民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

5月の終わりに

2016-05-30 17:26:30 | その他

もうすぐ5月が終わります。自分の生まれ月でもありますが。好きな月です。目に映る緑が日に日に濃さを増しています。北アルプスの残雪はまだらとなっています。

そんなこの季節には思い出すテレビ番組のフレーズがあります。私が子どものころ、まだ白黒テレビだったと思います。森光子が主演で、下着の行商しながら女手一つで子供たちを育てる中で生ずるエピソードでした。そこでいつも読まれた詩がありました。「貧しいから、あなたにあげられるものと言ったらさわやかな5月の風と~」まで覚えています。これってすごいことです。あれは東芝日曜劇場だったと思います。半沢直樹、下町ロケットがいくらヒットしたといっても、50年もたってテレビの中のセリフを覚えてるって、自分がじゃなくてそこまで皆に愛されたドラマと森光子ってすごいです。で、こんなんを覚えてるのは自分ばかりかと思ったら、検索してみるといっぱい出てきました。それは、次の詩です。

貧しいからあなたにあげられるものといったら
柔らかな五月の風と、精一杯愛する心だけです
でも結婚してくれますね
 
多くの人の記憶に残っているんですね。最後に「でも結婚してくれますね」がついていたんですね。本当にこのドラマを見ているころは貧しかったです。でも、みんな貧しかったから卑屈にも思いませんでした。今は、6人に1人の子どもが貧困に苦しんでいるそうです。世の中はそうでもないから、現代の貧しさは子どもの心をいたく傷つけると思います。
  

オバマ大統領の広島訪問

2016-05-30 14:29:49 | 政治

伊勢志摩サミットに続くアメリカ大統領の広島訪問について、ほとんどの論評が出そろいました。日本のマスコミは大方好意的、というより大感激の論調だったと思います。これまで原爆投下は日本の降伏を早め、多数の米軍兵士が死ななくてすんだという立場で、大統領が公式に訪問することはなかったのですから。公的な謝罪はなくともアメリカはこれで、原爆投下の非を認めたて被爆者の皆さんも心が救われたと。もちろん私も被爆者の方々の苦しみを思えば、大統領が来たことで少しは救われた思いになったという報道を認めた上ですが、これで良かったのかと思います。

それは、もともと広島への原爆投下の事実の扱いが、これまでもこれからも日本が未曽有の被害を受けたというものでした。人類史上初の原爆被害にあったのですから、その無差別殺戮をいくら抗議しても足りないのです。しかし待ってほしい。そもそもこの戦は、日本の侵略に発端があります。重慶への無差別爆撃が都市への爆撃の最初でした。南京の大量虐殺もありました。そうした加害の事実には目をふさぎ、時には事実を否定しておいて、自分だけがひどい目にあったと世界に訴え被害者ぶっても、それで国際社会に通じるのでしょうか。ひどい目にあったが自分たちもひどいことをした、ごめんなさいといわなければ、オバマが謝罪をしたとかしなかったとか論評することが恥ずかしい。

原爆慰霊塔の前で書簡を読み上げたオバマ大統領が被爆者とハグする場面がありました。70数年を経た和解、加害側と被害側がハグしたという感動的な場面の演出で、新聞にも写真が大きく載りました。映像としては感動のストーリーが描けたのですが、私はこのとき、天皇とマッカーサーが並んで撮った敗戦時の写真を連想しました。大男のマッカーサーと、子供のように小さく弱弱しい天皇。男と女、保護者と子どもというメタファーを含ませた写真でした。今回もハグというより、大きな大人のオバマ大統領が、小さな被爆者を保護しなぐさめるという構図でした。私(アメリカ)は原爆を落としたが、あなたがた(被爆者=日本)を見捨てたわけではない。いつも保護者として見守っていますよ。というメッセージを他のアジア諸国に対して発信したのです。日本にとってみれば、アメリカは日本の後ろ盾だというメッセージでした。日本は被爆者という切り札でアメリカをつなぎとめる。沖縄を差し出すことで本土防衛を果たし、東アジア諸国にはばをきかすのとパラレルな構図に思えます。


