民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

私の民俗学の原点へ

2013-06-29 09:02:29 | 民俗学

今日は私が学生時代に組織した「民俗研究会」の同窓会をやってくれるというので、京都へいきます。研究会は、私たちが卒業すると消滅したのですが。
いまから40年もまえは、民俗学をとりまく状況も大きく異なっていました。ある種の民俗ブームといってもよかったと思います。それは、民族学を中心とする知のムーヴメントに伴うものだといえました。レヴィストロース・山口昌男、坪井洋文・宮田登・福田アジオなどといった、背表紙をみれば即刻買いたくなる本が書店に並んでいました。一方で、民俗学は細分化され、それぞれの研究者が小さな専門分野と称するものをもち、限られた問題意識の中でやりとりしているように自分にはみえました。専攻は民俗学ではありませんでした。大学は社会へ出るまでのモラトリアムの期間であり、学ぼうとおもえばどこでも同じと、いわゆる受験勉強から逃れる論理を構築していましたので、師匠というものはなく、自分で学ぶものと腹をくくっておりました。恩師がないだけ、自由に学ぶ対象と方法を選択できたともいえます。当時1番思ったのは、もっとトータルに人間の生き方を学問できる民俗学でなくてはならないということでした。何でもない普通の市井に生きる人の生き方こそを学問の俎上に載せるのが、本来の民俗学のなすべきことではないかと思ったのです。40年たった今でも、基本的な民俗学へのスタンスは変わりません。我ながら同じことをよく考えてきたものですし、進歩がないといわれれば確かにそうです。1つ後悔があるとすれば、2年近く通ってお世話になった調査地点に、報告書として恩返しができなかったことです。当時は、問題意識があってフィールドがあるのだから、報告書も何らかの問題意識のストーリーに貫かれていなければならないと考えていました。今考えればそんな無理なことはできないのに、結論を求めるのに性急でした。報告書は、事実を記録すれば十分なのです。で結局まとめられずに終わってしまったのです。本当に申し訳ありません。当時世話になった人々は、多くが亡くなられてしまったことでしょう。

仲間の大部分は教員となり、既に退職しました。今夜はどんな話になるか楽しみです 。


民俗資源の保存と活用ー開田の麻衣ー

2013-06-26 09:48:27 | 民俗学

綿を栽培して綿織物がなされるようになり前、人々は麻を織った衣服を着ていました。麻衣は税として徴収もされたのです。山深い開田では麻を栽培して麻衣を織る伝統が、昭和30年代まで続いていました。麻を栽培するところから始まって、布に織るまでの工程を伝えたのが畑中たみさんです。畑中たみさんを最後として、生活者が生業として麻衣を織る伝統はとだえてしまいました。畑中さんが麻衣を織る貴重な美しい写真を撮って記録を残したのが、今回開田を案内していただいた、長野県民俗の会会員でもある澤頭修自先生でした。今回、澤頭先生からも問わず語りでいい話をうかがいました。

畑中さん、何度も行ったが、まずいい人でさ。自分が転勤になって開田を去る時に挨拶に行った。これで行くけど、またくるで、といったら、たみさんはそりゃ嘘だっていうだよ。ここからいなくなりゃ、来るわけがねえ。だから、こいつを記念にやるといって、最後に織った麻衣をもらった。ただ、年とったでいい物は織れんといっていた。大事にとってあるが、どうすりゃいいかな。
この国の、少なくとも木曽という地で織られた麻衣の最後の1枚。もしかしたらそれは、この国の人々が、古墳時代ころから伝えてきた織物の総合的な技術を示す最後の1枚かもしれない。

