民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

野沢温泉の道祖神祭りー初灯篭

2016-01-28 18:15:28 | 民俗学

 初子、かつては男の子が生まれた家では、灯篭を11日に作って家の前に建て15日にはお練りをして道祖神祭りの会場まで運ばれ、燃え上がった社殿に倒して一緒に燃やします。この灯篭は、ハツトーローとかハナドーローといわれ、地元のひとにとっては祭りのメインと考えられているそうです。夜空に、あるいは積もった雪をバックに浮かび上がる灯篭は確かにきれいなものです。40年ばかり前、祭りが一番盛んだった時には13本の灯篭があがったといいます。今は、ときによれば一本も上がらない時があり、子どもの性別を問わず、また「総代」が補助してあげてもらうのだそうです。灯篭はその家の縁者によって作られ、材料費や接待費などで1本あげるのにかかる費用は100万とも300万ともいわれます。それだけお金も手間もかけて作った物を、11日から15日まで飾るだけで燃やしてしまうのです。

 灯篭は9メートルほどの高さがあり、最上部に御幣を取り付け、その下に傘・菱灯籠をつけ

ます。菱灯篭の下には、割り竹に紙の花を結び付けたものを36本しだれ桜のように垂らし、下に万灯篭を取り付けます。一番下には竹の輪をつけて祝いの言葉を書いた書初めをたくさんたらします。手作りだとはいえ、3本見た灯篭はどれもこうした形をしていましたから、いつの頃か定められた「型」があるように思いました。

 灯篭は出陣式をして、家から祭りの会場まで練っていく間に酒をふるまい、社殿につくと根方に樽酒を置き、誰彼となくまたふるまうのだそうです。出陣式前の灯篭を見て回ったのですが、たくさんの一升瓶と樽酒が用意されていました。酒飲みにとっては、こたえられない祭りです。

 この灯篭の形は、松本・安曇・上伊那あたりにある道祖神のオンバシラによく似ています。灯篭と御柱では意味合いが違いますが、道祖神つながりでは何か相互の影響がありそうです。

 背の高い灯篭が家の前に飾られることは、跡取りができたことを村人に広く知らせる意味があり、その家にとっては誇らしい気分だろうと思いました。

   


野沢温泉の道祖神祭りー道祖神の家を焼く

2016-01-25 16:53:38 | Weblog

 野沢温泉の道祖神祭りでは、25歳と42歳の厄年の人たちが1日かかって、というより14日の朝から始まって完成させるまで夜中になっても作り続けた道祖神の社殿を焼いてしまう、というよりも焼くために社殿を作るのです。今年の燃え方がよかったとか、桁がいっきに落ちて良かったとかいって村人はその年の社殿のできを評価します。中信地方でも昔は子どもたちが小屋掛けをし、幾日も前からその中にこもって餅を焼いて食べたりして遊んだものだといいます。その小屋は三九郎と呼ぶ火祭りで燃やしてしまいました。なぜ道祖神をまつった社殿や小屋を燃やしてしまうのでしょう。

 辰野町から箕輪町にかけて、巻物をもった双体道祖神が建立されています。このいわれについて、『長野県中・南部の石造物』から引用してみます。

南小河内堰下の道祖神 この道祖神は高さ80㎝・巾70㎝くらいの石に、肩を組む神官姿の男女2神が浮き彫りになっている。男神は太刀を腰につけ、2神でで持つ巻物には「日月昇進」の文字が書かれている。上部に日月も施されて、慶応3年の銘もかすかに見てとれるが、巻物の内容について特別なことは言い伝えられていない。
 神野善治氏の著作『人形道祖神』には、巻物を持つ道祖神は静岡県伊豆半島周辺と長野県の辰野町から箕輪町に見られる特有なものだとある。巻物の由来として、疫病神が村人の悪行を天帝に報告するためのもので、出雲へ出かけている間道祖神に預けておいたところ、ドンドンヤキの火で焼けてしまったという話を伝える所もあるという。

 これによるならば、道祖神が預かっている村人の悪行を記した帳面を燃やしてしまうため、道祖神の小屋に火を放つのです。原初のできごとの追体験をするのが、道祖神の小屋を焼くという行為ですが、村人の悪事を隠すために焼かれてしまう道祖神はたまったものではありません。


