民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

ナルとは何か

2018-10-01 09:44:13 | Weblog

先月はほとんど毎週末に、安曇野市穂高矢原神明宮の秋祭りに曳かれるコドモブネと山車の調査にでかけていました。

安曇野では、祭で曳く山車・屋台をフネと呼ぶ地域が多く、実際に船形に作ります。作りますというのは、フネは骨組だけは毎年同じ物を保存しておいて使いますが、それを中に入れて外側は毎年新しく作るのです。週末ごとに年番の地域住民が公民館に集まって、フネを制作します。写真を見てください。

ダイシャに骨組みを縛り付け、人形を飾り幕を張るといった工程がわかると思います。時間がかかるのは、ハラと呼ぶフネの前後のふくらんで幕をかけてある部分の制作です。ハラは前を「オトコバラ」後ろを「オンナバラ」といい、オンナバラを大きく(妊娠を表しているのでしょう)作ります。この時使うのは、曲げて縛り付けても折れてしまわない、山から切ってきたナルと呼ぶ、真っ直ぐな木です。最初の写真に示しました。ナルは樹種ではエゴノキとウリハダカエデだそうです。

地元の調査員の方から、ナルとは元々の意味はなんでしょうかと聞かれました。何か標準語が本になって作られた地方名かと。松本近辺で通常の会話で使われる、いや使われたといった方がいいでしょうか、「ナル」とは、つるになる畑の作物の支柱ーこれをテといいますがーをいいます。今はホームセンターで買ってきますが、以前は真っ直ぐな細い棒を山から切ってきて使いました。畑に使うナルよりも太いものをとってきて、フネのハラの部分を作るのです。

おフネを作っている地区では、ほとんどナルを使います。ただ、毎年切ってきて作るのは大変だと、竹を割って作って何年も使いまわしている地区もあるようですが、そこでも以前はナルで作っていました。この「ナル」です。普通名詞が先にあって後から地方名がそれに倣ってできたとは考えない方がいいですと私がいうと、作物のテに使うのだから「実が成る」のナルかねといわれました。

どうもすっきりとしないで、『総合日本民俗語彙』で調べてみました。すると、「ナル」には「ナルイ所を意味していると推測できる」とあり、どうもピッタリしません。ナルの次に「ナルキ」とあり、それがふさわしい気がします。次のように説明しています。

ナルキ 長野県ではハザの横に渡す棒や竿をナルという。静岡県磐田郡でもナル・ナロは稲架である。和歌山県でも淡路でもともにナルであって、ナルイは同時に平坦なるを意味する形容詞であるが、それが一転してそのナルに用いられるような細丸田をナルキまたはナルンボウという土地も多い。云々

稲に注目して説明しようとするあたりは、柳田におもねているような気がしないでもないです。ハゼギとナルとは意識として一緒にはなりません。稲架木の方が太いものですから。さて、ナルとは何なのでしょうか。

 


九州へ

2018-01-28 19:59:21 | Weblog

FDAの飛行機で九州へきました。今夜は博多に泊まっています。夕飯にはモツ鍋を食べてきました。今回の旅行のめだまは2つ。一つは鹿児島で赤羽王郎のゆかりの品を見ること、もう一つは宗像神社を見ることです。赤羽王郎については以前に書きましたが、白樺派の教員で、戸倉事件で長野県の教員を追われた人です。明日から見学してまた書きます。

小正月2

2018-01-14 20:02:42 | Weblog

今日は平出博物館で、人類が出現してから日本列島に到着するまで、という講演会があり聞きに行きました。話しはそれなりでしたが、行き帰りでいいものがみれました。一つは内田で道祖神の御柱がありました。もう一つは、中山で三九郎をしていたのです。今日は14日ですから、昔通りの日取りでしている地域もあったのです。聞くと三九郎の日にちが毎年まちまちになってしまったと嘆いていました。マユダマはみんな家で作るということで、食紅などで色をつけたきれいなダンコを刺した柳の枝を手にしていました。

『年中行事の民俗学』刊行

2017-06-01 15:44:43 | Weblog

谷口貢/板橋春夫編『年中行事の民俗学』(八千代出版 2017年6月20日 2300円)の執筆者への見本刷りが送られてきました。同時に書店にも並んでいるのか、それとも書店へはこれからなのかわかりませんが、ともかく刊行。年中行事研究が停滞している中での年中行事の本ですが、学生の教科書というコンセプトのようです。私が書いたのは「祝祭日と年中行事」というもの。国の定める祝祭日が、民の年中行事にどうやって割り込み変形させてきたのか、民はどうやって受け止めてきたかなどをまとめました。結論をいうなら、国が押し付けてきた天皇家の「家の行事」を、民はある部分を受け入れ、ある部分は受け流してやり過ごしてきたということです。それでも国は、戦後の祝日にこっそりと戦前の天皇家の行事を忍び込ませ、スキあらば復活しようと狙っています。日本国憲法が明治憲法に戻される前に、実は祝日は表の顔を変えただけで戦前から継続しているのです。