最後の伝承者がなくなって、生業としての麻織物はとだえました。しかし、復活しようといういう動きが行政からまずおこり、その後押しを得て「開田高原麻織物研究会」が平成20年に結成されました。今は30名ほどの会員があり、毎週水曜日の集まって8台ある機織り機で麻を織っているといいます。麻は栽培できないので輸入品を買い、それを績むところからやっているそうです。麻糸を買えばいいがそれでは伝統の復活にならないので、90歳のおばあさんを師匠にして会員は習い、今ではみんな績むことができるそうです。ここからが問題です。どんな人が会員で、何を作っているかです。復活といいますから、地ばえの女性が技術を身に着けているのかといえばそうではなく、会員の多くは開田以外で生活にもゆとりがあるような人だと言います。地元では、麻織りといえば、苦しかった生活、貧しかった頃が思い出されて、今からやろうという気にはならないそうです。そのためか、会長は移住してきたJさんが務められています。民俗資源にまつわるイメージが、地元だけでは復活を妨げてしまうのです。似たようなことは、別の地域の炭焼きの調査でもありました。かつて炭焼きが盛んだったなんてことは書いてくれるな、貧しいから炭焼きなんてやっていたのだから、といわれたのです。
復活した麻織で作っているのは、タペストリーなどだそうです。作品は、カントリークラブに展示しておくと、けっこういい値段で買ってもらえるといいます。とはいえ、それで生計がたつほどの収入があるわけではないそうです。原材料の麻や工房は行政に用意してもらって、売れたら研究会の収入になるというのが励みだといいます。生活掛けて売るために作品を作っているのではないから、ていねいないい物ができるとJさんは話してくれました。

民俗資源の保存や活用に関するたくさんのヒントが、この会の活動にあると感じました。 

 


人の生き方について

2013-06-24 09:58:07 | 民俗学

よく知られている話ではあるが、柳田の『先祖の話』に次のような老人の話がでている。「生まれは越後の高田在で、母の在所の信州へきて大工を覚えた。兵役の少し前から東京へ出て働いたが、腕がよかったとみえて四十前後にはやや仕出した。それから受負いと材木の取引に転じ、今では家作も大分持って楽に暮らしている。子供は六人とかで出征しているのもあるが、だいたい身がきまったからそれぞれに家を持たせることができる。母も引き取って安らかに見送り、墓所も相応なものができている。もうここより他へ移って行く気はない。新たな六軒の一族の御先祖になるのです」である。この話に柳田は、「今時ちょっと類のない、古風なしかも穏健な心掛けだと私は感心した」という。昭和21年に刊行された『先祖の話』戦時中に執筆されたものだから、今時などと書いているが、現在よりも色濃く「家制度」が機能していたころの話であり、一生を自分の家を立てて先祖になるという夢にかけた人の生き方は、柳田ならずとも誰もが深く感得できるものであったと思われる。

時は流れ、敗戦から68年経過した今年は2013年である。土曜に木曽町開田で長野県民俗の会例会で話を聞かせていただいたJさんに、柳田が話を聞いた老人のような、あるいはそれ以上の人として生きる矜持のようなものを感じた。当初Kさんからは、開田の麻衣の復活にかんするお話を聞かせていただく予定だった。むろん麻衣のはなしもうかがえたので、それについては別に書くつもりであるが、今回は麻衣よりもたまたまお聞きしたKさんの生き方について書こうと思う。
中川村大草のK家の3男として、昭和17年にJさんは生まれた。昭和37年、20歳の時に行政のおこなう最後の開拓事業に応募し、農地4町部、原野3町部を分配されて開田の地に移住した。農地は行政が大型重機で木の根を掘り起こしてくれ、その片づけから始まった。当時は電気も水道も通じてなく、車が通れる道もなかった。家は8畳と土間、風呂便所からなる10坪のものを作った。当時は高度経済成長期であったが、自分は田舎暮らしや手仕事にあこがれていたので、ランプ暮らしの開拓は大変ではあったが、その苦労を楽しむことができた。木曽福島まででかけて、帰りのバス代まで本を買ってしまい歩いて帰ったこともあった。酪農を主にやるということで始め、白菜を作って出荷したりもした。今から40年ほど前に農業から撤退するとき、畑が自然に任せて森にかえるには時間がかかるから、木を植えた。ヒノキを植えてみたが枯れてしまったので、ドイツトウヒを植えた。ドイツのバイエルンにはこの木の有名な森があるので、今自分でかってにこの森をバイエルンの森と名付けている。毎日何度も森を見まわって歩く………。

  