野沢温泉の道祖神祭りー厄落とし

2016-01-24 21:54:06 | 民俗学

 そもそも野沢温泉の道祖神祭りは、1月14日に注連縄などを使って作った道祖神の社殿に、42歳と25歳の厄年の男たちが陣取り、火をつけようとする村人との攻防を繰り広げる勇壮さが話題となったものです。結果的には生木を組んだ桁から下には火が付くことはなく、村人と厄年の人たちで手打ちをして社殿を少し崩して火をつけることになります。ヒーローは社殿を守る25歳の厄年の男たちで、翌日の朝日の片付けに来た何人かの若者は、タイマツと火でつつかれて顔にけがをしていました。42歳の男たちは屋根の上に載って歌をうたい囃しているいるだけですから、相当に酒がはいっています。下で守る25歳の青年たちは、まさか酒は飲んでいないと思いますが、定かではありません。別名酒飲み祭といわれるほどに、樽酒や一升瓶があちこちでふるまわれています。特に火元に火をもらいに行った先立ちの人たちは、浴びるほど飲まないと火をもらえないようです。

 さて、厄年と道祖神ですが松本から上伊那にかけて道祖神に厄を投げつけて厄払いをする習俗があります。茶碗に年の数になるように銭と大根の切ったものを入れ、道祖神に投げつけ振り返らずに家に帰るというものです。この場合は、災厄を道祖神に押し付けてしまって厄を落とそうとするのでしょう。野沢温泉の場合は厄年の者が道祖神を守ろうとするから不思議です。道祖神の家を焼く意味は次回に考えてみますが、厄落としだけに焦点を当ててみると、野沢温泉の道祖神祭りは、うまく説明がつきません。落とした厄を大きな火で燃やしてしまうという意図ならば、厄年の男が道祖神の社殿が燃えないように守るという意味がわかりません。地元の人はこれについては何もいいませんし、ガイドブックにも説明はありません。


野沢温泉の道祖神祭りー呼び名

2016-01-24 10:41:52 | 民俗学

 野沢温泉で見てきたことを少し整理してみます。今回は「道祖神」の呼び名です。

 野沢では、1月15日の「道祖神祭り」を、ドウソジンと呼んでいるようです。祭りのことをドウソジンと呼ぶのです。ところが、家々でブナの皮をむいた白木の棒に男女の顔を描いて作ったご神体も、ドウソジンといいます。また、辻などに祀られている石祠もドウソジンですし、道祖神と刻んだ道祖神もあります。さらに数は少ないですが、双体像を刻んだ道祖神碑もあります。

 野沢では道祖神とは何かどんな形をしたものかと問われても、一口ではいえません。松本・安曇野では、「道祖神」といえば多くの人が双体像の道祖神碑をイメージするのとは異なります。しかし、「道祖神」と聞いて特定のイメージを浮かべるほうが特殊な事例のようなきがします。折口でしたか、神は「けはい」だと書いていたような気がしますが、道祖神の神像を描けないほうが、当初の信仰の姿ではないかと思います。双体の道祖神碑が個人名で建立されていること、つまり個人の経済力がついてきてからの比較的新しいものではないかと思われることや、一般には石祠を神として、つまりそこに神を招く装置を神と同一視してまつってあることなどから、そう思うのです。そうした所に、倉石忠彦氏がいうような道祖神信仰の複雑さ、一筋縄では解釈できない難しさがあると改めて思いました。

 しかし、資源としての「道祖神」を考えてみますと、かわいい顔をした双体像が観光的に流通し、道祖神のイメージを作り上げています。地蔵や庚申塔などを道祖神として祀っている地域もありますから、本来ならというのもおかしいですが、つまりいつが本来というんだとつっこまれそうですが、形がなくて適当なものをドウソジンとして祀っていたはずなのに、時代の流行の形が流通して固定したイメージを形成していく。道祖神信仰は、これからもずっと形成されていく途上にあると捉えたほうがいいように思われます。

   


野沢温泉の道祖神祭り

2016-01-17 17:18:56 | 民俗学

 野沢温泉で道祖神祭り(火祭り)を見学してきました。毎年1月15日の夜行われ、国の重要無形民俗文化財となっている祭りですが、雪のことを考えると今まで、なかなか見に来ようという気になりませんでした。今年は仲間の見学会があり、暖冬でもあって雪道の心配もなかったことから、思い切ってでかけました。詳しい内容はおいおい書くこととして、全体としては観光用に見せる要素が肥大したものだと感じられました。もう一つは村の社会組織が今も強固で、行政と伝統的村組の二重支配のような仕組みが今も続いていることに驚きました。年齢階梯制度のような強固な同年齢集団が維持されており、観光的要求もあって行事が維持されています。村に生まれた長男が行う祭りなのですが、多分次男以下も今は入っているのでしょうが、女性は完全な裏方です。諏訪の御柱も男の祭ですね。

