民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

弟と兄 4

2006-03-17 16:49:15 | Weblog
 全国大会出場が決まると、保護者会では何か記念品を作ろうということになった。あの夏、保護者会は練習試合の引率、地区大会の後、北信越大会と、勝ったといっては飲み、負けたといっては飲んでいた。その、飲み会の席での勢いである。では、ということで私が染物屋と交渉し横断幕を作ることになった。言葉は子どもたちに選んでもらった。それは、「挑戦」。市中4位からの北信越優勝チームには、誠にふさわしいと親たちは語り合った。
 全国大会は山口県だった。保護者会もうきうきと出かけた。思ってもみない全国大会。それは子どもたちにしても同じだった。全国出て当たり前で、優勝などねらうチームと、出れたことに感激して出かけるチームでは、勝負にかける執念が違った。わがチームは、何か集中力に欠けるなかで緒戦敗退となった。個人戦も同様であった。全国出場は、ご褒美のようなものだったのである。もちろん、帰りには秋吉台を観光してきました。
 8月末に部活動が終わると、いよいよ受検である。学習に対して彼はこだわりの人である。納得できるまで、同じ問題にこだわり先へ進まない。テスト問題でもそうするものだから、努力のわりに点数がなかなか上がらなかった。そのため、兄と姉の進んだA高校に入学するには、ぎりぎりの学力に思われた。私は彼に、無理してA高校へ行って下の方で苦労するより、B高校でのびのびやったほうが良くないかと勧めた。親として、彼の生育暦からそんなに無理をさせられないと思ったのである。結局、B校へ進学したが入学後、建物に美的感覚がないとか話の合う人がいないとか彼がいうにつけ、無理してもA校に行かせるべきだったかと、私は心を痛めた。しかし、迷いに迷って6月ころ硬式テニス部に入部すると、それに打ち込みはじめた。結局また、硬式をやっていた兄の後を追う形になったのである。兄は硬式でも北信越出場を果たしたが、彼のチームはほとんどが初心者だということで、なかなか地区大会を勝ち抜くことができなかった。彼のテニスは、3年の6月で終わった。それからいよいよ、大学受験との戦いが始まるのである。

弟と兄 3

2006-03-13 12:11:29 | その他
 さて北信越大会について書く前に、もう少し県大会について書こう。
 県大会の決勝戦は、皮肉なことに私(父親)の勤務する学校となった。職員として応援するか、親として応援するか。悩むことなく私は親としての立場を選んだ。とはいえ、声をだしたり目立つことは控えてひっそりと観戦していた。
 会場はオムニのコートが何面もある、県内でも屈指の場所である。林間を切り開いてあり、脇を小川が流れていた。県大会というのに、彼のチームの多くは試合のない間、この小川で蟹捕りに興じていた。こんな学校はどこにもなかった。それだけ緊張もせず、自信があったのか。親たちはあきれていたが。
 決勝戦で彼のペアが当たったのは、当然1番手のペアである。しかも2年生である。ここで彼のリキミがでた。どうしても勝ちたいという思いが先行して、ミスが多くなった。結局ファイナルの末、負けてしまった。相手のT君のお母さんには、自分にとっては保護者であり教員としての私を知っている、いい思い出を作ってもらいましたとお礼をいわれた。彼は、またラケットでコートをたたいて泣いていた。彼のペアは負けたが、あと2つ勝って優勝し、自分の勤務校とかれの学校のチームが北信越出場を決めたのである。よくできた話だが、本当のことである。
 北信越大会は、石川県小松市で行われた。ここは、高校に進んで硬式を始めた兄のチームが、県で2位となり(1位はインターハイに行く)北信越大会をした場所でもあった。さて、大会が始まった、練習試合で戦っているとはいえ、いずれも強豪ぞろいであり、1つでも勝てればと親の皆が思っていた。ところが、緒戦から息子のペアは調子よく、良く足が動き難しいボールも拾いまくった。そして、2-0で次々と勝ち上がっていった。気がつけば、決勝戦である。しかし、ここまでで彼の足は限界にきていた。野菜と雑穀で大きくなった子がよくぞここまできたものである。そして、ついに足がつってしまった。中断して休憩の後も、軽快な動きは取り戻せずここで初めて試合を落としてしまった。長野県選手団は、皆この試合の応援に集まってくれ、急遽長野県の連帯が生まれたが及ばなかった。ところが、ここまで2-0で勝ち、3番手を温存しておいた効果がここででたのである。2番手が勝ち、3番勝負となった。もともとこのペアは粘り強さが信条である。そこへもってきて、相手は疲れている。なんと、ここで勝ってくれ、彼のチームは北信越優勝という夢のような快挙をなしとげたのである。長野県内では圧倒的に強かった兄たちのチームですらなしえなかったことを、彼の率いるチームはやってのけた。あの時の感動は今も忘れない。