左はKさんの家の裏の下草が刈られきれいに整備された森である。全部個人でやられたのがすごいし、間伐枝打ちも計画的におこない。全て燃料として利用しているのだという。Kさんのお宅の軒下には、寸法をそろえて切られた薪がうずたかく積まれている。使える量ずつ間伐されるのだという。薪がたくさん積んである家に娘を嫁にやれと調査で聞いたことがありますと自分がお話すると、関連して鈴木牧之がこんなこと書いていると即座にいわれ、その記憶力と教養の高さに驚く。林で刈った下草は、裏の畑の畝間に敷かれ林と畑での循環を考えているといわれる。真中はJさんが自分でたてられた開拓記念碑である。表には、「大地悠久」「開田高原堤端の森」とあり、裏面にはこんなことが刻まれていた。「K家は先祖代々 上伊那郡中川村大草に居住し 家号を堤端と称していた。J 昭和37年 この地に入植し 新たにK家を興す 」これを読んで、そうなのだと思うところがあった。Jさんの家の前には、鯉が泳ぎ睡蓮がきれいに咲く大きな池がある。谷を利用して土手に砕石をいれ、Jさんが作ったものだという。上流にも小さな池があり、天然の岩魚が住み着いているという。池の傍にテーブルを出してお茶をいただきながらお話をうかがったが、いかに美しいとはいえ、こんな大きな池をなぜ作ったのだろうと不思議に思った。ところが、記念碑の文を読み、堤端の家である実家をこの地に再興されたのだとわかり、納得したのである。実家と同じ家号にするために、どうしても池が必要だったのである。記念碑の横には、K家の墓と刻まれた石塔とk家の墓誌があり、k家の系譜に連なる家をここに興したことがわかるようにもなっていた。
 Jさんは中川を離れた開田の地で、K家の中興の祖となったのである。

酒も飲まず煙草もすわない。携帯電話もパソコンもやらない。電気代は月に3000円ばかりしかかからないという。ひきしまった体で自然と共にある古武士のような風貌でありながら、またいつでもおいでくださいと人懐こいJさんの生き方は、誰でもできるものではないが、1つのあこがれである。


東北で見て考える 4

2013-06-21 15:03:47 | その他

陸前高田からは、一関で東北道にのり福島で1泊して帰りました。
原発近くの状況も見て確かめたかったのですが、道の状況がよくわからなかったのでやめました。

今回の旅行で確認したいことがありました。それは、震災直後に火葬ができず仮埋葬された遺体は、全て掘り起こして火葬されたそうです。その跡地はどうなっているのか、どんな場所が仮埋葬地として選ばれたのか、などを見たいと思いました。語り部タクシーの運転手さんに見たいといったところ、仙台市では仮埋葬はなく全て体育館の遺体安置所にしかるべき時までおかれていた。仮埋葬されたのは、釜石市で安置所が足りなかったから運動公園に埋葬した。そこは今はきれいに整地され、近所の人はそのことを話したがらない(触れてほしくないと思っている)のだという。これを聞いて、釜石市であえてその場所をたずねることはしませんでした。このことは、これ以上は書けない微妙な問題です。1つだけいえるのは、仮埋葬地では遺族の誰もが満足できなかった、それが火葬できなかったせいなのか、仮という場所がいやだったのかはわかりませんが、全てのご遺体が再葬されたということです。 


東北で見て考える 3

2013-06-19 10:31:08 | その他

三日目は気仙沼の魚市場を見学し、陸前高田まで北上しました。復興した市場は大変広く、ブリ・カツオ・フカなどが大量に水揚げされ、重さ別に選別してせりにかけられたり、箱詰されていました。以外に若い人がたくさん働いていて活気にあふれていました。震災前は多分こんなものではなかったでしょうが、活気が戻ってきていることを実感しました。

  

復興しているんだと思いながら、海沿いの道を少し北上すると、道端に大変なものが見えてきました。津波で運ばれてきた遠洋漁業の漁船です。人と比べるとその大きさが分かり

  

ます。ここは今は通っていない電車の駅の近くですが、線路をはさんで海側と陸側で景色が一変します。海側(写真では線路の右)は津波で家がみんななくなってしまったのですが、陸側は(写真では線路の左)何事もなかったかのように集落があります。被災地には、ここにも土台ばかりがむなしく残されていました。
北上して陸前高田に至りました。気仙沼への道でもそうでしたが、リアス式海岸の半島と入り江を道は越えていきます。すると、尾根の部分は津波にあわず、くだると壊滅した集落がある、という景色が連続します。被災した箇所は莫大なものですが、小さな入り江が多く尾根に家を再建すればいいかな、と思われます。仮設住宅が尾根をくずして作られたりしていましたし。ところが、陸前高田に着いて茫然としました。広い土地に何もないのです。 