 祭りの要素には随所に長野県下各地の道祖神行事が組み合わされているように感じました。今回はとりあえず写真です。写真は、燃やされるために作られた道祖神の社殿、元火もらい、初長男ー今は女子でも、が生まれた家であげるとーローなどです。

     

 

 


国際小包

2016-01-14 19:07:58 | その他

息子たちのいる上海と深圳へ、12月にダンボール箱に荷物を入れて送りました。なんだか戦前に中国戦線に従軍している息子たちへの慰問品みたいなのですが。これで3回目くらいになりますか。長男は一昨年からいってますが、当初は缶詰や干物ののつまみなどの要求があり送りましたが、缶詰の味にはあきたといって、その後はつまみみたいな物を主体に、フリーズドライの味噌汁などを送っています。若いといっても3食中華では、もたれてしまいますね。

 それで今回もスープや乾麺などをダンボール2箱に分けて入れ、送ることにしました。国際便は3種類の送り方があります。・航空便・船便・指定しない便です。航空便が一番高く船便は安いです。指定しないと中間。航空便は中国だと2週間くらい、船便は一カ月以上かかるようです。入れ物は丈夫そうなダンボールを探してきて、さらにガムテープで補強しました。取り扱いは、郵便局と宅急便でもあるようですが、これまでは郵便局の航空便しか使っていません。郵便局の送り状には、内容物の個数と値段を書かなければいけません。そして、紛失した場合にはどうするか、諦めるか・探してさらにお金がかかっても返却するかなどを予め選択しておかなければなりません。

 さて今回です。上海へは2週間以内についたのに、深圳への荷物は紛失してしまったのです。最初は本当に着くか半信半疑だったのですが、何回か届いているので段々心配しなくなっていました。2つの違いは、上海へは宛名を漢字で書き、深圳へは英語表記でした。入れ物のダンボール箱は上海はミカン箱のけっこうしっかりした物、深圳はレタスの入っていた箱―すこしやわいかーでした。最初のころみたいに用心深くガムテープで補強しなかったのがいけなかったか、英語表記がまずかったか、はたまた深圳の地滑り災害のどさくさが影響したのか。

 少し落ち着いてから、来月また届くかどうか試してみます。


三九郎をいつやるか

2016-01-11 21:19:53 | 民俗学

成人の日が15日という祝日が15日と決まっていたときは、正月の松飾を下げて集めて焼く三九郎は、14日か15日の夜におこなわれていました。ところが、祝日が動くようになって、今年は11日です。いつサンクローをするのかは、どうやって決めるのでしょうか。具体的には9日にやった地区と、10日にやった地区、おそらく11日はないと思いますが、の2パターンがあってどうやって決めているのか気になり、昨夕近くの三九郎を立てている所へ行って、現地の人に聞いてみました。場所は松本市内を流れる女鳥羽川の河原です。町の中の三九郎行事です。

そこは、既に燃やしてしまっていました。火のそばにいる保護者とおぼしきご夫婦に、どうして今日三九郎をすることになったのか尋ねると、子どもと親が話し合って決めるといいます。じゃあなぜ今日がいいんですか、などといっていると、近くにいた初老の男性が話し始めました。

「ありゃ政府がいけねだ。前は飴市は9日、10日。成人の日は15日と決まってた。そりょ一緒にして一つにしちまったからいけねだ。」飴市は松本で古くから行ってきた初市で、山車がでたりしてにぎやかなものです。今は1月最初の土日に行ってきましたが、今年の土日は早すぎるので、第2土日の9日、10日となったのです。このおじいさんは、飴市と三九郎が重なったことが面白くないみたいですが、それって政府の仕事じゃなくて、成人の日を動かしたのが政府の仕事ですよ、と思いましたが、なおもそのことをいいます。自分としては小正月を動かされたのが面白くないというかと思いきや、飴市の方が町のおじいさんには印象深いのでしょう。考えてみれば作物の豊作をいのるという小正月の本義は、町の生活者からは早い段階で失われてしまっていたのかもしれません。

