民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

コロナ禍で思うこと

2020-05-10 11:30:24 | その他

緊急事態宣言が延長して、5月が過ぎていきます。商売をされている方々にとって、毎日が胃の痛くなるような思いだと思います。近くの食料品店も、倒産してしまうみたいです。会社員の方でも、いつ雇止めにあうかもしれないと、恐れているかもしれません。それ比べれば、外出できないというストレスなど問題になりませんね。散歩はできるし、食料品の買い物はできるし、本を読んだりテレビも見れます。私はといえば、読書畑への野菜の植え付けをしておりまして、格別の不自由など感じていないのです。

政治と言えば、「私が~」何でも私がやった成果だ、私の決断だと言っていた首相が、「専門家のご意見に従い」というようになりました。政治の決定のリスクを自分でとろうとしない、無責任な態度がはっきりと露呈しました。結果責任を問われる具体的な政策、方針は示さないで国民に心掛けを求めるという、先の戦争の時に取った政府の態度と同じことを今やっています。この国では、反省とか責任とかいう言葉は実態を伴わないもののようです。責任は感じても、責任は取らない、これはどういう意味でしょうか。

畑には、トマト、ナス、パプリカ、シシトウ、オクラ、セロリ、ソラマメ等を苗を買ってきて植えました。長野県で心配なのは、植えた苗が遅霜にあって枯れてしまうことです。一昨日は遅霜が予想されたので、苗のまわりを肥料やたい肥の入っていたビニール袋で覆いました。そのほかに今年試みたのは、マンションのベランダで苗を育てて植えたことです。昨日植えたのは、キュウリ、ブロッコリー、インゲンです。今はまだ小さくて植えられず、育てているのはレタスです。畑に種をまいたのは、トウモロコシ。20日ころになったら、サツマイモを植えようと思います。全部収穫できたら食べきれません。子どもたちに送ったり、近所に配ったりしなけばいけませんね。

読書では、以前にまとめ買いしておいた『現代思想』の石牟礼道子の特集を読み終わりました。石牟礼は多分霊感の強い人だったと思います。見えないものが見える人で、それを言葉にできるという特異な能力があった。そうしたら教祖ですね。

読もうとして取り出しているのは、日本人の病気感にかかわる物が数冊と、修験道に関する物が数冊。これらを読んだら、何かわかるかな。


2人の母を送ってー3

2020-04-12 06:25:48 | その他

私の母は昨年の2月に食事をしなくなり、体力も気力も衰えて危ないかもしれないといわれました。そこで、近くの葬儀場を下見したりどんな葬式にするか考えました。ところが何とか今年3月まで1年間持ちこたえてくれました。結構時間があったので、いろいろと考えることができました。できれば家族葬にしたいと思いました。しかし、葬式に出られなかったからと後から弔問にこられても実家は普段留守ですから、来た人には失礼してしまいます。狭い地域社会で生きて来た母ですから、施設に入ってから隣組は抜けたといっても近隣の方との付き合いは長いものがあります。また、葬式組である庚申講の方たちとの付き合いは私の代になってからも続けています。そこで当初は、隣組の方々の葬式のお手伝い(受付)は辞退して葬式への参加も断り、今もつきあいが続く庚申講の方たちに受付をお願いしようと思っていました。また、通夜をどこでやるか悩みました。自宅でやって近隣や親族にきてもらったら、接待などで大変です。かといって隣近所の方々は、最後の別れもしたいだろうし亡くなった母も会いたいだろうし。そこで、いったん実家に帰して安置し、近隣の皆さんとのお別れをして葬儀会場に移送して通夜をしようと考えました。施設から直接葬儀会場に行くよりも、いったん家に帰った方が母も喜ぶだろうし。

