民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

コロナ後の心性2

2020-06-29 13:55:47 | 民俗学

民俗学の内部では、葬式関連の習俗は他の習俗に比べて変化しにくいものと言われていました。人の死を送るという厳粛な儀式では、変化や新しい要素を加えることは憚られ、代々受け継がれてきたことをそのままの形で執行することが、亡くなった方への礼儀のように思われてきました。だから、直近に行われた葬儀の形式を踏襲したり、長老の記憶に従ったりして、できるだけ変化がないように儀式が続けられてきました。そうはいっても社会が変化すれば葬儀も変化せざるを得ないのですが、その変化はずっとゆるやかなものであったといえます。葬儀が変化することにブレーキをかける社会的圧力があったともいえます。

さて、既に書いたように3月に母を亡くして葬儀をしましたが、そこでは大きく変化させたことがありました。母の死と葬儀日程を世の中に告知せず、本当に隣近所にだけ死を知らせて、葬儀は親族だけでおこなったのです。97歳という高齢での死去ですから、親族以外で実際に付き合いのあった方々は既に亡くなられていて、義理のやり取りは終わっているはずですが、民俗社会はそうではありません。ほっておくと、母や父の付き合いは私が引き継いでいかなければならないのです。地元で生活していればそれも仕方ない事ですが、私は離れて暮らしています。可能ならば、ここで義理のやりとりを終わりにしたい、つまり母の義理を受けないで済ませたいと思っていました。ですが、義理を断るには、それはそれでトラブルまでいかなくても相手にはいやな思いをさせてしまいます。そんな時、コロナの流行は義理を辞退するのに、おあつらえ向きの理由となりました。実際、3密を防ぐために多数の人々が集合するのは避けなければなりません。葬式をやらないわけにもまいりませんが、できるだけ参列者を絞る事は社会的に許されるでしょう。このごろの新聞のお悔やみ欄の変化として、既に近親者で葬式は済ませましたという告知が増えているとの報道がありました。私だけではないということが、新聞報道からも読み取れました。

家族葬ないしは親族葬で送りたいと思っても、一般の会葬者がいることの圧力から、なかなかそうは踏み切れなかった人々が、コロナの力を借りて一挙に参列者の縮小化に乗り出したといってよいでしょう。もともと家族葬への流れがあったところへ、コロナの流行が加速度的に変化を加えている、といえます。この流れは地方でも止めることはできないと思います。つまり、コロナの流行が先人と同じことをしなければいけないという世間の圧力を押しつぶして、葬儀という習俗の変化を急激に進めているのです。そうすると、もう一歩進めれば、世間の同調圧力がコロナの影響で弱まったかに見えますが、実はそうでもないようなのです。それは次回。


コロナ後の心性1

2020-06-22 15:14:31 | 民俗学

長かった巣籠り生活から、日常が戻りつつあります。といっきたようにても、リタイアした身にとっては、巣籠りの日常もそれ以前も、暮らしのスタイルとしては大きな違いがありません。自分の暮らし方は変わらないにしても、社会的なお付き合いの仕方は変化せざるをえませんし、それにともなって習俗もかわっていくように思います。敗戦前後で社会的行動様式が大きく変わり、私たちが取り組んでいる伝承というものが消滅してきたように、コロナ前後で伝承にも最後の一撃が加えられたように思います。

無くなった母が私の子どもの頃によくいっていた行動の規範に、世の中の人たちに何言われるかわからないから、というものがありました。私はそうした考え方が非常にいやでしたが、世の中の人々に非難されないように、それは悪いことをしないというよりも、世間が求める行動規範から逸脱しないように気を配って行動しないといけない、というものです。年中行事や人生儀礼などを人並みにしないと、陰で非難されるということです。事実、昔はおばさんたちが集まってお茶を飲むと、たいていはそこにいない人の家の悪口でした。不思議なことにさんざん悪口言った人に、道端などで会っても全く何もなかったかのように、親しく会話するのです。私は子どもながら、あんなに悪口言っておいて、よく普通に話せるものだとあきれてしまいました。そうした悪口が、ムラ人の行動を規制し、伝承を伝承たらしめていたのでした。それは、イエ同士の、あるいはイエの中の序列関係があるていど固定的であったことも、原因となっていたことです。

ところが、敗戦で家庭内や同姓、そして家庭内の序列が流動的になると、あからさまに強者が弱者の非難はできませんから、社会的行動規範がほころんで、イエのあるいは個の行動規範にしたがって生きる人々がでてきます。祭りの日の朝、若者が仕事を休んで祭りにでるかかどうかで父親と喧嘩するような場面もでてきました。若者はムラの祭りよりも会社に出勤する方を選んだのです。そうはいっても自分の考えを押し通すわけにもいかないと考える人たちもいて、現在までも細々と伝承はつながってきました。どこかには、近所の人、ムラ顔役、同姓の長老などに何か言われたくないという思いがまだ残っているのです。その最たるものが、冠婚葬祭です。それが、コロナ後どうなる、どうなったでしょうか。