 別の地区の三九郎でもきいてみました。PTAのお母さんたちです。「この町会は3連休の真ん中の日にいつもやってるね。翌日片付けなければいけないし。」「隣の町会では2連休がほしいといって、連休の最初の日にやってますよ。」とのことです。子どもと保護者の都合のよい日に行うということでしょうか。小正月より早く焼いてしまうことへの抵抗感は、どなたからも聞くことができませんでした。

 ここでは5時から火をつけるというので、しばらく待っていました。すると、柳の木に団子を刺したもの(これをマユダマといいます)を持った大人や子どもが、続々と集まってきました。団子は丸いのもありますが、繭玉のように真ん中をくびれさせた物も数多くあります。色のついた物もあります。よくみると、一つ一つアルミホイルをくるんであるやつもあります。柳を手に持ってきた子どもに、買ってきたのか聞いてみると、お母さんと一緒に作ったといいました。本来マユダマは、ナス、ササゲ、繭などの形に米の粉をこねて作って柳の枝にたくさん刺して飾り、その年の豊作をいのって20日まで飾っておいたものです。そして、20日に下げて団子はゆでて黄粉などをつけて食べました。20日の朝早くおろさないと、その年のアキが遅くなると戒められたといいます。三九郎で焼く団子は大きな枝はもっていけないので、家に飾る枝とは別に、長い枝で先端の枝分かれの少ない物を選んで別に作った物でした。ところが、今は三九郎に持ってきて焼くものだけを、小正月とは関係なく(予祝の意味は全くなく)三九郎の日に合わせて作っているのです。ところが面白いことに形は繭にしてあります。おそらく、江戸時代までは稲花やら野菜やらの形を模したものだったが、明治になって養蚕が盛んになってくると繭の形が多くなったと思うのですが、養蚕など全く知らなくなっても、団子のかたちとしては継承されているのでした。

   


国民の祝日

2016-01-10 08:37:28 | 民俗学

会議報告の関係で遅れていた1月1日付けの『通信』の初校が出て、ようやくゆったりと新年を迎えました。といってみましたが、じきに小正月です。松本近辺では1月14日~15日を若年といい、様々な行事をおこないました。そこで、 [東筑摩郡 松本市・塩尻市 誌』からこの辺りのかつての小正月がどんなものであったか、みてみましょう。

 大歳・正月迎えと同様に若年・小正月には神を迎え神祭りをするために餅をつき、お供餅をつくりまた、この餅で稲花もつくる。つき方は大歳のときと同様である。この時は代官近くに凍の強くなる時なので氷餅をいっしょにつく家もある。
小正月の行事は農事の予祝の行事や農事始めとしての呪法が主のようであるが、この稲玉・繭玉は予祝行事の中心と考えられる。稲花は餅をあられのように切って直接若木の枝につけるか、または藁などへつけたのを若木へ掛けたものをいい、繭玉は米の粉で繭形の団子を作って若木にさしこれに野菜・果物などの形もこしらえてさすものをいう。一般にはこの若木にかざるへ稲花を掛けたものを万物作としておえあるいは勝手に飾る。

小正月は大正月に対する言葉で、12月31日を小型化したような心持でしょう。年取りが2度あったのです。どういうことかとい

ほううと、紙に記録した暦などなかったころには、人々は月の満ち欠けをみて1年の時間を区切っていたはずです。その節目は満月と新月でしょう。そして、満月15日から新年が始まると判断したのは自然の運行にかなっています。その後、月の満ち欠けよりも閏月などを加えた暦が普及するにしたがって、1年は1日から始まるようになり、書付上の年取りをするようになったのですが、月の満ち欠けで定めた年取りも消滅せずに残り、というよりも小正月の方に新年の稔を願う儀礼は残されて続いてきたというのが、2度の年取りをする大雑把な理由です。2度の正月をすることから、大歳に飾った用具を小正月には下して、新しい飾りをしました。この主としては松飾ですが、正月飾りを処理して年神様には帰っていただく行事が、松焼き、三九郎なのです。また、古くは小正月に年を取るという意識があり、15日前後に若者組への加入儀礼をしたようです。子どもから若者(大人)へと変身したわけです。この儀礼を大きくとりあげ、戦後定めた国民の祝日に関する法律で定めて、1月15日を成人の日としたわけです。法律を制定する側もこの時点では、1月15日がもう一つの正月であるということは知っていたのです。

