民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

郊外の終焉

2015-04-29 19:28:24 | 民俗学

一昨年に日光へ行った際にバスの窓から見た、主として群馬あたりの道路沿いで、人口急増期に開店したような幾つもの店がシャッターを閉め、あるいはいかにも寂れたという物悲しい郊外の雰囲気をかもしだしていたのが、今も気になっています。大都市には比較的遠いにもかかわらず、無理につくった郊外の都市化が縮小期を迎えていると思われたのです。かつて共同体が伝承母体として機能していたころの人々の暮らしを聞き書きしてきたとはいえ、そうした個を圧殺するような暮らしを良いものだとは思っていませんし、他人から干渉されない都市の暮らしを心地よいものと思っています。おそらく、田舎から都市に脱出し郊外に居を定めた人々も、全部が全部とはいいませんが、田舎の暮らしのほうがよいとは思っていなかったはずです。そうして迎えた郊外での黄昏を、寂しいとか侘しいとかいうのは、通俗道徳を押しつける周囲やマスコミの無責任な優越感に違いない。さびれていく近郊都市で、傲然と年をとっていけばいいのですが、近郊都市という空間がこれからどうなっていくのかは気になります。

何かヒントがあるかと、若林幹夫『郊外の社会学』を読んでみましたが、2007年の著作であるとはいえ、都市に依存しない郊外の「純粋化」などと書かれているだけで、著者はまだ危機感をもつまでには至っていません。郊外は新しい文化など生み出す時間もなく、個が個のまま集住しただけで終焉を迎えるのですが、そのことについては書かれていません。もちろん、民俗学も何を述べているわけでもありません。都市の暮らし(城下町ではありません)について、民俗学は無力であると感じます。


折口信夫の論法

2015-04-25 20:21:04 | 民俗学

折口の論法について、多くの人がいっているが、いきなり断言するのである。例えばこうだ。

 田遊びは、余程古くからあったが、古くは、此を行う時期はいつであったか。普通には、五月田植えの時と云うが、私はそうは思わない。此式の行われたのは、年の始めか、旧年の暮れに取り越して置いたのである。其が、其だけでは、効果が薄い様に考えて、さなえを植える時に、もう一度此を行う様になった。だから、元来は田植えの時にはなかったものだ。(『古代研究(民俗学篇2)』)

こんな風にいわれても、ほとんど一行ごとに、「なんで。なんでそう言えるの?」とひっかかってしまい、思考が前に進まない。全体として、折口節を認めるという所から出発しないと、どうにもならないのである。そのかわり、認めてしまえば後は折口先生のいうとおり、まるでタイムマシンで見てきたかのごとく論は展開していく。これは教祖の言葉のようなものである。連想が連想を呼び、つけいる隙がなくなってしまう。学者というよりも芸術家、カリスマといったほうがよいのだろう。そんな折口は、性交のことを大胆にさらりと書いている。物忌みして巫となったムラの女と、物忌してマレビトとなった若者との聖婚が性交なのである。折口には日常の夫婦の交合は眼中にない。きっと誰かが書いているが、同性愛者である折口にとっての性交とはいかなるものだったのだろうか。少なくとも書いてあるものからは、隠して語らないものとは受け取れないが。


大英博物館展を見る

2015-04-22 18:10:39 | 歴史

大英博物館展を見ました。大英博物館所蔵の膨大なコレクションから、100点を選んで解説し、人類の誕生から現在までの世界史を概観しようとする、壮大な試みです。何よりも100点を選ぶストーリーを考えた学芸員は大したものです。大英帝国の植民地から様々な資料が本国に持ち帰られたものでしょが、植民地の問題をどうやってクリアーしているのか、気になる所ではありました。例えばロゼッタストーンのレプリカが展示されていましたが、それがイギリスにある理由とか、返還を求められているとかの記述はありませんでした。ガンダーラの仏像、莫高窟の絵画などについても同様です。多分安部がいいたいのもそんなことで、世界の多くの国々が帝国として植民地を支配したのに、日本ばかりが非難されるいわれはないというものでしょう。みんなやっている、俺ばかりじゃない、というのは不良少年が捕まった時にいう常套句です。誰がやっていようがいまいが、悪いことは悪いのですから、どうして素直にあやまれないのでしょう。一度謝ってあるから、同じことを言う必要はないなどとも。