民はやりすごしてきたとまとめましたが、それでよかったか。根っこから引き抜かれて枯れてしまうか、接ぎ木されて別の木になってしまうか。あんまり暗い未来を想像したくはありません。


物忘れ

2017-05-28 19:54:09 | Weblog
すぐ文書が処理できない、どこにしまったか忘れてしまう、なんて事が増えてきました。そのため、人生の大半を物探しで過ごしているのではないかと思うこの頃です。書類をどこにしまったか忘れてしまう、それが常態だと思いこんでいます。今日は今年の年会(民俗学会)の開催通知がきていたのに、まだ処理してないことに気が付きました。それであちこち文書を処理しながら探してみますが、なかなかみつかりません。妻にはどんな物かと聞かれ、封筒に入った学会の開催通知で、民俗学会の封筒に入った物だと説明し、一緒に探してもらいますが、ありません。果たして本当に来ているのか確認し、あればスキャンして送ってもらおうと、友人にメールしました。すると、何という事でしょう、まだ通知は届いていないと。ということはと思い、メールを検索してみると、開催通知が来ていました。私はこれを読んで時間がたつと、郵送できたと思い込み、それをいつものように紛失したと思い込み、右往左往していたのです。あまりの馬鹿さ加減に自分ながらあきれてしまいます。妻には、何でも友人のMさんを頼りにして聞いてみればいいと諭されました。トホホ。

アジールと現代社会

2016-12-27 09:20:40 | Weblog

網野善彦が発見したと思っていた日本のアジールは、実は戦前にあの平泉澄が見つけていたということが、『僕の叔父さん網野善彦』を読んでわかりました。平泉といえば、東大の研究室に神棚を作って神を祀っていたという軍国主義の権化のような学者です。その平泉が若いころ、対馬の土着宗教(山岳修験のようなものか)の聖地に、世俗の支配が全く及ばないアジールを見出します。着眼点は斬新だったのですが、その論文は全くつまらない結論で締めくくられます。

けだしアジールなるものは、専断苛酷の刑罰、または違法の暴力の跋扈する乱世においてのみ存在の意義を有するところの、一種変態の風習なるが故に、確固たる政府ありて、正当なる保護と刑罰とを当局の手に掌握するときには、アジールは存在の意義を有せず、しいて存在せしむれば百害あって一利なきこと明らかである。この故に厳明なる政府が完全なる統治を実現せんとするときは、かくのごとき治外法権を否定するは当然のことである。

網野は、戦後の歴史学が軍国主義のレッテルを貼って戦前の研究を一切認めなかったことを批判しつつも、この結論のつまらなさに言及したという。中沢もこの結論には幻滅しているし、もちろん私も幻滅です。で、幻滅しつつこの結論は安部の政治スタンスに通ずるものではないかと思ったのです。民は自由にして置いたら規範の及ばない場所に行ってしまう。そうした民を許すのは国の完全なる統治が及んでいないからである。よって、憲法を改定する必要があるのだという論理です。ここには人間が本来的に持っている「自由」への渇望という視点は全くありません。民は統治すべきものとしてあるわけです。自由を全く認めないのを「国家主義」というならば、現代に国家主義がよみがえっていると私は思います。

アジールを認めない政治信条は、沖縄を認めることもありません。国の統治に従わない人間を、国民とは認めないのです。ここから学問を尊ぶという気風は生まれてきません。なんという国に成り下がってしまったのでしょうか。


オリンピック

2016-08-21 11:35:36 | Weblog

もうすぐオリンピックが終わります。毎日日本のメダル数はとアナウンサーがいうのは、うっとうしい限りですが、ないよりはあったほうがいいとは思います。また、メダルをとれなかった競技での日本選手の様子、いったいドンナ競技に日本選手が出場していたのか、知りたい気持ちもあります。とはいえ、自分もこの時期いつのまにかナショナリストになっていることを、腹立たしく思います。大本営発表の戦果を喜んでいるみたいですが、ミサイル打ち合うより競技で決着つければ、そのほうがいいですね。今回は日本にとって五輪史上初といった獲得メダルがいくつもありました。ロシアの選手が多数参加できなかったという影響もあるでしょうが、選手の育成プログラムが実を結びつつあるのでしょうか。詳しくは知りませんが、それは素質のある子どもを早く見出して一か所に集め、集中的に鍛えるという方法ではないでしょうか。そうならば、中学校の部活動はもっと楽しいものにしていいと思います。サッカーは既に素質のある子どもは、プロのユースチームで鍛えられていて、部活動など眼中にありません。卓球や体操も同じようなものではないでしょうか。学校では、生涯スポーツとなるような基礎を多くの子どもに教えればいいのです。それはスポーツの楽しさであって、休日を返上してスパルタ教育で鍛えるのとは違います。