弟と兄 2

2006-03-09 11:44:20 | その他
 中3での彼のテニスの戦いが始まった。チームは勝っても、彼のペアは負けたり勝ったり、つまりたまにしか勝てないという苦しい試合の連続だった。練習試合は多くの県外チームとあたったが、同じような状態だった。
 そして、中体連の大会を迎えた。これまでの練習量からいって、最初の市中大会などで負けるわけがないと、本人たちも保護者たちも考えていた。ところが、それがいけなかった。ころころと負けた。そして、優勝どころか市中4位という屈辱的な成績で、前年までならここでおしまいだった。幸運にもこの年から、4位までが中信大会に出場できるという改正がなされていたので、かろうじて上位大会に進めることとなった。
 4位という成績に、かれは部長として反省し兄たちの時の顧問にも教えをこいたりして練習メニューを組み立て、全力で向かっていった。以後の大会は快進撃だった。しかし、彼のペアは負けたり勝ったりで、またラケットをたたきつけて折った。それでも総合力で他チームに勝り、県で優勝して北信越大会に出場することとなった。彼はついに兄に並んだのである。兄の北信越大会で、テニスキャップを買ってやってから3年目である。

弟と兄 1

2006-03-08 15:05:26 | その他
末子は生まれてから泣いてばかりいた。体中に湿疹ができている。医者に診てもらうと、食物アレルギー、しかも米や小麦粉にも反応するという。兄も食物アレルギーであったが、これは卵牛乳鶏肉など限られていた。食物アレルギーとわかった日から、妻の奮闘が始まった。母乳与えることから、食べるものは粟・キビ・稗を圧力釜で炊いた主食に、塩味の野菜の煮物、白身魚の煮たものかホタテ貝を毎日食べることとなった。離乳食になっても、幼児期も基本的な食事のパターンはかわらなっかった。保育園は給食があっても、毎日弁当を持たせた。兄のアレルギーは年長になると段々解消し、いたずら好きの元気な子どもに成長していった。
 末子は、段々食べれるようにはなったが、小学校へあがっても食べれない物はたくさんあった。参観日に、好きなものは何か、という質問に彼がおひたし、と答えたときき、本当にいじらしくなってしまった。
 彼は乳幼児期に十分なたんぱく質を摂取できなかったため、ヒョロヒョロと育っていった。私は変に望まず、彼にはとにかく大きくなってくれればと思った。6年生まで、手足の指を使って計算していたし、母親のひざの上を好んだが、勉強しなさいとはいわなかった。親から見て、陽気な人気者に育ってくれた。あんなに食事のストレスを抱えながら、すごいことだと思った。このころには、たいていの物は食べられるようになっていたが、牛乳はのまなっかし、いつも食べていたホタテは嫌いになっていた。
 6年生の時、中3の兄がソフトテニスの北信越大会に出場し、一緒に能登まで応援にでかけた。そこで、おまえも中学になってテニスをやるならと、テニスキャップを買ってやった。親としては、兄ほど丈夫な体と運動能力もないのだから、体力作りでもいいと思ったのである。中学に入学すると、兄の影を追いかけるように本当にテニス部に入った。そして、誰よりも早くコートに入りネットを張り、ボールの用意を毎日続けた。それでも、給食にでたメロンの種をプランターにまき、コートの横において育て、仲間をメロンクラブと呼ぶ茶目っ気は維持し続けた。
 中2の秋、志願してテニス部長となった。誰よりも早く行き、先頭に立って校舎の外周を走る姿はかわりなかった。毎日毎日一生懸命だから、家に帰るとぐったりしていた。チームはめきめきと腕をあげていった。冬場の屋内コートの練習もコーチの指導をうけ、練習メニュウをしきっていた。
 3年になると、本当は2番手なのにいつも1番手として登場するようになった。うまくいけば勝てるし、負けても相手の2番手とこちらの1番手があたるから確実に1勝でき、3番手が他校より強かったから、3番勝負となれば負けない。こんな勝負を何回もして、何回も負けという屈辱を味わった。コートにラケットをたたきつけて何本も折ったりした。そんな彼の姿に皆が同情したのか、ぐんぐんとチームは強くなった。これなら、もしかしたら兄のように北信越までいけるかも。親ばかな父は、練習試合の引率当番で試合をみながら、あらぬ期待をいだいた。ところが、それがあらぬ期待ではなかったのである。(続く)