原武史『皇后考』読了

2015-04-22 18:08:10 | 民俗学

ほぼ一カ月かかって、『皇后考』を読了しました。総ページ数652、栞の紐が2本も入っているという大著です。こ天皇のれだけの分量を書ききった原武史の力量には感嘆するばかりです。テーマは何かといえば、大正后節子をめぐって、神と皇后の位置について折口の皇后論をベースに、歴史的に解きほぐしたものです。結論を先取りするならば、皇后はナカツスメラミコトとして神と天皇との仲介をする役割=シャーマンであったというのです。
このテーマの下敷きには、雅子妃の苦悩する姿が刻印されていると私は見ます。血統をいうならば天皇は生まれながらにして天皇たるべく存在するのですが、出自が旧貴族であろうが平民であろうが、皇后は意図的に「なる」ものです。「なる」からには、なるべき姿のビジョンがなければなりません。民主主義を標榜する社会で育った雅子に、皇后像を描けという方が無理な話でしょう。雅子妃にビジョンを与えるのが、著者の密かな目論見だろうと私は感じます。現代における聞得大君となることは難しいでしょうが、出口直や中山ミキが苦しみの中で神に出会ったように、雅子妃も十分苦しんでいるわけですから、ナカツスメラミコトとなる資格を既に得ていると私は見ます。
著者は『昭和天皇』では、宮中の神祀りに熱心で体力が衰えても代役を立てなかったと昭和天皇を描いていたと思うのですが、今回は神祀りに不熱心で、ナカツスメラミコトを自認していたであろう母親の節子に疎まれていたと書かれています。敗戦を認めることも、節子を恐れるあまりなかなかできなかったとありますが、そこまでいくと自分のテーマに引き寄せすぎのような気がします。
この本に触発されて、折口を読み始めました。いつか、折口について何かまとめたいものです。


三番叟と翁

2015-04-16 18:23:26 | 民俗学

 『皇后論』や安藤礼二に触発されて、敬して遠ざけていた折口を少しずつ読んでいます。その「翁の発生」に、先日見た親沢の3頭獅子と人形三番叟を思わせる記述がありました。

 春祭りの鬼は、節分の追儺・修正開會と一つ形式に見られてゐますが、明らかに、祝福に来る山の神です。だから、鬼は退散させられないで、返閇を踏む事になってゐて、此邊の演出は正しいものなのです。即、春祭りに、山人の祝福に来る形です。
翁は、どの村にも必、ある様で、田楽祭りと称する村では、勿論、必あります。其語りにも色々ある様でありますが、主なものは、生ひ立ちの物語りと海道下りとである様です。此翁の語りの事を、猿楽と言ふのも、一般の事の様です。設楽郡の山地に入り初めの蓬莱寺には、田楽の他に、地狂言と言ふものがあって、其を猿楽と称へたらしい証拠があります。先年までしたのは、唯の芝居でしたが、其始まりのものは、三番叟であって、此を特別の演出物としてゐます。此地狂言は、古くは、猿楽能に近いものを演じた様ですが、近代では、歌舞伎芝居より外はやりませんでした。此猿楽なる地狂言が、三番叟だけは保存してゐたと言ふのは、江戸芝居と一つで、翁が猿楽の目じるしだったからであります。三番叟を主としたのは、猿楽の中の猿楽なる狂言だからでせう。

 古典芸能に関する知識がないので、なかなか難しい論述ですが、要するに春先に山からマレビトが里に祝福に来て、大地を踏みしめて鎮魂し今年の豊作を約束する、その時やはり祝福する芸能の目玉となるのが、三番叟だということでしょうか。そうすると、親沢の祭りは、大地を鎮める3頭獅子と予祝をする三番叟がセットになって意味を持つのではないでしょうか。伝承の手順とか、掌で酒を飲むとか、古い所作を残しているというので人形三番叟だけを無形文化財として指定したのでしょうが、祭りの意味を考えると、それでよかったのかということになります。つまり、一括指定が本筋ではなかったかと。