   

カーナビでは信号機の表示がある何もない交差点。市役所を探しましたが、じゃりを敷き詰めた更地となっていました。そして、土台の残る土地にはクローバーがあちこちで白い花を咲かせていました。まだガレキの片づけもすべては終わらず、大型ダンプが行き来していました。民家が全くないですから、住民らしき人もいません。いるのは工事関係者のみです。せっかくですから一本松も近くに行ってみました。1つの町を破壊しつくした津波によく耐えたと思いますしが、こんなものが本当に希望のシンボルになるのかという気もしました。しかし、きっとそれは部外者の思いであって、本当に根こそぎ全てを奪われた被災者の方にとっては、これしかすがれるものがないともいえるのかもしれません。何からどうやって手を付けたらいいのか想像もできませんが、行政のできる限りの力を持って、被災された方にいくばくかの安心を与えなければならないと思います。とてもまだ、復興どころではありません。


東北で見て考える 2

2013-06-18 09:57:31 | Weblog

1日目は仙台駅前のホテルに泊まり、翌日午前は語り部タクシーを依頼して、仙台市の被災地、蒲生地区・荒浜地区、名取市閖上地区を案内してもらい、午後は自分の車で石巻市門脇小、大川小を見て、海岸沿いを気仙沼まで北上しました。

   

蒲生・荒浜・閖上ともガレキの撤去はすみ、土台ばかりが残った広大な土地がむなしく広がっていました。そんな中に、石灯籠がいくつも設置され、物置のようなバラックが作られ、花が咲いている箇所がありました。寺の後かと見に行くと、一人のおじさんがいました。ここは危険区域に指定され、家を再建することは許されていない。震災直後は、自分の土地なのに立ち入ることも禁止された。だけど、俺は入った。自分の家に帰るのを誰も止めれはしねえ。そして、自分の家から流されたいくつもの石灯篭をがれきに中から拾ってきた。みんなそうしねえから、ガレキと一緒にどっかへ持ってかれちゃった。今も、仮設で毎日かあちゃんと顔つき合わせていったってしょうがねえから、毎日ここへきて片附けたり花作ったりしてる。と話してくれました。蒲生も荒浜も、この地に家を再建することはできないそうですが、仮設でノイローゼになったおばあさん、ここで作業をする多くの人達のために喫茶店を始めた人など、わずかに残った(再建した)家屋に暮らしている人はいるようです。真中の画像は廃校となった荒浜小学校、右は小高い日和山から見た荒浜地区。周囲はみんな土台ばかりが残った土地です。野原のように見える上には、全て人々の暮らしがあったと思うと、言葉になりません。

  

左は閖上中校舎の時計です。地震が起きた時間で時が止まっていました。まさに、この地区の時間は、この時に止まったままなのでしょう。広い閖上地区ですが、行政は3メートル以上盛り土をして、現地再建をめざすが、地元には集団移転を望む声が多く、なかなか先の展望が見えないといわれていました。右は学校前の歩道ですが、撤去されないままに残っている家も目につきますが、歩道の脇のフェンスが大きく曲がっています。反対側の歩道のフェンスも曲がっています。満ち潮と引き潮の両方の力で曲がったそうです。

  

左は門脇小です。津波は2メートルばかりだったそうですが、流されてきた車のガソリンによる火事で焼けてしまいました。立ち入を防ぐために校舎には網がかけられていましたが、網の上部に、「すこやかにそだて 心と体」という標語が読めて、やりきれなさがつのります。右2つは、大川小学校です。避難のありかたについて、訴訟で争われています。校庭に作られた次の写真の慰霊碑を見ても、1枚の石では収まらないほど子どもばかりでなく多くの住民の皆さんが、津波で命を落とされたことがわかります。とはいえです。