東洋思想

2016-05-28 16:39:45 | その他

東洋思想といって、難しい哲学を考えようというのではありません。一カ月ばかり太極拳の教室に通って、教わったことや考えたことを書いてみようというのです。まず、習っているのは24式太極拳というもので、いくつもある流派の動きをまとめて24番までの流れにしたものだといいます。1週間に1度あるかないかの教室ですが、今は1番から4番までの型を習っています。型は分解して教えてもらうのですが、自然な流れとなっているために真似をしていても、今どこをやっているのかわからなくなってしまったり、先生の足運びに注目していれば手の動きが伴わず、手を真似していれば足が伴わないといった状態です。それで、繰り返し指導されることが幾つかあります。まずは、何度もやって型を覚えなさい。自然に体が動くようになれば、もっと深い境地に達することができるといいます。呼吸にしても、まずは鼻から吸って口からはきなさい。本当は、鼻から吸って鼻から出すのですがそれは苦しいから、鼻から吸うのが普通だと思えるようになるまで、苦しくても身につけなさい。それは、息をすることを誰も考えずにしているように、呼吸も技も苦しいけれども苦労してみにつければ、それが自然となるのです。といわれました。東洋の修行の意味は日本も中国も変わらないのだと思いました。まずは型から入るのです。頭でわかるのでなく、体に覚えさせる。

2つめは上体の姿です。頭のてっぺんに百会というツボがあります。へその下に丹田というツがあります。真上の空に向かって丹田の上に百会が乗っているイメージで、上体はいつも真っすぐで曲がってはいけません。常に敵の攻撃に備えて前にも後ろにも行けるようにしている。学校ではよく、「腰骨を立てる」と子どもたちに指示して、姿勢を正させたものです。その腰骨を立てるというやつが、丹田から百会までを真っすぐ上に向けているというものだと思います。そして自分が向こうとする方向に上体をよじるのではなく、腰椎をそちらに向けるのだそうです。そう意識してやっていますと、足を踏む位置が分からなくなってしまいます。太極拳の足運びは猫が獲物をねらう時の歩き方だといいます。バタバタと足を出さず、意識して体重をゆっくりと右足左足と移動していく。

これは何年もかかりそうです。


民俗学の根拠

2016-05-26 18:07:16 | 民俗学

先日、退官して歴史館となったS先生と飲む機会がありました。中世史を中心に多くの成果を残しているS先生ですが、私と話すときは決まって民俗学への不信感を口にします。それは、簡単に言えば、歴史学は「文書」という(絶対的な)史料に依拠して論を組み立てるのであてになるが、民俗学の聞き書きなんてものは5人に聞けば5通りの資料、10人に聞けば10通りの資料がある。一人ひとりいうことが違うだろう、全員に聞かなければ信用できないところを、数人に聞いただけでその地域の資料としているが、そんなものは信用できないじゃないか。だから科研の費用も削られたんだ。といった、上から目線のものいいで、いつものことながら辟易とするのですが、一面当たっているだけに、反論が難しい。民俗学の前提として、あるエリアには共通の伝承が分布していて、我々が行う(行ってきた)調査はサンプル調査なのだ。だから、ある地域での平均的な話者から聞き取れば、その地域の平均的な伝承を調査したことになるというものです。かつての変動が少ない地域社会では、悉皆調査などしなくても聞き取った資料は大方の人々の日常生活と心情を表すものであったと思います。しかし、現代のように生活が個別化してくると、典型的な住民に聞き取ってサンプルとしているという説明が、なんだか説得力を欠いてしまいます。S先生に反論するものの、現代にあっては当てはまらないなあと、頭の片隅で思いつつの民俗学の弁護は、迫力がありません。くそ、S先生、そうやって民俗学を見下しておきながら、ちゃっかりその成果だけは上前をはねて自分の論文に取り入れています。中世の音だとか、約束とかいったもののとらえ方につては、利用されてしまっています。今は大概の隣接科学が、民俗学の利用はするが学問として認めない、そんな流れになっているのでしょうか。