しだれ桜のこと

2015-04-16 18:16:20 | 民俗学

 春の遅い長野県でも桜が満開となり、このところの冷たい雨で散り始めています。寒さは花が長持ちしていいのですが、花見ができるような穏やかな天候の日はあったのかなかったのか。
 各地の桜の便りをきくと、私には気になって仕方のないことがあります。気にはなるのですが、この時期を外れてしまうと忘れて解明もせず、また花の季節を迎えることを繰り返してきました。それは、「しだれ桜」のことです。
 柳田国男の『信州随筆』の「しだれ桜の問題」は、こんな文章で始まっています。

  昭和五年の四月のたしか二十六日、東筑摩の和田村を通ってみると、広い耕地のところどころに、古木の枝垂桜があって美しく咲き乱れている。近年野を開いたろうと思う畠の地堺などで、、庭園の跡とも見えず、妙な処に桜があるというと、同行の矢ケ崎君は曰く、以前はもっと古いのがまだ方々にあった。そうして墓地であったかと思う処が多いということである。私にはこれはまったく始めての経験であった。

 『信州随筆』は昭和十一年発行とあるから、それ以前に柳田が執筆したものであるが(昭和五年執筆)、その頃の感覚として、柳田には桜は庭園にあるものとの認識があったことがわかります。ところが、はるか後に信州に生まれた私の感覚としても、墓地やお堂などに桜はあって普通です。この普通と思うのは信州人の風景を見た感覚で、他県の人には「何これ」といった景観のようなのです。樹木は長く生きますので、はるか昔に植えた人の樹木に寄せる思いが今も残っているといえます。

 柳田はこんなことも書いています。「事によると霊場ことに死者を祭る場処に、ぜひともしだれた木を栽えなければならぬ理由が、前代にはあったことを意味するかも知れぬ。」死者を埋葬したところに、枝垂桜を植える。桜の下には死体が埋まっているという、坂口安吾の言は創作ではなく、伝承の奥に潜んでいる感覚が言わしめたものなのかもしれません。植えたのは桜ばかりでなく、枝垂れ柳もあったと思います。地名として、塔婆柳とか三本柳というものがあり、聞いてみると弔い上げにさしておいた柳が根付いたとか、墓地の柳だとかいうものでした。柳の下に幽霊が出る図柄も、こうした潜在意識を刺激してのものでしょう。さらに、樹木葬で植える木の種類も気になるところです。
 最後に柳田は問題を提起しています。「それはどこからその若木を得、何人がそれを郊野に栽え始めたろうかということである。」柳田が予想するのは、枝垂れ桜の苗木を背負って売り歩いた人々がいるのではないかということです。

 柳田はしだれ桜の次に、「信濃桜の話」というものを書いています。ここでは、京都の貴族が書いた随筆の中に、信濃桜を庭に植えたという記述が見られるというのです。「信濃桜」が枝垂れ桜ならば、柳田の予想の傍証になるわけです。ここから先は、まだ誰も書いておらず、はっきりしたことはわかりません。ことによると知ろうとしてもわからないのかもしれません。

 私は夢想します。遥かな昔、初冬から春先にかけて、「信濃桜」の苗を背負って冬の口減らしのために、暖かな西国を念仏を唱えながら流浪する信濃人を。


N9がつまらない

2015-04-12 07:15:50 | その他

 テレビはほとんどつまらない。ニュースとドキュメンタリー、たまに映画くらいしか見ない。そのニュース、NHKの9時からのニュースのキャスターがかわった。これがつまらない。なぜだろうか。前キャスターに慣れてしまったから、新しい人になじめないのか。そうでもなさそうだ。前キャスターが首脳部の方針で左遷とかいう噂のため、色眼鏡で見ているのかもしれないと分析してみる。まず風貌が違う。大越さん井上さんともに、庶民的な風貌でほっこりさせるものがあったた。大越さんの天然ポイ突っ込みが、本当は優秀な人なのにそう思わせず、大越さんが取り上げる東京大学ネタは、なんだか田舎の学校のはなしのように思わせる雰囲気があった。井上さんは、当初の初々しさを持ち続け、イヤミがなかった。今度はどうかというと、女性キャスターを表に立て、いかにもきれものの女性らしく進行していて、その後ろで男性キャスターがほとんど無表情ので監督をしている、といった感じ。難しい問題は女性を委員長にたてて、ソフトは雰囲気でごまかして、裏では男があやつるという自民党の手法みたいだ。男性キャスターの無色無臭の当たり障りのなさが、今のNHKの求めているものだろうが、つまらない。


