることである。これまでも天皇家はその永続のために様々な戦略を練ってきたが、基本は政権との間に距離を置くことである。そうしないと、政権が倒れたときに共倒れとなってしまう。政権が倒れても天皇制は続かなければならないのである。明治維新の元勲たちは、天皇を玉と呼び、自分たちの政権のためにいかに有効利用するか考えていた。表向きは尊崇するかに見せて、一番かわいいのは自分だったのである。安倍政権も基本的に同じだろう。だから天皇家は嫌うのだ。権力を握ろうとする者とは距離を置く。
大嘗祭の費用を公費から出して行うことは、政権と天皇家が一体であることを示している。現政権が永遠に続けばよいが、民主主義はそうではない。いつ倒れるかわからない政権に一体化していけば、政権が変われば天皇制は廃止されるかもしれない。だから政権とは距離をおき、国民の意思にできるだけ近い場所に位置しておく。そのことが、天皇制を永続させる一番の近道なのだ。天皇家の永続のためなら、沖縄もアメリカに売りわたした昭和天皇、その意志は象徴天皇を体現し、簡単には変わらない憲法に依拠することで天皇制の永続を図るという形で、現天皇に受け継がれている。現天皇の沖縄への思い入れは、父の行為への後ろめたさにあるのかもしれない。そして次の天皇はというか、天皇家は大嘗祭の本義が民主主義の原理によって否定されることを恐れているのかもしれない。大嘗祭の本義とは、天皇霊との一体化である。この、大金をかけながら、いかにも原初的な儀礼からの連想で、天皇制などというものは必要ないといわれたら困るのである。
もう一度いおう。天皇制の本義は「永続性」である。