NHKの番組

2016-05-22 16:50:17 | 政治

年をとってからNHKを聞いたり見たりすることが多くなりました。NHKの報道が軟弱となり、大本営発表ばかりを報ずるようになったと感じても、多くの時間にニュースを流すのはNHK以外にありませんから、勢い腹を立てながらも見たり聞いたりしてしまうのです。

以前に朝のラジオ体操が終わったころから、「経済展望」という硬派な番組がありました。曜日ごとに電話出演する評論家や学者が決まっていて、辛口な評論を聞かせてくれました。金子さん内橋さん諸富さんなどの論客が、歯に衣をきせず経済の現状について論評しました。私は中でも内橋さんが好きで、労働の尊厳とよく言われるフレーズに深くうなづいたものです。どうしても身近に話を聞きたくて、講演会の講師としてお願いしたこともありました。講演料は高かったのですが、いい話をしてもらいました。社長がこの番組を聞いてくるように社員に指示した会社があるとも聞きました。ところが、この番組は「社会の見方私の視点」と名前をかえ、どうやって選考するかわかりませんが、多種多様な人が出演するようになり、それまでの経済展望にでていた人は、切り捨てと批判を受けない程度にたまに出演するだけとなりました。そして、どうでもいいような話や政策のお先棒を担ぐような人が多く話すようになった、と私は感じています。NHKのやることは巧妙です。クローズアップ現代も、あの時間の後番組を前倒しして、10時からとし、当たり障りのないテーマでやっているみたいです。時間帯が移ってからは一度も見ていません。両論を取り上げるという一見中立のメディアのように見せて、1000人の反対意見も、数人の賛成意見も全く同等のごとく扱っています。局としての見識や志はないのかと、優秀なNHKのスタッフに聞いてみたいです。

ところが、数日前の舛添都知事の記者会見にかかわる報道では、ばかに歯切れよく舛添さんを切って捨てました。都民が見限り、自民党も公明党も擁護しないから、厳しく論評しても大丈夫だと踏んだのでしょう。私はそれが許せなかったです。溺れる犬を打つように、いつもの両論併記をやめてあおるように鞭打つのは、どうしたものでしょう。それなら、今までもっというべき場面があったのではないでしょうか。尻馬に乗る天下のNHKの報道姿勢は、見苦しいものです。かといって、舛添さんを擁護しようというわけではありません。舛添さんは国民に都民に指弾されて当然です。


認知症予防と運動

2016-05-17 18:04:08 | その他

自慢ではありませんが、子どもの時から運動が不得意な自分は、体を鍛えるようなことを全くしてきませんでした。不得意であるがゆえに、原則他人との競い合いである運動をしても、絶対に気持ちいい思いにはなれないからです。つまり、何をやっても負けるということです。同学年で懸垂が0回というのは、多分自分だけだったと思います。

ところが、ここまで年を取ってくると、健康維持のために何か体を動かしなさいとは、随所で言われます。自分でも脳の働きと足の動きとが密接な関係にあるとはわかります。そして、生きている以上は、脳はできるだけ正常な状態を保ち続けてほしいとも思います。それで、4月から市で行っている熟年体育大学なる講座に参加し、月に2回程度、ウヲーキングを中心とした運動指導を受けることにしました。そして渡されたのが活動計という漫歩計のようなものです。四六時中身に着けていて、活動量を記録していています。講座にそれを持っていくと、向こうのパソに活動量が転送され管理されます。今はまっているのは1日の歩行数で、8000歩を目標にしています。朝夕2度歩けばクリアーできるのですが、1度に8000歩歩くのは、なかなかきついです。歩数では、アクティブ歩数というのも記録されています。こちらは気合を入れて歩いた歩数だけが記録されるものですが、これはあんまり気にしないことにしています。先日は血液検査もしまして、年度末にどれほどの効果があったか、もう一度血液検査をするそうです。人体実験のようなものですが、それで頭がクリヤーになればオッケーです。