奥歯をかみしめるあの歌

2015-04-10 20:33:06 | 政治

 年度末、年度初の諸行事もようやく落ち着き、通常の年度が静かに始まっています。この行事の間、何年間もあの歌の時には結構自分なりの緊張感をもって、奥歯を噛みしめてきました。歌を歌うか歌わないかは、個人の好みのはずです。自分の気持ちにフィットしない歌は歌わないくらいの自由は、与えられてしかるべきです。かといって声高にイデオロギーを振りかざす元気も勇気もなく、軟弱に奥歯を噛みしめてやりすごしてきたというのが実情です。柳に風で受け流すことも必要と思います。しかし、いい気持ではありません。一つのイズムを皆に強制するというのは、好きになれません。法は法で順守すべきというならば、日本国憲法(現憲法)の下での選挙で選ばれ、憲法を遵守することが求められている国会議員が、公然と憲法の根幹を変更すべきだというのは許されるのかといいたい。こんどは国立大学にまであの歌を強制しそうだという。この国の首相は、自分以外は皆馬鹿だと思っているのでしょう。

ところが、老体に鞭打ってパラオに出かけたあの方は、全ての戦没者民間人に哀悼の意を表明しました。周辺諸国に多大な被害を与えた侵略行為を政治家は忘れよう、忘れさせようとしているのに、何という違いでしょうか。むろん、父が侵略戦争の張本人であったという負い目もあることでしょうし、国民に謝罪を続けなければ、今の地位の永続性はないと思われているのかもしれません。その歴史認識の正しさに比べ、祖父の侵略行為を誇りとするかのごとき現首相の言動の品のなさはどうでしょう。


南佐久郡小海町親沢の人形三番叟

2015-04-09 18:17:29 | 民俗学

 

 親沢の人形三番叟を見るという例会があり、日曜日に行ってきました。行きつけるか心配したのですが、ナビ任せにしたら順調に到着できました。2時間余りの行程でした。早く着きましたのでムラの中を散策してから、現地の方に概要をお聞きし、昼食を食べてから諏訪神社に移動しました。といっても、公民館を御旅所のようにし、ここで隊列を整えてから人形を先頭にして行列を作って関係者がお宮に移動するのです。お宮に安置された人形の頭は紙で覆われ、人形の周囲は注連縄で結界されていました。そして、鳥居をくぐる時に紙の覆いを頭からはずすのです。人形は練習用と本番用とがあり、本番用は祭りの日にだけ出して、終わるとその日のうちに木箱に納めてしまうそうです。これらのことから、人形が神聖視されていたことがわかります。

 諏訪神社は親沢と川平の2集落の氏神ですので、祭りは両集落のものとなります。拝殿に向かって左右に神楽殿があり、右側では川平の3頭獅子、左側では親沢の三番叟がおこなわれました。三番叟を目的に行ったのですが、芸能に関する予備知識のない者には三番叟そのものは理解が難しい(台詞が全くわからない)ものでした。弟子・親方・オジッサと役割を変えてそれぞれ7年ずつを勤め上げるという伝承システムは、村の秩序を保っていく上にもよく工夫されていると思いましたが、まさに経済外規制というやつで、ここで暮らしていくのは大変だと思わされました。無形民俗文化財に指定するのは簡単ですが、指定された側の、特に若者の苦労を思うと、民俗とは何かと考えてしまいます。

 てなことを考えながら、何とずっと立って見るのです。昔は村中が集まって立錐の余地もないほどだったが、立って見ていたのだそうです。中世の祭りは立って見るのかと思いました。地芝居だとござを敷いて座ってみるのですが。神聖なものを見るという感覚でしょうか。3時間ばかり見て、また車を運転して帰ったら、これがいけません。腰にきてしまいました。翌日温泉につかったりしましたがどうにもならず、結局その翌日の午前中は整形外科、午後が針とマッサージに行くはめになってしまいました。