そんなことを思っていたら、新型コロナウィルスの流行が重なりました。葬式してもいいかと悩む人がいるとも業者には聞きました。そこで急きょ決断し、親族葬として新聞にものせないこととしました。近隣の方と庚申講の皆さんには、コロナを理由にして葬式への参加を見合わせていただくようにお願いしました。結局、庚申講の皆さんは精進落としには参加されなかったのですが、葬儀には参列させてくれということで参加されました。それで、親族と庚申講の方たちだけで小さな葬式をすることができました。顔見知りだけでしたので、温かな葬式ができたと思います。長く考えたことにコロナが重なった結果の葬儀の形態でした。


2人の母を送ってー2

2020-04-10 16:02:56 | その他

今回は自分の母の葬儀について書かなくてななりませんが、その前に自分と母との間柄について述べなければなりません。それは一言でいって、良いものではありませんでした。思春期を迎えるまでは何も感じなかったのですが、高校生になってから母親の自分に対する支配的な態度に、どうしても我慢がならなくなりました。大学で家を出たのも、このまま家に留まっては自律できないと、真剣に考えたからです。普通親への反発は、思春期の一時期を通り過ぎれば収まるものですが、私はずっとそれに苦しみました。母は特異といってよい性格の持ち主で、子どもの頃から自分をいじめる人を見つけ出し、常に自分を被害者の位置において自分を正当化してきました。それはたぶん、相手の気持ちに共感することができないという障害のなせる業ではなかったかと、今にして思います。

母は多発性脳梗塞を60歳くらいの時に患い、以後は夫である私の父に頼り切った生活でした。動けるようになっても自分からは何もしようとせず、自分の身の回りのこと以外はすべて父にやってもらっていました。父が亡くなり、母は一人暮らしとなりました。私が同居すべきとは思ってもみましたが、話しているとどうしても私の精神の安定が保てないのです。それで、訪問看護を頼んだりヘルパーさんを頼んだりして一人暮らしを続け、1週間に一度は顔を見に行って買い物をしたりしていました。そのうち、朝になると胃が痛くてデーサービスに行けないとか、すぐ医者に連れていけということが多くなりました。医者に行っても悪いところはなく、生理食塩水の点滴をして治るようなことを繰り返し。これではどうしようもないことから、いくつかの施設に申し込んで、待っていると、幸いにもデイサービスに通っていた近くに施設に入ることができました。母を施設に入れるについては忍びないものがありましたが、もし私が同居して介護したら全面的によりかかってくる母に我慢がならず、煮詰まって何をしてしまうかわかりませんでした。最初はしぶった母も、知っている人がいる施設であったのですぐなれ、そこでの生活を楽しむようになりました。よくしていただいた職員の皆さんに感謝です。

施設に8年程いるうちに、だんだん体力が弱ってきました。そして、杖を使っての歩行から、歩行器になり、車椅子になり、食べるものも普通食から刻み食、最後はペースト状にしてもらっての食事でしたが、最後まで食べる意欲はありました。そして、3月のある日、食堂で朝ご飯を食べ終わった後、意識消失・呼吸停止となりました。自然死とはこういうものでしょう。コロナの関係でなくなる前の1週間ほどは面会できなかったのですが、その前の1年くらいは平均1日おきくらいに面会していたので、死に目に会えなかったという悔いは残りませんでした。次回は葬儀について書きます。


2人の母を送って-1

2020-04-09 06:04:27 | その他

昨年12月末に妻の母を、先月末に実母を失くしました。2人とも97歳という高齢の大往生でしたから、悲しみに打ちひしがれる、という事はなかったのですが、どういう葬儀によって送るのか様々に考えさせられました。自分の気持ち的には、いずれも家族葬にして静かに身内で送りたいと思ったのですが、考えるほどになかなかそうともいかなくなりました。