もう一つ、4月からやはり3回ほどある太極拳の教室にも通い始めました。中国人の女性の先生が、美しく教えてくれますし、中国人の深い価値観や宇宙観について学んでいます。肝心な太極拳の動きはちっとも身につかず、10年くらい続けないとダメみたいです。中国の老人は大体朝、公園などに集まって太極拳をしています。ゆったりとした動きで、自分にもできるかと思ったのですが、ゆったりとしているから、かえって筋力が必要になるみたいです。武道でありながら舞踊のような優美さがあります。健康づくりですから、これも続けてみようと思います。


老人とスマホ

2016-05-14 16:35:30 | その他

依頼原稿を書き上げて送り付けたので、少しゆっくりと現況について書いてみます。

何といっても自分としての現況といえば、スマホについて書かなければなりません。年寄りがスマホに何の必要性があるかということですが、昨年度までは曲がりなりにも勤めていました。職場にもPCはありましたが、セキュリティーの関係と労務管理があり、WEBメールにつなぐことはできませんでした。ところが、研究会の仕事で編集をしていると、期限が迫って原稿や校正がメールで送信されてきます。一刻も早く確認したいと思います。そこで、スマホが必要になりました。孫はいませんから、孫の写真をとるスマゴとして必要だったわけではありません。とはいえ、一ヶ月に5,000円もの金を払うのは、老人にとっては痛い出費です。そこで、安くスマホを使えないか調べてみました。たどり着いた方法は、シムフリーの格安スマホ端末(ビッグローブ)を購入し、会話なしで通信のみの格安シムの契約をして、購入したスマホに装着するというものでした。そして今あるガラケーは、会話のみの契約としました。これでかなり安くスマホを使えるようになりました。家ではWIFIでつなぎますから、通信量は最低でも少しもこまりません。もっとも、スマホでしょっちゅう動画を見る息子たちのようなヘビーユーザーではもともとなかったですから。それで1年ばかり使ってきましたが、今年になって面倒に感じるようになったのは、通信用のスマホと会話用のガラケーの2台を持ち歩くことです。できれば1台にしたい。それから、会話契約をしていないせいか、メールの着信音が鳴りません。それで調べてみますと、会話つきシムへ乗り換えると特典がついていることがわかりました。また、番号ポータビリティーを利用して今の携帯番号もそのまま使えます。料金的にも2台使用しているよりもむしろ安いかも。手続きは面倒ですが、基本的に毎日家にいますから、手続きは自分でできます。

ということで、今月からスマホに完全に乗り換えました。今の難点は通話料金です。格安シムには無料通話はありません。ビッグローブのアプリ経由で電話しても、30秒で10円かかります。年寄りは勤めていなければ電話することもめったにありませんが、何とかしたいと思います。そこで、無料通話ができるラインをいれてみました。ところがここでまた、格安シムゆえの問題が起こりました。それは、無料で話したい相手を登録しよう(友だち追加)しようと思っても、自分の年齢確認を完了できないので、相手を登録してOKのサインが出ないのです。なぜ年齢確認ができないかといえば、それをだすのはプロバイダなのです。ビッグローブはドコモの回線を借りているので、ドコモから年齢確認をしてもらわなければいけないのですが、ドコモと契約して番号を持っていない人には出さない(出せない?)というのです。これって意地悪ですよね。もちろん、相手と会ってスマホ同士を近づければ双方の確認ができるようですが。

こいつばかりは政権の肩をもつわけではありませんが、年寄りには大手のスマホ料金は高すぎます。もっと安い高齢者向けのプランを作るかと思えば、政府の指導がありながらも0円スマホを無くした程度で、料金は高止まりです。格安シムがもっと容易に誰もが利用できるようになってほしいものです。


祭りで死ぬということ

2016-05-07 06:38:54 | 民俗学

諏訪大社上社本宮の御柱を建て終わって撤収中に、一人の方が落ちて死亡されたというニュースが報じられました。何とも痛ましい話ですが、前回も落ちて二人亡くなっているといいます。前回亡くなったから、今回はその作業はやらないとか、方法を変えるという話にはなっていないと思われます。諏訪の男は御柱で死ぬのは本望だと思っている、といった話は諏訪人以外の者が御柱について話すときには話題になります。そうでも考えないと、あえて危険な場所をとりあう氏子の気持ちが説明できないのです。

