民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

空疎な言葉が生身の人を裁く

2013-11-30 09:21:06 | 政治

秘密保護法案の国会審議を聞いていると、答弁する森大臣の「~と思います」「配慮します」といった語尾が、すごくいやらしいものに聞こえます。思ったけどできませんでした。できる限り配慮しました、といえば将来何が起きても言質をとられることはない。調べれば、森大臣は弁護士ではありませんか。まして、人権弁護士養成のためにアメリカに派遣されてもいる。彼女の胸中には、今何があるのでしょうか。自らの上昇志向を満足させるためならば、信念も生き方も人権も関係ない。こんな人が、少子化担当大臣だというのですから、ますますこの国の人口は減るばかりです。こんな国で子育てを積極的にしようなどと、心ある若者は思いませんよ。
何を言われても、党是として成立させると決めたら法案を通すということでしょうか。1国には国民には知らせない秘密がある。2秘密を決めるのは該当する行政機関の長である。3永遠に秘密のまま国民に知らせないこともある。4秘密を暴露しようとした者は罰する。ごちゃごちゃともっともらしい法案ですが、政府は簡単に言えばこれだけのことを国会で認めさせたいのでしょう。1度成立させてしまえば、後はどうにでもなる。それは歴史が証明している所ですから、そこだけはしっかり歴史に学んでいるのでしょう。戦前戦後で、国民は戦争によって自らもしくは親族が被害を受けたことはしっかり学び、あんなひどい目に合う戦争は嫌だと思いましたが、自らが加害者であることには目をつぶり、あんなにも理不尽に隣人を殺害することはもう嫌だとは思わないできました。まして、戦犯を免れ戦前は満州の経営、戦後は復興と安保条約の締結に辣腕をふるった岸信介には、戦争で敗れたという事実はあったにしても、そのことから学ぶという姿勢は皆無でした。眼前の事象にいかに上手く対処したちまわるか。この理念をたたきこまれたお孫さんには、さらにこの国を植民地的立場に追い込むことなどたやすいことのようです。とはいえ、こんな人に政権をとらせた国民の責任です。 


秘密保護法案衆議院通過

2013-11-27 15:02:29 | 政治

秘密保護法案が衆議院を通ってしまいました。これほどまでに各所からの反対や疑念の声がありながら、それでも何としても通すのにはどうしてか。TPP、国家安全保障局の創設、減反政策の廃止と、相次ぐ変わりように国民は1つ1つに目を配れません。首相は国民をどこに連れて行くつもりなのか、国民には見えません。この先選挙もありませんから、やりたいようにやっているのでしょうが、1つ1つの事象の底にもっと恐ろしい思惑が隠れているように感じてなりません。そうした思惑、たとえばアメリカからの強力な要求があり、政治家との密約が交わされていたとしても、この法案さえまず通しておけば、国民から追及される恐れはない。まずは秘密保護法案を成立させてから、本当にやりたいことは陰に隠れてやる、そのためにこの法案は何としても成立させる。そんな意図なのでしょうか。そうまでしてこの国と国民とを無防備な競争という戦場に放り投げ、資本の餌食にしつつ、帝国の補完としての軍隊の育成に努めておいて、愛国心などを唱えることができるのでしょうか。TPPで奉仕する多国籍企業にしてからが、自国への忠誠など更になく、儲かるためなら自国からさっさと資本を引き揚げてどこへでも投資してしまいます。安くさえあれば、どの国の労働者でも構わないという企業のために、必死で環境を整えてやって自国のためになるというのでしょうか。国民にいうこととやっていることの矛盾に気づかないのでしょうか、それとも知っていても知らないふりをして、この国よりも一部の富裕層の便宜をはかるというのか。国民も馬鹿にされたものです。政治家は、選挙で落ちればただの人であることを、骨の髄まで思い知らせなければなりません。


学校は地域文化を育てるのか、収奪するのか?