義母は妻と妻の妹さんとが喪主となって行いましたので、私は相談にのるという立場でした。義父は8年前に亡くなり、義母は一人暮らしとなったために妻と妻の妹が面倒をみていましたが、認知症が進行したために1年ほど前からは施設に入っていました。隣組からは抜けさせてもらっていましたが、長い間の生活基盤は地域社会にありました。一方、義母の兄弟も義父の兄弟も県外在住の方が多く、多くが亡くなるか高齢の為に参列はできないという現状でした。結局、新聞等で地域に告知し地域の方を葬儀委員長にたてた、通常の葬式を行いました。結果として、これは正しい選択でした。というのは、高齢で地域とのつきあいは切れているだろうと思ったのですが、告別式には50人ほどのおつきあいのあった方々が焼香にやってきてくれました。葬儀がすめば義母の家は空き家となっていますから、この方たちが後から知って弔問にきていただいても、こたえようがないことになります。焼香に来る皆さんにあいさつすることを、現地では「ミマイウケ」といいますが、次々と並んでくる自分は顔も知らない皆さんに頭を下げながら、地域で生きてくるというのはこういうことなのだと思わされました。とても家族葬は無理でした。

そして実母についてですが、それは次回。


考古学少年ー完結編補遺

2019-08-28 11:50:38 | その他

高校を卒業してから現在まで、最低1年に1回は僕たちの学年を中心にして、上と下の年代の地歴会の仲間は集まっています。とりわけ僕たちの学年の仲間は、結束が強いのです。それは、そうならなければならない理由がありました。

深志高校を卒業した年、都立大学に入った仲間の久保君が、体育の授業をしていた公園のベンチに激突して、内臓破裂で死んでしまいました。久保君はたくさんの日記や随筆のようなものを書いたノートを残していたので、遺稿集として本を編集しました。ところが、翌年には部長をして信大に入った和澤君がバイク事故で死亡してしまいました。和澤君についても、遺稿集を編みました。私が最初に編集したのが2冊の遺稿集だったのです。遺稿集を編集するのに、僕たちは何度も集まりました。そして、この次は自分の番かな? と仲間の死を悼みながら続いて死が訪れたことを訝しみ、この次にもまた死があるのではないか、そしてそれは自分ではないかと恐れたりしました。そして、機会を設けては集まったのです。まるで生きていることを確認しあうみたいに。幸い、次の仲間の死がやってくることはありませんでした。15年ほどしてやってきたのは、顧問のだった藤沢先生の死でした。この時も、私と百瀬君とで遺稿集を編みました。先生の残した論文の中からどれを選ぶかは、ベテランの研究者にお願いしましたが、立派な本となりました。


考古学少年ー完結編2

2019-08-27 15:25:15 | その他

高校2年の春休みに発掘したエリ穴からは、多数の土製耳飾りと土偶・土版などが出土しました。9月のとんぼ祭(文化祭)までには出土品を整理し、解説を加えて発表できる用意をしなければなりません。数多くの耳飾りを前にして、高校生の僕たちは頭を抱えました。三内丸山遺跡などまだ発掘されておらず、縄文文化はかなり貧しいものとして人々には意識されていましたし、授業でもそう教わりました。狩猟採集の縄文人は、日々の糧を得るのに追われていたと。ところが、精巧な透かし彫りなどがはいった耳飾り、それも数多くが出土した状態は、説明に困るものでした。これをどう説明するか、高校生なりに悩み討議しました。縄文農耕とか分業が行われていたとか、無い知恵を絞っても展望が開けません。そこで、顧問の藤沢先生にも相談しました。その時、これを読んでみなさいとわたされたのが、岩波文庫のフレイザー著『金枝篇』でした。この本から民族学というものを知りました。習俗から古代の暮らしを類推することが出来るのだとわかりました。そして、四苦八苦しながら、何とか文化祭での解説をクリアーし、考古よりも現実の暮らしの方に自分の関心は向いていきました。

