民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

古文書を読むー国司塚

2017-06-12 08:27:24 | 歴史

先日の古文書教室で読んだ古文書のことについて書きます。前にも書きましたが、この教室は公民館で、古文書に興味のある地域の人々(多くが高齢者で参加者同士は顔見知りみたいです)が、講師の先生が用意してくれた古文書の読み合わせをするものです。参加は自由で参加費もとりません。講師の先生は全くのボランティアで、参加者は皆一般の人で、何か研究しようとする人は、見た感じではいません。そこで、何より崩した文字を読めるようになることが目的で、読んだ史料の内容には、あまり興味がわかないようなのです。というか、現代人の自分の感覚で近世文書を読んでいるといえばいいでしょうか。なぜこんなことを書くかといえば、先日読んだ文書は、自分はその内容に興味をひかれたからなのです。

文書の題名は、「一札之事」という何の変哲もないもの。差出人は「大村」という集落の庄屋など主だった住人、あて先は隣接する横田村と惣社(そうざ)村の庄屋です。問題はその内容です。東河原兼七なる者が大村にある「国司塚」と呼ばれる場所に家を建てたいといってきたので、大村の庄屋はそれを許した。ところが村人は承知しないでいろいろ申し立てたので、えらい人に入ってもらって話したところ一同納得し、5年間兼七の心得を見届けて本当に言うとおりならば家を作ることを許すと証文を取り交わした。このことを承知しておいてほしい。私の怪しい古文書の読みでは、こんな内容です。私が気になったのは、「国司塚」という塚に家をたてたいという希望はどういうことなのか、そして東河原兼七とはいかなる人かということです。まず、東川原とは松本町の地名で差別地だった河原の荒れ地だそうです。河原町と同じ河原でしょう。「国司塚」とは、今は正確な場所を比定できていませんが、一時信濃の国の国府が松本の東側に置かれたことがありまして、国府に派遣された国司の墓だと伝承されていたのが、「国司塚」です。明治初期に編まれた『長野県町村誌』の岡本村の項では、国司塚として以下のような記述がみられます。「村の巳の方十九町にあり。東西三間、南北三間、平坦より一等高く塚をなせり。宝亀年間信濃国司、菅生王と云ふ人の塚なりと云伝ふ。光仁天皇宝亀三年二月丁卯、信濃国司菅生の王、従五位上為中務大輔少納言、信濃守如故任日不詳と、続日本紀に見えたり。」随分大きな塚です。水害で流され今は平らになっているそうですが、「国司塚」は今もあるそうです。そして、講師の先生も参加者も近辺の人々ですから、本当に国司が葬られた墓がわが村にあるのだと信じて話しています。本当に国司、菅生の王の墓なのでしょうか。そこで、『長野県歴史人物大事典』で菅生王を見ますと、次の記述がありました。「奈良時代の貴族、信濃国の遥任国司。生没年は不詳。従五位上の官位をもち、771年(宝亀2)兼帯少納言信濃守、翌年2月には中務大輔をも兼ねている。信濃守はもちろん遥任である。同年10月、小家内親王を奸する罪で除名されてしまっている。(以下略)」ここで注目するのは、「遥任」です。国司はこんな山の中には赴任してこないわけです。冷静に考えれば当たり前ですが、現地の人々にすれば国司がやってきてここで死んだので葬った、それが国司塚だと信じていた(る)のです。将軍塚というほどには大きな古墳ではないので、国司塚と名付けて伝承したのでしょう。

横道にそれましたが、国司塚と伝承される土地に家を建てたいと村の長に願い出た兼七は、おそらく人の死に関わり異界とのコミュニケーションができる人だろうと想像されるのです。おそらく国司塚は村の管理地となっていたのでしょう。だから庄屋に家を建てたいと願った。庄屋は許したが村人は承知しなかった。この理由がわかりません。また、5年何事もなかったら許すとした取り決めを、隣接の村の庄屋にも連絡したのはなぜなのか。これもわかりません。また、そもそもなぜ国司塚に家を建てようとしたのか。そんな場所に家を作って、生業はどうしたのか。1枚の古文書から疑問がふくらみます。


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