2013-11-19 08:06:36 | Weblog

16日に飯田市鼎文化会館で、「信州教育の日」なるイベントが開催され、動員されていってきました。表向きの趣旨は、県民全体で教育について考えましょうなのですが、信濃教育界の社会貢献活動だといってよいでしょう。今回は、下伊那だけにアトラクションでは大鹿小学校の5年生による「白浪五人男」の講演、竜峡中学校の今田人形の学びの発表がありました。また、シンポジウム(パネルディスカッションとはどう違うのでしょう。演者もシンポジストといったりパネラーといったり)では、シンポジストの一人がである学校の先生が、上村では学校の先生は霜月祭りの笛が吹けないと地域で認めてもらえないから吹けるようになったといって、篠笛を吹いてくれました。すごいことだ、学校が地域に溶け込んで地域と共にある理想的な姿だと思われてしまいます。でも、それでいいんでしょうか、その先生も言ってましたが、教員が夜を徹する祭りに必ず参加しなければならないとは、職務としてはいえませんね。教員は短ければ3年、長くても7年もすれば必ずいなくなります。そうした人々の集まっているのが学校ですから、地域文化のセンターとして学校を考えていいんでしょうか。
笛を吹いた先生も、今は飯田の中学校に勤務しています。霜月祭りのたびに出て来いといわれても不可能です。この先生が本当に地域に溶け込み、霜月祭りになくてはならない笛吹きとなっていたとしたら、いなくなったら笛を吹く人がいなくなってしまいます。下条歌舞伎も中学校で受け継いでいるが、地域の指導者が亡くなってしまい先行きが不透明になっているようです。教員は職務として地域の学校にいます。その職員自身も、いずれかの出身地域の構成員でとして、役割を期待されているかもしれません。また、文科省や県は総合的な学習などで学校教育の中に地域文化が位置づくことを推奨しています。この日の子どもたちの発表も、そうした流れの中での成果の発表です。ならば、地域には地域の教員を長く雇うのが、行政としてせめて教育現場にたいして金をかけずにできるサポートではないでしょうか。全県を短いサイクルでくるくると転勤させておいて、地域文化を育てなさいなんてことは本当はいえないことではないでしょうか。

子どもたちの歌舞伎の実演、先生の笛の根を聞きながら、これでいい思いをしている間に、本当の地域文化、地域住民で地域文化を育てて守っていくという気概は、どんどんと奪われ、祭りはあっても観客ばかりとなるのではないか、と考え込んでしまいました。


富山の葬儀に参加

2013-11-15 17:36:28 | 民俗学

魚津市の身内の家で葬儀があり、通夜から参加しました。10日の朝病院で亡くなり、11日に納棺・通夜、12日に葬儀・火葬という手順でした。ここは葬儀の後に火葬となっていましたので、どのような日程となるのか不謹慎ながら、興味深く参加しました。

私は11日の昼過ぎに葬家に着いたのですが、故人は自宅の床の間の前に安置されていました。お参りさせていただき、隣の部屋で休んだのですが、家族は飼い猫が個人が安置されている部屋に入ってしまうことを心配し、しばらく繋いでおいたがあまりに泣くので放したところ、どこか外へ行ってしまったといいました。夕方坊さんや近しい人たちが集まり、5時から納棺しました。寺は真言宗でした。坊さんが読経している中、葬儀社の納棺師が遺体にかけた白い布の下に手をまわして遺体を吹き清め、白装束を着せて手甲脚絆を付けました。その間親族は何もせずに見ており、身づくろいが終わると身内の方でお化粧をされますか、やられなければ私がしますがといい、(故人はおばあさん)娘が化粧をすると、それを見ていました。次に故人の敷いているシーツの四隅についている紐というか握る部分を4人の男性が持って、棺に納めました。そして、故人の死に装束の上に普段着ていた多分お気に入りの服をかけました。次にお花入れの儀とかいいましたか、参加者で遺体の顔の周辺を花で飾りました。故人の好きだったような物も棺に入れ、蓋をしましたが蓋をくぎで止めることはありませんでした。後からやるのかと思いましたが、火葬場に行くまで棺がくぎで閉じられることはありませんでした。蓋をされた棺は霊柩車に移され、通夜の会場、翌日の葬儀の会場でもありますが、に移送されました。外はもう暗く近隣の方が遺体を見送ることはありませんでした。
 通夜会場は、葬儀会場と同じで祭壇飾りがなされており、祭壇の手前に棺は安置されていました。通夜は通夜式と表示され、葬式と全く同じしつらえでした。坊さんが読経し、親族と参加者がお焼香し、喪主がお礼を述べて終わりました。喪主の勤務先の関係者が、かなりお通夜に来ていました。焼香の時、参加者全員が数珠を手にしているのに驚きましたし、焼香台に百円玉が小さな器の中に入っているのを不思議に思いました。翌日教えてもらい、数珠は必ず持つべきもの、焼香に際してはお賽銭として100円を入れる事がわかりました。通夜の後、簡単な通夜振舞があり、納棺に参加した近しい親戚が参加しました。遺体は別室の和室に移され、孫たちが一晩明かしました。
 翌日午前10時から葬儀。会社関係者は通夜に来ているので、偉いひとだけ来るといいます。葬儀後都合のある人は帰り初七日の法用。その後、棺の蓋をとり祭壇の花を切って参会者で最後の別れだと、故人の周囲を飾りました。後できくと、こんな趣向は初めてで、あれはちょっと、といっていた人もいました。そして出棺。近しい人(故人の兄弟関係者、故人の連れ合い関係者、故人の子どもの関係者)、だいたいが納棺に参加した人が、霊柩車とバスで焼き場へ。近隣の人などはここで見送りをしました。。焼き場で読経の後故人を釜に入れると、一旦葬儀会場に戻り昼食休憩をとりました。一時間半ほどの後、拾骨のためにまたバスで火葬場へ向かいました。火葬場は人家から離れた山間にありました。葬儀社のホールもその近くにある理由が、ようやくこれでわかりました。交通の便だけなら街の中にホールはあったほうが便利なのですが、葬儀場と火葬場の行き来を考えれば、火葬場の近くの会場の方がむしろ便利なのです。今回の会場の近くにも、もう1社の別のホールがありました。拾骨でも違っていました。ここでは、あらかじめ骨を選別して比較的大きなものと頭蓋骨だけが大きなトレーの上に乗せられていて、親族はそれをはしではさんで骨壺に入れました。2人ではしで受け渡してなどという事はありませんでした。また、小さな骨壺が手もと供養用に別に用意されていて、そこにも入れたのは初めてでした。拾骨が終わると葬儀会場に戻り、私は帰りましたが、近しい人々は葬家でこれから精進落しだということでした。葬儀会場に帰ったのは3時頃でしたか、葬家の人々は更にこれから一席設けなければいけませんから、大変なことです。

