民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

畑の片づけの始まり

2017-10-31 17:13:26 | その他

東京へ行く前にと思い、今日は天気も良かったので畑の片づけをしました。バンドコキュウリやササゲ、ゴーヤなどの支柱をはずして片づけ、下に敷いてあったマルチ(草除けのシート)をはぎました。取り残しで地面に転がっているやつは、種をとってみることにしました。

先日植えたタマネギをみると、苗が小さかった紫のやつは、植えるのが深すぎたのか三分の一ほどの葉というか穂というかが、なくなっていました。茎が雨もたくさん降ったりして腐ってしまったみたいです。残念です。それでも、20cmくらに茎が伸びていた通常のタマネギは、何とか根が付いたみたいです。

8月末に植えた白菜と、種をまいた大根はというと写真のように順調に大きくなっています。11月20日くらいに収穫しようと思いますが、はたしてこれからどんだけ大きくなるか。特に白菜はもっと巻いてもらわんと、越冬できません。

それから、何といっても今年たくさんなったのは、キウイです。10年ばかり前、ブドウの棚のすみに植えたキウイにこの春は初めて肥料をやりました。根元を掘って肥料を埋めただけですが。すると何を考えたのか、ザランザランと実をつけたのです。摘果なんぞしませんから、実は小さいのですが量が多い。妻は最近スムージーとかいうヤサイジュースにこっているので、たくさん使えると喜んでいます。


初校終わる

2017-10-29 09:08:45 | 民俗学

長野県民俗の会では、年に1冊研究集録を『会報』と題して刊行しています。今年は40号という特別銘打たなかったのですが記念号となります。そこで、多くの会員に投稿を呼び掛けたところ、たくさんの原稿が集まりました。最終的に締め切りに間に合わないということで断念された会員もいましたが、最終的に9本集まりました。それに、巻末付録として会活動の記録もつけました。これが結構大部でした。そんなこんなで、結局200ページを超える雑誌となりました。その割り付け、校正と追われておりましたが、ようやくにしてほぼ初校まで終わらせ、ほっとしているところです。まだ、2校・3校としなければなりませんが、自分が見て執筆者校正と合わせて赤字をいれるという気を使う作業が終わったということです。来月中旬の会の総会までには、何としても発刊したいと思っています。

編集に追われている間に選挙がありました。その結果は皆様ご存知のような、腹立たしいものでした。今回思ったのは、選挙制度をかえないと腹立たしい選挙結果が続くだろうが、こんなおいしい制度を政権与党が手放すはずがないから、細かな対立はさておき野党は選挙制度をかえるということだけで共闘して、一度選挙を戦えばいいのです。そして、中選挙区制度を復活するか、比例代表の割合を60パーセント以上にするような制度改革をして、再び選挙する。そんな乱暴なことをしないと、この国は救われません。

娘が出産したら妻と東京へ出かけて面倒をみる約束です。月末の予定日が早まらず、会報の編集に支障をきたさずすみそうで安心しました。ところが、あんまり遅くなると今度は信濃1月号の編集にかからなくてはならず(来月早々に予定原稿が送られてくるはずですので)、困ってしまいます。下旬には民俗の会の総会や伊那民俗研究会の年中行事シンポジウムに出席しなくてはなりません。綱渡りのような日程が続きます。


日本一小さな家

2017-10-19 16:42:57 | 民俗学

友人の別荘で一泊し、翌日は生野まで送ってもらって、姫路に出て新幹線で名古屋経由で帰るつもりでした。ところが、自分も神戸に帰るから姫路まで車で送っていくといってくれました。後で地図を見ると、生野から真っ直ぐ南へおりると姫路です。姫路の手前に、福崎町がありました。そして、姫路へ行くまえに福崎の柳田生家に案内するというのです。これは思わぬプレゼントでした。資料館は月曜休館で見れないが、建物は見れるから行こうと誘ってくれたのです。年会の翌日に柳田の生家を尋ねられるなんて、思ってもみないことでした。