校舎裏(裏といっていいか、後で問題にします)の写真を見てもわかるように、登ろうと思えば急かもしれないが山があることを想えば(仙台の荒浜や、閖上では見渡す限り平坦地で高台がありません。逃げるには、学校しかありませんでした。この地区での学校の重要性がよくわかりました。)、どうして山に逃げなかったのかとは、誰でも思います。これについて自分が思ったのは、山に向かってアーチ型に開いた校舎の造りです。大川小はどっちを向いていたかといえば、山なのです。(いいや川を見て暮していたのだという人もあるかと思いますが、山に向かってアーチを描かせた設計者の意図は山を向いていたに違いないのです。)山に向かって職員と子どもの視点は、焦点を結ぶように設計されていました。かなり斬新な設計です。道をはさんで校舎の反対側は北上川で、河口にも近いのです。しかし、毎日山を見て暮していれば、ここが海の近くで津波の危険が高いことをどこかに忘れてしまったのではないでしょうか。無残な校舎の姿を見ると、どんなに大きな力で津波が押し寄せてきたのかが想像され胸がつまります。

 


東北で見て考える 1-2

2013-06-16 21:00:58 | その他

3度東北は敗れたと書きました。本当はその続きを書きたかったのです。それは、中央からの視点の変換ということです。赤坂さんが東北学と唱え始めましたが、それと似た考えかもしれません。まず、地図を南を上にして東北地方を中心にして作り直す。歴史の区分や文化も、東北中心にして作り直す。文化も東北中心に発信する。「あまちゃん」はいい魁ですから、アナウンサーは東北弁をしゃべらないと採用しないようにする。集団就職で首都圏に住みついた団塊の世代は、原則ふるさと納税として故郷に税を納める。東北で発電した電力は、首都圏に売らない。など、何か東北からの反乱をおこさないと、いつまでたっても搾取され虐げられているばかりです。その上に、今回の震災です。元来の東北地方は北の国々との豊かな交易で、独自の文化を築いていたはずです。ロシアや中国との独自の外交路線を構築するのも1つの方法だと思います。中央政府の理不尽な対外政策にひきずられて、こいつも面白くない話ですね。首都の経済も文化も、下から支えていたのは東北地方から無尽蔵に供給された豊かな人的資源でした。首都の人口の多くが、東北出身者でしょう。東北人としての誇りを取り戻してほいいです。そのためには、東北中心の教科書を研究者に作ってほしいと思います。


東北で見て考える 1

2013-06-15 10:04:27 | その他

月命日をはさんで3泊4日で東北を見てきました。歴史も民俗も、その地を踏み同じ空気を吸い同じ景色を見て、現地の人々の思いを想像できると思います。そんなことで、今回は自分の車で行きました。車の運転はそんなに好きではなく、長く運転するとすぐ眠くなるようなありさまですが、自分で運転することでやはり得るものがありました。その場に立って考えたことを、何回かに分けて書いていきます。
まず、東北は遠いことを実感しました。4日間の内、行に1日帰るに1日かかり、見て歩いたのは実質2日間でした。東北道を北上しつつ那須高原で休憩。高原の風に吹かれながら、那須野が原で妖怪を見て白河の関を越えると、まさに異郷に入ったと昔人は 感じたことだろうと思われました。NHKの大河ドラマも会津戦争の始まりです。都の貴族が画策し、隼人と蝦夷が戦ったという構図だとしたら、それが近代化というものだとしても、やりきれないものです。東北は会津戦争を含めて3度南からの侵略を受けました。最初は坂上田村麻呂、2度目が会図戦争、3度目が原発被害。原発がなぜ入るのかというと、電力は東京へ送られていたのに東京はもう忘れようとしているからです。3度とも、北には同じ痛みを感ずる人間が住んでいるのではないと感じていたからできたことです。原発被害も同じではないでしょうか。今も故郷を追われ、明日の見通しがたたない被災者が多数いるにもかかわらず、原発事故の原因究明、真摯な反省がないままに世界1安全な日本の原発を輸出するとか、成長戦略には原発の安価なエネルギーが必要だと再稼働を後押しする。見かけ上安価なエネルギーは、ひとたび事故が起これば取り返しがつかない保障もしくは被災者の切り捨てしかなく、誠実な対応を考えれば安価どころか将来的廃炉費用や汚染物の処理費用を考えれば、おそらく莫大な費用となることは必至で、若者に負担を強いるばかりとなることは、だれの目にも明らかです。今がよければいいのか。そして、3度にわたって北を切り捨て、南の成長の踏み台としてよいものでしょうか。今回の被災地が東北一円であったことを、仙台から海岸部を北上することで実感しました。アベノミクスとかいって南は浮かれていますが、北には土台ばかりが残った、荒涼とした被災地が広がっています。