これについての考察は後ほど書こうと思いますが、火葬する時間の事を考えれば、葬儀の前に火葬するのは長野県人らしい合理的な方法だと納得しました。


30までに何もできなかったら…

2013-11-09 18:55:20 | その他

20代、結婚してからも酔っぱらうと、「30までに何もできなかったら死んだ方がましだ」なんてことを口走っていました。自分の高校生、大学生のころ多くの友人先輩が、自死あるいは事故死しました。友人二人の追悼文集を編みました。次は自分の番か、という漠然とした思いを同世代の仲間は、しばし共有していました。大学生になる時は70年安保に遅れて参加した者たちでした。何か若者の間に寂寥感とでもいうものが、漂っていました。そうだ、『20歳の原点』が刊行されたのは、自分が在学していた時だったか前年か。
そして、何ら成果も挙げ得ぬまま30歳は過ぎ去り、今やその倍の歳を越してしまいました。若くして逝ってしまった彼らは、時が止まったままですのでいつまでも青春時代の顔をしています。ここまで長らえてしまった自分は、老いた姿をさらしています。とはいえ、と思います。20代のころより今の方が経験知は多いし、たくさんの本も読んでいる。あのころでは対応できない突発的な事態にも、今なら対応できます。40代のころも、わが子を前にしても酔っぱらうと、「こんなんじゃ、死んだほうがましだ」などとつぶやいていました。ところが今になると、当時よりずっと平均余命からも現実味があるのに、「死んだほうがましだ」とは口走らなくなりました。己の能力を自得したのか、本当に死ぬのが怖くなったのか、吾ながらよくわかりません。ともかくも、まだこれからだという思いがあります。「見るべきものはみつ」といえるようになるためには、まだまだ時間が必要です。 


郊外の消滅

2013-11-08 10:25:42 | 民俗学

このところ色んな講演会などに出席し、考えることも多かったのですが、もう少し調べてからなどと思っていたら、別の仕事も重なってきたりして徒に時が流れてしまいました。10月29日に日野原重明氏の講演を聞きました。102歳でも椅子に座らず、立ちっぱなしで話したことにまずは驚きました。そして、その楽観的な自信がすごい。翌10月30日に日光へ行き、11月4日には岩波書店創業100年記念講演会で中島岳志氏の岩波茂雄にまつわる話を聞きました。6日には善光寺道の麻績から猿ヶ馬場峠を越えて稲荷山宿まで歩いてきました。その中で、日光へ行って考えたことを今回は書きます。