また、最後まで勝負をあきらめなかった日本選手の姿が随所にありました。土壇場で窮地に立たされても、踏ん張って劣勢をひっくり返して勝つ、というメンタルの強さには感心させられました。こうした強さをどうやって獲得したのか、多くの人が学ぶべきだと思いました。4年後は東京だということがモチベーションになっているのでしょうか。

最後に、報道されなくても多くのトラブルがあったことが想像されるのですが、それを逆手にとって強盗事件をねつ造し、開催国を貶めたアメリカの競泳選手の行為は、先進国あるいは白人の発展途上国ないしは有色人種に対する蔑視感を表に現した恥ずべき出来事でした。そのうえ、謝罪の言葉が歯切れの悪いものでした。なんでもアメリカが正しいわけではないことを肝に銘じなければいけません。


吉本隆明『全南島論』を読む

2016-06-28 11:13:12 | Weblog

その日思ったことをその日に書けばいいのですが、最近はそうしなくてその日に思ったことを何日か考えて、熟成させるというほどかっこいいものではありませんが、書いています。そうすると、話題はどうしても鮮度を失ったり、書く気がなくなったりして、話題性には欠けるテーマをブログに書く結果となります。今日書こうとするテーマもそうです。

6月22日、近くの図書館に行き資料を返却して少し本を選び、最後に読書新聞を斜め読みしていました。斜め向かいに最近入った本というのを並べてある棚がありました。そこから、なぜか一冊が目に飛び込んできました。いったい何だろうかと、近寄ってみますと、白い表紙で、吉本隆明『全南島論』とありました。吉本の新刊本なんてあるんだろうかと思いつつ、この装丁のこの分厚い本は見たことがあるな、そうそう安藤礼二です。『折口信夫』も『皇后論』も分厚い白い本でした。中を開くと、やはり安藤の編集したものでした。翌23日は沖縄慰霊の日です。この本を読みなさいと自分は招かれたような気がして、借りて帰りました。そして読み終えたらブログに書こうと思ったのですが、なかなか手ごわく読み終えることができません。それで、途中でありますが、このことについて書くことにしたのです。

 わたしたちは、琉球・沖縄の存在理由を、弥生式文化の成立以前の縄文的、あるいはそれ以前の古層をあらゆる意味で保存しているというところにもとめたいとかんがえてきた。そしてこれが可能なことが立証されれば、弥生式文化=稲作農耕社会=その支配者としての天皇(制)勢力=その支配する〈国家〉としての統一部族国家、といった本土の天皇制国家の優位性を誇示するのに役立ってきた連鎖的な等式を、寸断することができるとみなしてきたのである。いうまでもなく、このことは弥生式文化の成立期から古墳時代にかけて、統一的な部族国家を成立させた大和王権を中心とした本土の歴史を、琉球・沖縄の存在の重みによって相対化することを意味している。
 政治的にみれば、島全体のアメリカ軍事基地化、東南アジアや中国大陸をうかがうアメリカの戦略拠点化、それにともなう住民の不断の脅威と生活の畸型化という切実な課題にくらべれば、そんなことは迂遠な問題にしかすぎないとみなされるかもしれない。しかし思想的には、この問題の提起とねばり強い探究なしには、本土に復帰しようと、米軍を追い出そうと、琉球・沖縄はたんなる本土の場末、辺境の貧しいひとつの行政区として無視されつづけるほかはないのである。そして、わたしには、本土中心の国家の歴史を覆滅するだけの起爆力と伝統を抱えこんでいながら、それをみずから発掘しようともしないで、たんに辺境の一つの県として本土に復帰しようなどとかんがえるのは、このうえもない愚行としかおもえない。琉球・沖縄は現状のままでも地獄、本土復帰しても、米軍基地をとりはらっても、地獄にきまっている。ただ、本土の弥生式以後の国家の歴史的な根拠を、みずからの存在理由によって根底から覆えしえたとき、はじめていくばくかの曙光が琉球・沖縄をおとずれるにすぎない。「異族の論理」 1969年『文藝』12月号

 吉本が沖縄復帰以前に書いたこの文章が、今になっても新しさを保っています。本土にいながら沖縄を特権的に論じているようにも思いますが、沖縄の文化的独立性をもって本土に対峙する以外に、現在も沖縄の人々の誇りを保ち続ける道はないでしょう。沖縄の独自性をつきつけることで天皇制を相対化してほしいというのは、本土の人間の虫のいい願いですね。それにしても、見渡す限り戦死者の名前を刻んだ摩文仁の平和の礎の前で、安部総理はどう思ったのでしょうか。沖縄をアメリカに売りわたしてこの国の平和を確保するということでしょうか。 