祭りで死ぬということについて、多分民俗学でこれまで扱ったことはないと思います。聞き書きしにくいテーマだからです。それでも思います。毎回誰か死ぬような祭りを、当事者はどう思っているのでしょうか。木落坂で先頭に乗りたがったり、建て御柱でやはり先頭の高い場所に乗りたがる男、そしてその家族は何を思っているのか。今回亡くなった方は、40数歳だといいます。お子さんがいれば、これから教育にお金がかかるようになるころだと思います。多感な時に父親を亡くした子どもはどう思うのでしょうか。山岳遭難に似ているような気がします。命を失うような危険な山に好んで登り、遭難する。自己責任だ、好きで行ったのだから仕方ない。御柱もきっと自己責任だといわれるでしょう、自分で好んでその場所に位置したのだと。山岳遭難と違うのは、地域の観光として危ない祭りで経済的に潤い、また祭りがあることを誇りとしている人々がたくさんいるということです。ある面、祭りを盛り上げるための犠牲となったといえないこともないと思います。こうした事故をこれまでどうやって受け止め、祭りの方法として改善というか変更された部分があるのかが気になるところです。本宮は3日間の祭りです。続けて3日あの喧騒の中に身を置き、アドレナリン出っ放しのような生活すれば、3日目の終わりには気力、体力ともに枯渇してくることは容易に想像されます。安全を考えれば祭りは面白くないとなるでしょうか。今の時代に毎回誰か死ぬという祭りは、改める余地があると思いますが、地元はどう考えるのでしょうか。日本的に、7年すれば忘れてまた同じことをするのでしょうか。


諏訪大社上社里びき

2016-05-05 18:00:18 | 民俗学

  

5月3日、上社の里びきがありました。次は7年後。生きているのか、自分が動けるのかわかりません。30年ばかり前に建て御柱を見学しただけで見てありませんが、今回はそんな思いで見に行きました。川越をして御柱屋敷に安置していた、本宮・前宮、それぞれ4本ずつの御柱の里びきです。最初の難所は、御柱屋敷を出て国道を直角に曲がるところです。狭い十字路の上に信号機があります。御柱は徐々に向きを90度かえていきました。道は御柱のひきことラッパ隊、見物客でごったがえしています。人力のみで皆が力を合わせて綱を引き、音頭を取り、柱のバランスをとる。見ている方もハラハラします。驚いたことに一本の柱をひく集団の最後尾には、道路を掃き清めごみを拾う係りの人々までいます。

私は本宮の4本は前宮前を通り過ぎて、本宮までの途中までが今日のコースですが、前宮の4本はお宮までひくのが今日のコースです。前宮の次の難所は前宮前を曲がって、石の鳥居をくぐって参道まで引き込む場面でした。鳥居の中を通すのは角のように張り出したメドデコはひっかかりそうで、またそこに乗っている人がケガをしそうで、御柱にのっているリーダーからの鋭い声がスピーカーから流れてきます。そんなに狭くない参道ですが、綱についたヒキコや一緒に歩く氏子の人々で埋め尽くされました。もし御柱がバランスを崩したりしたら、大変な事故になってしまいます。鳥居を入った御柱はしばらく休み、短いメドデコに差し替えられます。急な参道は狭く道路わきに灯篭などがあるので、短くするのです。そして、階段の上に敷いた板の上を、御柱は一気に上っていきました。それは何とも感動的な姿でした。

たかが太い木の柱を人間がひくだけの単純な祭りなのに、その場に居合わすと心が躍りハラハラし、演者(祭りの当事者)と心が一つになったような感動を覚えました。子どもから老人、本当に足元がおぼつかなような老人までが、御柱と一緒に歩いているのです。御柱にすがって歩いているかのようです。本当に地域住民の一体感を感じました。人々を生まれ故郷につなぎとめる強烈な磁力です。今日木やりを唄っていた小学生が、次回は立派な若者として祭りを支えるでしょう。すごい祭りです。こいつは途絶えそうもありません。