群馬を経由して栃木の日光へ行ったのです。群馬へは20年ほども前に行って以来でしたし、もちろん日光は初めてです。東照宮は多くの人々が訪れているでしょうし、その建築はまさにぜいを尽くした一見の価値のあるものでした。しかし、それよりも印象に残ったのは途中の群馬のあたりで、道路沿線でシャッターを閉じたり、さびた鉄骨を無残にさらしている建物の数々でした。以前に見た群馬の新しくできた道路沿線は、大型店が次々と並び、ここがどこなのかわからない、アメリカの地方都市もこんな景色ではないかと思わせられるような、異様なエネルギーと無秩序さが同居したものでした。大都市近郊の新興都市はどこでも多分そんな雰囲気ではなかったかと思われます。近郊都市の景観は好奇心をそそるようで、社会学者は「近郊」をキーワードに何人もが研究しています。民俗学でも、団地の民俗など、そうした流れに沿ったものだったと思います。もう少し勉強してからと思ったのは、近郊についての研究をあまり読んでなく、『団地の空間政治学』(原武史著)を今年になって読んだくらいでしたので。20年ほども前は、スプロール化現象などと言われて、増殖する都市が郊外を虫食い状態のように蚕食していくことをいいました。大都市周辺の郊外化、無秩序な開発がどんどん進んでいました。ところが今や人口減少社会に突入しています。郊外にできた大型店や飲食店、作りさえすれば人が集まる時期は遠い昔で、次々と倒産し無残な姿をさらしています。それも開発時の無秩序さをそのまま反映して、街並みの中に歯が抜けるようにそうした建造物があるのです。街としての景観など当初から無視されていたのかもしれませんが、今や全くそうしたものはなく、文化というものが感じれれない荒廃した景観です。多分デトロイトなどはもっともっとひどいのでしょうが、こうした景観が進行していくと恐ろしいことです。逆スプロール化現象が、じわじわと郊外の地方都市に広がりつつあるのです。真剣にコンパクトシティーを目指さなければならないのに、アベノミクスとやらで、ありもしない高度成長の夢よもう一度と人々は踊らされています。


ハロウィン

2013-11-01 13:57:00 | 民俗学

一昨日はバスツアーで日光まで行ってきました。このことは後日書くとして、昨日のハロウィンです。近年はマスコミでとりあげ、街中で仮装する姿が写真にとられたりして、かなり一般化してきました。これってどういうことなのだと、腹も立ちますがこれが日本人なのかと思ったりもします。わけもわからず、単に仮装して歩いたりお菓子をねだりもらうことを面白がる。その宗教的意味など知らなくても、恥ずるところがない。そんなものはイベントの1つで、経済効果もあれば悪く言う必要はないと、確かにそうです。しかし、お月見泥棒も知らず、太子講も知らず、かぼちゃ団子は食べないような人々が、ハロウィンだとかいってアメリカの習俗にはすぐ飛びつくのはどうしたことでしょう。この国は自ら望んで植民地化を図り、自国の文化を捨て去ろうとしています。
太陽の力が弱まり生命力の衰退を感ずるこの時期は、異界とこの世との距離が接近してきます。そして、向こうの世界から人間に活力を与えようと神がやってきます。それが遍歴する弘法太子だったり、湯立て神楽に招かれる神だったりするのです。ところが、異界からの来訪者は人間に福をもたらすモノばかりでなく、禍々しき異界のモノたちもこの時期にやってきます。 旧梓川村に氷室というところがあります。ここでは、タイシコウの晩には村に入ってくる乞食をつかまえて、死ぬまで口の中に食べ物を詰め込んで殺していたという伝承があります。口の中に食べ物を押し込んだという棒も残っています。そうやって、村の外から訪れる人を年に1回殺し続けていました。(ここには、死んだ体から様々な作物を生み出したオオゲツヒメの影をかんじますね。)ところが、いくら食べさせても食べてしまう人がいて以来この風習はとだえたが、後からそれが弘法様だとわかったといいます。よその地域で多く語られるのは、タイシコーの夜に訪ねてきて食べ物をねだった乞食坊主を邪険に追い払ったら、それが弘法さまで、そのせいでその家はひどいめにあった、という逆の話です。いやだといっても無理やり食べさせるのも、ほしいというのに全く食べさせないのもきっと同じことなのでしょう。
こんな古い伝承があるのに、今は忘れ去られ、ハロウィンの魔女がこの国を跋扈しています。私などは、仮装した馬鹿者たちを弘法太子が懲らしめてくれたらいいと思います。なんてのは、頑迷な年寄りのいうことで、さっそうとマントでもはおってお面をかぶり、カボチャをくりぬいてろうそくを灯したほうがカッコイイんでしょう。 太陽を連想させる黄色いもの、カボチャ・ユズ等を大事にするのは、この時期の東西を問わない特徴なのですが。