民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

赤羽王郎の生き方

2018-02-17 15:54:50 | 教育

更新をしないままに時間が流れてしまいました。もともとは、民俗学的思いつきをメモしておくためと、政治について腹が立った時に書こうと始めたブログです。現職のころは、そうした書きたいことがいくつもあり、次々と書いたのですが、退職して一見時間があるようになると、思いついても原稿書きが先とか、校正が終わったらとか、この資料を読んでからなどと思っているうちに、どんどん時間がたってしまいます。ストレスが書く意欲を掻き立てていたともいえますし、退職後も思ったより忙しいともいえます。今書きたいことは、宗像大社と伊勢神宮の関係、赤羽王郎記念室、念仏講、送ってもらった福田アジオ先生の著書のこと、アメリカから仕事で帰国したJ君と飲みながら話したことなど、多々あるのですが、今日は赤羽王郎について書いてみます。以前にもちょっと書いていたのですが、だぶらないでしょう。

鹿児島県民教育文化研究所を訪ね、頒布していただいた最後の1冊だという南大三著『赤羽王郎の生き方』という本の最初「◇赤羽王郎記念室と年譜」という部分にこんな記述があります。

 1981年5月21日、赤羽王郎翁が鹿児島市下福元町の6畳3間の寓居で95歳の生涯を閉じて半年後の12月19日に催された県民教育文化研究所の開所式で、主催者は次のような挨拶をした。
 「赤羽先生は95歳の生涯を通じていつも子どもを見つめ、子どもに徹し、人間の自由のためのほんとの教育を求めて生き続け、そしてこの鹿児島で生を終わられた。われわれにとって先生が晩年を鹿児島で過ごされたことは何よりの幸いだったと思います。県民教育文化研究所は、先生の生涯を通して求め続けたもの、その教師としての生き方を引き継いで確かなものにするため、設立することを企画しましたが、先生の最後、に間に合わず初代所長に迎えるという念願が果たせませんでした。今、先生に向かって『教師たちの手で今日ここに県民文化研究所を開きます。どうぞおいでください。』という叫びがこみあげてまいります」(中略)
 赤羽王郎の教師として、また人間としての足跡には研究所に集う教師たちの学ぶべき多くのものがあると考えられ、また研究所設立には王郎自身大きな励ましと助言を与えていたものであるが、研究所開設を待たず他界してしまった。
 赤羽王郎記念室は、この研究所の付属資料館に、王郎の教師としての労作や蔵書・遺墨・遺品・書簡・写真などの外日常使用の品々など王郎にゆかりのあるものを集めて王郎没後7カ月たった研究所開設の昭和56年12月同時に開設されたのである。研究所の設立趣旨に照らしても、また永く赤羽王郎の足跡を残すところとしても最もふさわしいものと考えられる。

 ちなみに研究所の初代所長はやはり長野県出身の椋鳩十である。こうして赤羽王郎のゆかりの品はすべてこの記念室で保管されることとなった。以下の写真は2部屋に展示保管された遺品の一部です。

 

遺墨の言葉は一つ一つが心にしみます。最初の写真が蔵書なのですが、全てカバーの紙がかけられ、書名が別の紙に墨書されて貼り付けてあります。哲学、芸術論、教育学などの本ですが古い物ばかりではなく、王郎の亡くなる当時の刊行物もあり、最後まで旺盛な知的好奇心を持ち続けていたことがわかりました。亡くなる時は借家住まいで、正規教員としての勤務がなかったために年金がなく、生活保護で暮らしていたようです。そんな地位も名誉もお金もない老人を鹿児島県人は教育者として大事にし、遺品の全てを保存してくれていることに心を打たれました。


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