小熊英二『生きて帰ってきた男ーある日本兵の戦争と戦後』(岩波新書)読了

2016-02-14 21:30:52 | Weblog

記憶とは、聞き手と語り手の相互作用によって作られるものだ。歴史というものも、そうした相互作用の一形態である。声を聞き、それに意味を与えようとする努力そのものを「歴史」とよぶのだ、といってもいい。
過去の事実や経験は、聞く側が働きかけ、意味を与えていってこそ、永らえることができる。それをせずにいれば、事実や経験は滅び、その声に耳を傾けなかった者たちも足場を失う。その二つのうち、どちらを選ぶかは、今を生きている者たちの選択にまかされている。

  「あとがき」から引用しました。大部なオーラルヒストリーです。民俗学の手法は聞き書きですから民俗学をする者にとっては、珍しいものではありません。しかし本書は歴史家がまとめた聞き書きですから、文書史料を扱っている歴史家にとっては珍しいものだといえるでしょう。私たちはライフヒストリーといってきましたが、民俗学の分野に偏った質問をしなければ、話者は自分の人生経験の印象的な部分を語りたがります。それは、自分の幼いころの話だったり、仕事で苦労したことであったり、姑との確執であったりします。丁寧にききとったライフヒストリーだけで一冊を編んだ、野本寛一先生の著書もあります。しかし、ライフヒストリーが学問的に利用されることは少ないと思います。それは、ライフヒストリーという資料は、あくまで個人の経験の範囲内にとどまるもので、普遍化されるものではないと考えられているからです。

 では、民俗学でする聞き書きとライフヒストリーはどこが異なるかといえば、民俗学でする聞き書きは個人的な体験ではなく、同じ伝承なり習俗を行う多くの人々の中の一人として、質問し答えを得るわけです。ですから、質問の内容は個人的経験ではなく、話者の生活している地域で広く伝承されてきたと考えられる事項に限られるのです。

 話者が一番話したいことを聞き記録すべきだと私も思ってきました、しかしそれを学問の俎上に乗せることができるのか、わからないままできました。個人的経験をいくつ積み重ねたところで、個人的な経験にすぎないからです。民俗学全体で見ても、オーラルヒストリーをどうやって位置づけるかは方法的に定まってはいません。
 ところが、本書は聞き書きを歴史の中に位置づけたのです。「同時代の経済、政策、法制などに留意しながら、当時の階層移動・学歴取得・職業選択・産業構造などにの状況を、一人の人物を通して描い」たのです。しかも、主人公は著者の父親です。これはなかなかできることではありません。

 さて、では民俗学として本書から何を学ぶかです。ウーン難しい。後日を期します。


野沢温泉の道祖神祭りー道祖神の家を焼く

2016-01-25 16:53:38 | Weblog

 野沢温泉の道祖神祭りでは、25歳と42歳の厄年の人たちが1日かかって、というより14日の朝から始まって完成させるまで夜中になっても作り続けた道祖神の社殿を焼いてしまう、というよりも焼くために社殿を作るのです。今年の燃え方がよかったとか、桁がいっきに落ちて良かったとかいって村人はその年の社殿のできを評価します。中信地方でも昔は子どもたちが小屋掛けをし、幾日も前からその中にこもって餅を焼いて食べたりして遊んだものだといいます。その小屋は三九郎と呼ぶ火祭りで燃やしてしまいました。なぜ道祖神をまつった社殿や小屋を燃やしてしまうのでしょう。

 辰野町から箕輪町にかけて、巻物をもった双体道祖神が建立されています。このいわれについて、『長野県中・南部の石造物』から引用してみます。

南小河内堰下の道祖神 この道祖神は高さ80㎝・巾70㎝くらいの石に、肩を組む神官姿の男女2神が浮き彫りになっている。男神は太刀を腰につけ、2神でで持つ巻物には「日月昇進」の文字が書かれている。上部に日月も施されて、慶応3年の銘もかすかに見てとれるが、巻物の内容について特別なことは言い伝えられていない。
 神野善治氏の著作『人形道祖神』には、巻物を持つ道祖神は静岡県伊豆半島周辺と長野県の辰野町から箕輪町に見られる特有なものだとある。巻物の由来として、疫病神が村人の悪行を天帝に報告するためのもので、出雲へ出かけている間道祖神に預けておいたところ、ドンドンヤキの火で焼けてしまったという話を伝える所もあるという。

 これによるならば、道祖神が預かっている村人の悪行を記した帳面を燃やしてしまうため、道祖神の小屋に火を放つのです。原初のできごとの追体験をするのが、道祖神の小屋を焼くという行為ですが、村人の悪事を隠すために焼かれてしまう道祖神はたまったものではありません。