確かに柳田の家は小さなものでした。かといって、日本一小さいかというとそうでもありません。こじんまりとしていたといえばよいでしょうか。核家族で暮らすにはよいのですが、複数の夫婦と多くの兄弟が暮らすには大変狭い家でした。婿入り先の柳田家という広い家がありながら、さらに成城に家を作った柳田の気持ちは、どういったものだったのでしょうか。そして、家事担当の辰野出身の野沢虎雄と松本出身の書生岡正雄と、息子と自分との男ばかりの暮らしは何なのでしょう。

保存移築された柳田生家の周囲は公園として整備され、カラス天狗や河童が時々現れるようにしつらえてありました。まるで柳田は水木しげるかのようでした。


生野へ

2017-10-18 11:34:36 | その他

年会2日目は多くの会場で同時進行に研究発表がなされます。研究発表要旨集を読んで、面白そうな発表を聞きにいくわけですが、年々、こちらが年を取ったせいか、聞きたいと意欲を感ずる研究が少なくなりました。そして、これも例年のことながら午前中だけいて、昼を食べたら帰るのです。午前中聞いた研究発表でコメントするとしたら、関西学院大の院生が発表した、「ヴァナキュラー宗教の民俗誌ー稲荷信仰の事例からー」というものでした。アメリカ宗教民俗学からの輸入概念を使って、現在進行形の稲荷信仰を分析するという発表でしたが、「ヴァナキュラー宗教とは、生きられた宗教、すなわち人々が出会い、理解し、実践する宗教」だというのですが、発表のあと「生きられた宗教があるなら、生きられない宗教があるのか」という鋭い質問に対して、発表者は答えられませんでした、というか質問を拒否したといったほうがよいでしょうか。発表者は直輸入の概念を本当には理解していないと感じられました。そんなこと言う前に、稲荷信仰とか現在進行形の宗教行為の意味だとか、伝承と創造だとか、分析しなければいけないことはたくさんあるじゃないか。カタカナ使えば人をはぐらかせると思ったら大きな間違いですよ、といってあげたくなりました。

昼を食べて神戸の友人が生野の山中に設けた山の家と呼ぶ別荘へ移動しました。このコースは、京都から山陰線きのさき号に乗車して和田山で下車して乗り換え生野へ、生野から友人の車で朝来市黒川という山中に入るというものでした。帰ってきてから地図で確認してはじめて中国山地のどの辺りかがわかったありさまで、つれていってもらったときは、どこに自分が位置しているのか不明でした。

周囲を山に囲まれ、すぐわきを川が流れる場所に「山の家」はありました。何やら足場を組んであるのですが、それは6月から設計図を書いて計画し、私の到着までに何とか間に合わせてくれたという、薪ストーブの煙突を設置するためのものでした。ストーブと煙突を購入し屋根に穴をあけて部材をはめこみ、素人だけで設置したというのです。まだ屋根のスレートはふき直してないのですが、ともかく初だきです。

ストーブ本体が冷えているので、なかなか火がつかなかったのですが、私も手伝って無事に着火。火事にもならず、めでたく燃えたのです。それからストーブをたきながら、夜中まで語りました。テレビはありませんが電気はあり電話も通じます。水道は川の水をろ過して使い、下水も自前の浄化槽で処理しているといいます。家のまわりの山林や杉の木も、家に付属した自分の物だといいます。ヤマヒルがたくさんいるから周囲の手入れはしないといってましたが、すごい所を購入したものです。友人は特別器用でもないし、ワイルドでもなく、カメムシがいやだと奥さんにとってもらっていたのですが。


民俗学会 年会シンポジウム

2017-10-17 16:29:38 | 民俗学

年会のシンポジウムは、「民俗学とは何か」をテーマに、基調報告を島村恭則氏、報告者が3人で野口憲一氏「農業とは何か?-最先端の科学技術(大規模植物プラント・生物学・ハイテク機械)を用いた株式会社による『野菜生産販売事業』は『農』業か」、真鍋昌賢氏「演者とは誰かー動態的な浪曲史記述の可能性ー」、村上紀夫氏「政治史と『民俗』のあいだー六孫王権現社『再興』過程の史料論ー」でした。

