一昨年に日光へ行った際にバスの窓から見た、主として群馬あたりの道路沿いで、人口急増期に開店したような幾つもの店がシャッターを閉め、あるいはいかにも寂れたという物悲しい郊外の雰囲気をかもしだしていたのが、今も気になっています。大都市には比較的遠いにもかかわらず、無理につくった郊外の都市化が縮小期を迎えていると思われたのです。かつて共同体が伝承母体として機能していたころの人々の暮らしを聞き書きしてきたとはいえ、そうした個を圧殺するような暮らしを良いものだとは思っていませんし、他人から干渉されない都市の暮らしを心地よいものと思っています。おそらく、田舎から都市に脱出し郊外に居を定めた人々も、全部が全部とはいいませんが、田舎の暮らしのほうがよいとは思っていなかったはずです。そうして迎えた郊外での黄昏を、寂しいとか侘しいとかいうのは、通俗道徳を押しつける周囲やマスコミの無責任な優越感に違いない。さびれていく近郊都市で、傲然と年をとっていけばいいのですが、近郊都市という空間がこれからどうなっていくのかは気になります。
何かヒントがあるかと、若林幹夫『郊外の社会学』を読んでみましたが、2007年の著作であるとはいえ、都市に依存しない郊外の「純粋化」などと書かれているだけで、著者はまだ危機感をもつまでには至っていません。郊外は新しい文化など生み出す時間もなく、個が個のまま集住しただけで終焉を迎えるのですが、そのことについては書かれていません。もちろん、民俗学も何を述べているわけでもありません。都市の暮らし(城下町ではありません)について、民俗学は無力であると感じます。