全国大会出場が決まると、保護者会では何か記念品を作ろうということになった。あの夏、保護者会は練習試合の引率、地区大会の後、北信越大会と、勝ったといっては飲み、負けたといっては飲んでいた。その、飲み会の席での勢いである。では、ということで私が染物屋と交渉し横断幕を作ることになった。言葉は子どもたちに選んでもらった。それは、「挑戦」。市中4位からの北信越優勝チームには、誠にふさわしいと親たちは語り合った。
全国大会は山口県だった。保護者会もうきうきと出かけた。思ってもみない全国大会。それは子どもたちにしても同じだった。全国出て当たり前で、優勝などねらうチームと、出れたことに感激して出かけるチームでは、勝負にかける執念が違った。わがチームは、何か集中力に欠けるなかで緒戦敗退となった。個人戦も同様であった。全国出場は、ご褒美のようなものだったのである。もちろん、帰りには秋吉台を観光してきました。
8月末に部活動が終わると、いよいよ受検である。学習に対して彼はこだわりの人である。納得できるまで、同じ問題にこだわり先へ進まない。テスト問題でもそうするものだから、努力のわりに点数がなかなか上がらなかった。そのため、兄と姉の進んだA高校に入学するには、ぎりぎりの学力に思われた。私は彼に、無理してA高校へ行って下の方で苦労するより、B高校でのびのびやったほうが良くないかと勧めた。親として、彼の生育暦からそんなに無理をさせられないと思ったのである。結局、B校へ進学したが入学後、建物に美的感覚がないとか話の合う人がいないとか彼がいうにつけ、無理してもA校に行かせるべきだったかと、私は心を痛めた。しかし、迷いに迷って6月ころ硬式テニス部に入部すると、それに打ち込みはじめた。結局また、硬式をやっていた兄の後を追う形になったのである。兄は硬式でも北信越出場を果たしたが、彼のチームはほとんどが初心者だということで、なかなか地区大会を勝ち抜くことができなかった。彼のテニスは、3年の6月で終わった。それからいよいよ、大学受験との戦いが始まるのである。
全国大会は山口県だった。保護者会もうきうきと出かけた。思ってもみない全国大会。それは子どもたちにしても同じだった。全国出て当たり前で、優勝などねらうチームと、出れたことに感激して出かけるチームでは、勝負にかける執念が違った。わがチームは、何か集中力に欠けるなかで緒戦敗退となった。個人戦も同様であった。全国出場は、ご褒美のようなものだったのである。もちろん、帰りには秋吉台を観光してきました。
8月末に部活動が終わると、いよいよ受検である。学習に対して彼はこだわりの人である。納得できるまで、同じ問題にこだわり先へ進まない。テスト問題でもそうするものだから、努力のわりに点数がなかなか上がらなかった。そのため、兄と姉の進んだA高校に入学するには、ぎりぎりの学力に思われた。私は彼に、無理してA高校へ行って下の方で苦労するより、B高校でのびのびやったほうが良くないかと勧めた。親として、彼の生育暦からそんなに無理をさせられないと思ったのである。結局、B校へ進学したが入学後、建物に美的感覚がないとか話の合う人がいないとか彼がいうにつけ、無理してもA校に行かせるべきだったかと、私は心を痛めた。しかし、迷いに迷って6月ころ硬式テニス部に入部すると、それに打ち込みはじめた。結局また、硬式をやっていた兄の後を追う形になったのである。兄は硬式でも北信越出場を果たしたが、彼のチームはほとんどが初心者だということで、なかなか地区大会を勝ち抜くことができなかった。彼のテニスは、3年の6月で終わった。それからいよいよ、大学受験との戦いが始まるのである。