記憶とは、聞き手と語り手の相互作用によって作られるものだ。歴史というものも、そうした相互作用の一形態である。声を聞き、それに意味を与えようとする努力そのものを「歴史」とよぶのだ、といってもいい。
過去の事実や経験は、聞く側が働きかけ、意味を与えていってこそ、永らえることができる。それをせずにいれば、事実や経験は滅び、その声に耳を傾けなかった者たちも足場を失う。その二つのうち、どちらを選ぶかは、今を生きている者たちの選択にまかされている。
「あとがき」から引用しました。大部なオーラルヒストリーです。民俗学の手法は聞き書きですから民俗学をする者にとっては、珍しいものではありません。しかし本書は歴史家がまとめた聞き書きですから、文書史料を扱っている歴史家にとっては珍しいものだといえるでしょう。私たちはライフヒストリーといってきましたが、民俗学の分野に偏った質問をしなければ、話者は自分の人生経験の印象的な部分を語りたがります。それは、自分の幼いころの話だったり、仕事で苦労したことであったり、姑との確執であったりします。丁寧にききとったライフヒストリーだけで一冊を編んだ、野本寛一先生の著書もあります。しかし、ライフヒストリーが学問的に利用されることは少ないと思います。それは、ライフヒストリーという資料は、あくまで個人の経験の範囲内にとどまるもので、普遍化されるものではないと考えられているからです。
では、民俗学でする聞き書きとライフヒストリーはどこが異なるかといえば、民俗学でする聞き書きは個人的な体験ではなく、同じ伝承なり習俗を行う多くの人々の中の一人として、質問し答えを得るわけです。ですから、質問の内容は個人的経験ではなく、話者の生活している地域で広く伝承されてきたと考えられる事項に限られるのです。
話者が一番話したいことを聞き記録すべきだと私も思ってきました、しかしそれを学問の俎上に乗せることができるのか、わからないままできました。個人的経験をいくつ積み重ねたところで、個人的な経験にすぎないからです。民俗学全体で見ても、オーラルヒストリーをどうやって位置づけるかは方法的に定まってはいません。
ところが、本書は聞き書きを歴史の中に位置づけたのです。「同時代の経済、政策、法制などに留意しながら、当時の階層移動・学歴取得・職業選択・産業構造などにの状況を、一人の人物を通して描い」たのです。しかも、主人公は著者の父親です。これはなかなかできることではありません。
さて、では民俗学として本書から何を学ぶかです。ウーン難しい。後日を期します。