そんなことをしていましたが、留年もせずに卒業を迎えました。百瀬君は考古学の道を貫き岡山大に進みました。どうしても受験勉強に向かうことができず、4年間のモラトリアムならどこでもいいと思っていた私は、かろうじて立命館に拾ってもらいました。1年下の後輩の高橋君は、藤沢先生の後を追って早稲田に進みました。そのご、百瀬君は高校の教員となり埋蔵文化財センターで長年発掘に携わりました。私は中学校の教員となり、長野県史民俗編の編集に携わりました。高橋君は民族考古学という分野を始め、パプアニューギニアの民族調査をしつつ縄文社会の研究を深めています。

高校生の発掘から50年を経て、それぞれの人生の中にその経験が位置付き、また、その後の行政による発掘調査の遺物を含めて、松本市の重要文化財の指定を受けたことに、感慨を禁じえません。


考古学少年ー完結編1

2019-08-26 16:32:06 | その他

松本市にエリ穴遺跡という、土製耳飾りなどを大量に出土した遺跡があります。その出土品の整理が終わり、いいものが市の重要文化財に指定されました。恐らく県宝を予定しての指定だと思います。その指定を記念して、早稲田大学の高橋龍三郎教授の、「エリ穴遺跡と縄文後晩期の社会」という講演会がありました。講演の後、高橋教授を交えて仲間で痛飲しながら、50年して物語が完結したのだと、しみじみ思いました。そうです、僕たちは考古学少年だったのです。

必死の思いで高校に入学しました。多分、それは周囲にいるクラスメートたち皆が思っていたことだと思いますが、入ってはみたものの、日々の勉強は難しく、なかなか理解できません。この年になって話せば、俺もそうだったと正直にいえますが、当時は恥のように感じて、なかなかクラスというものには溶け込んでいけなかったのです。おまけに、HRは2時間目が終わってからでしたから、自分の教室に私物は置かず、昇降口に各自のロッカーがあって、そこへ私物をしまって1時間目の授業教室に行くというシステムでした。なんだか居場所がないような、落ち着かない気分でした。そうこうするうちに、クラブに入りました。もちろん運動オンチですから運動部は除外して、文化部から地歴会を選びました。入部してわかったのですが、そこは中が考古班・歴史班・地理班に分かれて活動するのですが、部室の中はみんな一緒くたでした。そして、たまたまだったのですが、私の学年は入部した生徒の数が多かった。

しばらくして、部室のロッカーに私物を入れ、朝は部室に通学して、弁当は部室で食べ、放課後は土器をいじって部室から帰るという生活になりました。教室の成績による序列は気にならなくなりましたし、気の合う仲間と常にくだらないおしゃべりをして過ごすという高校生活になりました。地歴会考古班の誇りは、自前で発掘して、その遺物で研究している。他の高校の考古は本読んでるだけだ、というものでした。放課後の活動の多くは、春休みに合宿して発掘した遺物を洗って、1点ごとにナンバーを記入するという地味なものでしたが。どこを発掘するかは生徒が自主的に決め、文化庁への届けは顧問の先生がしてくれました。考古の顧問は、藤沢宗平という早稲田で考古学を学び、弥生時代を専門とする日本史の先生でした。実証主義を重んずる先生でしたから、高校生としては面白くは感じられなかったです。しかし、秋の文化祭に備え、暑い夏に部室の前の廊下でゴロゴロしている僕たちには目もくれず、遺物の実測なんかをしている先生には頭が下がりました。

そんな僕たちが2年の春休みに発掘しようと決めて掘ったのが、エリ穴遺跡だったのです。エリ穴最初の発掘は、僕たち深志高校地歴会だったのです。一緒に発掘した仲間に、指定に先立って、圃場整備に伴う発掘調査で出た遺物を含めて、エリ穴遺跡の膨大な遺物を報告書をまとめた百瀬長秀君が班長でいましたし、講演した早稲田の高橋龍三郎君も一級下でいました。もちろん、私もいました。50年して、またエリ穴遺跡が市民に広報されるというのですから、考古学少年たちの物語の完結編なのです。まだ続きます。

 