1月15日を祝日とすることは、農業を主生業としていたころの庶民にとっては誠に嬉しいことでした。小正月は作はじめとか道具の年取りなどともいうように、来るべき年の豊作を祈る多くの儀礼が集まっていたからです。ところが、2000年にハッピーマンデー制度が実施されてからは、祝日が15日に固定されなくなりました。このことは以前にも書きましたが、農業が衰退したとはいいながらもかろうじて続いてきていた予祝儀礼や年神様をお返しする儀礼としての小正月の松焼きが、休みがとれないことから止めるか日を変えて意味を変質させるかのどちらかを選ぶことを余儀なくされたのです。

具体的にいいますと14日もしくは15日に下した松飾りを集めて焼く子どもたちの行事「三九郎」は、毎年日が替わり成人の日の前日の日曜、もしくは土曜におこなわれるようになりました。少し周辺をまわってみましたが、昨日の9日に焼いた所と今日の10日に焼くところがあります。ということは、これまでは14日まであった松飾は、ずっと早く片づけられることになりました。もっとも、かつてであっても外飾りは7日に片づけて外飾りは15日に片づけたという所もありましたが。小正月に作神様に作り物をして豊作をお願いするなどという意識も全くなくなり、小正月は消滅してしまったのです。一部には、かつての若年の意味をしっている老人によって行われることもあるかもしれませんが、心無い行政の法律によって年中行事の意味が消滅してしまったのです。そして、ほとんどキャンプファイアーと同じになりながらも、三九郎は続いています。

  

 


真田丸

2016-01-04 20:56:01 | 歴史

 いよいよNHKの大河ドラマで真田丸が始まります。地方のちっぽけな藩の真田家が徳川を相手に戦をし時に破り、負けを承知で義に殉ずる。始まる前からワクワクします。地方が中央に負けないで知略を尽くす。まるで今の沖縄県のようだと自分は思うのですが、チラリと予告編を見たら心配になりました。故郷真田はわれらの手で守るのだ、というセリフから何となくナショナリズムのにおいを感じてしまったのです。真田を日本に、徳川を中国になぞらえてナショナリズムを鼓舞されたのではたまりません。国家と故郷とは違うのだということを、どこかで押さえておかないといけません。信繁が思慮深い小男だったという設定(真実?)は、とてもいいですね。日の本一の兵は実は用心深い普通の人であってほしいと思うのです。やたらと軍備を拡張し、相手が弱いと見たら勇ましく汚い言葉をはき、強いと見た相手には喜んで尻尾を振るような無様な姿は見たくありません。

 信州、特に東信といわれる地方は真田一色だと思います。無理やり作った真田とのつながりもあるでしょうが、一時であっても多くの観光客が各地を訪れ、地域起こしになってくれればいいと思います。


子どもの貧困対策

2016-01-02 18:56:23 | 政治

 たまに報道されるニュースですし、どうでもいいような緊急性を要する話題でもないので、論評されることもないのですが、現政権は子どもの貧困が貧困の連鎖を生んでしまうということは認めているみたいで、対策として基金を創設し企業から寄付を募っているといいます。ところが、基金が集まらず予定した団体への配分がままならないといいます。これってどういうkとでしょう。貧困に苦しむ子供を救い、未来のこの国を作ることは優先的な政策として政治が率先して行うべき課題ではないでしょうか。企業も政府のやることだと思っているからこそ、拠出金が集まらないのでしょう。政府とすれば、呼びかけたが集まらなかったから、寄付しない方が悪くて政府は背策としておこなったのだと自己弁護するのでしょうか。同じことが、財界に向けての賃上げの指示であり、経団連がもうかっている企業は賃上げをし、非正規雇用者を正規雇用に採用すべきという呼びかけがあります。政府も経団連も呼びかけたが、それぞれの企業の事情で実現しなかったのだから仕方ない、というのでしょう。政策として、法を持ってすべきことを罰則のない単なる呼びかけですませてガス抜きとする。口先の甘言に騙される有権者国民がバカなのですが、うまい方法を考え無策を無策と見せないようにカムフラージュする。安倍政権の人心操縦術のうまさです。

 私は高度経済成長の恩恵で大学にも進学できました。父は尋常小学校卒業の職人でしたが、仕送りをしてもらえました。奨学金で月々の生活費の半額はまかなえました。その奨学金も、教員になることで返還を免除してもらえました。社会全体に勢いがあったいい時代だったかもしれません。今の貧困は、不安定な家庭と雇用からきています。母子家庭の子の家庭、特に夜の生活の不安定さはありません。孤独なこどもは、横につるんで明るい街に出てしまいます。