遺品整理

2020-06-15 17:19:46 | 民俗学

既に書いたように昨年12月末には妻の母を、この3月末には実母を亡くしました。両方の父は既に亡くしましたので、両親の4人ともを亡くしたのです。父が亡くなった時は、母が元気で存命だったので、父の遺品は何となく手を付ける気にならず、実は何もできないにしても母親が始末するべきものののような気がしていました。ところが母もなくなってみますと、いよいよ残された物を片付ける人は誰もいないことがはっきりしました。母がなくなったばかりの頃は、さすがに故人の残した物を捨ててしまう気にはなれなかったのですが、今になれば、このままにはしておけないという思いや、自分の体が動くうちに何とかしておかなければいけないという焦りも出てきて、両方の家の、といっても自分の実家がどうしても主体とはなりますが、遺品の片付けを始めています。遺品と言っても、その大部分は衣類です。ところが運悪く、コロナの影響で古着の輸出が止まっているとかで、資源としての衣類の収集が中止となってしまいました。仕方なくダンボールやビニール袋に入れて片付け保管しておくことにしました。そして、空いたタンスなどを捨てることにしました。

高齢の方と話をしてよくうかがうのは、子どもに迷惑をかけたくないというものです。自分もそう思います。私どもの親たちは、後の始末は子どもがしてくれる、任せるのが当たり前と思い、何の整理もしないで亡くなっていきました。それが普通だという世の中で育ち生きてきたわけですから、仕方のないことです。ところが、自分自身は子供に全てを任せておけばいいとは思えません。自分の体が動くうちに、できるだけ自分の始末はしておかなければなりません。親が残した雑物を片付けながら、自分の行く末をしみじみと考えてしまうのです。


見えない物を見る

2020-06-12 11:21:30 | 民俗学

一般には見えない物をみる、あるいは見えない物をある物としてふるまう。その見えない物を形として、あるいは言葉として示す。それが民俗学の一つの目的だとしたら、行者といわれる人たちがやってきた、やっている仕事と同じではなかろうか。最近、そんなことを考え、憑き物についてや修験道関連の本を読んでいます。

目に見えないウィルスとこれから先どうやって付き合っていくのか、コロナ後の社会生活のありかたが話題となっていますが、見えない存在をあるものとしてふるまうのは、想像力の問題です。その想像力が悪意に向かった極限が憑き物のように思います。四国の犬神憑き、中国の狐憑き(人狐)、上宝周辺の牛蒡種、中央高地のイズナなど、一定のエリアで流行した憑き物がありました。しかも、家筋で伝わるとする質の悪い伝承です。その理由付けに大きくかかわったのが、行者・修験者であったと思われます。病気や不幸なできごと、富の浮沈などを神の名前や架空の動物の名前をだして、訳知り顔に解説し何がしかの祈祷料をとる。一般人には見えていない物を自分は見えるのだと主張し、尊敬と畏怖を得る。ひどい話ですが、多くのまともな宗教もそんな素朴で怪しげな行為から始まったのも事実です。かつて御嶽講の先達に、寒行で真夜中に水をかぶっているときに、木の上を天狗が飛び回るのを見たと聞きました。父からは、御嶽に登拝の途中、神がかりになった行者からすぐ下山しろというお告げを受け、下山したおかげで大きな落石に当たらずに済んだという話も聞きました。まともな修験もいます。


アメリカの白人男性

2020-06-03 10:55:29 | 政治

アメリカではコロナの流行もさることながら、白人警察官が黒人男性を膝で圧迫して殺害したことから都市が騒乱状態になっています。大統領の強気な態度と発言が、それに油を注いでいます。当分はおさまりそうにありません。もちろん、この機会に乗じて略奪してやろうという、コロナでの自粛ストレスと生活苦をぶつけている人々もいるでしょうが、多くの黒人の人々は人種差別への正当な抗議によるデモのようです。

問題の動画を見ましたが、白人の警官が膝で丸腰の黒人男性の首を圧迫し続ける姿は、異常です。押さえ続けた8分間、何を思っていたのでしょうか。自分は当然の事をしているという風でした。白人・正義・強者・支配者:黒人・犯罪者・弱者・服従者 といった図式をそのまま行為で示した警官でした。アメリカの白人男性には強くすりこまれた行動様式があるように思います。アメリカで公然と人種差別が認められていたのは、わずか数十年前です。そのころの価値観を今も多くの白人が共有していても、不思議ではありません。だからこそ、アメリカという国を一つにまとめるために、自由と平等とが必須の価値観となっているのです。にもかかわらず、大統領の発言はマッチョな白人男性の価値観、はっきりと差別的な発言はないものの、いうことを聞かない物は力で押さえつければいいという、警官がやったことに通底する価値を表明しています。亡くなった黒人男性への共感と哀悼の意が感じられない大統領の姿を見ると、この問題は長引きそうな気がします。大統領の人柄が問題だからです。