近況

2019-06-12 09:43:19 | その他

体調を崩して、ごろごろとしています。先週からカラセキが出て体がだるかったものの、熱もないのですぐよくなるだろうと、通常もしくはそれ以上の労働をして過ごしていましたがいっこう体力はは回復せず、月曜に医者に行ったところ風邪をこじらせて、気管支炎になっているといいます。こじらせたつもりはなく、ひどい風邪の症状もなかったのにです。抵抗力がなくなったこと、無理してはならないこと、老人を自覚すべきことを学びました。

ここ20日くらい、あちこち片付けまくっていました。妻の実家に設置した書庫を整えたころ、属する研究会の刊行物の在庫を、色んな行きがかりから私が引き取らなければいけないこととなり、書庫のバックヤードの物置も片付けなければならなくなりました。すこしやってみましたが、置いてあるのは私の子どもたちの荷物や、もともとこの家にあった荷物など。整理してスペースを空ける(軽トラックの荷台までの高さに1台分)のはかなり大変で、あきらめました。そして、妻の実家の書庫に蔵書を運び込んだので空いた、自分の実家のプレハブ書庫を片付けて、こちらに入れることにしました。とはいえ、そこには施設にいる母の衣類を衣装カンにいれて置いてあります。そこで、別の物置を片付けて母の衣類を整理して移し、プレハブに在庫の出版物を入れるスペースを作りました。

この状態にするまでが大変でした。埃だらけの中を荷物をあっちへこっちへと動かしました。この時吸ったホコリと花粉症の炎症が重なり、気管支炎を誘発したのだと今になって判断しました。

お船祭りのまとめを、もう1箇所書かなければいけませんが、ベッドに横になり昨日は読書。このところ気になっている、折口の『大嘗祭の本義』に関する文献として、『マージナル』2号を読む。これには、古代研究に載っている「古代研究」の別稿が掲載されているのです。それを読むために古本で取り寄せたマージナルですが、昭和の終わりに創刊されたこの雑誌が面白い。アンダーグラウンドを求める時代の雰囲気があったものか、平成の終わりとはひどく雰囲気が違います。それから、書庫から掘り出した、大江健三郎自選短編集を読む。その後の大江を知りながら、初期の短編を読むと色々考えさせられました。


最悪の年取り

2019-01-01 09:28:49 | その他

3日ほど前までは、予定した編集の仕事は片付き、そば打ちはそれなりになり、スンキ漬けも成功しました。正月には歩き始めた孫がやってきます。てなことで、いい年だったと過去形で思っていたのですが、それでは済ませてくれなかったのです。30日に高熱が出て医者に行くと、検査してもインフルエンザの菌は出ないが、まだ熱がでたばかりだから検出されないかもしれないということで、抗インフルエンザ薬のリレンザを処方されました。一晩寝たらかなり熱は下がりましたが、もしインフルエンザだったら人に移します。結局、孫は松本にくることをとりやめました。家を片付け、娘夫婦の接待の料理を考え、買い物をしと、かなりな時間を費やしての準備だったのに、すべてがパーとなりました。なんてことでしょう。年取りなのに、酒も飲めません。

それでも、一つだけいいこともありました。帰ってきた長男が、今度、付き合っている人を連れてきてくれるといいます。ほとんど結婚なんてできないといってましたから、ともに年を重ねてくれる人がみつけられたというのは、本当にうれしいことです。どうか、うまくいってほしいと祈るばかりです。


奈良へ

2018-11-05 17:29:14 | その他
名古屋から近鉄電車で、奈良へやってきました。名古屋までの振り子電車に酔ってしまい、なかなか回復しなかったです。名古屋で近鉄に乗り継いだことはなく、不安でしたが下調べのかいがあり、5分ばかりで近鉄線に行き着けました。今日は全国的に暖かいということでしたが、山は紅葉しているのに暖かいのです。


室生寺と長谷寺を参拝してきました。長谷寺では桜が咲いていてビックリでした。