島村氏の基調報告を中心に、「民俗学とは何か」考えてみましょう。島村のレジュメによれば、「世界の民俗学を俯瞰したとき、日本において柳田國男が構想した民俗学は、個別資料としての民間伝承そのものの探求をめざす研究ではなく、一種の「社会変動論」といえるものであった」といい、「柳田の社会変動論は、欧米の近代化を普遍的な尺度とする欧米産「近代化論」の単純なあてはめではなく、また社会学における近代化論とも異なり、人びとの生世界、とりわけそこで生み出され、生きられてきた言葉、芸術、情動、信仰、人と自然のかかわり、女性の日常、子どもたちの文化的創造性といった人文的な要素が、社会の構造的変動の中でどのように変化しているのか、あるいは、社会の構造的変動の中で、それらのうち捨て去るべきものは何で、また残すべきものと新たに取り入れるべきものはどのようなものかを問うものであり、また残すべきものと新たに取り入れるべきものとをどのように組み合わせて未来に向かってゆくべきか、を考えるものでもあった。そして、このような一連の考察は、生活当事者自身によって行われるべきものべきものだともされていた」という。そして、このような社会変動論こそが「柳田民俗学のプロトタイプ(典型)であり」、社会変動論としての民俗学を展開するための主たる資料が、人びとの世界で生み出され生きられていた民間伝承群だといいます。

経世済民としての民俗学、内省の学としての民俗学を丁寧に説明したものとして、これはよくわかりますが、「社会変動論」とは何か、初めてききましたから、すぐには理解できません。そこで、参考文献にあげてある、鶴見和子の社会変動論(『鶴見和子曼荼羅Ⅳ 土の巻』常民と世相史ー社会変動論としての『明治大正史世相偏』-)を開いてみました。

「『明治大正史世相偏』で示されているさまざまな具体的事例とその分析には、これまで近代化論の通説の中では見落とされていたこと、あるいはそれと一致しないような主張が、いくつかあらわれている」「社会変動の要因として、これまでは価値観やイデオロギーの変化が重要視されてきた。それらを探る方法として、知識社会学の方法が用いられてきた。これに対して、柳田はむしろ色や音や香りや味に対する常民の感化卯や、表情(目つきなど)やしぐさを通して観察することのできる情動の変化を重く見ている。見えるものと見えないものとの対応関係のパラダイムが、この接近法の底にあるに違いない」などと述べ、色や香り情動の記述の分析にはいっていくのです。これを社会変動などといわず、色の歴史、香りの歴史、情動の変化と継続などといってはいけないでしょうか。自分の実感から資料の、生活の変化に切り込んでいくことは、今もよくやる問題提起です。これは普通に私たちがする研究態度ではないですか。

生きられた日常とか、いまを生きる生活者の記録を記述し、研究するのが「民俗学」なのだ、といった論を展開するかと思いきや、今回の島村氏の報告は学史を整理したような形のものであったわけです。


民俗学会年会参加

2017-10-16 13:08:43 | 民俗学
今年の年会は仏教大学で開催されました。何十年か前にも開催されましたから、私の知る限り、二回目です。テーマは「民俗学とは何かー京都で考える民俗学のかたち」です。実行委員長は八木先生ですが、企画は、来月の長野県民俗の会総会で記念講演を依頼した島村先生のようでした。落日の民俗学とのレッテルに、終止符を打ちたいという強い意欲を感じたからです。
京都へ出かける前に片付けねばならない仕事は、たくさんありました。まずは会報の原稿を全て割り付けて出稿すること。今回は論文数が多く、結構大変でした。それから、通信の原稿を集めて担当者に渡すこと。安曇野の伝説の原稿を書くことなどがありました。更に大事な事がありました。それは但馬の山中に別荘を買った、友人を訪ねることです。そのために、メールで連絡をとって日程を合わせて計画を立てなければなりませんでした。
あたふたと準備して土曜のあさ、京都へ出掛けたのです。