会議報告の関係で遅れていた1月1日付けの『通信』の初校が出て、ようやくゆったりと新年を迎えました。といってみましたが、じきに小正月です。松本近辺では1月14日~15日を若年といい、様々な行事をおこないました。そこで、 [東筑摩郡 松本市・塩尻市 誌』からこの辺りのかつての小正月がどんなものであったか、みてみましょう。
大歳・正月迎えと同様に若年・小正月には神を迎え神祭りをするために餅をつき、お供餅をつくりまた、この餅で稲花もつくる。つき方は大歳のときと同様である。この時は代官近くに凍の強くなる時なので氷餅をいっしょにつく家もある。
小正月の行事は農事の予祝の行事や農事始めとしての呪法が主のようであるが、この稲玉・繭玉は予祝行事の中心と考えられる。稲花は餅をあられのように切って直接若木の枝につけるか、または藁などへつけたのを若木へ掛けたものをいい、繭玉は米の粉で繭形の団子を作って若木にさしこれに野菜・果物などの形もこしらえてさすものをいう。一般にはこの若木にかざるへ稲花を掛けたものを万物作としておえあるいは勝手に飾る。
小正月は大正月に対する言葉で、12月31日を小型化したような心持でしょう。年取りが2度あったのです。どういうことかとい
ほううと、紙に記録した暦などなかったころには、人々は月の満ち欠けをみて1年の時間を区切っていたはずです。その節目は満月と新月でしょう。そして、満月15日から新年が始まると判断したのは自然の運行にかなっています。その後、月の満ち欠けよりも閏月などを加えた暦が普及するにしたがって、1年は1日から始まるようになり、書付上の年取りをするようになったのですが、月の満ち欠けで定めた年取りも消滅せずに残り、というよりも小正月の方に新年の稔を願う儀礼は残されて続いてきたというのが、2度の年取りをする大雑把な理由です。2度の正月をすることから、大歳に飾った用具を小正月には下して、新しい飾りをしました。この主としては松飾ですが、正月飾りを処理して年神様には帰っていただく行事が、松焼き、三九郎なのです。また、古くは小正月に年を取るという意識があり、15日前後に若者組への加入儀礼をしたようです。子どもから若者(大人)へと変身したわけです。この儀礼を大きくとりあげ、戦後定めた国民の祝日に関する法律で定めて、1月15日を成人の日としたわけです。法律を制定する側もこの時点では、1月15日がもう一つの正月であるということは知っていたのです。
1月15日を祝日とすることは、農業を主生業としていたころの庶民にとっては誠に嬉しいことでした。小正月は作はじめとか道具の年取りなどともいうように、来るべき年の豊作を祈る多くの儀礼が集まっていたからです。ところが、2000年にハッピーマンデー制度が実施されてからは、祝日が15日に固定されなくなりました。このことは以前にも書きましたが、農業が衰退したとはいいながらもかろうじて続いてきていた予祝儀礼や年神様をお返しする儀礼としての小正月の松焼きが、休みがとれないことから止めるか日を変えて意味を変質させるかのどちらかを選ぶことを余儀なくされたのです。
具体的にいいますと14日もしくは15日に下した松飾りを集めて焼く子どもたちの行事「三九郎」は、毎年日が替わり成人の日の前日の日曜、もしくは土曜におこなわれるようになりました。少し周辺をまわってみましたが、昨日の9日に焼いた所と今日の10日に焼くところがあります。ということは、これまでは14日まであった松飾は、ずっと早く片づけられることになりました。もっとも、かつてであっても外飾りは7日に片づけて外飾りは15日に片づけたという所もありましたが。小正月に作神様に作り物をして豊作をお願いするなどという意識も全くなくなり、小正月は消滅してしまったのです。一部には、かつての若年の意味をしっている老人によって行われることもあるかもしれませんが、心無い行政の法律によって年中行事の意味が消滅してしまったのです。そして、ほとんどキャンプファイアーと同じになりながらも、三九郎は続いています。