柳宗悦展を見る

2013-06-06 15:03:17 | 民俗学

美術館で開かれている「柳宗悦展」が9日で終了してしまうので、見に行ってきました。柳宗悦はいわずとしれた民藝運動の創始者です。用の美、日用雑器のなかに美を見出した先駆者。そして、植民地だった朝鮮の白磁に美を見出し、朝鮮文化の独自性を唱えた人です。今日見てきてわかりましたが、沖縄やアイヌ文化への関心も高かったようです。そんな柳が柳田とクロスする場面はなかったのか。思うに、2人とも無から有を作り出した、人々が注目しない物に独自の視点をあてていった人ですから、いわば唯我独尊の風を持っていたと思います。だから、自分から接触するのは避けたのではないでしょうか。理念を共有する人々とは話ができるが、独自の理念をもった人とは話ができないということです。

民芸館に収蔵されている日本各地の民具が展示され、それは美しいものでしたし、柳が美しいと言わなければ、美しいと思われなかった道具だったことはよくわかります。柳の審美眼によって切り取られた道具が、表装されあるいは展示棚に置かれることで、美を主張するようになりました。ところが、道具の由来、作者については全く触れられていません。自分としては、どういうシチュエイションの中にそれらの道具は本来あったのか、作者の職人はどういう人なのか、などといった、暮らしの中に道具を置いてみたくなります。柳は、農村から見出した陶器を、自宅の洋風のキッチンにおいて美を愛でました。美を見出してくれたのはうれしいのですが、見出された側としては何か釈然としないものが残ります。それがいいとか悪いとかではありませんが、柳の視点は民俗を文化財資源とみて、現代にいかに利用するかという視点に通じているような気がします。資源としての民具を、工芸の作家たちにも指導しています。松本市が日本民藝協会から高く評価されたのは、批評家ではなく工芸家が民藝運動を推進したからのようです。学問と実用の統合といったらよいか、そうした気風が民藝にはあるということです。ただ、そのためには民具がおかれた実際生活の場からは、一旦切り離す必要があったことは、何だか皮肉のような気がします。


神宮寺の葬儀を見る

2013-06-03 18:10:57 | 民俗学

  

松本市浅間温泉に臨済宗の神宮寺というお寺があります。神仏習合で神宮寺という名前なのでしょうが、廃仏毀釈の激しかった松本によく残ったと思います。寺への参道の入口には、高遠石工、守屋貞治の晩年の傑作の1つといわれるお地蔵さんがいて迎えてくれます。神宮寺の住職、高橋卓志さんは、チェルノブイリ支援・タイのエイズ患者支援など様々な社会活動に携わりながら、神宮寺からの平和や自由への発言や実践を積み重ねてきた方です。私は高橋さんの著書岩波新書『寺よ、変われ』を読んで、葬儀に対する仏教の関わりに抱いていた疑問と危機感に1つの答えをもらった気がしたので、お忙しい中無理をいって過日お話を聞かせてもらいました。その縁で、神宮寺でおこなわれる葬儀の参観に誘っていただき、昨日見てきました。100人いれば100の葬儀があるとの高橋さんの言葉通り、心にしみる葬儀でした。儀式の丁寧な意味の説明で葬儀での寺の行為がやっとわかりましたし、葬儀の中でのピアノの演奏と観音経とのコラボレーションは、初めて聞くものでしたが自然に心にはいってきました。花で作った祭壇もすてきでしたし、高橋さんが作ったホールの照明・音響などの設備にも舌をまきました。葬儀社のホールの上をゆくものです。70歳以上くらの方で、旧来の葬儀のあり方を定番だとイメージする人には違和感を感ずるかもしれません。しかし、団塊の世代以後で、寺との関係、仏教との関係に宿命というか抜き差しならない物を感じない世代にとっては、大変しっくりする葬儀でした。かなうならば、自分もこの寺で葬式をしてもらいたいものだと思いました。現代と葬儀については、また改めて書きます。